プロローグ:「静寂の裏側」
「ステルスパイロット」山田耕作の新たな戦いが始まります。バディとのコンビで今回はどんな展開を見せるのか・・・
金融市場を揺るがす事件とは?
プロローグ:「静寂の裏側」
東京。都内の喧噪から一歩引いた住宅街の一角。築三十年を超える五階建ての中古マンションが建っている。外観はくすんだモルタル壁に錆びた鉄柵、周りの住環境に妙に溶け込んだ古いマンションの四階の一室に山田耕作は住んでいる。株式会社アオイフードサービスの営業マンである彼は、ごく普通のサラリーマンの顔の他に、もう一つ、別の顔も持っていた。
何の変哲もない普通のマンションに一室。そこでは金融市場を揺るがす静かな戦争の拠点が築かれていたのだ。
白と黒を基調にした静謐な室内。観葉植物が整然と並ぶ窓辺の一角、そこには希少種のサボテン「アズレウス」が飾られていた。山田はその鉢に指先で軽く触れながら、無言でコーヒーの湯を落とす。
ドリップから立ちのぼる香りはキリマンジャロ。彼の唯一の嗜好品だ。タバコも酒もやらない。だが、この酸味と微かな焦げの風味だけは、彼を日常に繋ぎとめていた。
壁際には3台の大型モニター。株価、先物、オプション、為替、時折それらを繋ぐアルゴリズムの可視化が流れていく。その隣の天井裏には、回線分配機と精密な光ファイバー処理装置。さらに、最上階5階の角部屋は彼が購入し、通信用の中継サーバと保安装置、エアギャップ処理された通信隔離ブースが設置されている。
そこに接続されているのが、山田が密かに操るAI――「Buddy」。表向きには中立の第三国にあるペーパーカンパニーが所有する第三世代スーパーコンピュータが本体だ。その演算資源は政府系システムに匹敵し、山田はそれを専用回線と複数の匿名化サーバを経由して自宅端末から運用している。
「バディ、全データリンク再接続。ターゲット企業に関するインフォ、並びに関連金融商品を時系列で洗い直せ」
彼の声は静かだが、冷気を帯びていた。
「了解。命令受理。検索対象:ヴァルシオン・テック。時系列スキャンを開始。関連人物・企業群のクロス相関を構築中です」
――声は無機質。だが、その背後には三つの仮想人格が動いている。「論理的」「楽観的」「中立的」。この三者が合議し、多数決で最終判断を導き出す。人間に近い意思決定過程を模倣した、極めて民主的なAI。
ただし、出力は一切の感情を排したもの。まるで、砂漠に降る無音の雨のように。
「君の正義、僕の正義、奴らの正義――みんな違う。そして、相場には“正義”なんて価格がつかない」
山田はカップを口に運び、薄く笑った。
大型モニターに、ある上場企業の株価が表示される。ヴァルシオン・テック。
企業サイトにはこうある:「未来を照らす技術の力で、地域と共に。」
EV化推進、難病研究への寄付、地方自治体との再開発支援――完璧な広報。だが、バディが示すログは異なる。
「推定裏取引ルート検出。高リスク地域への精密機械出荷ログ、関税コードの虚偽申請あり。FATF非準拠国経由。政治献金にて摘発免除の可能性高」
「確度:86.3%。続行しますか?」
「奴らは、見た目だけじゃ測れない。善人ほど、仮面が分厚い」
彼の目が鋭く光った瞬間、右のモニターに一つのアラートが点滅した。
《通信干渉検出/不審電波が近接エリアから発信中》
「……はじまったか。バディ、通信系統、バックアップに切り替えろ。5階経由で」
「了。バックアップ回線起動、3秒後に切替完了」
「補足:外部からのスキャン波形が山田耕作名義のISP回線と酷似。照合対象:金融庁・警視庁合同監視プロトコル。追跡の兆候と推定されます」
山田はサボテンのアズレウスに目を向ける。無論、答えは返ってこない。
「もう来たのか……早いな。どうやら“ステルスパイロット”の亡霊は、まだ誰かの記憶に残ってるらしい」
インターホンが鳴った。鋭く、一度だけ。
バディが即座に反応する。
「映像解析中――顔認識失敗。カメラ直視なし。傘を深く差した成人男性。音声記録中。指紋・携帯電波の検出不能」
「……訪問者の予定はない」
山田は椅子からゆっくり立ち上がった。コーヒーの残りを飲み干すと、スーツの内ポケットから小型の遠隔遮断スイッチを取り出し、卓上にそっと置いた。
大型モニターに表示された株価の変動が、ゆっくりと乱れ始める。
取引開始まで――あと、18分7秒。
バディの合成音声が淡々と響いた。
「最終確認:ターゲット企業への空売り起動シグナル、発射準備完了。起動条件:市場オープン。戦略フェイズ:カオス・デルタ」
山田はゆっくりと笑った。彼の中で、何かが、始まりを告げていた。
※次章へ続く