04.あの日の愛は深く沈めて弔われる 1/3
私達が乗っている馬車にはカスティ家の紋章が描かれているからか、すれ違う人々の多くが立ち止まり頭を下げる。
カスティ家は古くから公爵家として王族に仕えてきた家系だ。
歴史が長い分、多くの貴族と繋がりがあり、また国にとって必要な存在でもある。
そのため、平民であっても知っている人は多い……のだけれど、父がカスティ公を継いでからは事情が変わってきた。
なぜか社交界からは足が遠のき、嘗ての栄華は見る影もない。
母と姉は、全ては出来の悪い私のせいだと言う。……それほどまでに、私はカスティ家に泥を塗ってしまったのか。
何が悪かったのか、どうしてこうなったのか分からない。
ただ一つ言えるのは、私はどうしようもない愚か者なのだということだけ。
父の血を引いているとは思えないほどに何の才覚もなかった。
兄のような賢さはなく、姉や妹のように機転が利くわけでもない。
だから、母が言ったように、私のせいで、私が何もできない役立たずな娘であるから、カスティ家の地位が下がった。
◇◆◇
王都に用意しているカスティ家の町屋敷は、貴族街の外れにある。
カスティ公爵領にある本邸に比べると小さく質素だが、それでも貴族の屋敷らしく豪奢な造りをしていた。
高い石造りの壁には華麗な装飾。優雅なアーチ型の美しいステンドグラスがはめ込まれた窓。銀色の輝く屋根瓦とその先にそびえ立つ尖塔が、青空とコントラストを描く。
屋敷全体からは格式と高貴さが溢れ出し、公爵家の街屋敷として恥ずかしくない美しさを誇っていた。
私兵団の訓練場を兼ねているため、かなりの広さがあり庭も広い。
敷地内には厩舎もある。
広大な庭園には花々が咲き誇り、噴水からは心地よい水の音が響く。
馬車を降りると、玄関の前に立っていた数十人の使用人たちが一斉に頭を下げた。
ベール以外はリリィと同じメイド服に身を包んだ使用人たち。
年齢は十代始めから五十代後半まで様々おり、年齢によってスカートの裾の長さやレースの種類やフリルの有無などが異なっている。
公爵家のお抱えに相応しい優秀な者たちばかりだ。
私よりも優秀なのではないかとは母、姉、妹の談。
大理石の床が広がるエントランスを抜け、自室を目指して赤い絨毯が敷かれた正面階段を上がる。
分厚い絨毯が足元を包み込み、足触りは柔らかく快適だった。
自然と視線が上がり、天井高くにあるシャンデリアが放つ優雅な輝きが目に入る。
自分の部屋へと進むにつれ、エントランスの賑やかさから内室の静寂へと移り変わり、ようやく心に平穏が戻ってきた気がした。
それと同時に疲労感がどっとのしかかってくる。
自室へ入るなり、後ろでリリィが扉を閉める音を聞きながら見慣れたソファに倒れ込んだ。
シックなグレーの生地が上品なお気に入りのソファ。
温かく素朴な質感を持つほどよく潰れたクッションは、包み込むような心地よさを与えてくれた。
このソファに座って、ようやく自分が安全な場所にいると実感が湧いてきた。
昔は他の家族に与えられた家具と比較し、貧相なものだと不満を持っていたのだけれど、今はこのソファの座り心地の良さに感謝しかない。
暗く冷たい牢獄を知った今だから、そう思えるのかもしれないけれど。
「お嬢様、お茶をお淹れいたしますか?」
「ええ、お願いするわ」
しばらくして、テーブルの上にティーカップが置かれた。
一口飲むと、口の中に芳醇な香りが広がり、温かい液体が喉を通っていく感覚とともに、身体の芯から温まっていくのを感じた。
美味しい紅茶を飲んでいるうちに、私の心は徐々に落ち着きを取り戻していった。
時間が戻っていると考えて間違いない。
なぜ、どうして、誰が、何のために?
……考えても分からないことを考え続け、いたずらに時を過ごすわけにはいかない。
どうせ自分に理解できるわけもないのだ。
なら、これからはあの未来を辿らぬよう事前に対策を講じていかなければ。
今日のお茶会を辞退できたのは僥倖だ。
この後はどうしたらよいか……ひとまずあの悪友達とは縁を切らないと。
今日のルシア・サマコイスの件もあの子たちが絡んでいた。
殿下が仰っていた『ルシア・サマコイスを脅し金品をせしめていた』というのも、あの子たちの仕業かもしれない。
……今日も私の名前を出していたし。
彼女達がおかしな真似をした場合に備え、手を打つ必要があるだろう。
取り急ぎ、私に使えるコネを総動員して彼女達と縁を切ると公言しなくては。
私が使えるコネは少ない。しかもそのほとんどは悪友たちから齎されたものだ。
しかし、私と同じように彼らと距離を置こうとしている者、既に置いている者たちがいることは知っている。
彼らに接触すれば、私の未来も変えられるかもしれない。
……まともに取り合ってくれれば、だけれど。
「リリィ」
「はい、何でしょう?」
「信書の用意を。貴女には明日朝一でリストにある屋敷をまわってもらいたいの」
「リスト……ですか?」
「これから作るわ」
ソファから立ち上がりデスクへと向かう。
シンプルで美しいライトブラウンの木製デスクが、昔は嫌いだった。飾り気のないデスクは、陳腐で価値のないものだとしか思えなかった。
長時間の作業でも快適に過ごせ、足を伸ばせるスペースもある実用的なデスクだというのに。
机の上に置いてあるメモ帳とペンを手に取り、紙を一枚破ると記憶にある名前を箇条書きしていく。
リストを書き終え、戻ってきたリリィに渡した。
彼女は名前を確認すると一礼して退出していく。
……さて、私は信書を書かなければ。
家族と違い、私には代筆を頼めてくれる使用人は与えられていないのだから。
デスクに向かい紙にペンを走らせていると、扉の向こうで使用人らが慌ただしく動く気配が伝わってきた。
少し耳を澄ませていると、聞き慣れた喧騒――父の怒声が聞こえた。
……私はまた何か、この家を貶めるようなことをしてしまったのか。
過去のこの日、私は一体何をしたかしら……?
父が部屋に乗り込んでくる前に自分の罪を思い出そうとするけれど、私にとって今日は今日であって今日ではない。
何をしでかしたのかなんて、覚えていない。
そもそも私は何かをしたという自覚すら持てないのだ。
私の罪はいつだって突然に襲ってくる。まるで嵐のようにやってきて、何もかもを奪っていく。
――いや、違う。
こんな他責思考をしている内はダメだと……分かっているのに……。
静けさを破るようにノックもなしに扉が開け放たれ、黒いシルクのローブに身を包んだ痩せぎすの男――実父であるカスティ公が現れた。
曇り空を思わせる青灰色の髪、神経質そうな顔つき。
父は私を睨みつけると、足早にこちらへ近づいてきて――私の頬を思い切り手の甲で払った。
パァン! という乾いた音が室内に響き渡ると同時に鋭い痛みが頬に走る。
叩かれた勢いで頭が揺れ、視界が一瞬真っ白になったかと思うと次の瞬間には頬が焼けるように熱くなった。
口の中に血の味が広がる。どうやら口の中が切れたらしい。
「また遊び呆けていたのか! お前は我が家の顔に泥を塗るつもりか!?」
悪友たちとつるんで遊び歩いていたのは事実。
父が怒るのは当然のこと……まさかもう今日の騒ぎを聞きつけたの?!
社交界から遠ざかっている父のこと、議会でもない限り、新しい情報を仕入れる機会はないと思っていたのに。
「女家庭教師からお前の素行の悪さを聞いたぞ。まったく……お前のような娘を持って恥ずかしいわ!」
家庭教師か……今日の城でのいざこざについては耳に入っていないみたい。
殿下の口から『カスティ』の名が出たから、もしやと思っていたけれど……安心した、というのはよくないかしら?
家庭教師からの苦言については……完全に自業自得だ。
全ては父が満足する成績を収められない私のせい。
どれだけ頑張ったって家族ほどの教養は身につかない。
勝手に捻くれ、努力を放棄し、非行に走るような娘だから……父はいつもこうするしかなかった……?
「聞いているのか!!」
怒りが収まる気配を見せない父は鼻を鳴らすと、今度は拳を振り上げた。
……痛いのよね。あれ。
殴られることに慣れている。だから覚悟を決め、歯を食いしばり衝撃に備える。
けれど、その時はなかなか訪れなかった。代わりにやってきたのは腹部への鈍い痛みだった。
思わず息が詰まる。目を見開き、自分の腹を見ると、そこには父の靴があった。
……蹴り……飛ばされたのね……私……。
蹴られたことで体が傾き、バランスが取れずその場に倒れ込む。倒れ込んだ私をさらに踏みつけてきた。
怒鳴り罵り嘲りながら、何度も、何度も、執拗に。
……痛い……痛い……。
最初は耐えようとしていたものの、そのうち無気力になっていくのを感じた。
……どうせ私には出来損ない。できるはずがない。
何をやってもうまくいかない。今ここで死んだら、今度はどこへ還るのだろう。
……どこへ還っても何も――――
意識が途切れる寸前、父の後ろに母の姿を見た。私を冷たく見下ろす母と目が合う。
……ああ、そうか。母はずっと見ていたのだ。
私が失敗するところを。
……失敗したくなんかないのに……。
どうして……いつも……いつも――
「――……あなた、問題があるのはその子だけですわ。この家の為にも、その子はもう処分してしまいませんこと?」
「ほう? それは本心か?」
「当然ですわ! 愛する貴方の血を受け継いでおきながら、全てにおいて遊び女にも劣る女! 我が娘とも思えませんわ。どこかに嫁に出しても後々面倒になるだけならいっそ……」
「確かにそうだな。あんな女、いなくなってくれた方がせいせいするというものだ」
「でしたら――」
「しかし、その言葉が余所の男を隠す為の嘘でないとは言い切れん」
「そのようなこと! わたくしは貴方以外など知りませんわ!」
「……だとよいのだがな」
「待ってあなた! あなた…………全てお前のせいよ……ベアトリス……!」
◇◆◇
気がついたら暗闇の中にいた。
目の前にあるのは、月明かりだけが頼りの薄暗い室内の光景。
背中に感じるのは冷たく硬い石畳ではなく、柔らかいマットレスと上質なシルクのまるで包み込まれているような温かい感触。
……柔らかな、ベッドの上……。
目が覚めてまた暗い牢獄に逆戻りしているのではないかと不安だったけれど、そんなことにはならなかった。
寝て醒めても私はまだ、ここにいる。
夜空を見るため起き上がろうとしたところで、全身に激痛が走った。
あまりの痛みに声も出ない。ただ、喉の奥から呻き声が漏れるだけ。
なぜこんなに全身が痛む? 何が……あった――――……
「………………っ!」
そうだ、確か私は父に殴り飛ばされて……そのまま意識を失ったのだ。
あれからどのくらい経ったのだろう。
辺りを見回すと、ここが見慣れた自室であることが分かった。ベッドサイドには水差しが置かれているのが見える。
水差しを見たら喉が渇いてきた。
水差しへ手を伸ばしかけて、自分の手に包帯が巻かれていることに気づいた。
それだけじゃない。ご丁寧に外出用のドレスから白いシンプルな夜着に着替えまですませられている。
誰がやったのかはわからないが、少なくとも誰かがここへ来て治療してくれたことは間違いないだろう。
あの父が、わざわざそんなことをするとは思えないし、お母様の……はずもない。
では、リリィ……? いえ、それも違う気がする。
彼女は私の専属使用人だけれど、ここまで親身になってくれることはないだろう。
そもそも彼女にそこまでの力はないはず。だとしたら……誰?
再度水差しに手を伸ばすと、指先が震えていることに気づいた。
全身が鉛のように重い。特に脇腹の痛みが酷い。
なんとか上半身を起こすと、ズキンッと鋭い痛みが走り、冷や汗が流れる。
それでも水を飲まなければと思い、震える手でコップを持つと口元へ運ぶ。
手が震えて上手く飲めない。水が口の端からこぼれ、胸元を濡らしていく。
力が入らないのは少々困る。暢気に寝ている暇などない。明日の朝までに信書を書き上げなければいけないのに……。
痛みを堪えるため息を止めてデスクまで向かうと、そこには既に必要分の信書が用意されていた。
――……え?
「お嬢様」
その声に振り返ると、そこには無表情のリリィが立っていた。
「お体の具合はいかがですか?」
「……少し痛むけど動けないほどではないわ」
「そうですか。では、御用がありましたらお呼びください」
そう言って一礼すると、音もなく部屋を出て行こうとするので慌てて呼び止める。
「待って! ひとつ聞きたいことがあるのだけど……」
「何でしょうか?」
「これは……貴女が用意したもの?」
美しく流麗に書かれた文字、洗練された言葉選び――これが本当にいち使用人が書いたものだというの?
「はい、そうですが何か問題でもございましたか?」
彼女はいつもと変わらない感情の読めない顔で、こちらをじっと見つめてくる。
「……いいえ、問題はないわ。むしろ助かったくらいよ…………ありがとう」
「他にご用がなければ、これで失礼いたします」
そう言う顔もやはり無表情のまま。
そのまま再び礼をして、彼女は部屋から出て行った。
専属使用人であるリリィの部屋は、この部屋の直ぐ隣にある。
身の回りの品を置く小さな棚とベッドがあるだけの狭い空間だったはず。
使用人とはそう言うものだと躾けられたけれど……本当にそうなのだろうか。
「ふわ……」
……いけない、あくびが出てしまった。さすがに眠気が限界だ。今日一日だけで色々ありすぎたせいだろう。
とりあえず今日はもう体を休めてしまおうと思い直し、ベッドへ潜り込んだ。
◇◆◇
体を動かせるようになるまでには五日を要した。
まだ若干の痛みは残るものの、日常生活に支障をきたすほどではない。
一番痛みが酷かったのは叱責を受けた翌日だ。なぜ当日よりも翌日の方が全身の痛みが酷くなるのか……いつものこととはいえ人体の不思議は理解できない。
リリィが行ってくれたマッサージや体操のお陰で、いつもより治りが早く助かった。
出血を伴う怪我については、薬を付けることもなく毎日布のような何かを交換するだけだった。だというのに、昨日の夜に傷を確認したら治っていた。
今までは二週間たっても治らず、一月後には醜い瘢痕になっていたというのに。
――……今まで……?
今までリリィはどのような治療をしてくれていたのだった?
彼女は私が小さい頃から専属の使用人だった。
こんなことは初めてではないはずなのに……?
記憶をさらうけれど、リリィに治療された記憶が出てこない。
別の誰かに治療された記憶もない。いつも市井で手に入れた薬を使っていた。
――……まあ、いいわ。それよりも考えなければならないことがあるのだから。
私が父から叱責を受けた翌日、私が目覚めるよりも早く、リリィは信書の配達を済ませてくれていた。
結構な量があったかと思うのだけれど、全て一人で片付けてくれたのだ。
……仕事が速い、と済ませてよいのだろうか?
「お嬢様、どうかなさいましたか」
デスクで返書の確認をしていたところに、背後から声をかけられて我にかえった。
「……大丈夫よ、なんでもないわ。それより、残りの返書はどうなっているかしら?」
「はい、滞りなく」
そう言って手渡された封書を開封して中身を確認する。
……良好だ。
こちらの意図は伝わっている。彼らの協力で私と悪友たちが袂を分かったと噂でも流してもらおう。
まともに取り合ってくれないかもしれないと危惧していたけれど、杞憂に終わったようだ。
そうしたら今度は――――
――『この家の為にも、この子はもう処分してしまいませんこと?』
――『確かにそうだな。いなくなってくれた方がせいせいするというものだ』
今度は……家族の一員として、
ちゃんと……認められるように……振る舞う……のよ……
そうしたら……きっと…………――――
「お嬢様、ランチはいかがいたしますか」
リリィの声で意識が現実に引き戻される。
「……え? え、ええ、そうね。昼食をお願いするわ」
「承知しました」
それだけ聞くと、リリィは足早に部屋を後にした。
窓の外を見れば、何時の間にか太陽は随分と高いところにあった。
そういえば今日はまだ朝から何も食べていない。けれど、食欲はあまりない。
家族と共に食事を摂らなくなったのはいつ頃からだったろう。幼い頃は一緒に食事をとっていたはずなのに、いつのまにか一人で食べるようになっていた。
……違う。一緒に食べていると、食事を強制的に取り上げられると思ったからだ。
きっと、本来はそこで反省し真面目に取り組むべきだったのだ。けれど、幼い私にはそんなことは分からなかった。だから、逃げた。
このままでは駄目だ。もっと努力しなければ。
ノックの音を聞いて返事をすると、ドアが開いて銀のワゴンを押したリリィが入ってきた。木製テーブルの上に手際よく料理を並べていく。
今日のメニューは野菜のスープにサンドイッチ、それにデザートにはフルーツタルトが用意されているようだ。とても美味しそうな香りが漂ってくる。
「本日の昼食でございます」
そう言うと彼女はいつものように壁際へと下がっていった。
スプーンを手に取りスープを口に運ぶと、温かくて優しい味が口内に広がる。
美味しい……。
なかったはずの食欲が湧いてきた。
このところ、食事の時間が楽しみになりつつある。リリィが用意してくれる料理はとても美味しくて、食べているだけで幸せな気分になれる。
この調子なら全部食べられそうだ。
「……ごちそうさまでした」
食後の紅茶を飲み終えると、リリィが慣れた手つきで手際よくティーカップをさげる。そのままテキパキと片付けを済ませてくれているのを眺めていると、乱暴に扉が開かれた。
バタンッ! という大きな音に驚いて振り向くと、衝立の向こうから大きな足音を立て、父親が満面の笑みで姿を現した。
いつもは全身黒ずくめの格好をしているというのに、今日に限っては真っ白のシャツにグレーのズボン。上には仕立ての良さそうなダークブラウンの上着を羽織っている。
髪は後ろに撫でつけられ、普段は見えない額が露わになっていた。
外出でもしていたのだろうか。
先日の一件など存在しなかったかのように上機嫌だ。
「喜べ、ベアトリス。殿下がお前を婚約者として認めてくださったぞ!」
――……え?
意気揚々と現れた父の言葉を聞いて、一瞬言葉を失った。
何かの間違いではないだろうか。
いや、そのはずだ。
だって私は『薔薇のお茶会』には出ていないし、名乗りすらしなかったのだから……!
「お前に婚約の申し込みが来たと聞いて本当に驚いた。お前はこんなに素晴らしい女性になっていたのだな」
……覚えている。
かつて父から同じ言葉を聞いた。
私が……第三王子の婚約者に決まったときに!
「お待ち下さい! 私はそのようなこと――」
思わず立ち上がれば椅子が音を立てて倒れた。
しかし父は私の声など聞こえていない様子で、捲し立てるように話し続ける。
「あのお方ならお前も幸せになれるだろう。お前のような優秀な娘が我が家から出ることを寂しく思う気持ちもあるが……」
私の話を聞かずに、父は感極まった様子で涙ぐみながらハンカチで目元を押さえた。
「お父様、お待ちください。私にそんなお話が来るはずがありません! 何かの間違いです!!」
慌てて反論するが、彼は聞く耳を持たない。
「そんなことはない。これは間違いなくお前宛のものだ。ほら、ここにサインもある」
そう言って手紙を開いて見せられると、確かにそこには過去に何度もすり切れるほど見た筆跡があった。
それは紛れもなく、第三王子が直々に書いた書状。過去に私に届けられた、あの書状と同じ物だ。
まさか、こんなことって……どうして……?
混乱しながらも、なんとか声を絞り出す。
「……でも、私は……っ」
「分かっている。お前が今までどれほど努力してきたかは、私たちもよく理解しているつもりだ」
――嘘よ! 殺してしまえと……お母様と話をしていたじゃない……!
心の中で悪態をつくが、それを口に出すことはできなかった。
父と母の確執の原因は、出来の悪い私にあるから。
黙り込んでしまった私を他所に、父は嬉々として話を続ける。
「殿下もお前のことを気に入ってくださっているようだし、何も心配はいらないからな。近いうちに王宮へ挨拶に行くことになるだろうから準備しておくんだぞ?」
そう言うと満足そうに笑って部屋から出て行った。扉が閉まる音を聞きながら、その場に立ち尽くすことしかできなかった。