第九話 大司教サヴァン
僕たちは最初ウィルの館のお世話になっていたが、しばらくして、別の館に移動させられた。
屋根は高く、壁には小型の蝋燭が等間隔に配置されている。廊下には赤い絨毯が敷いてある。中世ヨーロッパにしては豪華絢爛な館だった。
「最初に言っておくが、お前たちは我が国の最高機密に触れている。よってしばらくの間、私の館に幽閉・隔離させてもらう」
一人の長身の、黒い服を着た、オールバックの男が断言する。
「つまり僕たちの安全は保障されるわけですね」僕はなるべく当たり障りないような返事をした。
彼は、自分を何も恐れていないというような態度が気に入らないらしい。
「私はサヴァン。大司教のサヴァンだ。メルローの奴から相談を受けた。こんな雑務は本来私の担当ではない! だがお前たちが王国の最高機密に絡んでいる事は確かだ。不本意だが『構ってやる』」
「ありがとうございます」僕が素直に礼を言うと、変な顔をする。自分では皮肉を言ったつもりが、肩透かしをくらったらしい。
「それで……諸君らも魔女ペルペを信じているクチかね?」
明らかに軽蔑した口調で、サヴァンは言った。
「信じていません」シュウジが言う。「魔女ペルペの予言は全部嘘っぱちです」
「ほう? では何を信じている? 言え!」
「キリスト教を信じています」レイコが言う。もちろん嘘だ。
だがこの世界でキリスト教を広めることには重大な意味がある。ノートパソコンのWikipediaで調べた情報によれば、どうせ遅かれ早かれキリスト教が欧州を支配するのだ。だったら周辺国に先んじてキリスト教を国教化し、宗主国になっておいたほうがいいに決まっている。
「そうそう。モエはこの世界では、キリスト教の扱いが小さすぎると思うのです」モエが肯定する。
「……キリスト教だと?」
サヴァンの眉がぴくりと動く。
「主イエス・キリストは我らの原罪を引き受けて磔刑に処せられた。イエスは父であり子であり聖霊である。最後の審判の日、怒りの日(Dies irae)、死者たちは復活し、イエス・キリストの裁きにあい、天国と地獄とに永劫に分かたれる。神の国は近づいた。Amen!」僕は知っている限りのキリスト教の教義を並べ立てる。
「ほ、本気で言っているのか?」
「はい」 嘘だ。だが聖書が存在しない世界で、キリスト教について最も詳しいのは僕たち四人くらいだろう。嘘はばれない。そんな確信があった。
「イエス・キリストが、ユダヤ人の無冠の王が、最上だと信じているというのか? 魔女ペルペではなしに? あのベツレヘムの馬小屋で生まれた男を? あの裏切り者に銀貨30枚で売り渡された哀れな男を? 三日後に復活して天に昇られた主イエス・キリストを信じていると?」
だんだんサヴァンの口調が熱を帯びてきていることに、僕は気付いた。
「では、あなたは何を信じているんです? 大司教サヴァン」
「ふはははは。言うまでもないことだ。無論キリストだ。私は十字架と共にある。主イエス・キリストと共にある。それ以外に何を信じるというのだ? 魔女ペルペなど知るものか。魔王の出現など風の噂にすぎん。奇跡を起こされてよいのはイエス様とその使徒だけだ。魔女ペルペを信じるものは異端だ。悪魔だ。あの世で針串刺しの刑にでもなればいい!!」
はっきり言おう。一種の狂気がそこにはあった。だが本来キリスト教とはそういうものだ。世界で最も多くの人を殺した宗教。それがキリスト教なのだから。
「では、この件ではあなたとうまく手を組めそうですね」と僕は笑って言った。
「この件、とは?」歪めた顔をさらに歪めて、サヴァンは問う。
「紙の開発。聖書の写経。ありとあらゆる者へのキリストの御言葉の配布」
「なんだと? 紙? 写経? 何の話をしている?
まさか貴様ら、よもや神聖な書物を、よもや貴重な聖典を、書き写して売れというのか?」
「売るのではありません。配るのです」
「貴様……何を言っているのか分かっているのか? 神の権威はどうなる? 教皇の威厳はどうなる? 貴様らキリスト教を一体何だと思っている!?」
「神の権威? 教皇の威厳? そんなものはクソくらえだ! 布教を怠った結果が異教徒どもの蔓延だ。殉教を怠った結果がキリストの名の凋落だ。神の名は広まることはあっても失われてはならない! それで自分はキリスト教徒? 笑わせる。あなたはキリスト教徒であってキリスト教徒じゃあない!」僕は暴言を吐く。
「私は……私は700年間、教えを守ってきたんだぞ!!」「守るだけじゃ勝てないとなぜ気付かない!!」
僕は言いすぎたのかもしれない。大司教サヴァンは無言で、足早に部屋を去っていった。その背中は、心なしか小さく見えて。僕には彼が、涙を流さず泣いているように見えた。