切符
その駅は、年に数日しか姿を見せない。
梅雨の中頃、必ずと言っていいほど降る大雨の日。普段は草に覆われた廃線跡に、突如として“駅舎”が現れる。地元の人はその話を迷信だと笑うが、それでも「雨の日には、あの道を通るな」と口をそろえて言う。
大学生の谷口悠馬は、その話をどこかで聞いた気がしていた。というより、それを信じていた。
――恋人の美咲が消えたのは、ちょうど1年前の雨の日だった。
夜の帰り道、傘を差して買い物に出かけたはずの美咲は、ふいに連絡を絶った。携帯は繋がらず、彼女の姿はどこにもなかった。警察も「事件性はない」と首を傾げたが、悠馬には心当たりが一つあった。
あの日、彼女が「廃線の近くで、変な駅を見つけた」と言っていたのだ。
その記憶にすがるように、悠馬は雨を待った。
*
そして、7月のある日。
天気予報は大雨。山間の集落へ向かうバスも運休になるほどの警報が出ていたが、悠馬はその廃線跡へと足を運んだ。
靴が水を吸い、ズボンの裾が泥に染まる頃、視界の先に“それ”はあった。
朽ちたはずのホーム。木造の駅舎には、淡く黄色い灯が灯っている。瓦屋根は雨に濡れて黒光りし、入口の脇には風で揺れる立て札が立っていた。
「臨時運行 渡雨駅」
そんな名前の駅など聞いたこともない。
だが、悠馬の心は高鳴っていた。あの日、美咲が「渡雨って書いてあった」と言っていたのを思い出したのだ。
「……美咲……」
駅舎に足を踏み入れると、中は意外なほど綺麗だった。木の床はぬれておらず、ベンチも、切符売り場も、まるで日常のように存在していた。
そして、奥には改札口があり、その先に――列車が停まっていた。
白い車体に青いライン。車窓には、何人もの乗客の影が映っていた。ただ、そのどれもが、明らかに「水で濡れていた」。
傘もささず、びしょ濡れの服。髪から滴る水。目が合った乗客は、一様に無表情で、悠馬を見つめていた。
「お客様……お一人ですか?」
改札の奥から、ぬるりと車掌服を着た男が現れた。
帽子の影で顔は見えない。ただ、手には一枚の“切符”を持っていた。
「切符。……お持ちで?」
悠馬が言葉に詰まると、男はにやりと口元をゆがめた。
「では、差し上げますよ。行き先は“渡雨”、乗車時間は……思い出の数だけ」
手渡された切符には、滲んだインクでこう書かれていた。
列車のドアが開いた。水滴を含んだ空気が、悠馬の肌を冷やした。
そこに、見覚えのある後ろ姿があった。
「……美咲……?」
彼女だった。髪も服も濡れている。だが間違いなく、美咲だった。
「美咲! なんでここに……!」
慌てて走り寄り、肩に手を置くと美咲はゆっくりと振り返った。
瞳に光はなく、唇はわずかに動く。
「……帰れないの……」
「なに言って――」
次の瞬間、車内の乗客全員が一斉に立ち上がり、悠馬に視線を向けた。
全員が、濡れていた。
全員が、笑っていた。
「ようこそ、“雨の向こう側”へ」
車掌が手を叩くと、列車が轟音を立てて動き出す。
悠馬は足を引きずられるように、車内へと吸い込まれた。
*
――翌朝。
雨は上がり、草の生い茂る廃線跡には、駅も列車もなかった。
ただひとつ、濡れた切符だけが草むらに落ちていた。