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海を渡る風  作者: 風羽洸海
一章 近海
2/24

遭難


 どのくらい経ったか、殿下、と肩に触れられて気がつくと、揺れはかなりおさまっていた。ビードもハイラムも全身ずぶ濡れで、心配そうにアトゥリナの顔を覗きこんでいる。

「大丈夫ですか、殿下」

「う……なんとか。私よりも、船の状態は? いよいよ沈むから、一緒に最期を迎えに来たのかい」

「いいえ」ビードがほっと息をついた。「最悪のところは脱したようです。沈みはしないと船長が請け合いました」

「そうか。良かった」

 アトゥリナはのろのろと身を起こし、顔をこすって笑みを作った。こちらも最悪のところは脱したようだ。頭痛は靄の向こうへ遠ざかり、吐き気もおさまっている。

「私もどうにか、沈没は避けられたようだ」

 だが二人の護衛はにこりともせず、むしろ申し訳なさそうに眉をひそめた。アトゥリナが悪い知らせを予期して笑みを消すと、ハイラムが暗い声で告げた。

「沈むよりまずいかもしれません」

「……というと?」

「かなり流されたらしいのです。今はまだ雲が多いし、海も鎮まっていないから、はっきりとは言えないそうですが、少なくとも予定の航路を大きく外れたのは確かだと」

「目印の岩がどこにも見えない、とのことでした」

 ハイラムの説明にビードが補足する。アトゥリナは「なんだ」と安堵の息をついた。

「そのぐらいなら、心配は要らないよ。私だって嵐が去れば、帆に風を呼ぶぐらいはできる。ともかく西へ向かえば陸地に着くのはわかっているんだから、何とかなるよ」

「そうですか」

 良かった、とハイラムが笑顔になる。ビードも緊張を和らげてうなずいた。

 ――その、直後。

 世界が真っ白に弾け、天地の裂けるが如き轟音が耳を聾した。

 アトゥリナは息を詰めて身を竦ませたまま、見えない力に打ち倒されて床に転がる。何が起こったのかまったく理解できない内に、大きく船が揺れた。

 メリメリバリバリ、不吉な音が頭上で響く。視力が戻ると、ビードとハイラムも倒れていた。三人は蒼白な顔を見合わせ、凍りつく。

 ドォン、と、ひときわ大きな振動。幾人もの絶叫が頭上で響き、足音が入り乱れる。

(帆柱が折れたんだ)

 アトゥリナは痺れた感覚のまま、どうにか身を起こそうとしたが、また別の揺れが襲いかかり、中腰になったまま後ろへと転がってしまった。

「アトゥリナ様!」

 ビードが叫んで、咄嗟にこちらへ手を伸ばした。

 いまや事態は明白だった。雷が帆柱に落ち、船は引き裂かれつつあるのだ。

(それなのに、何もできない)

 船室の壁にしこたま頭をぶつけ、アトゥリナは目の前に赤や緑の輪を飛ばしながら、必死で辺りを見回した。せめて何かに掴まっていなければ、船と一緒に沈んでしまう。

 衣服や五弦琴を収めた櫃のところへ這いずっていこうとした途端、床が傾いた。

「うわ……っ」

 かすれた悲鳴が喉をこすった。室内にあった諸々の物と一緒に、彼は別の壁際へずり落ちてゆく。床にはもう水が溜まっていた。

「助けてくれ!」

 自分が叫んだのかと思ったが、情けない声の主はハイラムだった。一拍置いてそれに気付き、アトゥリナはこんな時だというのに驚いてしまった。まさか彼があんな風に泣きそうな声を出そうとは。いつでも自信満々だったのに。

 余計なことを考えていたのは間違いだった。あっという間に水は膝から腰まで上がり、濡れた衣服が絡みついて身動きが取れなくなる。船がどんどん傾いて、足が床につかなくなった。

「ビード……!」

 アトゥリナはぷかぷか浮いている櫃にすがりつき、従者の姿を探す。

 そこへ、新たな衝撃が襲った。壁が破れ、一気に海水が押し寄せる。アトゥリナはまともに波をかぶり、水に沈んだ。

 一人ぼっちは嫌だ――その思いが、心の片隅で最後の火花のように瞬き、消えた。



 じりじりと顔を焦がす陽射しの痛みで、ふと意識を取り戻す。途端に、眩しい照り返しに目を射られて顔をしかめた。

 嵐はどこかへ去っていた。頭上には青空が広がり、見渡す限り、紺碧の穏やかな海原が続いている。アトゥリナは茫然と身を起こした。体中、塩水に浸かってべとべとだ。喉はからからだし、頭も熱にやられてくらくらする。真水が欲しかった。

 いつの間に這い上がったのか、彼は船の残骸らしき大きな板切れに乗っていた。しがみついていた櫃がひとつだけ、横で所在なさげにしている。

(誰かが助けてくれたんだ)

 ぼんやりと考えながら辺りを見回していると、じきにばしゃばしゃと水音がした。振り向いたアトゥリナは、板の上に見慣れた服が置かれているのを見付けた。こちらへ近付いてくる樽にも。彼が目を丸くしている間に、樽は板のすぐそばまでやって来た。その陰から馴染みの顔が現れる。アトゥリナは安堵のあまり力が抜けて、倒れこみそうになった。

「ビード!」

 それだけしか言えなかった彼に、ビードは相変わらずの無表情で応じた。

「良かった、お目覚めでしたら手を貸して下さい。水の樽です」

 実際的な言葉で我に返り、慌ててアトゥリナは膝立ちになると、ぐらぐら揺れる板の上を縁まで這っていく。諸共に沈みはしないかとひやひやしながら、どうにかを樽を回収すると、アトゥリナはほっと息をついて座り込んだ。

 海から上がってきたビードは裸だったが、それを意識する様子はまったくない。アトゥリナも数回瞬きして目をそらしたものの、あえて言葉はかけなかった。

 ビードは体についた水を手で拭い、乾いた服を身に着けながら言った。

「役に立つものはないか、近くを探してきましたが、これしか見付かりませんでした。アトゥリナ様、申し訳ありませんが、水を飲んで気分が良くなられたら、陸地へ『跳躍』できるか試して頂けませんか」

「ビード……今度は私が君を助ける番だ、と言いたいところだけれど……『跳躍』は無理だよ」

 アトゥリナは沈んだ口調で答え、首を振った。そして、改めてじっくりと四方の海を見渡す。波間に木切れやロープが浮いているほかは、どこにも、何も、ない。どれほど水平線に目を凝らしても、見えるのは白い雲だけだ。陸地どころか、小さな岩の影さえない。

「見えない場所を目指して『跳躍』するのは難しいし、仮に水平線より向こうまで跳べたとしても、海の真ん中に落ちたら、続けて魔術を使うのは無理だ。この板切れにも戻れない。ラウシール様なら、印をつけた石を人に持たせておいて、国から国へ簡単に跳んだりもしたらしいけれど、そんな備えもしていないし」

「高地の学府には、専用の陣が描かれていると聞きましたが」

「転移陣かい? 転移するなら、こちら側にも陣を描かなきゃいけないんだ。この板の上に……。私一人で完全な陣を描く自信はないし、何より高地までは遠すぎる。失敗したら時と空間の『狭間』に呑まれておしまいだ。もっとも、このままここで無理だ無理だと言っていても、干からびてやっぱりおしまいだけれどね。少し考えをまとめさせておくれ」

 頭痛を堪えてアトゥリナが唸ると、ビードは黙ってうなずき、水の樽を開けた。アトゥリナは渇きを癒すと、無意識にまた周囲を見回していた。

「……誰もいないな」

 彼がつぶやくと、ビードは「はい」とうなずき、眉を寄せて低く唸った。

「不甲斐ない」

「え?」

「お守りする、などと大言しておきながら、いざという時にアトゥリナ様をお助けできない、それどころかたやすく引き離されて姿も見えないとは!」

 彼女が誰に対して憤慨しているのかを理解すると、アトゥリナはふきだしてしまった。ハイラムのことだ。相手が嵐では剣も槍も役に立たぬし、近くに浮かび上がるのも偶然に頼らねばどうにもなるまい。それを不甲斐ないと言われては、彼も不本意だろう。

 それでもビードは本気で怒っているらしい。アトゥリナは苦笑で彼女をなだめた。

「仕方ないよ。ハイラムは、私と君ほど強い絆で結ばれてはいないのだから」

 しばしビードは沈黙し、アトゥリナをじっと見つめると、真顔のまま納得した。

「それなら確かに、仕方ありませんね」

「うん」

 第三者がいれば何かこの主従に一言物申すところだが、幸か不幸か二人きり。魚の影すらないときてはどうしようもない。

 ビードは納得するともうハイラムなどどうでも良くなったらしく、櫃を開けて中身を検めた。念のため荷物にはすべて防水の呪文をかけてあったので、服も五弦琴も無事だ。こっそりアトゥリナが隠していた干しナツメも見付かった。

「先見の明がおありですね」

 ナツメを指して言われ、アトゥリナは首を竦める。何か気の利いた冗談で応じたかったが、頭がぼんやりして考えがまとまらない。陽射しは灼けつくように熱く、てのひらはじっとり汗ばんでいるのに、背筋が寒くなってきた。

「……気持ち悪い」

 どうにかそれだけつぶやくと、我が身を抱き締めてうずくまる。ビードが急いでそばに寄り、そっと彼を横たわらせた。櫃から出した服を丸めて枕代わりにし、陽射しを遮るため、頭にもふわりと上着を被せる。

 アトゥリナは吐き気と戦いながら、少しでも楽な姿勢を探してごそごそし続けた。

「今の内に謝っておくよ、ビード。こんなことに巻き込んですまなかったね」

「私はアトゥリナ様と共にあります。巻き込まれたわけではありません」

「うん……そうだった。だから、二人分の安全を考えなければならなかったのに、海がどういうものか、まるで知らなかったんだ。本当に、ごめん」

「謝罪など必要ありません。ですが教訓は次の機会に生かされますように」

「次、か」

 ふっと笑ったアトゥリナに、ビードは穏やかな声をかける。

「それが異世であっても、お供いたしますから」

「……うん」

 かろうじて答え、アトゥリナは手足を腹に引き寄せて丸まった。こめかみから汗が滴って目に入る。喘ぎながら彼は、何とかしなければと、そればかり考えていた。

 風を呼んでも、帆がない板切れでは役に立たない。日が沈むのを待って西の方角を確かめたら、短距離の『跳躍』を試してみよう。それか、海の水に流れをつけて……いや、そんな大技、とても無理だ……やっぱり『跳躍』を、この板ごと……。

(くそっ)

 頭の中で己を蹴り飛ばす。皇族が口にすべきでないとたしなめられる類の、ありとあらゆる罵詈雑言を、声に出さずに並べ立てた。

(どうして私はこんなにひ弱なんだ、ビードはしゃんとしているのに。弱くてもせめて、魔術がちゃんと使えたら役に立つものを、このざまだなんて)

 やはり高地の学府や帝都の奥宮に、大人しく引きこもっているべきだったのだろうか。日がな一日伝承を語り、過去の偉人の言葉を拾い集めては記し、自らは何を生み出すこともなく静かに朽ちるのを待つのが、分相応というものだったろうか。

(悔しい)

 奥歯を噛みしめ、涙がこぼれそうになるのを堪える。ただでさえ汗で水分を失っているのに、この上泣いたりしては命を縮めるだけだ。

 アトゥリナは強いて気を静め、自分の呼吸にだけ集中した。雑念を払い、心を落ち着かせて目を閉じると、ゆっくりと『力』に対して精神を開く。世界に遍在するありとあらゆる『力』が、輝く色彩の奔流となって駆け巡るのが見えた。魔術とは、その中から必要な流れをほんの一筋、己の精神へと引き入れて、目的を果たしてもらう技なのだ。

 ただ、今のアトゥリナは力の流れを素通りさせているだけだった。まだ何かの術を行えるほどには集中力が続かないが、こうしていれば苦痛を和らげることができる。とろとろまどろんでいる内に、気付くと風が涼しくなっていた。

 精神を閉ざし、むくりと起き上がる。まだ頭はふらふらだし、うっかりすると喉元まで酸っぱいものが込み上げそうになるが、なんとか自力で上体を支えられた。

 辺りは一面、黄金色に輝いていた。

 沈み行く太陽が惜しげもなく世界に注ぐ光を、海はすべてその身に溶かし込んで受け止めている。アトゥリナはぼんやりと、あの黄金はどこへいくのだろう、海の底には太古の昔から降り注いだ光がひっそりと堆積しているのではなかろうか、などと考えた。

 金色に染まる世界を、ビードの影が黒く切り取っている。アトゥリナは用心深くそちらへ這っていった。

「ビード」

 ささやくと、座った姿勢のままうつらうつらしていたビードが、はっと顔を上げた。彼女が申し訳ないと謝る前に、アトゥリナは口を開いた。

「万全の状態とは言えないけれど、ともかく『跳躍』を試してみるよ。いいかい?」

「はい」

 疑問や不安の気配すら見せず、ビードは深くうなずく。アトゥリナは彼女の背中にもたれかかって座り、呼吸を整えた。

「君と、この板も一緒に、ともかく西へ向かってできるだけ遠くへ跳ぶからね。もし失敗したら……異世でご先祖様に怒られないように、一緒に言い訳を考えておくれ」

「はい」

 またしても短い返事。アトゥリナは微笑み、目を閉じる。行き先が何処だろうと――相変わらず海の真ん中だろうと、あるいは異世だろうと、少なくとも一人ぼっちではない。

(でも願わくば、陸地に着きますように)

 深く息を吸って精神を開く。輝く『力』が心身を満たすのを感じながら、意識の中で、必要な力の流れやその方向付けを定義する呪文を組み立てる。

(よし。それから……)

 呪文の作用する範囲に精神の鋲を留めてゆく。ビード、板切れ、水の樽と櫃。結界を記す道具が何もないので、完全に精神だけの作業だ。集中が乱れたら失敗する。

(これでいい)

 息苦しさが募り、精神の目に映る世界が揺らいだ。肉体の痛みが響いているのだ。アトゥリナは強いてそれを退け、組み立てた呪文が崩れていないか確かめた。既に数箇所の結合が緩みはじめている。

(あと少し、もってくれ!)

 祈りながら口を開き、声に出して呪文を解放する。だが、焦ったのがまずかった。

「セラシュ・エルグ……」

 ほんの数語を口にしただけで、舌がもつれてつっかえる。即座に呪文が弾け、宿った力の一部を振り撒きながら飛び散った。アトゥリナは反射的にそれらを捕まえ、無理やり引き寄せる。

「……エラ・ロクタナ……ヴェドラ!」

 かすれ声で叫ぶと同時に、『力』が呪文の制約を振り切って暴走した。

 輝く色彩の奔流がどっと押し寄せ、アトゥリナの意識を呑み込み、押し流す。かろうじて視界の片隅にとらえていたビードの姿が、あっという間に遥か彼方へ飛び去った。

「うわっ……ぁ、あああ!」

 声を上げたことを自覚しないまま、彼は力の渦に巻き込まれ――



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