港町カウロン
――そんな調子で、それからの数日、三人は共に過ごした。
アトゥリナはほとんど一日中、歌の練習をして過ごしたが、合間にはビードと二人してこの大陸についても学んだ。長い旅路を乗り切るための知識だ。
フェーレンの説明によれば、彼らが今いるオラーフェン皇国は、かなり歴史が古い。街道も整備されているし、治安も良く、平地が多くて旅は楽だ。しかし、大河を国境として南のレクスデイルは新興国で、山がちの国土に少々気の荒い遊牧民が散らばっている。
「大河の河口にある港町カウロンから、船で一気に南下できればいいんだが、生憎この半島の西岸は断崖と岩礁だらけでまともな寄港地がほとんどなくてな。数少ない港では使用料をぼったくられるんで、当然、船賃はとんでもなく高くなる。おまえの懐具合じゃ、まず無理だ。海賊も出るしな」
「喜んで陸地を歩きますよ。海はこりごりです」
呻いたアトゥリナに、フェーレンは「おいおい」と笑った。
「旅路の最後はどうしたって船だぞ。それまでになんとか克服しとけよ。陸地を縦断するなら、カウロンで案内人を雇うのが一番だ。丘だらけで方角もわかりにくいからな」
レクスデイルの南国境は山脈と川で、そこを越えるとウィーダル王国に入る。肥沃な平野に恵まれた国で、治安も歴史も、オラーフェンとレクスデイルの中間といったところ。
「余計なことをしなきゃ、何事もなく通過できるだろう。その先の香料半島は、多くの部族が喧嘩したり手を結んだりしてる状態だ。ゴタゴタに巻き込まれないように気をつけろよ。北岸にある港町伝いに行けば、どこかで北行きの船を捕まえられるだろう」
あれこれとフェーレンは親切に教えてくれ、最後に皮肉っぽく眉を上げて言った。
「まぁ俺の見たところ一番の問題は、半島の先っぽに行き着くまでに船賃を稼げるかどうか、だな」
「大丈夫ですよ」アトゥリナは楽観的に笑った。「あなたに教わった歌がありますから。先々どうなるか不安はありますが、それでも私は運が良かった。あなたという親切な方に助けて頂けて、難破しなければ恐らく一生知ることのなかった歌や知識を学べたんです。ラウシール様のご加護で、この先もなんとかやって行けそうな気がしますよ」
強がりでもこじつけでもない。こうなったのも何か運命的な力が働いてのことだ――心身が回復した今では、本当にそう思えるようになっていた。
「元々は、ヒスティアでデニスの歌や伝承を広める計画だったんです。だから……まったく予想外の場所に辿り着いてしまったけれど、道すがら、少しは『真面目』な歌も披露して、デニスのことを知ってもらえるよう、やってみます。翻訳呪文があるから、少なくとも意味は伝わりますしね」
穏やかながらも強い決意をこめて、アトゥリナはにっこりする。フェーレンは驚きと賞賛を目に浮かべたが、口に出して言ったのは忠告だった。
「前向きなのは結構だが、ラウシール様ばっかり当てにするなよ。伝説の大魔術師様だって、神様じゃねえんだ。おまえ自身の力でしっかりやれ」
「はい」
アトゥリナは素直に答えてうなずいた。
漂着者ふたりの体力がすっかり回復したと見ると、フェーレンは親切に、カウロンまで送ると申し出てくれた。
「漁に使う船があるから、それで送ってやるよ。そんな顔をするな。カウロンで荷袋か何か買うまで、その櫃を背負って歩くわけにもいかんだろう。海に出るったって、ほんのすぐそこまでだ。万一船がひっくり返ったって岸に泳ぎつける」
説得されて、渋々アトゥリナは船に乗り込んだが、三人乗ったら沈みそうな小船では、気を楽にしろという方が無理な話だった。
フェーレンとビードが櫂を漕ぎ、アトゥリナはすることもなく岸辺を眺めていた。彼も漕ぐとは言ったのだが、柔らかい手を見たフェーレンが、血豆を作って演奏できなくなったら稼げないぞ、と忠告したのだ。
岩の多い岸に生えているのは、ほとんどが松の木だった。強い海風を受けて一様に傾いでいる。平地が多いという説明の通り、木々の向こうに見える山や丘の姿はない。
少し漕ぐと、岸辺に漁村が現れた。フェーレンの家と同じ、泥壁と茅葺の家が並んでいる。煉瓦を積んだ丈夫そうな家も数軒、まじっていた。浜には何艘も小船が並び、村人達が漁網を手入れしたり、獲れた魚を天日干しにしたりと働いている。
「ここがエフェズ村ですか」
アトゥリナが訊くと、フェーレンは短くそうだと答え、浜にいる誰かに手を振った。網を持った男が手を振り返す。
(ああいう人達は、どんな歌が好きなんだろう)
アトゥリナはふとそんなことを考えた。皇族の一員である彼は、日々の糧を得るために労働する生活を知らない。あの村の人々は何を思って体を動かし、どんな歌を口ずさむのだろうか。彼らの耳に、自分の歌は届くだろうか。
(遠い異国の、偉大な先人を讃える歌、なんて……聞いてもらえるだろうか)
不安が胸に忍び寄る。彼は無意識にぎゅっと手を握りしめた。
一人でもいいのだ。耳を傾けてくれる者が一人でもいれば、望みはある。どんな場所にも、一人ぐらいは好みの変わった人間がいるだろう……。
そのうちに漁村は艫の方へ流れて消えてゆき、また荒涼とした景色が続いた。だが陸とは違い、海は次第に賑わいつつあった。船の影が一艘、二艘と視界にあらわれる。やがてそれが、自分達のと同じような小船ばかりでなく、立派な帆を張った異国の商船もあると見分けがつくようになる頃には、行く手に港町が広がっていた。
入江の河口を利用した天然の港だ。街は大河の南北にまたがって広がっているが、北側がやや山がちなため、少し狭い。
「うわぁ……!」
アトゥリナは思わず嘆息していた。デニスにも同じような港町はあるが、ここまでの大河はない。川幅だけでちょっとした湖ぐらいはありそうだ。そこを、見えない道でもあるかのように、ぶつかることなく行きかう色とりどりの船、船、船。岸辺には倉庫が立ち並び、大勢の人間が忙しなく動き回っている。
フェーレンは小船が多くて少々見劣りする北岸の波止場に隙間を見つけると、自分の船を滑り込ませた。ようやく固い地面に降り立ち、アトゥリナは感嘆しつつ辺りを見回す。
建物はどれも、石の基礎に木造漆喰造りのようだった。フェーレンの庵や、遠目に見たエフェズ村の家のように質素なものは、この辺りには見当たらない。壁はとりどりの色に塗られ、見たことのない模様が描かれていた。植物、動物、あるいは幾何学模様。
(きれいだ。きっとこの国の人々は、芸術が好きなんだな)
色合いも図柄も建物ごとにばらばらで、決まった様式があるとは見えないにもかかわらず、街全体が調和している。見事なものだ。深呼吸すると、潮風に嗅いだことのない匂いが渦巻いていた。馴染みのない香料や染料の匂い。すぐ近くに並ぶ屋台から、食べたことのない料理の香りがしきりに手招きしている。雑踏に飛び交う異国の言葉、見慣れない身振り手振り、初めて見る衣装。アトゥリナはぶるっと身震いした。
「ぞくぞくするね」
半ば独り言だったが、聞きつけたビードが心配そうな顔をした。
「どこかで休まれますか」
「え? ああ、そうじゃないよ、興奮するって意味。何に出くわすのか、楽しみで舞い上がりそうだ。さてと、もう少し異国情緒を味わいたいところだけれど、言葉が通じなければ話もできないしね」
アトゥリナはちょっと息を吸って目を閉じ、簡単ながら精巧な呪文を意識の中で組み立て、小声でつぶやいて解放した。ごく微かな力の流れが、ちらちら光る糸となってアトゥリナとビードを取り巻き、流れ、消える。目を開けた時には、周囲の異国語を理解できるようになっていた。
「ラウシール様の呪文の中で一番役に立つんじゃないかな、これは」
アトゥリナが笑うと、ビードは真面目な顔のままうなずいた。もちろん、翻訳呪文といっても、唱えればすぐに外国語を習得できるというものではない。言語を超えて、意図や意味が直接、相互に伝わるようになるのだ。
船をもやったフェーレンがやって来て、ふむと考えてから言った。
「ついでだから、もうちょっと付き合ってやるよ。ここで待ってろ。おまえらの全財産を入れられそうな鞄を見繕ってきてやるから、それに櫃の中身を移しな。その後で櫃を売って、おまえがちょいと歌って小銭を稼いだら、鞄の代金をそこから差っぴく。いいか?」
「ええ、もちろん。お願いします」
警戒心の欠片もなく了承したアトゥリナに、フェーレンは失笑した。
「馬鹿なんだか太っ腹なんだか、諦めがいいのか。はてさて」
まあ待ってろ、と言い残し、彼は雑踏の中に消えた。アトゥリナはおどけた顔でそれを見送り、くすっと笑った。
「自分であんなこと言ってしまうぐらいお人好しなのに、それが他人にばれていないと思っているんだから、面白い人だよね」
ビードの返事はなかったが、アトゥリナは気にしなかった。
しばらく待っていると、フェーレンが鞄をふたつ手に入れて戻ってきた。帆布と革で作られた丈夫なもので、肩に掛けることも、背負うこともできるようになっている。アトゥリナは早速それに防水の術と、ついでに盗難防止のちょっとした術をかけておいた。
乏しい全財産を荷造りし、空になった櫃を現金に換えると、三人は適当な場所を探しながらゆっくり歩き出した。
「本当に、賑やかな街ですね。帝国の都よりすごいかも。人の多さは同じぐらいでも、これだけ色々違っているのは初めて見ます」
きょろきょろしながらアトゥリナは言った。故郷では滅多に見られない赤毛の者も大勢いる。フェーレンがやや声を低めて、視線や仕草でそれとなく示しながら、各地の人間の特徴を教えてくれた。
「赤毛がくるくる巻いてるのは、ここから東の内陸に住むレント人だな。あっちの、丸っこい帽子を被ってるのがレクスデイルの遊牧民だ。肩にかけてる模様織の布が氏族のしるしだが、よそ者は知らなくても問題ない。あのひらひらした長衣を着てる男……違う、左の黄色い奴だ。あれはウィーダルの商人の中でも金持ちの部類だな」
あれこれ教えていたフェーレンが、ふと街路の端に目を留める。アトゥリナもつられてそちらを見ると、槍を持った兵士が漫然とした様子で立っていた。
ふむ、とフェーレンは小さく唸って周囲を見回し、
「ここいらにするか」
つぶやいて、通りを横切って兵士に近付いた。アトゥリナとビードも慌てて従う。
「よう、お疲れさん」
フェーレンは軽く手を上げて兵士に挨拶しながら、硬貨を数枚、その手に握らせる。
「ちょいと小銭を稼がせてもらうが、構わないよな?」
兵士は手の中の硬貨とフェーレン達三人の様子を見比べ、興味なさげにうなずいた。
「ああ、面倒を起こさないなら自由にやりな」
「ありがとよ。そらお坊ちゃん、こっちだ」
フェーレンに手招きされ、アトゥリナは兵士から五歩ばかり離れた道端に駆け寄った。ちょうど何かの建物の裏側で、背後は壁だけ、出入りや通行の邪魔にもならない。アトゥリナは買ったばかりの小さな敷物を広げ、どきどきしながら五弦琴を用意した。
「やっぱり、ああいう人にいくらか渡さないと危険ですか」
調律しながら小声で尋ねる。フェーレンは軽く肩を竦めてささやき返した。
「必ずってわけじゃないさ。ただ初めての場所で歌うなら、なるべく挨拶はしといた方がいい。その場所で何らかの権力を持ってる相手にはな。顔なじみになりゃ、その必要もなくなるだろうがね。……用意できたか?」
アトゥリナがうなずくと、フェーレンは大きく数回手を打って声を張り上げた。
「さあ、皆さんお立会い! こちらにおりますのは、珍しくも西の海の果てから漂着した不運な旅人にして歌い手、寄る辺なき身に免じてしばしのお付き合いを!」
何人かが興味を引かれたらしく立ち止まり、アトゥリナに視線を向ける。だが大勢はちらと振り向いただけで、そのまま歩き続けた。大道芸の類は珍しくもないのだろう。フェーレンは構わず、アトゥリナを手振りで促した。アトゥリナは数少ない聴衆にぺこりと一礼すると、敷物の上で胡坐をかいて五弦琴を構えた。