愛せるけれど好きじゃない
他人を受容することで世界は成り立つ。スーパーのお惣菜ひとつ買うのも食べるのも信頼が成り立っているからだ。生まれた世界を愛している。信じている。
コミニケーションの連続する世界を渡り歩く。目も見ないで買い物を終えることなんてざらだけど。
この人はこういうひとなんだ。そう、受け止め体全部で感じ切る。これは別れた夫への感想だ。
カルテットというドラマを見ていたから、ああ、これかあと思えた。
夫も義務で愛してると言ってた。
父として夫としてやれるだけの義務を果たすという意味で愛してもらってありがとう。
自己愛に当てはめたら、どんなに自分が自分を傷つけることをして生きたとしても自分との関係を終わらせることが出来ない。離婚や別れという様な。
傷つける行為があればあるほど自分と向き合う時間も増えるし、逃避して好き勝手にやってきてもどうしたって自己と紐付けされている。
自分だけは縁が絶てない様に出来ている。
人と関わる時もそこが重要らしいのだ。自分を大切にすること自分の好きなことを知ってること、、そうしたらよい関係をだれかと築いていけるらしい。
愛せるけれど好きじゃない、に親がまたしっくりくる。愛することは可能かもしれない。だけど好きになるのは難しい。私の母は自分で自分を大切に扱うというのが難しい様に見える。
こういう人が歳をとって頑固になると
優しくしても真っ直ぐに好意だと考えず捻くれた答えを出すことがある。
悪い方へ人を疑う方へそちらのほうが思いつきやすく、笑い話をふったつもりが突然床に落ちる食器みたいなことになる。
自分自身が大切な存在だと自覚が薄いと私の様に深い人間関係が苦手で2度も離婚したりする。
大切にされるに値しないと思っていると目の前の夫からよくない扱いを受ける。私は冗談にしては痛いと感じる叩かれ方をしてもわらっていた。
そして、わらうと夫は受け入れられたと少しは感じるのかやめなくなった。彼は思春期に父を蹴っていたら父は家に帰ってこなくなったことがあったと言う。
笑顔は私に何をもたらしたのだろう。なぜ笑うのか、笑うとなんでも解決するとどこかで思っている節があったみたいで。。
弱肉強食なら生き残れないねと笑いのネタにされたことがあった。親や兄弟から。
愛とはなんなのか。
思い出せる景色の中のあの気持ちか。
父は私に愛を与えたか。母は私に愛を与えたか。私は何を愛と思って結婚生活をしていたか。夫は愛情表現を誤解していないか。
愛がわからないなんて無力だなぁ。
無理して笑い顔をつくらなればならない人間関係を片付けてきた。
笑顔を褒められることが多々あった。
誰かの孤独に寄り添いたいと思った時、お互いに癒されるのだろう。加賀まりこさんは飯島愛さんのお母さんになろうと思って親しくなっていったらしかった。お別れをした加賀さんの赤ちゃんが愛さんと同じ生年だったのだそうだ。生まれたばかりで天国に帰った赤ちゃんを思った時、普通にまとまるなんて無理なんだと諦めたそうだ。そう言う学びと捉えたそうだ。普通なんて目指さないで私は私らしく行く。
頭を撫でられる子供でいようとしていた昔、なんらかの満足感が欲しかったか、他人を直視して、自分だけを無視して。それが普通な訳はない。
普通気取りの愛されキャラ狙いの、その役の陰でおかげで息をしていた私を愛せるけれど好きじゃない。
愛してくれる何かが欲しい。と、自分から逃げていた気がする。
今日は雨が降っていて頭痛がする。それが私だし、雨が降っていなくて頭痛もおさまっていたら、頭痛の私を忘れている。天気予報を見ながらどっちでもいいやと呟く。
頭痛は愛せないけど頭痛で悩んでる私は愛さなきゃ。
note永野彗
W掲載