小さなお客たち
昼下がり、喉に良いという飴を差し入れてくれたタハラハに、アトゥリナは礼を言ってから、フェーレンはそっちに行っていないかと尋ねた。返事は否。
「そうですか……。このままお別れしてしまうのは、寂しいです。お世話になったから、ちゃんとお礼もしたいのに」
「礼なんかしても、受け取りゃしないだろうさ。あいつは妙に淡泊だからな。まあ、あんた達が二人だけでもやってける、って判断したんだろうよ。自信持ちな」
「ありがとうございます。相変わらず、こんな具合ですけどね」
アトゥリナは苦笑しながら、中身の寂しい木皿を持ち上げて見せた。最初こそ神秘の歌声だとして見物人が寄ってきたものの、アトゥリナが目立ちすぎないよう控えるようになってからは、新たな客はあまりつかなくなっていた。彼の歌声の不思議を知っている者は何回か聴きにきたが、歌い手も楽士も大道芸人もそこらじゅうにいるこの街では、積極的に宣伝しない限りすぐに埋没してしまう。異国の旋律も、大陸各地の人間が往来するこの街では別段、珍しくない。
「もったいないな」タハラハは残念そうに言った。「俺は、あんたの歌声は悪くないと思うんだがなぁ」
「自分でも悪くないとは思います。でも抜きん出ているほどじゃありません。他のところで歌い手を何人か見かけましたが、私よりずっと上手い人もいました。もっと頑張らないといけませんね」
アトゥリナは応じて、弦を鳴らす。もともと語り部としての彼は、歌と楽器についてほどほど優秀であれば良く、憶える詩の内容の方が重要だったのだ。良い奏者ではあるが、一流歌手には明らかに及ばない。身分と、特殊な歌と暗記力。その三つに頼っていたのだと、初めて思い知った。
タハラハが店に戻ってしまうと、アトゥリナの前には誰もいなくなった。ビードもさすがに少々居心地が悪そうで、できもしないのに「私が客寄せをしましょうか」などと提案する。アトゥリナはふきだしそうになったのを危うく堪え、いいよ、と首を振った。
そこへ、近所に住んでいる子供達がやってきた。アトゥリナが目当てではなく、単に追いかけっこしながらここまで来ただけだ。仲間を引き離して先頭を走ってきた少女が、暇そうなアトゥリナを見付けてそばに寄る。
「お兄ちゃん、何やってるの。歌わなきゃお客さんも来ないよ?」
「そうだね」
遠慮なく言われて、アトゥリナは切なく天を仰ぐ。少女はビードにちらっと視線を投げてから、用心深く敷物のすぐ手前に膝をついた。視線は五弦琴に釘付けだ。
「珍しいかい?」
可愛いお客さんに注目されたのが嬉しくて、アトゥリナはよく見えるように向きを変えてやった。少女はこくんとうなずき、琴からアトゥリナの服、顔、そして銀の額飾りと、じっくり舐めるように観察する。追いついた子供達が、何だ何だと集まってきた。
「こんなの、初めて見た。よく似たのは今まで色んな人が持ってたけど……それに、お兄ちゃんの目の色、すごく不思議」
くりっとした丸い目でまともに見つめられ、アトゥリナは思わずたじろいだ。少女の後ろから何人もの子供が同じように覗き込んできたのだから、なおさらだ。彼はごまかすように微笑んだ。
「私はうんと遠い国から来たからね。西の海の向こうにある、デニスっていう国だよ。聞いたことあるかい?」
「ううん」
「ないー」
口々に子供達が答える。顔を見合わせて、本当かなあ、嘘だろ、などと本人の前であれこれ相談した挙句、
「西の海の果てには、死んだ人の国があるって母さん言ってたよ。お兄ちゃん、死んでるの?」
そんな質問を飛ばしてくれた。ビードが眉を上げ、アトゥリナは笑いだしてしまう。
「死んだ覚えはないけどなぁ。私が死人に見えるかい」
最初の少女が手を伸ばし、彼の腕を掴む。体温を確かめて、彼女は大真面目に言った。
「生きてるね」
「生きてるよ。だから食べ物も寝床も必要で、こうしてお客さんを待っているわけさ」
「はーい、あたし、おきゃくさーん」
幼い少女が脈絡を把握しないまま手を挙げて宣言し、アトゥリナの前にぺたんと座る。お客さんごっこ、というところだろうか。年かさの子供らが、やめとけよ、と言いたそうな顔をした。彼らにしてみれば、大人は面白い遊び相手ではない。
アトゥリナはそんな心情を感じ取り、よし、と胡坐をかいて五弦琴を構えた。
「それじゃあ、せっかくだから私の国のお話を聞かせてあげよう。君達のお父さんやお母さんも、誰も知らないはずだからね」
「……アトゥリナ様?」
まさか建国叙事詩をここでやらかすつもりか、とビードが顔をしかめる。アトゥリナはそれを見上げ、大丈夫、と笑った。
ポロン、と鳴らしたのは確かに長大な叙事詩の前奏。だがほんの数小節で、旋律は即興のものに変わった。より単純で素朴な響きへと。そして、アトゥリナの口から出てきたのは、格式ばった古い言い回しの詩ではなく、
「むかし、むかし、あるところに……」
誰もが幼い日に聞いた物語と同じ、やさしくわかりやすい始まりの言葉だった。
むかしむかし、あるところに、デニスという大きな国がありました。
立派な王様に治められ、とても栄えていましたが、ある年、海から、いっせいに敵が攻め込んできました。
勇ましい兵士達はけんめいに戦いましたが、高い壁も、丈夫な扉も壊されて、とうとう何もかもめちゃくちゃにされてしまいました……
いつの間にか子供達が、興味津々と聞き入っていた。幼すぎる子供は早くもなにやらごそごそし始めたが、少し年長の子は揃って行儀良く膝を抱え、歌い手を見つめている。
アトゥリナは要点を押さえ、子供を飽きさせないように語り続けた。詩人が聞いたら悲憤で悶絶しそうなほど、修飾も説明もばっさり切り捨てて。
悪役である『赤い目の魔術師』が国々の王をたぶらかして人々を苦しめる場面では、伴奏もおどろおどろしく変えた。子供達がひしっと身を寄せ合う。アトゥリナは怖がらせすぎないところで切り上げ、建国の英雄を颯爽と登場させた。明るく活気に満ちた威風堂々たる旋律に、子供達もいよいよ見せ場かと身を乗り出す。
もともと伝説化しているエンリル帝については、さらに気前良く脚色した。輝く黄金の髪、神秘の力を秘めた夜空色の瞳。剣は旋風を生み、弓は彼方の的を見事に射抜く。そして、彼を支える勇士、天から遣わされた青き魔術師ラウシール――
赤い目の魔術師が放った魔物を、彼らは力を合わせて退治する。だが王都を留守にした隙に、邪悪な魔術師はエンリルの父王を騙して、謀反だと信じ込ませてしまった。さて、若きエンリルの運命やいかに!
「……と、今日はここまで」
「ええー!」
いっせいに不満の声が上がる。だがアトゥリナは笑い、続きをせがまれても首を横に振った。うんと簡略化したから時間はあまりかかっていないが、子供の集中力を考えたら、この辺りが限界だ。
「ほら、小さい子は退屈しちゃってるよ。遊んでおいで」
言われて思い出し、子供達はころっと気分を切り替えて、ぴょんと跳ねるように立ち上がる。はしゃぎながら走り去る他の子らと別れ、一人だけ、最初の少女が残っていた。
「明日もここにいる?」
「ああ、いるよ。天気が良かったら、続きを聞きにおいで」
本当は場所を移動しようと思っていたのだが、アトゥリナはそう答えた。少女はうなずいたが、そのまま立ち去りはせず、ためらいながらもじもじしている。アトゥリナが首を傾げると、彼女はまたしゃがみこんで、つぶやくように問いかけた。
「まほう使いにも、良い人がいるの?」
「私の国の魔術師は、ここの『まほう使い』とは違うんだよ。昔は、さっきの歌に出てきたみたいに悪い人もいたけれど、今は、悪いことはしません、って誓いを立てないと、魔術師になれないんだ。だから、私の国の魔術師は皆、良い人だよ」
アトゥリナは内心冷や汗をかきながら、安心させるように説明した。どうやらこの国では、魔法使いの類は邪悪なものとされているらしい。それが昔話に出てくるただの悪役なのか、それとも実際にそうした職業があるのか、念のために確認してみた。
「君は『まほう使い』を誰か知っているのかな?」
「わかんない」
「――?」
「母さんは、あの人に近寄っちゃだめ、って言うの。まほう使いだから。捕まったらひどいことされるよ、って。でもあたし、あの人がまほうを使うところ、見たことないから」
「そうなのか」
うーん、とアトゥリナは考え込んだ。事情はなんとなく察せられなくもない。デニスでも本職の魔術師とは別に、昔ながらのまじない師が、いまだ少数ながら存在する。と言ってもそれは、現実に何らかの技を備えているというよりは、単にある種の人間を差別し排除するための方便にすぎない。少女の母親が言うのも、そうしたことなのだろう。
「私はこの国のことをよく知らないから、その人が本物のまほう使いかどうかは、わからないなぁ。でも、君のお母さんがそう言うのなら、一人では近付かない方が良いね。その人が悪いことをしていないのなら、追い払ったりはしなくてもいいと思うけど」
アトゥリナの慎重な返事を、少女はじっと聞いていた。そして、
「わかった」
硬い声で短くそれだけ言うと、さっと立ち上がり、踵を返して走り去った。思わず知らず、アトゥリナはふうっと息を吐く。ビードが傍らにひざまずき、片付けを始めた。
「子供の相手は初めてでしょうに、お上手でしたね。さすがはアトゥリナ様です」
「そうかい? でも明日は、最後のあの子しか聴きに来てくれないんじゃないかな。きっと皆、他に楽しみなことがいっぱいあるだろうしね」
何もかもが新鮮できらめいていた幼少期を思い出し、アトゥリナは苦笑する。
「あの子達が家でエンリル様の話をして、大人が興味を持ってくれたらいいんだけど。子供相手にお金は取れないし」
「私も何か、働けたら良いのですが」
ビードが沈んだ声でつぶやく。アトゥリナは真顔になり、強い口調で諭した。
「君がそばにいてくれなければ困るよ。今はまだ揉め事になったりはしていないけれど、これだけ大きな街だ、治安が良さそうだからって安心はできない。せっかく稼いだお金を盗られたり、離れ離れにされてしまったりしたら、デニスに帰るどころではなくなってしまう。馬鹿なことは考えないで。いいね?」
青褐色の目で、ひたとビードを見据える。短い沈黙の後、彼女は少し目元を和らげた。
「はい。畏まりました」