代償
『ユザ、私はみんなが幸せでいられる、最高の王になる!』
それはいつまでも俺の心に残る、彼女の決意の声。
馬のいななきが聞こえる。
石畳を埃っぽい風が舞う。
どうやら迎えが来たようだ。
後ろから聞きなれた足音がパタパタと駆けて来る。
「ユザ!」
聞きなれた愛しい声もする。
俺はそのすべてを無視し、馬車に向かって歩を進める。
「なんで?」
悲痛な慟哭にも目をつぶり、扉を開け、段に足をかける。
そして扉を閉める直前、耐え切れず後ろを振り返る。
かけてくる彼女を見て、どうしようもないやるせなさに襲われる。
愛しい、ほんとうに愛しい彼女に向かって呟きをほんの一つ残す。
「約束を守れなくて、すみません。…殿下。」
その声はどうしようもなく震えていた。
そのときまでは、彼女と俺は将来を約束された仲だった。
ここは亜寒帯に属する小国、オランシア。
夏でも最高気温は十度にも満たない厳しい気候の国だが、冬の風景はまさに万金にも勝る美しさを兼ね備
えてもいた。
中でも湖の畔に立つ王城は、今までに千の詩歌を捧げられている優美なる城だ。
その城の中庭で、二人の子供が遊んでいた。
片方は造作の整った茶髪茶眼の十歳ほどの少年。
そしてもう片方は愛らしい黒髪碧眼の少年より年下の少女だった。
「ねえ、ユザ」
少女がその碧の瞳を伏せ、頬を染める。
「何ですか。殿下?」
少年―――――ユザが少女の顔を覗き込みにっこりと笑う。
すると少女が口を尖らす。
「もう。殿下って呼ばないでよ」
ユザは大人びた苦笑をする。
「でも殿下は陛下の子であらせますし、お名前で呼ぶのは不敬に値します」
「じゃあ私が〝殿下〟として命を下すわ」
碧の瞳が不敵に煌めく。
「私オランシア公国第二十四代国王長子ジュリエンヌ・ド・オランシアが命じます。私のことは今後愛称
で呼びなさい。そして…」
顔が朱に染まる。
「八年後、私が十六歳に、あなたが十八歳になったとき、私と、けっ、結婚しなさい…」
モゴモゴと真っ赤になってうつむく少女をユザは心底愛しく思った。
「あなたのお望みのままに。…ジュリ」
ユザは心からの笑みを浮かべた。
それから六年後。
平和なときが別れを告げた。
「ねえ聞いて。ユザ」
ジュリが幼い頃から変わらない無邪気な瞳をきらきらと輝かせる。
「何ですか。ジュリ」
その様を俺は目を細めて見守る。
ジュリが拳をぎゅっと握って語りだす。
「私決めたの!」
「何をです?」
ジュリの瞳は宝玉のように輝いている。
「父上、そろそろ退位するでしょう」
ジュリの父である現オランシア国王のことだ。
オランシアでは四十を過ぎると玉座を退くというしきたりがあり、陛下は今年で四十を迎えられる。
「で、私が第二十五代オランシア国王になるでしょう」
陛下は子宝に恵まれず、子はジュリしかいない。
よって、次代国王はジュリであると自他共に認められている。
「そしたらね」
ジュリはくったくのない美しい笑顔になる。
「私はみんなが幸せでいられる、最高の王になる!」
戦争のない、誰もが笑顔で暮らせる国に。
俺は心からの微笑を浮かべる。
「あなたの御心のままに」
ジュリの碧の瞳をまっすぐに見つめて。
そして、自分にうかべられる最高の笑みを。
「俺はいつでもあなたの味方です。どんなことがあっても俺だけは。」
ジュリも明るく、笑った。
バンッ。
音を立てて扉が開かれた。
「何事だ」
俺はジュリを後ろに隠し、振り返る。
そこには見知った使用人がいた。
「ジュリエンヌ・ド・オランシア殿下。グリフェール卿ユザフィード様。国王陛下がお呼びです」
俺は目を見開く。
「陛下が?」
俺は跪き頭をたれる。
「陛下。グリフェール卿がお見えです」
大臣の声だ。
「うむ。久方ぶりだな。グリフェール卿。わが不肖の弟は元気かな」
厳格な声だった。
「陛下。ご機嫌麗しく。わが父は息災です」
俺の父は陛下の弟であり、恐れ多くも俺は陛下の甥でもある。
「それはよかった」
陛下はホッと息をつく。
そして険しい顔つきにすっと切り替わる。
「そなたを呼び出したのは他でもない」
俺は固唾を呑んで陛下のお言葉に耳を澄ます。
「グリフェール卿ユザフィード、そなたは今から王族として隣国でありこの大陸随一の大国、シアリス王
国皇女、ランドラ・ラ・シアリス様の婿となってもらう」
俺は呼吸を忘れる。
…え?
「どういうことですか?父上!」
ジュリの声が遠くから聞こえる。
陛下の悲痛な声も聞こえる。
「すまない。ジュリエンヌ。この国を守るためにも大国シアリスとは友好関係を保たねばならぬ。
この縁談は先日の舞踏会でグリフェール卿を見初められたランドラ様直々のものなのだ」
ジュリの叫びが聞こえる。
「でも、ユザは私の婚約者なのですよ!」
「ジュリエンヌ」
陛下の声が唐突に凪いだ。
「この国のためなのだ」
この国の、ため。
それなら俺は。
「わかりました。陛下」
「ユザ!」
俺は顔を上げて陛下を真っ直ぐ見つめる。
「俺はこの身をオランシアのために捧げます。…だから」
だからジュリを、殿下をお願いします。
俺は声に出せない思いを乗せて、泣きそうに笑った。
ガタゴトと、馬車が揺れる。
「もうすぐシアリスに入ります。若君」
御者が声をかけてくる。
「そうか」
俺は窓の外を見ながらそう答えた。
窓の外の景色は寒々しい。
秀麗なオランシアと違い、シアリスは堅固なる国だ。
そのためか、オランシアと比べて少しつまらない景色が続いている。
「若君。失礼ながらその歌は?」
歌?
俺は知らないうちに歌を口ずさんでいたらしい。
オランシアの者なら誰でも知っている子守唄だが、シアリスの御者は知らなくて当然だ。
「俺の国の子守唄だ。」
さようでございますか、と納得した声が聞こえてくる。
「しかし若君。これからはあなた様の国はシアリスです。それをお忘れなきよう」
「わかっている」
俺は子守唄を、今度は意図的に口ずさむ。
―――眠れ、眠れ。
王よ眠れ。
その目は開かれる事もなく。
ただ安らかな夜の眠りよ。
―――眠れ、眠れ。
国よ眠れ。
その旗は挙げられる事もなく。
ただ静かな夜の帳を。
―――眠れ、眠れ。
兵よ眠れ。
その剣は振われる事もなく。
ただ暗い夜の闇を。
―――眠れ、眠れ。
民よ眠れ。
その身は揺らぐ事もなく。
ただしみる夜の声を。
眠れ、眠れ―――――
『ユザ、知っている?この子守唄はね…』
「お初にお目にかかります。私がグリフェール・ユザフィードでございます」
俺は陛下にしたように跪き、頭をたれる。
「初めまして。グリフェール卿。娘から聞いている通り見目の良いこと」
この方はランドラ様の母君、これから俺の義母上となるレイフィア・ラ・シアリス様だ。
そしてその後ろの俺より年上の少女。
ふくよかな白い肌に美しい金髪。そして。
彼女と同じ、碧眼。
「母上。話させてください」
「ほほほ。ランドラ、良いですとも。さあ、後は若いもの同士でごゆっくり」
意味ありげな笑みを残してレイフィア様が扉を閉める。
今まで良い子ぶっていたランドラ様の目つきが変わる。
「こんにちは。私の婚約者さん」
そして恐ろしく扇情的な流し目を俺によこす。
「こんにちは、ランドラ様」
ランドラ様が甘ったるい声で擦り寄ってくる。
「お会いしたかったわ。あの舞踏会の日からずっと」
俺の肩に手をかけ、顔を近づける。
俺は目をそらした。
「お止めください。ランドラ様」
「あら、可愛い人。純情なのね。いいわ。止めてあげる」
からかうように俺の耳に甘いささやきを残し…
「―――ッ!」
まるで偶然のように唇が耳をくすぐって離れていく。
ランドラ様はくすり、と笑みを残し、部屋から去っていった。
俺は白くなるほど唇を噛む。
口の端から一粒、紅いしずくが零れ落ちた。
それから二年後のある夜。
崩壊が始まった。
いつものように、妻となったランドラに身も心も蹂躙され、抜け殻のようになった体で、俺はフラフラと
寝台に向かった。
目を瞑ると泡のように弾けて思い出す光景がある。
『ユザ!』
泣き出しそうな、くしゃくしゃの顔をしたジュ…殿下。
俺は自嘲する様に口端を上げる。
別の女と結婚した俺には、もう彼女を愛称で呼ぶ資格もない。
遠くからたて琴の音が聞こえてくる。
それはオランシアの子守唄のような気がした。
静寂。
俺は違和感に、早朝であるにもかかわらず瞼を開ける。
そして傍らに置いてある剣を取り、耳を澄ます。
無音だ。
鳥のさえずりも、虫の鳴き声も聞こえない。
おかしい。
俺は部屋を出る。
すると廊下には見知った使用人たちが倒れていた。
「どうした?大丈夫か!」
一番近くの、いつも俺の世話を焼いてくれている小間使いの少年を揺さぶる。
少年はまるで眠っているように安らかな表情を浮かべていた。
まさかと思い、脈をはかる。
「………!」
死んでいた。
周りの使用人たちも、皆一様に息がなかった。
「どうして…」
皆、外傷は全くなくて。
ただ安らかに眠っているように死んでいた。
はっと思いつき、隣室の戸を開ける。
「ランドラ!」
予感は当たっていた。
今や即位して女王となった女性は、安らかな表情をして寝台に覆いかぶさるようにして死んでいた。
俺はいても立ってもいられなくなり、真っ白になった頭を抱え城の外へ出た。
力が抜け、膝がカクンと折れた。
「あっ…」
視線の先には、たくさんの動物たちの死骸があった。
美しい小鳥たちが寄り添うようにして死んでいた。
「なぜ」
なぜ俺だけが。
叫びがこみ上げる。
「なぜっ!」
なぜ俺だけが生きている!
目眩が、した。
足がふらつき、地面に崩れ落ちる。
そのとき再びあのたて琴の音が聞こえた。
俺はぱっと飛び起き、音に向かって走り出す。
音とともに歌も流れ出した。
その歌はオランシアの子守唄だった。
―――眠れ、眠れ。
王よ眠れ。
その目は開かれる事もなく。
ただ安らかな夜の眠りを。
―――眠れ、眠れ。
国よ眠れ。
その旗は挙げられる事もなく。
ただ静かな夜の帳を。
―――眠れ、眠れ。
兵よ眠れ。
その剣は振われる事もなく。
ただ暗い夜の闇を。
―――眠れ、眠れ。
民よ眠れ。
その身は起揺らぐ事もなく。
ただしみる夜の声を。
その音は美しく、凄絶なる天音だった。
その声は……懐かしい鈴の音のような声だった。
俺の知らない旋律が子守唄に続く。
―――眠れ、眠れ。
このたて琴の音と共に。
王家の御音が響く。
この世に永遠なる安寧を。
―――眠れ、眠れ。
世界よ眠れ。
朝日が昇る事もなく。
ただ永久なる夜の静寂を。
ゾクリ、と。
肌が泡立った。
その少女は木陰にいた。
木にもたれかかり、少女の背丈ほどあるだろう黒い水晶でできた蔦が絡み付いているたて琴を弾いて歌っ
ていた。
ふと、少女の瞳がこちらを向いた。
歌がプツリと途切れる。
視線が交わる。
少女は天女のようにふわりと笑んだ。
「ユザ。会いたかった」
目頭が熱くなった。
「ジュ…殿下」
少女が目を細めて笑う。
「殿下って呼ぶのは止めてっていったでしょう?それに私はもう〝陛下〟になったのよ」
そうだ。
「なぜここに?」
少女が木にたて琴をもたれさせて、こちらに歩み寄る。
「それはね」
俺の胸に顔をすり寄せてくる。
「あなたに会うため」
俺に…?
「大変だったわ。とっても。
即位してすぐに王家に伝わるたて琴〝永久の静寂〟を探したの。一年かかったわ。
昔話したわね。あなたにも。
このオランシアの子守唄は王家の宝について謡った唄だって。
その宝がこのたて琴」
白魚のような繊手が翻り、たて琴を示す。
「この国が建国された時にどこぞの呪い師が置いていったらしいわ。
強力な力の宿る、このたて琴を。
………その音色を聴いたものを皆、永久の眠りにつかせる力を秘めたたて琴を」
オランシアの王族をのぞいてね。
少女は楽しそうに紅い唇から毒された言葉を吐く。
白く、折れそうに細い指が両手の中で複雑に絡み合う。
「そして、このたて琴の力を使って小国から順に、滅ぼしていったの。」
え…?
少女は以前なら浮かべるはずもない、翳りのある笑みを浮かべる。
その碧の瞳は爛爛と輝いていた。
「でもそれももうこれで終わり。オランシア以外の国はすべて滅ぼしたわ」
少女の腕が蛇のように首に絡んでくる。
「もうこれでオランシアの民が苦しむ事もない。皆笑顔で暮らせるの」
血の様に真っ赤な唇が近づく。
「命じたわよね?結婚してって。だからね」
吐息が首筋にかかる。
「ユザ、もうどこにもいかずに私のそばにいて?」
体が凍りついたように動かない。
唇が重なる寸前、俺は悟った。
『私はみんなが幸せでいられる、最高の王になる!』
『ユザ、もうどこにもいかずに私のそばにいて?』
俺が彼女の心を裏切ってまで、彼女のために行ったことの代償は。
彼女の純粋な心と。
数え切れないたくさんの人々の命だったということを。
初投稿です。
なのにこんな救いのない終わり方ですみません…。
最後まで読んでくださってありがとうございました。