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一章  『王国と学生と』 1-(2)

主人公は?と問われると。現段階ではわかりませんと答えます。

 ハリエットは静かに腰から刀剣を引き抜き、自らの胸の前まで掲げると、左手をその刀剣に添えた。

 DRレリック・フルンティング。レリックを模して造られたこの世界の主力兵器であり、これはハリエットの為に造られたオーダーメイドの逸品である。

「……、」

 更に添えられた左手には紋章術を宿す者の証である幾何学的文様が見てとれ、構えを取って間もなく、それは一つの現象として顕現を始めた。左手に浮かび上がる紋章から溢れ出す冷気がそれである。薄い白銀色の冷気が辺りに立ち込め始め、大気中の水分が急激な温度変化と圧力によって相転移を始めた。

 フェイオンは比較的ハリエットに近い位置にいる為にその冷気を殊更に感じる事になり、それに対して身震いを禁じ得ない。

 コロンとタスケに至ってはその寒気に耐えられないのか、フェイオンにしがみついて暖を取っている始末である。

 寒いんなら離れてろよ、と言いたくもあるが、今動くのは危険であると判断し放置。

 放射状に拡散していた冷気が逆流するかのようにフルンティングの周りで収束を始め、空気中の水分が急激に昇華して凍結していく。その性質上、既にハリエットの足元は凍りつき始めていた。

「なるほど、これが噂の氷紋か……。おもしろい」

 レニーに動じる気配はなく、不敵な笑みを浮かべている。

 一向に動こうとしないハリエットを観察しているようだが、どうやら彼は戦闘に関して慎重を期するタイプのようだ。

 敵の動きを観察し相手の力量を図り、何が適切で何が必要かをデータとして蓄積して戦術に組み込むタイプ。

 発言からもっと直情的なタイプかと思っていたフェイオンにとって、それはいささか意外だったが、そう言えばハリエットに挑ん来る程の男だったな、とすぐに得心する。

 そしてすぐに次の段階に移行するだろう事を予期する。

 初期戦術の確認を含めた観察の次の段階。それは情報収集である。

「それじゃあ見せてもらおうか、戦技能ランク上位の実力って奴を」

 その予期通りにレニーは動いた。

 呟くと腕を交差し、一気にそれを解く。するとその指先にはいくつもの短剣が握りこまれていた。その刃先は鈍く輝いており、勁によって強化されているのが見てとれる。

「へえ……」

 それを見て素直にフェイオンは感心した。

 対称に勁を作用させ、それを維持する事を威勁と言い、これは外勁の中でも特に難しいとされる高等技術である。

 更にレニーはそれを複数本同時にやってのけている。飛ばした後も勁を維持できると言うのなら、もうそれだけでかなりの外勁の使い手であると言う事が伺い知れる。

 内勁に比べて外勁は派生技術が極端に多いが、一流と呼べるレベルの使い手が少ないのは単にその難度によるものだ。

 威勁一つをとってもその難度は顕著で、発露した勁を別の発運動によって別のベクトルで扱う事を威勁と言うが、その難度は桶に水を張り、力を加えて流れを作った流水の中に絵具を投じて、滲ませない様な物だと度々例えられる程である。

 正確に言えば滲ませる事も技術の一つに数えられるが、それはあえてする程の価値もない技術とされている。

 さらに威勁から派生する技術も多岐にわたり、戦闘技術として見た場合、内勁、外勁、紋章術はその優劣こそ付けがたいが、希少性や汎用性を鑑みれば外勁が一歩抜きんでていると言えるだろう。

 ただこの学国はさすがに各国の優秀な人材を集めているだけあって、外勁の使い手も多数存在する。

 レニーもその内の一人と言うわけだ。

「(あの武器……。勁に、とりわけ外勁に特化した隠業師か。て言うかここ、暗殺者まで養成してんのかい)」

 そうフェイオンは一人心の中で呟いた。

「………、」

 思慮を終えると同時に、準備を終えたレニーが始動。短剣に勁を行き渡らせた後、言葉なく唐突に地を蹴り宙へと舞い上がった。

 数メートルの跳躍の後、間隙なく両手に握りこまれた短剣を投擲する。その一連の動きはあまりにも滑らかで、ぞっとするような機微を抱かせた。

 勁によって強化されコントロールされている短剣は、その軌道を無造作に変化させながらハリエットに迫るが、眼前に迫りくる凶器に際してもハリエットは全く動かない。

 だが、フェイオンにはわかっていた。動けないのでも動かないのでもない、動く必要がないのだと言う事を。

 次の瞬間、彼女の真意を余所に短剣は容赦なくハリエットの五体に降り注ぎ、刺し貫いた。かに見えたが、受けた傷によってよろめくどころか、舞い散るであろう血飛沫の一滴さえこぼれてはいない。

 周りの野次馬達は一体何が起こったのかわからずにざわついているが、フェイオンにはその理由が分かっている為に驚きはない。

 全て彼女の防御反応によるものだ。

 その事象自体を説明するのは簡単な言葉で済む。

 降り注いだ短剣の全てが、寸での所で止められていた。彼女の造り出した小さな氷塊によってである。

 外勁を得意とする者が防御手段として使用する障勁と言うものが威勁には存在するが、これは発した勁を体外で維持固定した後、圧縮して硬化する事で防御手段に転ずるモノである。

 彼女の行ったそれは、障勁に対してある紋章術の特性を付与し応用したものだった。付与したものは強度と範囲。それを可能にしたのが彼女の右手に握られているフルンティングである。

 レニーはそれを見て、さらに短剣を取り出し同じように投擲するが、ことごとくハリエットの絶対防御の前に撃ち落とされていく。

「おいおい……、それはちょっとずるくないか?」

 言葉とは裏腹にレニーは何故か笑っている。

 気付いたのだろうか、並の勁力ではハリエットの防御を突破できない事に。それにしては自重気味と言うよりも、心底嬉しそうな笑みであるのだが。

 そして、フェイオンが(いぶか)しむ間に一気に戦局が動き出す。

「……ハッ!!」

 投擲による攻撃を諦めたレニーの着地を狙ってハリエットが動いた。フルンティングを一閃すると、大蛇のようなうねりをあげて巨大な氷柱が奔る。

「…ッ!?」

 油断していた訳ではないだろうが、虚を突かれたレニーは一瞬戸惑いの表情を浮かべるもすぐに対処を施した。

 迫りくる氷柱を威勁で造り上げた足場を使い寸前でかわす。大袈裟にかわしたのは氷柱に触れるのが危険と判断したからだろう。

 さすがに感が良い。触れれば瞬時に凍傷に侵され、手足を失いかねない。

 だが、ハリエットの攻めはそこで終わらない。

 避けられる事を想定していたかの様に矢となってレニーに襲いかかる。瞬時に目標を捉えたハリエットは、渾身の一撃を打ち込むべくフルンティングを振りかざした。

「ち……ッ!!」

 振り降ろされたフルンティング。態勢を崩して死に体のレニーは、それを瞬時に引きだした刀剣で何とか受け止めた。

 だがその瞬間。

 轟!! と言う音と共に、剣と剣の交錯する点を中心にして冷気が放射状に波及する。

「………、」

「………ッ!!」

 表情を崩さないハリエットとは対象的に、レニーの表情は歪んでいた。勁で冷気をある程度は防げているだろうが、中心点の温度は絶対零度に近い白魔の世界である。恐らく体表のいたる部分が凍傷に近い症状に見舞われているはずだ。

 すでにその状態になって1分程が経過しているが、そう長くは持たないだろう。判定官であるフェイオンは、ほぼ勝敗は決したと判断し止めに入るべきか入らざるべきかの思案にはいる。

 ところが、

「……った…」

「……?」

「参った。降参だ……」

 レニーからの余りにも唐突な敗北宣言。

 瞬間ハリエットの創り出した白魔の世界は、その昇華と共に幾万もの氷晶へと姿を変え、降り注ぐ陽光を浴びて幻想的な世界へと転じた。いわゆるダイヤモンドダストである。

 そして交えた剣戟から脱力してフルンティングを引くと、そのままレニーを見降ろした。

 

 

 

「自信がある様だったが、存外あっさりと引くんだな」

 圧倒する気ではいたが、ハリエットにとっては若干拍子抜の感が否めない。少なくともレニーの目は危地にありながらまだ死んでいなかったからだ。余裕があったとも言える。

 心が折れる時はまず目が折れる。これは幾人もと対峙してきたハリエットなりの哲学である。

「命あっての物種さ。自信があると見せかけていれば手を抜いてくれるんじゃないかと期待したが、あんたが容赦ないもんでね」

「……すまない。手心は騎士にとって無礼に当たると教えられて来たのでな」

 本心か否か判別しづらいレニーの表情と言葉に対して、いたって率直に言葉を返すハリエット。そういう返事が返ってくるとは予想してなかったのだろうか、レニーは少しだけ驚いた表情の後に苦笑いを浮かべた。

「まいったね……。皮肉も通じないんじゃ完敗以外の何物でもねぇや」

 先程とは打って変わって、今度の言葉はハリエットにも本心だとわかる。

 それを見て少しだけおかしくなった。隠す必要のない心は隠そうとしない、その姿勢が少し意外だったからだ。

 ハリエットの口から洩れた小さな笑い声に対して怪訝な表情を浮かべるレニー。

「いや、すまない。見た目によらず道化を演じるのが上手いと思ってな」

 微笑んだハリエットに対して、何故か少しだけ頬を染めるレニーだったが、すぐにかぶりを振って呟いた。

「……うまいんじゃなくて、道化を演じるのが仕事なんだよ。まぁいいさ、目的は果たしたしな。ほんと、こき使ってくれるぜあの女……」

「目的?」

 最後の方は小さくてよく聞き取れなかったが、その言葉は聞き逃さなかった。何かをほのめかすような口ぶりがハリエットを更に当惑させる。やはり彼は何か別の意図を持ってこの戦いに臨んでいたようだ。これが最初に感じた疑問の答えなのだろうかと尚も追求しようとするが、

「なぁに、こっちの話さ……。別に隠すつもりもないが、すぐにわかる事だ」

「思わせぶりだな。それを私に聞かせる事に何か意味があるのか?」

「さあ、どうだろうな。意味があるのかもしれないし、ただの腹いせかもな」

 それだけ話すとレニーはすくっと立ち上がり、その場を後にするべく身を翻す。

「………、」

 最後の最後で道化に徹したレニーの言葉を受けて、ハリエットはこれ以上の追及を諦めた。それはレニーが道化に徹した由縁を感じ取ったからであり、その意味するところは、これ以上何も話す事はないと、暗に言われたものと解釈したからである。執拗な詮索は礼に失するというハリエットのモラルも一因となり、言葉なく踵を返す。

 たがいに背を向けその場から去ろうとする二人。

 だが数歩進んだ所でレニーが(おもむろ)に立ち止まり、背を向けたままある言葉を呟いた。

 そしてそれはハリエットにとって無視できない言葉だったのである。

「またな。アルベール家のお嬢様……」

「…ッ!?」

 その言葉を聞いた瞬間に、記憶の奥底に仕舞っていたはずの記憶が奔流となって脳内を駆け巡った。

 過去の自分と過去の自分を襲った忌まわしい記憶が瞬時に甦る。

 その光景は記憶とは呼べない程に鮮明で色の付いた確かな物。

 それもそのはずだ、その記憶はたかだか数ヶ月前に遡っただけのモノなのだから。

 驚愕と共に振り返るハリエット。

 景色に溶けるように去っていくレニーから、ハリエットは目を離せないでいた。

 アルベール家。その言葉がハリエットの思考を停止させる。

 立ち尽くす以外の行為を許さない程に。

 

 

 3

 

 

 学国内にいくつか存在する各国の生徒に割り当てられた個別講堂。その内の一つ東周皇国講堂は、皇国生徒と一部の学国関係者にのみ入室を許可された個別講堂であり、いわゆる学国の特別指定区域である。

 その構内は講堂とは思えない程の豪華な装飾と、深紅を基調とした緻密な造りの周絨毯が敷き詰められており、学国内の他の施設とは異なる東国文化を色濃く映した様相を呈している。

 その中で、ある人物の到着を待ち、緊張から来る落ち着きのなさを隠しきれない生徒が一人いた。名を喬伯(キョウハク)と言い、学国内で五期を過ごしたいわゆる上次生である。

 講義が行われている時間と言う事もあり、ここに今いるのは彼を含めて数名であるが、彼の落ち着きのない足音だけがひたすらに聞こえてくる。

「少し落ち着いたらどうだ?」

「落ち着いてなんかいられるかっ! 今からここにいらっしゃるのは皇国七天の董彩貴(トウ・サイキ)殿だぞ!? あぁ…、何でこんな大役を僕が仰せつからなければならんのだ……。もっと適任の者がいるだろうに……。そもそも上の連中は何をしてるんだ? 出世したいなら名を売るチャンスだろう! こんな時に揃いも揃ってレポート提出だの、必須科目の履修だのと逃げ口上ばかり並べおって……!」

「上の人らにとっては、名を売る機会よりもこのまま何事もなく修了する事の方が大事なんだろうさ」

「全くもって度し難い! 何という愚かしさだ! 上に立つ者の心構えがその程度のものであって良いのか!? 否ッ! 断じて否ッ!!」

 見るに見かねた学生が声をかけるも、出てくる言葉は己の不運を嘆く消極的な言葉と上に対する恨み辛みばかり、学生は周りの者と視線を交わし、何を言っても無駄のようだ、と耳に栓をして肩をすくめる。

 学国には様々な国の若者が集まるが、必要以上に関わる事は暗黙の了解として禁じられている。それは単純に修了すれば殆どの者が帰国し、祖国の為に力を振るう事になるからに他ならない。つまり他国との戦事に至った場合、情や内通の温床となってしまう可能性を無視できないと言う事だ。

 それは平時においても同様で、軍事機密や専門技術等の流出を防ぐ為には必要な措置であるとされている。

 その為、学国では団体で取り組むカリキュラムの全てを国籍ごとに分けられたクラスによって行う事になっている。振り分けは基本的に4~50人を基本とし、成績順によって区分される。

 必要に迫られて長く行われてきた方法であるが、当然弊害も生まれる。それが学国内における派閥の形成である。

 箱庭の中に意見の異なる分派が多数存在すれば、考え方の異なる者同士が反発しあうのは当然の事。尚且つ学国には他国の者と関わり合いにならないという不文律がある。国籍によって派閥が生まれるのは道理と言えるだろう。そしてこの東周皇国講堂も派閥に与えられた施設である。

 そしてこの講堂の主が翼燦皇都会。学国における皇国出身者による派閥であり、喬伯はその派閥の中堅どころ。

 派閥においての序列は厳しく、幹部の言葉には絶対服従が義務付けられており、そうした体質が今回の喬伯の不運の原因とも言える。

「それにしても遅い……。いや、このまま来てくれない方が僕としては助かるんだが……」

 門口付近でうろうろと歩き回る喬伯を見て、周りの学生達も少し緊張に見舞われてきた。そうならない様に喬伯を落ち着かせようと試みたのだろうが、失敗した今となっては後の祭りである。

 殊更緊張感に包まれる構内だったが、程無くして門口をノックする音が広い講堂に響き渡った。

「ど、どうぞっ!!」

 緊張と驚きで反射的に発した声は甲高くうわずってしまった。

 それに応じてゆっくりと、そして静かに扉が開き、ようやく現れた来賓の姿を目の当たりにし喬伯は息を呑んだ。

 現れたのは全身を黒の皇国将校官服で固めた女性。

 膝下まで届こうかというコートのような羽織を翻し、構内に足を踏み入れた。喬伯はその女性将校をまじまじと見つめ、その意外な美しさに溜息を漏らす。恐らく見た目からは誰も彼女を皇国で十指に数えられる武人とは予想できないだろう。そう思えるほど彼女の肢体は均整がとれており、若さと美貌に溢れていた。

 意識してなどいないであろうが、妖艶とも言えるその表情に時を忘れて呑まれてしまう喬伯。それは周りも同様のようだった。

「さすがにちょっとむず痒いんだけど……。そんなに女性将校が珍しいかな?」

「…ッ!? し、失礼しましたあッ!!」

 彩貴の言葉で我に返り、慌てて謝罪してしまう喬伯。

 そんな彼を見て彼女は、クスっと微笑んだ。

 見た目とは裏腹の可憐な声と笑顔を向けられた喬伯の鼓動は波打つばかりで一向に収まる気配がない。このままでは緊張でどうにかなってしまうんじゃないかと本気で不安を覚える始末だ。

「案内役は貴方?」

 笑顔を絶やさぬまま、間を置かずに彩貴は次いでそう口にした。

 その言葉に喬伯はびくり肩を揺らす。

「は、はいっ!」

 と慌てて答えたが、頭の中では上の連中の不在をどう伝えるべきかで一杯だった。軍の幹部を迎えると言う時に、皇都会の幹部が不在であるなどと言う事は無礼以外の何物でもない。

 内心、何で私が連中の尻拭いを、とも思ったがそうも言っていられない。学国内の生徒の悪評が自国に伝わる事で得をする者など何処にもいないのだから。

 責めを負う覚悟で伝えるしかないと、意を決して口にした。

「も、申し訳ありません。上の者は、どうしても、そのぅ……は、外せない用事があるようでして……」

「ええ、それは良いの。私がそうしてもらうよう頼んだから」

「は? と、申しますと……?」

 ところが、彩貴から返って来た言葉は意外なもので、間の抜けた声と共に思わず喬伯は聞き返してしまった。すると少し考えた後に彩貴は、

「内緒」

 と、先程の笑みとはまた違った悪戯っぽい微笑を浮かべた。

 殊更に可憐な口調で言われた事で喬伯は口ごもり、それ以上追及する気力を根こそぎ削がれてしまう。機密と言うことだろうか。

 上の者が自分に押し付けた事に意味があったと知れて少しだけ怒りが収まったが、未だ緊張からは解放されない。

「それじゃあ、さっそくで悪いんだけど……帝庁に案内してくれる? 挨拶しておきたいの」

 彩貴はそんな喬伯の胸中を知ってか知らずか、羽織を脱いでそれを腕にかけると、眼前に近づき、そう言葉をかけて来た。

「はっ! 了解であります、董彩様!!」

「うーん……彩貴でいいよ。仮にも学校と呼ばれる場所で将軍なんて呼ばれたくないもの。それから様もやめる事。様付けで呼ばれるのあんまり好きじゃないの。殿ぐらいがちょうどいいかもね」

「はっ…しかし……」

 突然の提案。皇国において名を呼ぶ事は親しき間柄でのみ行われる事であり、当然、喬伯のような一学生が初対面の相手と言う事のみならず、将校である彼女に対してそのような呼び方をするなど常識では許される事ではない。喬伯とてその提案を承服するのは(はばか)られる為、言葉を濁す。

 しかし、

「返事は?」

 美しい笑顔で返事を迫られる喬伯。彼がそれを断るにはある程度の気概やプライドと言った物が必要だったのだろうが、生憎と彼はそれを持ち合わせている程、歳と経験を重ねていない。

 いや、持っていたとしても世の男性の殆どが断りきれないんじゃなかろうかと本気で思える程、彩貴の魅力は今まで見てきた女性の中でも群を抜いていた。

「わ、わかりました彩貴殿」

 結局、承諾してしまうあたり自分がどこまでも凡人なんだなと泣きたくなってくる。

「うん、よろしい。それじゃあ行きましょうか」

 言うが早いか、彩貴は踵を返し講堂を後にしようとする。ところが彼女はふと立ち止まり、そして振り返ると喬伯に向かって忘れていたと言わんばかりに唐突に聞いてきた。

「そう言えば、貴方の名前を聞いてなかったね」

「は? あ、はい、喬伯と申します」

 名前を聞いた彩貴はほんの一瞬だけ考え込み。

「じゃあ、伯と呼んでも良いのかな?」

 と口にした。

「…はっ!!」

 喬伯は口角を吊りあげ、今度は迷いなく快諾したが、直後にとんでもない羞恥心が彼を襲った。自分が案外俗物的な人間であった事に気付かされ、それを簡単に受け入れてしまった自分がいたからだ。そんな自分の滑稽さに、心の中で苦笑せざるを得なかったが、最早そんな事はどうでもいいと思える程、心の容量を遥かに超えた緊張によって体が疲れきっていた。

 この務めを最後まで無事に終える事が出来るだろうかとそちらの方が不安で仕方ない。重たい体を引きずるように、構堂を後にしようとする彩貴の後ろ姿を見て喬伯は溜息を吐いた。


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