船出
一章 近海
高く青く晴れ渡った空のもと、海は陽光のきらめきを浮かべて優しく揺れる。風は爽やかに駆け抜け、荒々しくはない。旅立ちにはもってこいの日和だ。
「急げよ! 落とすな、しっかり持て!」
荷を積み込む水夫の声、ニャアニャア鳴くウミネコ、桟橋を洗う波のつぶやき。
それらを聞くともなく聞きながら、アトゥリナは気持ち良さげに水平線を眺めていた。
アトゥリナ=カゼス=イ・アフシャール。デニス帝国皇帝の血筋であり、帝国創建の叙事詩をその頭にすべておさめた語り部、そしてささやかな魔術の使い手でもある。皇家特有の輝く金髪と深い青褐色の瞳を持つ彼は、優しげな顔立ちと華奢な体格のために少女と間違えそうにも見える。だが口を開けば、十七歳の少年らしい闊達な声が飛び出した。
「ビード! ご覧、イルカが見送りに来てくれたようだよ」
明るく屈託のない口調は無邪気だが、声に秘められた力強さが高貴な生まれを物語る。
呼ばれて傍らにやってきたのは、黒髪の若い娘だった。柳の意である名を持ちながら、見た目にも態度にも、柔らかなところはまるでない。背筋をまっすぐに伸ばして歩み寄ると、生まれてこの方笑ったことなどなさそうな顔のまま、平坦な口調で一言。
「あまり端に近付かれませんように」
「落ちやしないよ」
アトゥリナが苦笑したが、ビードはにこりともしなかった。無言、無愛想、無表情。だが無視まではせず、彼女は目蔭をさして、アトゥリナが指差すものを見やった。
「ね、あれ、イルカだろう?」
「……私は海の生き物に詳しくありません」
「うん、私もだ」アトゥリナはあっけらかんと言った。「でもきっとイルカだよ。この旅を守ってくれると思えば心強いじゃないか」
ね、と笑顔で同意を求められ、ビードはなんとも言い難い顔になったものの、黙ってこくりとうなずいた。強いて反論する理由もないし、幸運のしるしは多い方が良い。なんと言っても、これから向かうのは帝国の領土を出て遙か北、まだ国らしい国のない、蛮族の土地なのだ。二人の会話を耳にして、見送りの親族らが心配そうに眉をひそめた。
「本当に、何事もなく帰ってきてくれたら良いのですが」
「うむ。北の夏は短いからな、長居はせず帰途につくよう念を押しておかねば」
「どうしてヒスティアに行くなどと決めたのでしょうね? もっと帝国に近い地方なら、安全なのに……」
ささやき交わされる言葉が、潮風に乗ってアトゥリナの耳にも届く。だが彼はそれを右から左へ素通りさせて、ただ機嫌良く、空と海を眺めていた。
そこへ朗らかな声が割り込んで、親族らの会話を遮った。
「そう暗い顔をなさいますな、このハイラムが道中恙無くアトゥリナ様をお守りいたしますゆえ、皆様方はアトゥリナ様の土産話を楽しみにお待ち下され」
明朗で自信に溢れた声の主は、黒髪の青年だった。日焼けした褐色の肌に、無駄なく引き締まった筋肉質の体躯、腰に佩いた長剣――明らかに武人とわかる。ひそひそ話をしていた女が、ほっとしたように「重々頼みますよ」と言うと、ハイラムは胸を反らせた。
「お任せあれ。かつて大帝の片翼を輩出したアサドラー家の一員として、先祖に恥じぬよう努める所存にございます」
誉れと気負いでそっくり返って倒れそうな青年を、しかし不安に思う者はいなかった。実際に彼の武術の腕前は、剣に槍に弓、どれを取っても帝国屈指なのだ。
だが守られる当の本人は、ビードと顔を見合わせて笑いを堪えていた。
「張り切ってるねぇ」
こそっとささやいたアトゥリナに、ビードは醒めた口調で応じる。
「ハイラム殿も、黙っていれば尚武の名門らしく見えなくもないのですが」
「まあ、家系をどうこう言うのはよしておこう。私だって、偉大なるご先祖様の直系にしては、随分と貧弱なのだからね」
「アトゥリナ様はご立派です」
途端にビードが真顔で言った。慰めでも追従でもない、いたって本気の口調だ。アトゥリナは苦笑するしかなかった。
「己を憐れんでも嫌悪してもいないよ。私が馬も弓もろくに扱えないのは、ただ、事実なのだから。でも、ありがとう」
ビードはまだ何か言いたそうだったが、結局、ただ首肯した。アトゥリナは気にした風もなく、さて、と伸びをしてくるりと海に背を向けた。
「荷物の積み込みも終わったようだし、そろそろ私達も乗船しよう。ぐずぐずしていたら夏が終わってしまう。ハイラム! 行くよ!」
呼ばれて、青年は高貴の方々に頭を下げてから、渡し板の傍らに駆けつけた。手を貸そうとした彼を、アトゥリナはやんわり退け、危なげなく船に乗り込んだ。
甲板では水夫達が忙しく動き回り、うかうかしていると突き飛ばされそうだった。アトゥリナの背後にビードとハイラムが立ち、そうした事故から主を守る。アトゥリナは船縁に寄りかかって、見送りの人々に手を振った。さすがに皇帝その人はいないが、ここティリス州の総督や、魔術師達の長、その他大勢の貴人が港につめかけている。
「大袈裟にしなくて良いと言ったのにな」
アトゥリナが小声でぼやくと、ハイラムが「皆さんお暇なんでしょう」とおどけ、ビードは真面目くさったまま、「アトゥリナ様のご人徳です」と応じた。
そんなやりとりの間にも、帆が広げられ、ゆっくりと船は桟橋を離れてゆく。
やがて港が小さくなり、出帆の慌しさも一段落すると、小姓がやってきて三人を船室に案内した。ただでさえそう広くはない船室に、今は荷物の櫃が場所を取って、三人入るのがやっとだ。長身のハイラムは窮屈そうに身を屈め、絨毯に胡坐をかいた。
小姓が運んできた茶を飲み、ハイラムは「今更ですが」と切り出した。
「なぜヒスティアなんです? ノスティリアなら国境を接しているわけだし、エンリル帝の時代から既に交流があります。アトゥリナ様の歌も歓迎されるでしょうに」
「ヒスティアの方が涼しいだろうと思ってね」
アトゥリナはクッションに寄りかかって、とぼけた答えを返した。ハイラムはまだ納得いかない顔をして続ける。
「そこまで行かずとも充分涼しいですよ。だいたい、殿下は年の大半を高地でお過ごしなのですから、避暑に行く必要などありますまい」
冗談が通じなかったのか、それともわかっていて逃げ道をふさいでいるのか。判じかねてアトゥリナは苦笑した。
「ああハイラム、もちろん私は避暑に行くわけではないよ。同じ行くなら涼しい土地に、と考えたことは認めるけれどね。帝国に近い土地でなら、もうとっくにエンリル帝のことも、デニスに魔術をもたらしたラウシール様のことも、人々は聞き飽きているだろう。私の歌では新鮮味がないよ。それに、魔術の技は便利なものだから、入門したいという者はこちらがあえて勧誘せずとも現れるだろう。私はもう少し先へ行って、まだ何も知らない人々にラウシール様のことを教え広めたいんだ」
夢見るように、アトゥリナは遠い目をした。
――かつて、彼らの国は偉大な帝国であった。『海の民』の侵略によって滅亡、およそ二十年にわたり四国に分裂した後、一番貧しかったティリス王国から立った青年が、再び統一を成し遂げたのである。その青年エンリルを助けたのが、どこからともなく現れた謎の魔術師だった。それまで呪術はあれども魔術なるものは存在しなかったこの国に、系統的で明瞭な理論と技とを伝えてくれたのだ。のみならず彼は、魔術を行う者の心得、とでも言うべきものを、特に大切にした。
「変な噂や間違った認識が、先に広まってしまっては困るからね。魔術師になればやりたい放題、盗んでも殺しても捕まらないし罰せられない、なんて夢見られたら大変だ」
アトゥリナは言って、茶碗に口をつけた。ハイラムは曖昧な相槌を打つ。
「はあ。それはまあ、そうですが」
「ハイラム殿は、アトゥリナ様のご決断に不満か」
ビードが静かに言い、冷ややかなまなざしをくれる。ハイラムは顔をしかめた。
「そうではない! ただ俺は、殿下の身を案じておるのだ」
「護衛の任が重荷であると?」
「馬鹿を申せ! このハイラム、たとえ地の果てに棲む怪物が相手でも引けは取らぬ。行く先に何がいようとも、俺がいる限り殿下には指一本触れさせるものか!」
「なら、案ずる必要はあるまい」
「む……」
やり込められてハイラムが黙ると、アトゥリナが楽しげに笑った。
「頼もしいね。帝国で一番腕の立つ護衛を二人も連れ出してしまったから、きっと王宮では今頃、穴埋めに大わらわだろうな」
むろんこれも冗談である。ハイラムは確かに腕は立つが、より人品優れた兄弟が軍務に就いており、どちらかというと彼は、士官にするには難があるから仕方なく護衛の任を与えられた――それもあまり位が高くない貴人の――というのが実情だ。ただし本人は、そうとは思っていない。幸せなことに。
「勿体ないお言葉です」
満足げにそう答えて、彼はビードに軽侮の一瞥をくれた。アトゥリナもビードもそれに気付いたが、いつもの事とて黙殺した。ハイラムは彼女のことを、召使に毛が生えたぐらいにしか考えていないのだ。アトゥリナは彼の考えを改めさせる代わりに、ゆらゆら揺れている茶の水面を見ながら言った。
「おかげで私は何も怖くない、と言いたいところだけれど……なんだか、だんだん気持ち悪くなってきた。これが船酔いというものかな」
「それはいけませんな」
ハイラムは深刻ぶって眉を寄せ、アトゥリナのまわりにクッションを集めた。
「横になられてはいかがです。俺はちょっと外に出て、誰か良い薬を持っていないか訊いてきましょう」
言うが早いか立ち上がる。直後、天井に頭をぶつけて顔をしかめ、彼は唸りながら出て行った。
「……やれやれ」
ビードが小さくつぶやくと、アトゥリナは笑いながら横たわった。
「大目に見てやりなよ。彼がいなければ、父上も母上も、この旅を認めてはくれなかっただろうからね。……ああ、横になったら少し楽だ。ビードは平気なのかい」
「多少の不快感はありますが、耐えられないほどではありません。ご心配なく」
「そうか、羨ましいな。すまない、私は眠るよ」
早くも瞼を閉じながら、アトゥリナはむにゃむにゃ言った。ビードは黙って、主の肩に毛布をかけた。
アトゥリナが船酔いでうつらうつらしてばかりいる間にも、船は着実に北へと進んでいた。海の色が暗い濃紺に変わり、風が馴染みのない匂いを運んでくる。空の機嫌も北方らしくなり、晴天よりも、陰気で危険な曇天の日が増えてきた。
乾燥した土地に生まれ育ったアトゥリナ達にしてみれば、雨は天の恵みなのだが、曇天続きの後で凶暴な黒雲に遭遇した時には、その基本概念を修正せざるを得なかった。
「ううぅぅ……」
今までとは比べ物にならない激しい揺れに翻弄され、アトゥリナは床に張りつく海草のようなありさまで、意味不明の呻きを上げ続けていた。船体のギシギシ軋む音が大きくなり、ただでさえ青いアトゥリナの顔色が、土気色にまでなる。
「壊れやしない、だろうね」
青息吐息でそう言ったアトゥリナに、ビードは険しい顔で「わかりません」とだけ答えた。ハイラムまで、いつもの楽観的な態度をひっこめている。三人とも海に出たのはこれが初めてなのだ。どの程度までが安全で、どこからが危険なのか、判断できなかった。
船員達は三人を船室に追い込んだ後、誰も顔を出していない。船を守るのに必死で、役立たずの客にかまけている余裕はないのだろう。
滝のような水音が世界を塗りこめる。天井に吊るされたランプが大きく揺れて、炎が身を竦めた。同時に水夫が扉を開け、転がり込んできた。驚く三人に前置きもなく叫ぶ。
「水を汲み出すのを手伝え!」
ハイラムとビードは顔を見合わせ、アトゥリナに懸念のまなざしを向けたものの、すぐに外へ駆け出した。主の身を守るのも大事だが、船が沈めばそれどころではない。
二人が出て行った後、水夫は扉を閉めかけて、はっと思い出したように振り返った。
「殿下! 殿下は魔術も使えるんでしょう、嵐を鎮めちゃくれませんか!?」
「……ごめん、無理」
弱々しくそれだけ言い、アトゥリナは隅にある壺まで這いずっていくと、胃の中身を空けた。水夫が扉を叩きつけるように閉める。ちっ、と舌打ちが聞こえたのは、気のせいだったろうか。
(この騒がしさの中で、聞きたくない音だけよく聞こえるなんて、おかしなものだ)
立ち上がるだけの力もなく、アトゥリナはまたずるずる這って毛布のところへ戻った。
一人前の魔術師なら、天候を多少は操ることができる。だがそれも、主に陸上で、局所的かつ一時的に、ほんのわずか変えられるだけだ。砂漠の真ん中で大雪を降らせることはできないし、嵐を一瞬で晴天に変えることもできない。
しかも今のアトゥリナは魔術どころではない状態だ。精神の集中が不完全なまま『力』を呼び込めば、失敗するのは目に見えている。本人が精神崩壊を起こして廃人になるか、力が暴走して周辺にとんでもない被害をもたらしてしまうだろう。
(せめて、嵐を予知して、船を迂回させれば良かった)
船室でぐだぐだしておらず、たまには外に出て風や空を読んでいるべきだったのだ。今さら何を言っても手遅れだが。
(慈悲深きラウシール様、偉大なるエンリル大帝、どうか我々をお守りください)
せめてもと祈りながら、いつの間にかアトゥリナは意識を手放していた。