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06.あの日の愛は深く沈めて弔われる 3/3


 晩餐室を出て、兄の部屋へと向かう廊下をしばらく歩き続けたところで、不意に平衡感覚がなくなりよろけた。

 咄嗟に壁に手をつくが、途端に激痛が走り悲鳴が漏れそうになる。必死に噛み殺して平静を装い、ゆっくりと歩を進める。


 ……しっかりしないと。

 そういえば随分と長い間説教を受けていた。ドレスは大丈夫かしら?

 傍目にも分かるほどの暴行痕が残ってはいない?

 兄がそのような些末なことを気にするとは思えないけれど、本題に関係のないことで時間を使いたくはないわ。

 一度自室に戻って身支度を調えた方がよいのか――と考えていたら後ろから声をかけられた。


「どうした? ベアトリ――」


 兄の声だ。振り返ると、驚きと戸惑いを宿した顔が目に入った。


 このような表情を見るのは久しぶりだ。いや、兄の顔を見ること自体が久方ぶりかもしれない。

 私の様子はさぞかし酷いものであったのだろう。

 いつもなら嫌味や皮肉のひとつでも言ってくるのに、ただ怪我を気遣うような目をしている。


「また母上か……部屋に入れ。治療する」

「治療は結構です」


 体に活を入れて表情筋を引き締め、毅然とした態度を示す。

 私の言葉がよほど想定外だったのか、兄が訝しげに眉をひそめる。

 これ以上無駄に時間を使いたくはない。

 兄が追及してくる前に口を開いた。


「いや、そうもいかな――」

「時間がありません。父が話を進める前に次の策を講じたいのです。お部屋にお伺いしても?」

「……分かった」


 小さくため息を漏らすと、兄は頷いて扉を開けてくれた。

 兄に続いて部屋へと入る。ここへ来るのは久し振りだ。

 久方ぶり過ぎて初めて入る時のように緊張してしまう。


 私の部屋とは扉からして違う。

 磨き上げられた深いダークブラウンの木目に繊細な装飾の数々。

 ……私の部屋とは全然違う。調度品一つ取っても物の価値が違う。


 部屋の中央に置かれたソファには分厚い真紅の絨毯が敷かれ、猫足のローテーブルや白磁のカップボードが上品な雰囲気を醸し出す。

 優美な曲線を描く真っ白なコーヒーテーブルがこの部屋によく映えていた。


 私に割り当てられた部屋には一切存在しない高価な調度品の数々に、押し隠している劣等感が騒いで仕方がない。


 ……今はそんなことはどうでもよいことだわ。


「お父様からお話があった件ですが、私は断ろうと思っていて――」

「は?! あ、いや、え? ちょっと待て、断る? いや、それは……まあいいんだが、お前……あれだけロベルト殿下のことを追いかけ回していたのに……」


 断られるとは思ってもみなかったのだろう、珍しく兄の動揺が顔に出ている。

 確かに追いかけ回していた。

 兄に何度も窘められてきたけれど、それを無視し続けてきた。


「……目が覚めたんです」

「何?」

「兄様も仰っていたでしょう? あの方とは関わり合いになるべきではないと。恋人もいらっしゃることですし、これ以上近づけば災厄に触れることになる……と、思いますし……」


 断定的な物言いは控えた方がよいか。

 突っ込まれても賢明な返しをする自信もない。

 私の言葉に兄の顔が奇妙に歪む。懸念とも怒りともつかない表情。


「……なので、お父様を説得するのに協力をお願いしたいのですが……」

「お、おお……。いや、お前がそのつもりなら話は早い。権威主義は貴族の性といっても、第三王子は論外だ」


 不思議な顔を見せていた兄だったが、協力を要請すると即座に勢いを取り戻し首肯してくれた。


 貴族令嬢として、王族と縁戚になろうと野心を燃やすのは問題ないらしい。

 ただ、相手が悪すぎる……と兄は考えているのだろう。その推論は見事に当たっているわけだけれど。


「お前の説得もしなければと思っていたが……その必要は無さそうで安心したよ」


 心底安堵したという表情を浮かべる兄を見ていたせいか、こちらまで心が安らいでくる……ような気がする。

 兄の言葉を静かに聞くのは何年振りかしら。

 思い出されるのは常に眉間にしわを寄せて怒っている表情か、説教するときの渋い顔ばかり。

 まともに言葉を交わすこと自体が稀だった。


 兄がこんなことを考えていたなんて知らなかった。

 ……知るべきだったのに。

 知らなかったから、あんな未来を辿ってしまった。

 もっと兄妹らしく話をしたり、一緒に過ごしたりするべきだった。


 そうしていれば、あのような昏く冷たい牢獄に――……。




「しかし、父の説得にはもう少し時間が必要だ。時間を稼ぐにも王家の横槍もあるかもしれないからな……」


 腕を組み顎に手を当て考え込んでいた兄だが、やがて考えをまとめたらしい顔で口を開いた。


「西の国境向こうにある()()()()を知っているか?」

「……きな臭い場所ですよね?」


 ()()()()()()()()()()()()()()()が巣くう()()都市のことだろう。

 聖職者()()は統治能力もないくせに、やけに横柄な態度で周辺国を仕切りたがっては混沌をまき散らす。

 数年前も蛮族が暴れ、我が国に危害を及ぼそうとした為、陛下自ら兵を挙げる羽目になった。そんなことは、私でさえ知っている。


 そのような場所へ行けと?


 これを機に私を始末するつもりなのでは……。

 でもそれが家の為に一番よい方法だというのなら……兄がそう判断したのなら、それも――……。


「あの都市に住まう人々は蛮族などではないよ」


 私の中で燻る不安と疑惑の感情とは裏腹に、兄の顔は確信に満ちている。


「俺たちはそう思い込むように教育されて来たからな」


 自嘲気味な笑みを零す兄に、私の視線も自然と下がっていく。

 教育……そうだ、私はそう教えられた。兄様だって同じはずだ。

 教会は国を乱す邪悪な存在なのだと……だから耳を貸してはならないと……。


 だというのに、一体どこでそんな情報を入手したのか……考えられるのはグランドツアーか。

 兄が巡った国は知らないけれど、王家を否定するような知識を得たとなると友好国とは考えられない。

 まさか、国交がないどころか友好的ですらないような国へ聡明な兄が――……。


「逝去した()()の代わりを求めて国王陛下が攻め込んだというのが、本当のところだろう」

「ありえません! 陛下がそのようなこと――」

「周知の事実だ。知らないのはこの国の民くらいのものだよ」


 兄様は何を言っているの? いくらなんでもそんなこと……。


「今すぐに信じろと言うのは難しいかもしれないが……城塞都市へ避難する以上、踏まえておくべき事実だ」


 ――認めるべき現実、か。

 それを無視し続けてきた結果を、私は知っている。

 兄が私の希望を叶えようとしているのは、きっと本心でのこと。


 だから、今は……兄を信じる。


「……分かりました」



 それにしても、教会都市には今も()()が存在しているのだろうか?

 ()()()()で処刑された私にとっては、お近づきになりたくない存在ではある。


「聖女を神の代理と崇める城塞都市にとっては、我らが王家こそが蛮族だろうさ」

「……不遜では?」

「そう言うな。陛下が指揮する常備軍を返り討ちにする連中だ。所作さえ誤らなければ、これ以上安全な場所はない」


 向けられる兄の言葉の端々から、家族に対する愛情のようなものを感じる気がする。

 それはとても嬉しいのだけれど……主君を否定するような物言いをしている自覚はあるのかしら?

 王命から逃げようとしている私がどうこう言える立場ではないけれど。


 兄の言葉に私が頷くと、兄は本題とばかりに再び口を開いた。


「城塞都市は一部の人間から学園都市と呼ばれるほどに、教育制度の整った街だ。その街で過ごす日々は、きっとお前の人生を豊かにしてくれるだろう。……行けるか?」

「――はい! お願いします」


 即答した私に、兄は微かに笑んで頷いた。

 久々に見た兄の笑顔に、胸が熱くなるのを感じる。


「分かった。手配はこちらに任せてくれ。分かっていると思うが、このことは父上にはバレないようにしろよ。明日には出立できるよう準備をしておけ」

「明日?! 仮にも仮にも国境越えになるのに――」

「本当は今すぐ脱出させたいくらいだ。明日朝一から王家の使者が来たらどうする。書状を届けに既に来てるんだぞ」

「そ、そうですね……。分かりました。すぐに荷物をまとめておきます。お兄様、ご迷惑をおかけしてすみませんでした」

「気にしなくていい。俺の方こそ……今まで悪かったな」


 兄は私の頭をまた優しく撫でてくれた。

 この温かさから、少しの後悔も伝わってくる。


 ……今は余計なことを考えるのはやめよう。

 私は私のするべきことを全うしなくてはならない。


 もう、後悔しないように。

 少しでも理想の家族に近づけるように。


 背筋を伸ばしてしっかりと前を見つめると、兄に向かって深く頭を下げた――。




 ◇


「じゃあ、また明日」

「はい、おやすみなさい」


 兄は私を部屋まで送り、扉の前で別れを告げ、自室へ戻っていった。

 それを見送り、急ぎ荷物を纏めようと扉を開けると――リリィがベッドメイクを丁度終わらせたところだった。


 彼女は私を見るといつものように恭しく頭を下げる。


 ……リリィには……我が儘に付き合わせ悪いことをしてきてしまった。

 兄は城塞都市は危険な場所ではないと言うけれど、屋敷の生活より充実しているかは分からない。

 そんなところへ連れて行くのは……でも屋敷に残せばお父様にどんな扱いを受けるか……。

 兄様にお願いできるだろうか――。


「お嬢様、出発の準備は整っております」


 リリィが抑揚のない声で淡々と告げる。

 つい先ほど成立したばかりの話を、なぜここにいるリリィが知っているの?


「なぜ、貴女がそれを……」

「ミゲル様より、お話はうかがっております。出立は明朝、夜明け前に屋敷を出るのが賢明かと」


 兄様……私が承諾しなかったらどうするつもりで――いいえ、きっとどうにかしていたのでしょうね。

 だってあの人はとても優秀だもの。……私と違って。


 少しだけ胸の奥がきゅっと締め付けられるような感覚を覚えるけれど、それに気づかない振りをした。

 リリィがまとめた荷物は本当に最小限のものだけだった。

 着替えに洗面道具、化粧道具一式、最低限の日用品。

 クローゼットには大量のドレスが置き去りにされている。時間があればこれを路銀にすることもできただろうに、口惜しい。

 他に置いていけないものはないかと部屋を見回して、何もないことに気づいた。


 ここは私の部屋だというのに。

 これだけは捨てられないと思えるものが一つもなかった。


 まるで私そのものだ。


 そう思うと自然と笑みがこぼれた。


「お嬢様、仮眠となるでしょうがそろそろお休みになった方が」

「そうね。ありがとうリリィ。おやすみなさい」

「おやすみなさいませ、お嬢様」


 部屋の明かりが消され、真っ暗になる。

 暗闇の中、目を閉じれば瞼の裏に思い浮かぶのは、地獄へと続く日々。



 ――どうして誰も傍にいてくれないの。

 ――どうして夫は私を見てくれないの。

 ――どうして私はこんな目に遭わなければならないの。

 ――どうして私はこんなにも惨めな思いをしなければならないの。


 ――どうして、私は――――――独りで死ななければならないの。







 ◇


「……じょ……さま……、……おじょう……さ……、……お嬢様」

「――ッ?!」


 肩を揺さぶられて飛び起きる。


 もう朝なのかしら……?


 窓の外は薄暗い。夜明け前だ。

 私を起こしたリリィはいつものメイド姿ではなく、見慣れない村娘のような格好をしていた。


「リリィ……よね?」

「はい、お嬢様。明けやらぬ折りより申し訳ございませんが、お支度を」


 黒髪を覆ういつもの白いベールは、彼女が着ている服に合わせたのかライトブラウンに染められている。

 あくまで黒髪をさらすつもりはないらしい。


 支度を――と言いながらリリィが差し出してきたのは、上衣と膝丈のスカートが一続きになった服だった。

 初めて見る服だ。袖、身頃、スカートが一続きにされているドレスなど見たことがない。……私が知らないだけ?

 前面がウエスト辺りまで大きく開くようになっているが、それを交互に渡した紐で()じる構造になっている。

 確かにこれならば目立たないだろう。それに動きやすそうだ。


「これはあなたの服?」


 リリィが無言でこくりと首肯した。悪いことをしてしまった。リリィの給金を考えると貴重な代物なのでは? 後でどうにか補填しなくては。城塞都市に外貨を稼ぐ手段があればよいのだけれど……。


「慣れない服装で申し訳ありませんが、お許しください」


 少しの逡巡をリリィが悪い方向で捕らえてしまったらしい。


「いえ、違うのよ、少し……申し訳なくなっただけ。いつも、迷惑をかけてしまうわね」

「お気にされる必要はございません。私は使用人でございますので」


 抑揚のない声と感情を抱いていないような表情で、いつもと同じく使用人として完璧な対応を見せるリリィ。

 これが彼女の本心なのか、そう振る舞うのが仕事と思っているのか、私には分からない。


「……ありがとう、リリィ」


 私は受け取った服に袖を通す。

 慣れない肌触りに違和感を覚えながらも、何とか身なりを整えることができた。

 目立たないように髪を結い上げ、外套の下に隠す。

 ――この格好なら、まだましだわ。



「では参りましょう」

「……ええ」







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