よそ者の庵
二章 オラーフェン皇国
ザァ……ザザ……ッ
穏やかな音が繰り返し耳を洗う。それとは別の、小さなカサコソいう音が、頭のすぐそばで聞こえた。
「う……」
指がぴくりと動いて肉体の感覚を呼び戻す。アトゥリナは倒れ伏したまま、己の惨状を意識した。体は芯まで冷え切って、まったく力が入らなかった。砂に広がった髪の上をヤドカリが歩いているのがわかるのに、目を開けてそれを見ることさえできない。
このまま満ち潮に呑まれて、改めて溺れ死ぬのだろうか。そのぐらいなら、いっそ異世へ直行していれば良かったのに。そんなことを考えたと同時に、どこか上の方から砂を踏む足音が近付いてきた。ビードかな、と思ったが、すぐにそれを打ち消す。彼女ならもっときびきびした歩調のはずだ。ゆったりした歩みの主は、少し離れた場所でいったん立ち止まった。どうやら、漂着者を見付けたらしい。
(助けて)
呼びかけたつもりが、声にはならなかった。やがて足音は用心深くなり、静かにアトゥリナのそばまで来て止まった。かさつく手が彼の顔にかかる髪をそっと払った。
「うっ」
びく、とアトゥリナは震えた。触れられたために体の感覚がすっかり戻り、痛みと不快感が一度に襲いかかってくる。重い瞼を無理やりこじ開けると、ぼやけて狭い視界に見知らぬ男が映った。首筋に指を当てて脈を取り、意味のわからない言葉をつぶやく。
(何語だ?)
こんな言葉、聞いたことがない。アトゥリナは朦朧としたまま、ほかに何か意味のわかることを言ってくれないかと待ち受ける。だが男はそれきり無言で、彼のそばから立ち去った。足音が遠ざかり、止まる。しばらくして、今度は急ぎ足に、また上の方へ戻って行く。それきり、辺りは静かになった。
アトゥリナが再び気を失いかけた時、不意に強烈な匂いが鼻先につきつけられた。
「っっ!」
声にならない悲鳴を上げて、反射的に顔を背ける。と、誰かの手が頭を支えた。いつの間にか、先刻の男が戻ってきたようだ。今度こそしっかりと目が覚めたアトゥリナは、男に助けられて身を起こした。
彼の目を覚まさせた匂いの元は、椀に入った緑色の液体だった。男がそれをアトゥリナの口にあてがう。飲め、ということらしい。アトゥリナは疑う気力も抗う体力もなく、おとなしくそれを飲み下した。味の方は、匂いほどひどくはなかった。
しばしの後、二人の漂着者は砂浜に座ったまま、男の世話になって人心地を取り戻していた。真水で顔を洗い、正体不明ながらよく効く薬湯を飲んで、ビードは早くも自力で歩けるまでに回復している。アトゥリナは消耗しきった己を情けなく思いながら、あれきりずっと黙っている男を観察した。
黒髪に、夏空のような青い目、やや小柄な体格。その取り合わせは、デニス帝国ではまず見られないものだった。再統一後、北方との往来も活発になり、他民族の流入も増えたが、しかしデニス人ならほとんどが、ハイラムのように黒髪と茶色や黒の目をした大柄な体格という『海の民』の血筋か、アトゥリナのように金髪と青褐色の目という高地系の血筋、どちらかに近い容貌になる。
(ここは一体どこなんだろう)
帝国の北、本来アトゥリナが目指していた土地ならば、住民はまず例外なく、金か銀の髪と白い肌をしている。眼前の男はそれにも当てはまらない。
と、まじまじ見ていたせいで、振り返った男とまともに目が合ってしまった。アトゥリナはいささか怯み、それから、通じないと承知でデニス語を口走った。
「助けてくれて、ありがとう」
案の定、男は困惑顔になったが、短い沈黙の後で意外にも、ためらいがちに答えた。
「やっぱりデニス人か」
やや発音に妙なところはあるが、同じ言葉だ。アトゥリナは目を丸くした。
「言葉が通じるんですか? ここは帝国の近くなんですか」
「いいや」
男は首を振り、顔をしかめて少し考え込んだ。
「俺は昔、デニスにいたことがあるだけだ。ちょいと言葉も錆びついてるから、ゆっくり頼むぜ。ここがどこか、ってことだが、デニスとは大海を隔てた東の大陸だよ。オラーフェン皇国のエフェズ村だ。わかるか?」
アトゥリナは途方に暮れて首を振り、ビードに助けを求めた。が、もちろん彼女もそんな国のことは聞いたことがない。黙って目をしばたたくだけだ。
「だろうな」
男はやれやれと頭を振り、砂の上に地図を描いた。南西に細長い半島が突き出た、見知らぬ大陸の海岸線。半島の先端から北西に離れた場所に、アトゥリナにもわかる陸地が描かれた。それは、彼が普段意識している『世界』にしては、あまりに小さかったが。
「これがデニスなんですか? それに、北に接しているノスティリアとヒスティア?」
呆気に取られてアトゥリナが言うと、男はあっさり「そうだ」とうなずいた。次いで、東の大陸の北部に横線を一本描く。大河らしい。その河口の近くに、男は小さな丸印をつけた。
「ここが今、俺達がいる場所だ。大体だがな。この大陸のことをろくに知らないのなら、こっちが目的地だったってことはねえだろ。えらく流されたもんだな」
「……そうですね」
アトゥリナ呆然と答えた。ただ流されただけで、こんなに遠くに漂着するわけがない。魔術の失敗が原因だ。ともかく陸地に着きはしたものの、命が助かって良かった、と単純に喜べる状況ではない。青ざめたアトゥリナの肩に、ビードが力づけるように手を置く。
男はそんな二人をじっと見ていたが、不意に、よいせ、と立ち上がった。
「ともかく、ここでいつまでもぐずぐずしてるわけにもいかんだろう。しばらくは俺の家に泊めてやるよ。これからどうするかは、一休みしてから考えるといい」
「あ、ありがとうございます」
親切な申し出に戸惑いながらも、アトゥリナは深く頭を下げた。男は面白そうな顔をして彼を見下ろし、手を差し出す。
「おまえ、いいとこの坊ちゃんだろう」
「わかりますか」
アトゥリナは否定せず、男の手を借りて、ふらつきながらも立ち上がる。男はにやりとした。
「下々の厚意を受け慣れてるって感じだからな。まぁ、むさくるしいあばら家だが、そこは我慢してくれよ。あー……俺はフェーレンだ。オラーフェン語で『よそもの』って意味だが、そう呼ばれてる」
「私はアトゥリナです。彼女はビード」
アトゥリナが名乗り、ビードも「お世話になります」と頭を下げた。
フェーレンの言葉は嘘ではなく、その住まいは本当にごく粗末なものだった。網代に泥塗りの壁と、茅葺の屋根。戸口をくぐると土間で、あとは板敷きの一部屋だけだ。客や家族を想定していない、独り住まいの家だった。
まわりにほかの建物はないが、小さな井戸がちゃんと掘られていたので、アトゥリナとビードはそこで頭から水を浴びて塩気と砂を落とした。
「うっ」
水の冷たさに怯み、風に吹かれて身震いする。船出したのは初夏で、故郷なら井戸水も心地よく感じる季節だった。アトゥリナは砂に描かれた地図を思い出し、ここはずっと北方なのだなと実感する。体をこすって温め、足踏みしながら彼は言った。
「本当に一人で住んでいるみたいだね」
アトゥリナがささやくと、ビードも周囲を見回してうなずいた。
「よそもの、ということで、地元の人々に受け入れられていないのかもしれません。私達にとっては、大変な幸運でしたが」
「まったくだね。こんな遠い異国の地で、ちゃんと言葉の通じる相手がいて良かった。そろそろ私もだいぶ元気が出てきたし、翻訳呪文ぐらいは使えると思うけど」
「必要になるまで、お休み下さい。無理な『跳躍』のせいでお疲れでしょう」
「ありがとう」
ひそひそ話をしていると、家の方からフェーレンが大声で呼んだ。
「浜からおまえらの荷物を取ってきた。ここに置いておくから、服が入ってるんなら着替えろよ。何か要るものはあるか?」
「結構です。ありがとうございます!」
アトゥリナも大声で返し、それからビードに向かって笑いかけた。
「私達は本当に幸運だね。介抱の代金に、あの櫃をまるごと取られてしまうんじゃないかと心配したのだけど。こんなに親切にしてもらえるなんて、きっとラウシール様のご加護だね」
「アトゥリナ様のご人徳です」
「まさか。私がどんな人間かなんて、彼は知らないんだから」
話しながら二人は乾いた清潔な服に着替え、すっきりした様子でフェーレンの家に入った。彼は囲炉裏に火を起こしていたが、顔を上げてにやりとした。
「聞こえてるぞ、お坊ちゃん。いくら俺でも、難破して流れ着いた奴から身ぐるみ剥ぐほど意地汚くはないさ。おまえらが死んでたら、遠慮なく頂戴するところだがね。まぁ上がりな……おっと、靴は脱いでくれよ」
アトゥリナは赤面しながら、板敷きの間に上がって囲炉裏に寄った。まだ冷たかった指先にじんわりと血が通ってくる。魔術の失敗で受けた痛手がようやくすっかり回復し、アトゥリナはほっと息をついた。途端に正常な肉体的欲求が目を覚まし、腹が盛大に鳴く。
フェーレンはわざとらしく驚いた顔をして見せ、火にかけた鍋に何やらぽいぽいと放り込んだ。くつくつと鍋が煮え、美味そうな匂いが漂いはじめる。アトゥリナは口に湧いた唾を飲み込み、期待をこめて鍋を見つめた。
「なんですか?」
「魚のすり身と麦粉の団子だよ。晩飯のつもりだったが、まぁいいだろう。……そら、熱いから気をつけろよ」
親切に注意しながら、フェーレンは不揃いの椀ふたつに汁をよそった。灰色の団子と、馴染みのない菜っ葉がたっぷり入っている。アトゥリナは遠慮も忘れてがっついた。
ふたりが食べる間、フェーレンは黙って囲炉裏の火を見つめていた。アトゥリナはその横顔に、うっすらと白い傷痕があるのに気がついた。
(あちこち放浪してきたんだろうな。デニスにいたことも……)
「あ!」
いきなり気付いて声を上げる。ビードとフェーレンが驚いて振り向いた。アトゥリナは空になった椀を置き、フェーレンに向かって身を乗り出した。
「デニスにいたことがある、とおっしゃいましたね。それなら、ここからデニスに戻る方法もご存じありませんか。あなたはどうやってここまで来られたんです?」
「あー……」
フェーレンは目をそらし、傷痕のある右頬をぽりぽりと掻いた。腕組みし、考え込むことしばし。彼は気の毒そうに眉を寄せて言った。
「悪いな。デニスにいたのは随分昔で、あちこちふらふらしながら回り道してここまで来たんで、手っ取り早く戻る方法ってのは知らねえんだ。ただ、おまえがどうしても帰るってんなら、俺が辿ってきた道を逆に戻ればいい。長旅になるがね」
「構いません。どうしたら戻れますか」
「急かすなよ。さっき描いた地図は覚えてるか? ここから大陸をずーっと南下して、半島の先っぽまで行くんだよ。あの辺は香料半島って呼ばれてるんだが、デニス人の言うところの『海の民』の故郷なんだ。連中はいい船を持ってるからな。デニス本土までは無理でも、途中の島までは運んでくれるだろう。そこから乗り継いでいきゃ、帰りつける」
フェーレンは言って、海岸線をなぞるように、ぐるりと宙に大きな弧を描いた。アトゥリナはほっとして、ビードと顔を見合わせる。だがフェーレンの話には続きがあった。
「――と、口で言うのは簡単だがな。おまえ、金は持ってるのか?」
「えっ」
「訊くまでもないか……。金目の物っつったら、せいぜいその銀の額飾りぐらいだな。何か路銀を稼げるような芸でもなきゃ、花を売るしかなくなるぞ」
「花って……あ」
一瞬きょとんとしたものの、すぐに意味を察してアトゥリナは顔をしかめた。売春だ。身ひとつではじめられる、世界でもっとも古い商売。彼はごほんと咳払いして、芸ならあります、と答えた。
「この国では、広場や道端で歌を披露して小銭を投げてもらう商いは、勝手に行っても構わないものですか」
「ああ。そりゃ、大概どこでも歓迎されるよ。なんだおまえ、歌えるのか」
「はい」
アトゥリナはうなずくと、櫃から五弦琴を出してきた。フェーレンが、ほお、と感嘆の声を漏らす。アトゥリナは彼の態度に含まれる温かい感情に、目をしばたたいた。
「もしかして、あなたも?」
「ああ、まあな。旅の途中で俺も時々、歌って小銭を稼いだよ。とりあえず、おまえの得意なやつを一曲聞かせてくれ。食ったばかりだし、無理しなくてもいいから適当にな」
アトゥリナは笑ってうなずき、弦を弾いて調律した。フェーレンは懐かしそうに、その音に耳を傾けている。アトゥリナはいくつかの旋律を試し、それからふっと息を吐いて気分を落ち着かせると、緩やかな調べを奏で始めた。
夏至の金枝、冬至の銀枝
聖なる力に守られし偉大なる帝国
されど黄昏を迎えるは世の習い
海より寄せ来たるは狼の群れ
輝ける都も灰となり
月は廃墟を照らすばかり……
帝国再建の叙事詩の冒頭だ。赤い目の邪悪な魔術師が、分裂した国々を牛耳り、王の命を狙う。それを察知した王太子エンリルが、父王を救うべく立ち向かう。旋律は速まり、敗退の悲哀、陰謀や戦の緊張、勝利の明るさを、次々に紡いでゆく。
天より遣わされしは『偉大なる青き魔術師』
邪悪な魔術を退けて 救いの光を与えたもう……
王太子がラウシールと共に魔物を倒したところまで歌うと、アトゥリナは指を止めた。フェーレンは何とも言い難い、奇妙な表情になっている。不安になって、アトゥリナはおずおずと問うた。
「駄目ですか」
「いやぁ……」
フェーレンは苦笑いで頭を掻き、ゆるゆると首を振った。面白がっているような風情もある。ややあって彼は、ふうっとため息をついた。
「悪かないが、長すぎる。それに、曲調も歌詞も全体的に……なんてぇか、真面目なんでな。広場や道端で小銭稼ぎするにゃ向かないだろうよ。その歌は、偉いさんの家に招かれた時にでも、とっときな」
「……そうですか」
アトゥリナはしゅんと萎れる。フェーレンはそれをつくづくと眺め、ふむと唸った。
「クソ長い建国叙事詩を歌えるってことは、おまえ、皇族の語り部だな。違うか? 俗謡なんか一曲も知らんだろう」
「ご明察の通りです。あまり問題のない曲なら、少しは世間の歌も知っていますが」
「酒場で酔っ払いどもが盛り上がる類の歌なんざ、高貴なお口が穢れるってわけかい」
フェーレンは皮肉ったが、口調に悪意はなかった。アトゥリナも苦笑し、うなずく。
「皇族だからって、汚い言葉を思い浮かべることさえない、というわけではないんですけどね。私だって、過去の偉人のことばかり歌っているのは……苦痛ではありませんが、たまには違うものを歌いたくなります」
ピン、と弦を弾く。語り部としての己に満足できていたら、魔術を教わってみたり、いきなり旅に出てみたりすることもなかったろう。だが、そうした変化への渇望が、もっと何かができるはずだという夢想が、これほどの代償を要するとは思ってもみなかった。
物思いに沈んだアトゥリナの手から、フェーレンがひょいと五弦琴を奪い取った。
「しけた面すんな。ひとつ陽気なやつを教えてやるよ。この辺の連中にはよく受けるぞ。酒場で歌えば客が大合唱になって、おまえの声なんざ誰も聞きゃしねえだろうが、その日の飯ぐらいは奢ってもらえること間違いなしだ」
フェーレンは冗談めかして言うと、明るい和音をひとつ鳴らした。
続いて飛び出したのは、予想だにしない、朗々とよく通る豊かな歌声だった。アトゥリナは目を丸くし、ビードも珍しく呆気に取られた顔をする。フェーレンは二人の視線を気にかけず、楽しげに異国の歌を続けた。伴奏は、陽気さと騒々しさの境を綱渡りしているが、そこは弾き手の伎倆で決して踏み外すことがない。気がつくとアトゥリナは、歌詞の意味もわからないのに愉快になって、笑いながら手拍子を打っていた。
曲そのものは短いらしく、フェーレンは三度ほど同じ節を繰り返して、じゃらん、と和音で締めくくった。
「明るい曲ですね! 確かにこれなら、喜ばれそうです。あなたほど上手には歌えないでしょうけど」
「持ち上げても何も出ねえぞ」フェーレンは笑って五弦琴を返す。「あと、女が多い場所ではやめとけよ。何が飛んでくるか知れねえからな」
「……どんな意味の歌なんですか?」
「男が次々、あの手この手で色んな女をお試しするってやつさ。後で、女房連中に受ける曲も教えてやるよ。情けない亭主をあげつらう歌だ。昔っからこの手の歌は廃れないな。さて、まずは最初の和音からだ」
フェーレンがアトゥリナに教授している間、ビードは食器を片付け、ふいと外へ出て行った。新しい曲に夢中のアトゥリナは、それに気付かなかった。
彼が周囲の様子に注意を戻したのは、小屋の中が薄暗くなって、弦を押さえる指が見えにくくなってきた頃だった。
アトゥリナの気がそれたので、フェーレンもふと顔を上げて窓の外を見やる。
「うっかり熱中しちまったな。あの姉ちゃんはどこだ?」
「ここです」
返事があるとは思っていなかったので、フェーレンとアトゥリナは揃ってびくっとなった。振り返ると、戸口でビードが籠を下ろすところだった。
「なんだ?」
胡散くさげに問いながら、フェーレンが土間に下りる。ビードは短く答えた。
「あなたの夕食を頂いてしまいましたので」
見ると、籠には様々な果実や根菜らしきものが入っていた。眉を寄せたフェーレンに、ビードは淡々と説明する。
「人の手が入っていない様子の場所で、恐らく食べられると判断したものを採ってきました。不都合があったでしょうか」
「いや、ねえけどよ。この辺りには村の連中も滅多に来ねえし……よく見つけられたな」
「食べ物を探すのは慣れておりますので」
「そりゃ心強いこった。よし、じゃあこいつを晩飯にするか!」