第二話 ライ麦畑でつかまえて
僕が目を開けて立ち上がった時、そこには太陽があり、麦畑が広がっていた。可能性の麦束。そんな無意味な言葉が脳裏をよぎる。やさしい風が頬を撫でる。気持ちがいい。
だが、それは現実逃避というものだ。
僕らは大学の部室で手動ゲームをしていたはずだ。D&D(ダンジョンズ&ドラゴンズ)をプレイしていたはずだ。机の上でダイスを振っていたはずだ。ならば……出目はファンブル(大失敗)だったのか。
ここは何処だ? いつのまに僕は部室から出たのか? 仮に部室から出たとしても、麦畑に向かったりした記憶は無い。第一、麦畑なんてものが大学周辺にあるというのも初耳だ。
少し離れたところに、三人が固まって立っているのが見えた。僕はそこに駆けよる。
「やっとお目覚めか」シュウジが僕のほうを見る。
皆どこか顔色が悪いように見えるのは、僕の気のせいか。いつもはしゃいでばかりの、ほんわかゆるふわ系のモエは、帽子を被って地面にしゃがみこんでいる。現実主義者のレイコは俯いている。どうにも良い雰囲気には見えない。
「どういうことなのか俺たちに分かるように説明しろ」シュウジは僕のことまっすぐ見て、言った。やれやれ。僕が訊きたいくらいなのに。
「えっと……僕らは部室で手動ゲームをしていたはずで……」僕は記憶を辿る。どうしてもそこまでしか思い出せなかった。
「そうだ。ゲームしてたはずだ。大学の手動ゲーム部の部室にいたはずなんだ」シュウジが答える。シュウジはゲーマーだ。推理力もある。おそらくモエとレイコにも何度も確認したのだろう。
「で、ここ、どこ?」「こっちが訊きたいわよ!」長髪のレイコが叫んだ。帽子を被ったモエはしゃがみこんでいて、表情が見えない。
「お前が寝てるうちに色々可能性は考えてみたんだよ。これは夢だ、が2票。よくわからん理由で場所が変わった、が1票だ」
「どうも夢じゃなさそうだね。だとすると、場所だけじゃなくて、時間も変わってるかも?」僕は可能性を口にする。
「ヨシノブ。それが最悪のケースだ」シュウジが地面の石ころを蹴飛ばしながら言った。
「もしかすると俺たちは異世界に来たのかもしれない。別の時代に来たのかもしれない。現代に戻れないのかもしれない。たった四人で、言語が通じない世界で、完全に孤立しているのかもしれない」
やさしかった風は、少し強さを増したようだった。
帰れない。確かにそれは問題だ。もしそうだとしたら親にも兄弟にも会えないし、大学だって卒業できなくなる。このまま四人で生活する? 笑えないジョークだ。
「じゃあ、それは?」僕は見慣れたノートパソコンを指さす。
D&D(ダンジョンズ&ドラゴンズ)のゲームプレイには、ダイスを振るのと共に、雑多な計算がつきものだ。そのための支援ツールを搭載したノートパソコンが、部の備品として存在している。それが、「ここ」にある。
「部室にあったノートパソコンだ。ただ、誰かに弄られてる。こんな辺鄙な場所なのに、ネットワークが繋がっている。Googleだって表示できるし、Wikipediaだって確認できる。これが夢じゃないという証拠、ここが現代だと考える唯一の根拠だ」
シュウジの言うことはおおむね正しい。Googleを表示できるパソコンがあるなら、ここは現代だと考えるのが妥当だろう。しかし念のため。
僕は土手の上に座り、ノートパソコンを開いて、言われたことの確認を始める。確かにGoogleは使える。だが、何かがおかしい。何かが……僕はノートパソコンを閉じた。ひっくりかえして、裏面を見る。
「『無限バッテリー』ってステッカーが貼ってあるね」
違和感の正体が分かった。ノートパソコンを開いて確認する。どこからも電源を取っていないのに、バッテリーの充電残量が100%から一向に減っていない。ありえない。
ネットワーク設定のほうも見ようとしたが、管理者権限がありませんと一蹴される。管理者としてログインしているはずなのに、ネットワークの設定が見れない。おかしい。
「このステッカーが冗談じゃなければ……このノートパソコンは無限に稼働し続けることになる」僕は言った。
「どういうことだ? 誰かが仕組んで、俺たちをここに送り込んだのか?」シュウジが今にも掴みかかりそうな勢いで僕にくってかかる。
「とにかく日が暮れる前に家を探そう。この場所がどこで、時代がいつなのかは、そこではっきりする」僕はとりあえず皆を安心させるためにそう言った。
だが、ここが現代日本でないことは、麦の穂の形から――これはライ麦だ。黒パンの原料となる穀物で、日本ではほとんど栽培されていない――おおかた予想がついていた。