05.あの日の愛は深く沈めて弔われる 2/3
夜になると、父の命で一階の晩餐室に家族全員が集められることになった。もちろん私も例外ではない。
高い天井には美しいシャンデリア、壁には貴重な絵画、上品で美しい壁紙。
大きな食卓は豪華な食器やシルバーカトラリーで彩られ、華やかな光景が広がっている。
久方ぶりの晩餐室は、少しだけ緊張を覚えた。
家族揃って食事をするのはいつ振りだろう。
そんなことを思いながら席につく。
ふと視線を感じて顔を上げると、正面に座っている真っ赤なドレスを着た姉ハルバラと目が合った。
彼女は私と視線が合うなり眉間にしわを寄せたかと思うと、鬼のような形相でこちらを睨んできた。
今回の招集が相当お気に召さないらしい。
まあ当然といえば当然のことだけれど……。
小さくため息をつくと、しばらくして母がやって来た。蔑むような一瞥をくれて、何も言わずに席に着く。
お小言がないのは父の招集だからだろうか。
最後に現れたのは兄だ。私を見て驚いたような表情を浮かべた後、どこか和らいだ様子を見せてくれた。
「こっちで食べることにしたのか?」
「えっ?! うそでしょう?! 食事のマナーも知らないような人と食卓を囲むなんて、またお父様の機嫌が悪くなるじゃない!」
兄の問いに答えたのは、私ではなく妹のファビエンヌだ。
ファビエンヌは顔を顰めて、嫌悪感を露わにしている。
「誰だろうと今のお前よりはマシだよ」
「なんですって?!」
兄の一言に、ファビエンヌが激昂して立ち上がる。
今にも兄に掴みかかりそうな勢いだったが、姉が宥めるように彼女の肩を抱くと渋々と言った様子で腰を下ろした。
それを見てホッと胸を撫で下ろす。
これ以上面倒なことになるのは御免被りたい。……これからもっと面倒なことになるのだから。
お父様は、この場で私とロベルト殿下との話をするつもりなのだ。
さっきは驚いてしまって何も言えなかった。
父を説得しなければ。
この話は何が何でも辞退しなければならない。でなければ待っているのは身の破滅だ。
「ファビエンヌ、貴女の気持ちも分かるわ。この場に相応しくない者がいるのだもの。……ねえ、ベアトリス?」
姉は嘲りを滲ませた視線を向けてくる。
その目に、背筋が凍り付くような感覚を、昔は覚えていた。
今は……分からない。
「ハルバラ! そのような言い方を――」
姉の言葉に兄は慌てて窘めようとするが、当の本人はどこ吹く風。
「あら、本当のことではなくて? この子のせいで、わたくしがどれだけ恥をかいてきたか! それなのに、本人はのうのうと生きているのよ! 腹が立つったらないわ!!」
ヒステリックに喚き散らす、その様子はまるで癇癪を起こした子供のようだ。
ああ、もう。最悪……。
思わず天を仰ぎたくなる気持ちをぐっと堪える。
このままではいけない――意を決して口を開こうとするより早く、
「無礼者が! 誰に向かって口をきいているのだ!?」
怒り狂った父親が手を振り上げ、姉の頬を打つ乾いた音が室内に響き渡った。
「……お、お父……様?」
驚きのせいかファビエンヌの裏返った声が、静まり返った晩餐室に消える。
「さあ、ベアトリス。席に着きなさい。お前の席は儂の隣だ」
父は上機嫌で「早く座りなさい」と私を手招きする。
言われるままに父の隣に座ると、それを見た母は苦虫をかみ潰したような表情になった。そんな母とは対照的に父の顔は緩みっぱなしだ。
その様子を忌ま忌ましそうに見ていた母だったが、やがて諦めたようにため息をついた後で、静かに口を開いた。
「……分かりましたわ」
それを聞いた父は満足そうに頷くと、使用人を呼びつけて料理を運ぶよう指示を出した。
「さて、では夕食にしようではないか」
◇
気まずい空気の中、料理が運ばれてくる。
前菜を食べ終わる頃になってようやく、父が口を開いた。
「ところで、お前たちに伝えなければならないことがある。先ほど王宮から使者が来てな。ロベルト殿下が我が娘ベアトリスを婚約者として望んでおられるそうだ」
「待ってくださいお父様! そのことですが――」
私が抗議の声を上げる前に、姉の怒号がそれを遮った。
「どういうことよ! お父様!!」
ガタリと椅子を鳴らして立ち上がり、激しく父に詰め寄るが、父はそれを無視して言葉を続ける。
「聞けば、殿下は随分とベアトリスのことを気に入ってくださっているようだ。見ろ! 我が愛しい娘ベアトリスのこの美貌を! 不思議なことなど何もない。……だが、お前はダメだハルバラ。お前のような出来損ない、誰が欲しがるものか」
「なっ……!」
「お父様、それはあまりにも酷すぎます!」
「そうですわ、あなた! いくら何でもあんまりです!」
「何が違う? その点、ベアトリスは素晴らしい。小賢しく男に恥をかかせることもなく、女らしく愛嬌もある。女とはこうあるべきなのだ」
母や姉達は口々に抗議をしているけれど、父に意見を覆させるまでには至らない。賢い母達の言葉が届かないのだから、私の言葉は尚更と考えるべきか。
「うるさいぞ、お前たち。儂の決定に何か文句でもあるのか?」
「そ、そういうわけではありませんけど……」
姉が口籠もると、すかさず母が口を開く。
「でしたら、わたくしからも一つ言わせていただきますわ。確かにこの子は多少なりとも器量が良いかもしれません。ですが、だからといって、それだけで王族の妃になれるとお思いですか? わたくしは心配でなりません」
その言葉に、父の表情が険しくなる。
「何だと……? 貴様、儂の娘にケチをつけるつもりか?!」
「父上、落ち着いてください。母上も言葉が過ぎますよ。それに、第三王子殿下には懸念事項があります。早計に結論を出すのはいかがなものかと――」
「ふんっ、相変わらず小賢しい男だな。だがこれは決定事項だ! 覆すことは許さん!!」
兄は必死に食い下がっているが、聞く耳を持たないといった様子だ。
母はと言うと、そんな父を見て深いため息をついている。
「……分かりましたわ。あなたがそこまで仰るのでしたら、わたくしはもう何も申しません」
「ああ、それでいい」
父はそう言うと、勝ち誇ったような笑みを浮かべて食事を再開した。
「お前に意見など求めてはいない。女に賢しさを求める男などいないのだからな。……さあ食べよう。冷めた食事ほど食に値しないものはない」
そして、再び上機嫌でワインを口に運ぶ。とても満足そうに。
……出来が悪いと、あれだけ私を罵っていたというのに、賢さなど要らなかったの?
だったらなぜ、私は――――
「さあさあ、そんな話はもう終わりだ。それよりも楽しい話をしようではないか」
「父上! 俺の話はまだ――」
兄が慌てて口を挟むが、父は意に介さない。
「もう決まったことだ。お前もいつまでもグダグダ言ってないで、さっさと食事を済ませろ。ああ、そうだベアトリス――」
父は晩餐の間中、上機嫌で私に話しかけて――いや、違う。一方的に自分の考えを口にしていた。
私が難色を示すたびに「女は男の後ろで笑っていればいい」「王族に嫁げることを幸運だと思え、分をわきまえろ」と諭された。
確かに王家からの申し出に否を申し立てることなど出来やしない。……普通は。
普通でないことをしようと言うのだから、少々の強引な手段と準備が必要だ。そして、父がそれに手を貸すことはない。手を貸してくれるとしたら……兄だろうか。
母、姉、妹も反対してはいるけれど、結果に繋がりそうにはない。
「ベアトリス、お前は儂に感謝するべきだ。お前には良い教育を施してきたのだからな。お前がロベルト殿下のもとに嫁げば、王家とのパイプがより強固なものとなる。そうなれば我が公爵家も安泰よ!」
常になく上機嫌に笑う父を前に、私の気分は沈むばかりだった。
◇
気まずい晩餐がようやく終わりを迎え、晩餐室を後にした父を兄が追いかけていく。
ファビエンヌまでもが、早々に部屋へと引き上げていったのは意外だった。
母や姉と一緒になって文句を言ってくるものとばかり思っていたのに。
開け放たれたままの扉から、父と兄の言い争う声が響いていた。
父は意固地になっているのか。兄の説得を聞き入れてくれるだろうか?
兄は反対しているようだし、父が納得しなくとも後で相談できるとよいのだけれど……。
「何をしたのよ、ベアトリスッ!」
突如響いた甲高い叫び声で我に返った。
大きな卓を挟んで向かいに座っていたはずの姉が、いつの間にか私の目の前まで来ている。
眉を吊り上げてこちらを睨むその形相は凄まじく鬼のようだ。
その目には隠しきれない嫉妬の色が滲んでいた。私が妬ましくてたまらないのだと、その瞳が雄弁に語っている。
「どうしてアンタなんかが! この家の、このわたくしを差し置いて!! 王太子殿下の婚約者に選ばれるなんて!!! 何をしたのよ?! この卑怯者ッ!」
叫びながら振り上げられた手に、見慣れた鞭が握られていることに気づく。
私も晩餐室へ来ると聞いて、あらかじめ用意していたのか。
「待って、お姉様! 私は――」
「お黙りなさい!!」
――来るッ!
ヒュンという風を切る音に、咄嗟に腕で顔を庇うと、衝撃と共に鋭い痛みに襲われる。
打たれた腕を見るとミミズ腫れができていて、じんわりと血が滲んでいた。
先日の傷がようやく治ったばかりだというのに……。
顔を上げると、怒りの形相で鞭を振り上げる姉の姿が目に入った。
「何をしているのです、ベアトリス。早くハルバラに背を向けなさい。お前の無作法と無教養をわざわざ教えてやろうと言うのです。お前は姉に感謝しなければなりませんよ」
淡々とした母の声が背後から聞こえた。
振り返ると、見慣れた表情を浮かべた母が、私の背後にいる姉に向かって顎をしゃくる。
姉の表情が喜色に染まった次の瞬間、再び振るわれた鞭によって背中を強打され、息が詰まった。
「お母様! 私はこの話をお受けするつもりは――」
「黙れと言っているでしょうッ!」
母に私の言葉など聞かない。いつだって聞かない。
聞く価値などないから。
……ああ、また始まってしまう。家族と共にいると、いつもこうなってしまう。望んでなどいないのに。
――パシン! 乾いた音と共に背中に焼けるような痛みが走る。
「――ゥッ!」
反射的に漏れそうになる悲鳴を必死に噛み殺した。
何度も何度も繰り返され、あまりの激痛に身体を支えることもできず、床に倒れ伏す。
「直ぐに逃げ出そうとするのはお前の悪い癖ですよ」
母は冷たくそう吐き捨てると、さらに追い打ちをかけるように背中を何度も踏みつけてきた。
「ぅっ……」
痛みに耐えきれずに悲鳴が漏れるけれど、母の足は背中から退いてくれない。
「さっさと言いつけを守らないからこういうことになるのよ。分かった? わたくしたちはお前の為に言っているのですよ? お前如きが王子妃になど……恥を知らないのですか?」
背中に刻み込まれる痛みは体中を蝕む。腕も足も、少し動かそうとするだけで全身が痛くなる。母と姉はそれを知って――いや、知るはずもないか。
必要ないのだから。間違っているのは私なのだから。
「さあ、立ちなさいベアトリス。お前を正そうとする麗しいハルバラに感謝するのですよ」
◇
「……もうよいでしょう、ハルバラ」
どれほどの時が経過したのか。
一、二分か、一、二時間かも分からない長く感じた時間の後、朦朧とした意識の中で母の声を聞いた。地面に這いつくばりながら。
「お母様! でも――!」
「お前にはベアトリスのように、みっともなく下種張り秋波を送るような真似をして欲しくはないのよ」
床に這いつくばる私には、母と姉の表情を見ることはできない。けれど、発する言葉や口調から窺い知ることは出来る。
下種張りとは酷い言われようだ。
表立って父を説得しようともせず、反抗しない私を嬲るのが品のある行いなのか。
「でも……っ、あの子が選ばれるのなら、わたくしが方がよほど……!」
「ええ、分かっているわハルバラ。わたくしだって同じ思いよ。……ベアトリス、いつまでも汚らしく這いつくばるものではありません。さっさとお立ちなさい」
混濁する意識と、芯まで叩き込まれた痛みを堪えながら体を起こし、母と姉の姿を探す。二人は抱き合いながら互いを慰め合っていた。
起き上がった私に気づいたのか、母は姉を抱きしめながら蔑むような一瞥をこちらに寄越し、
「これ以上恥をさらさぬよう、ハルバラを見習うことを忘れてはなりませんよ。分かったらさっさと出て行きなさい。ここにお前の居場所などないのですから」
私を切り捨てた。
姉を、見習う……?
私が何をしたところで、お母様は満足することなどあるのだろうか……?
「……失礼、します……」
分からない。だから、そう言うしかなかった。
痛みを堪えてふらつく足で二人に背を向けて歩き出した。
背後からは二人が身を寄せ合いながら何かを囁き合う声が聞こえるけれど、振り向くことはしなかった。
そんな私を二人は嗤っているのだろうか?