03.走馬灯は見えない 2/2
「お嬢様」
「…………なんでもないわ」
誰にもバレないように深呼吸をして動揺を抑える。
気取られるわけにはいかない。
特に、目の前のこの女には。
リリィに「問題ない」と告げ、目の前の女――ルシア・サマコイスに向き直る。
彼女は見慣れた庇護欲をそそられる泣き顔を、こともあろうに私に向けてきた。
しゃがみ込み立ち上がることさえできないまま。
「それ……は、何?」
緊張から言葉がつかえてしまいそうになる。しっかりしなければ。こんな女に飲まれてなるものですか。
「あ、えっと……わたし、お茶会に……誘われて……」
誘われた? ……ロベルト殿下に?
2人はこんな初めから、想い合っていたの……?
「嘘ですわ! ベアトリス様!」
「そうよ、そうよ!」
「嘘じゃありませんッ!」
人が小娘と話をしているというのに、後ろがまた騒がしくなりはじめた。
「お前のような貧相な小娘が招待を受けるはずがないわ!」
「どこから入り込んだのよ、この不審者!」
「衛兵を呼ぶべきよ!」
皆、随分と頭に血が上っているらしい。
これ以上騒ぎになり、この場にロベルト殿下が現れたら面倒なことになる。
死神を手招きするような真似は避けたい。
こちらの苦労を少しは察してほしい……というのは無理な話か。
「やめなさい」
ぴたりと声が止む。さすが私のユウジン――いや、取り巻きだ。
「あなたたち、黙りなさい。そして、出て行きなさい」
横目で見ながら彼女らに告げると、困惑しながら互いに顔を見合わせる。
まだ状況を理解できていないようね。困ったものだわ。
私は再度同じことを口にしようと息を吸ったが、それを遮るようにして小娘が口を開いた。
「わっ、わたっ……しっ! 本当に、招待され……っ……それで、それで……っ」
言い淀みながらも懸命に訴えかけてくる。
こんな風に泣かれたら、誰だって彼女を助け、愛しく思うのでしょうね。
……ロベルト殿下のように。
同情を誘うような仕草も計算づくだろう、と思ってしまう自分がいる。
そんな小娘の姿を見ていると、胸の奥底で何かが燃え上がるように熱くなる。
怒りなのか悲しみなのか嫉妬なのか、自分でもわからない。
それがじわりと滲み何かを蝕んでいく。
――……ああ、そうか。
これは、憎しみ。
私は、この女が殺してやりたいほど憎いのだ。
それはそれとして、私の取り巻きたちはなぜ未だにここにいるのかしら?
とうの昔に「出て行け」と命じたはずなのに。
「お前達、聞こえなかったの?」
いつまでもこの場から立ち去ろうとしない取り巻きを見やると、みるみると青ざめていった。
ようやく状況を理解してきたようで、足元を見つめながらすごすごとこの場を去って行く。
「……はぁ」
思わずため息が漏れてしまう。
問題はまだ残っている。
むしろこれからが一番の問題かもしれない。
――もしかして本来、薔薇のお茶会にこの女は参加しているはずだった?
私の取り巻きのせいで参加できなくなり――結果、私が婚約者の座に納まった?
ロベルト殿下とこの女がそう思っていたのだとしたら、私へのあの対応も理解できる。
賛同はできないし、些か詰めが甘いとも思うけれど。
それにしても、なぜ、あのような市井の日用品としか思えないような品を用意したのかしら?
まさかあれしか用意できなかったわけでもないでしょう。
仮にも男爵家の人間であるならば。
殿下が少し気を回していれば、あの子たちも事態を把握できたものを……。
「あれを用意したのはお前?」
陶器の破片に目を遣りながら問いかけると、こくりと小さく首を縦に振る。
「はい……街の市場で売っているものですけど、質の良いものだと聞いていました。なのできっと王妃様にお渡ししても失礼にはならないと思いました」
質が良い?
散らばった欠片を見るだけでも分かる明らかな粗悪品が?
欠片の端から芯として使われていたと思われる紙片が見えているし、大きく残る欠片から確認できる艶も酷い。
不均一で荒々しい仕上げだ。
どんな土や薬剤を使ったらこんな陶器ができるのやら。
「…………リリィ、この子に『あれ』を」
「かしこまりました」
リリィは無表情のまま、無言でこちらへと歩み寄ってきた。
そのままルシア・サマコイスの前に膝をつき、恭しく頭を下げてから手にしていた木箱を差し出す。
「どうぞこちらをお納めください」
「え? あ、あの……?」
戸惑うのは分かるけれど、その様子もどこかわざとらしく感じてしまうのは、私が彼女を疎んじているからかしら。
……イライラするわね。ダメよ、冷静にならなければ。
「早く受け取ってちょうだい」
そんな思いが届いたのかどうか分からないけれど、戸惑いながらもゆっくりと手を伸ばし木箱を受け取ってくれた。
リリィはすっと音もなく後ろに下がり、定位置である私の斜め後ろまで戻る。
あの女と比べてスマートな身のこなしに好感を覚えるわ。
「壊れた調度品の代わりにでもしたらいかが?」
「えっ? で、でも――」
「お前が要らないのならば捨てるだけの代物よ。それは我が家の優秀な使用人が用意したもの。お前が持っていた街で買った得たいの知れないガラクタとは比べるまでもない代物よ?」
……感情の起伏がわかりやすい人ね。
動揺のままに、手の中の木箱と私の顔をじっと交互に見つめ目を白黒させている。
「……いつまで座り込んでいるつもり?」
「あっ……は、はいっ! すみません!」
慌てふためきながら立ち上がり、スカートについた埃を払う。
そして、恐る恐るといった様子でこちらへ視線を向けてきた。
「ありがとうございました!」
「…………」
花がほころぶような笑顔、というのはこのようなものを言うのだろう。
その笑顔を見て、鬱屈した感情が込み上げてくる自分は一体何なのだろう。
「あの! わたし、ルシア・サマコイスって言います! あなたは?」
疑うことを知らない純粋無垢な笑顔で、この女は問いかけてくる。
その邪気の無さが、無防備な笑みが、純粋な愛らしさが――私を、どれほど――――
「…………私の名など、お前に関係あって?」
「え、あの、でもお礼を――!」
「必要ないわ。お前程度の人間に何が返せると言うの?」
「それは……でもっ!」
尚も言い募ろうとしている彼女を無視し、踵を返してこの場を後にした。
◇◆◇
小部屋を出て、石畳の上を元々の目的地だった停留所へと急ぐ。
時間の関係もあってか周囲に人はいない。自分と背後にいるリリィの足音だけが当たりに響く。
これ以上彼女と話をしていたくなかった。彼女の声を聞いているだけで胸がざわつく。
心の底から湧き上がってくる黒い感情を抑えることができない。
だから一刻も早くこの場所から離れたい。
しばらく歩くと、不意にリリィが立ち止まった。
不思議に思って振り返ると、私の少し後方の位置で立ち止まっている。
彼女の目線は前を向いていた。つられて自分も前方に視線を移すと、前を一人の青年が歩いているのが見えた。
相変わらず眉根を寄せて険しい顔つきの彼を、私が見間違えるはずがない。
――ロベルト殿下……!
思わず声が出そうになったのを慌てて堪え、咄嵯に壁際へ寄り道を塞ぎ、柱の陰に身を隠す。
どうして、どうして殿下がここに――ああ、あの女を探しにきた……?
あの女、今はもう泣いてはいないでしょうけれど……面倒なことになりはしないかしら。
殿下の性格を考えると最悪の状況も有り得るかもしれない……。
そんなことを思い浮かべてしまったせいだろうか。
心臓がどくりどくりと脈打つ音がうるさいほど耳元で聞こえる気がする。
はぁと短く息を吐き出し落ち着こうとした瞬間、殿下の足音が止まった。
どうしたのだろう、と思って柱の影から顔を覗かせると――目が合ってしまった。
――しまった……ッ!
そう思った時にはすでに遅く、彼の目は私の姿を映していた。
咄嗟に顔を背けたせいで、明らかにあちらを見ていたということが丸分かりになってしまったと思う。
いや、そんなことよりも問題はこれからだ。どうしよう、どうすれば――――。
身動き一つ取れない。
まるで金縛りにあったかのように身体が硬直して動かない。指先一本動かせない。
息ができない。頭が痛い。目の前が真っ白になる。ああ、これはまずい――。
足音が近づいてくるにつれ動悸が激しくなる。
冷や汗が流れ落ち、額にじんわりと汗が滲み始めた。
心臓の音が彼に聞こえてしまうのではないかと錯覚するほどに鼓動が激しい。
ああもう駄目だ……! 観念するように固く目を閉じると同時に、頭上から冷ややかな声が降ってきた。
「こんなところで何をしている」
恐る恐る顔を上げると、不機嫌そうな表情の殿下と目が合った。
反射的に背筋がピンと伸び、緊張のあまり喉の奥がひゅっと鳴った気がした。
殿下は私の顔を一瞥すると、視線を逸らすことなく再び口を開いた。
「聞こえなかったのか? 何をしている、と聞いたんだが?」
「……何も、しておりませんわ」
「ほう? ならこんなところにこそこそと隠れていた理由は何だ」
じろり、と鋭い視線が突き刺さる。射貫くような視線に耐えられなくて目を逸らす。
ふと脳裏を過るのは――過去の情景だ。
私の無実を信じてくれなかった婚約者。
信じてくれると信じていた相手からの冷めた眼差し。
最初から欠片も愛されていなかったという現実。
「――ッ」
無意識のうちに両手を握りしめていたらしく、掌に爪が食い込んでいた。
それでも手を緩められない。少しでも力を抜いたら、この場に崩れ落ちて立てなくなってしまう。
私は今、ここで折れるわけにはいかない。
「恐れ多くも王子殿下の御前にあって礼を尽くせぬような、不作法な行いをするなど許されぬこと。故に身を潜めておりましただけのこと」
殿下の目を見ながらしっかりと答える。
震える手も、噛みしめて赤くなった唇も全て見られていると思うけれど、そんなことは気にしない。
それよりも何よりも、一刻も早くここから離れなければならない。
殿下が私を――ベアトリス・カスティを知らない内に。
私の言葉を黙って聞いていた殿下だったが、突然小さく舌打ちをした。その音にびくりと肩が跳ね上がる。
何事かを問われる前に、私は急いで言葉を繋げた。
早くこの場から立ち去りたい、その一心で。
「お騒がせしてしまい申しわけも――」
そのまま拝辞するつもりだったところを遮られる形で、腕を掴まれた。
思わず「ヒッ……」と引き攣るような悲鳴を上げそうになるのを必死で飲み込む。
「こちらで騒ぎがあったようだが?」
――騒ぎ? 人目はなかったはず。
となれば……取り巻き共がお粗末な立ち去り方でもしたと考えるのが妥当ね。
なぜ、あんなユウジン達に、私は縋っていたのか。
過去の自分に腹が立つ。
だが、ここで感情を露わにすれば相手の思うつぼだろう。
努めて平静を装いながら、いつものように微笑んで答える。
「さあ。私は存じ上げません」
「……ふむ」
殿下の眉がわずかに動いたのが見えた。そのまま彼の目つきが鋭くなり、射抜くように見据えられる。
ルシア・サマコイスを探しに来たのならば私に用は無いはずなのに、殿下はその場を動かずこちらを見つめ続けている。
居心地が悪い……。
「どうなさいました?」
「……一つ、聞きたいことがある」
「なんでしょうか?」
私の問いかけに対する答えはすぐではなく、殿下が口を開くまでにわずかな間ができた。そして――
「ベアトリス・カスティとはお前のことか?」
息を呑んだ。
思考が停止しそうになり、心臓が大きな音を立て、頭が真っ白になる。
全身の血の気が引いていくのが分かった。
どうして知っているの?
いつ?
どこでバレたの?!
疑問が次々と頭に浮かび上がるも言葉にはならなかった。
落ち着け、と何度も自分自身に言い聞かせる。動揺を見せるな。悟られてはいけない。平常心を保て。
必死に自分を叱咤するものの鼓動の速さは一向に収まらない。
嫌な予感がした。背中を冷たいものが伝う。指先が冷え切っていくのを感じた。
呼吸の仕方を忘れてしまったかのように、うまく空気を吸い込めない。
それになぜ、今、それを確かめた?
……殿下のお考えは分からない。
けれど――
否定の言葉を発しなければならない。
でも声が出ない。喉の奥で引っかかって出てこない。
唇が微かに震えるのみで沈黙が流れる。
それを肯定と捉えられたのか、殿下が一歩近付いてきた。
「…………」
また一歩、こちらに足を踏み出そうとしたところで、横合いからリリィが割り込み、
「お嬢様がお困りの様子に見えますので、一度足をお止めください」
リリィはいつも通り無表情で淡々と告げただけだったが、それが逆に威圧感を与えたらしい。
殿下は眉間に皺を寄せたのち、渋々といった様子で足を止めた。
しかしすぐに腕を組み直すと再びこちらを見据えてくる。……早くこの場から離れないと、私が壊れてしまいそう。
「……使用人風情がオレに意見するつもりか?」
不機嫌さを隠そうとしない様子に怯みそうになったが、対するリリィは平然としたものだ。感情がないにも程がある。
……いいえ、何をしているの私は。
リリィを矢面に立たせていい状況ではないのに。
恐怖と緊張のせいで手足が震え始める中、ゆっくりと深呼吸を繰り返しなんとか平静を取り戻さなければ。
このままではリリィまで責めを受けてしまう。
「お答えいたしかねます」
私が次の言葉を考えあぐねていると、止める間もなくリリィが火に油を注いでくれた。
即答され殿下の顔が歪む。
彼の怒りを感じ、こちらは身が竦む思いだというのに当のリリィはどこ吹く風。
「……なんだと」
と不快そうに吐き捨てられた言葉にも反応せず、じっと黙ったまま佇んでいるだけだけ。
そんなリリィの態度が気に入らなかったのか、殿下の表情がさらに険しくなった。
その剣幕に気圧されて後退りそうになるが、ここで逃げてはいけないと懸命に踏みとどまる。
「も、申しわけ――」
「失礼ですが、どなたかと勘違いなさっているのではありませんか?」
人が謝罪を口にしているというのに、リリィが全てを無に返すかのような発言をしたものだから思わず目を見開いてしまう。
「加えて高圧敵対的態度を示すことは王族として如何なものでしょうか? お控えになった方がよろしいかと」
リリィは表情も変えずに淡々と言ってのけるけれど、言われた殿下のこめかみには青筋が浮かんでいる。
――非常によろしくないわ。これ以上刺激するのは得策ではない。
早々にこの会話を切り上げて、この場から退出する許可を頂かなくては。
リリィが時間を稼いでくれたお陰で冷静さを取り戻すことができた。殿下の苛立ちが最高潮に達して、何かしらの暴挙に出る前にここから去るべきだ。
落ち着いて深呼吸をして――よし!
「第三王子殿下、当家の使用人が無礼を働きましたこと、心よりお詫び申し上げます」
一礼をして、改めて殿下へ向き直る。
彼はちらりと私の方へ目をやりながら、不機嫌そうに鼻を鳴らす……その様子で気づいた。
彼は戸惑っている。リリィの様子に。
自分の怒りに気圧されるどころか、平然と自分の意思を押し通そうとしている小娘に。
そして――そんな小娘1人、御せない自分に板立つことすら忘れている。
彼にとっては見慣れた世辞を述べるだけのつまらない女が現れて、彼は安心したはずだ。
私の謝罪を聞いて平常心を取り戻したことだろう。
「……はぁ」
殿下が目を伏せて小さくため息を吐く。
彼が考えを整理するときによくやる、気にかける必要もないただの癖だ。
昔は、このため息がとても苦手だった。
失望されてしまったのではないかと不安にかられて仕方が無かった。
でも、今は――――
「……まあいい。それより――」
殿下がこちらの予想通りに場を仕切り直し話を進めようとしたところで背後から、殿下を呼ぶ声が聞こえてきた。
「ロベルト!」
親しげな呼び声。声を聞くだけでも分かる。
天真爛漫を絵に描いたような明るい笑顔を浮かべているであろうことが容易に想像できる。
この王宮で彼の事をそう呼ぶのはご家族くらいのものなのだから。
振り返ると、そこには喜びに満ちあふれた顔をした――あの隠しようもない見窄らしさを醸し出す薄汚い女、ルシア・サマコイスがいた。
「探したわ、ロベルト!」
髪を振り乱し、目を輝かせ、この国の第三王子の名を恥ずかしげもなく大声でわめく。
他の人間が同じ振る舞いをすれば、彼の逆鱗に触れることは必至だろう。
こちらへ駆け寄ってくる彼女を見て、思わず舌打ちしそうになる。
「――ルシア!」
彼女の姿を見た途端、殿下の表情が変わる。
それまでの不機嫌な様子はどこへやら、満面の笑みを浮かべて彼女のもとへ駆け寄っていく。
その姿は、まさに恋する乙女のそれだった。
「会いたかったわ! どこに行っていたの?」
「すまないルシア。怖い想いをさせてしまったか?」
「ううん、大丈夫よ。ロベルトは悪くないんだから」
「いいや、オレの責任だ。すまなかった」
ルシアの前まで来ると、殿下は彼女を抱きしめた。
それは、愛を伝えるための抱擁ではなく、ただ単に自分のものだと主張するかのような強引なものだった。
ルシアは戸惑いながらも、そっと背中に手を回す。今の二人には周りが見えていないらしい。
二人だけの世界に入り込んでいる愛し合う恋人達。
「………………」
その様子を目の当たりにして、私の中の何かが色を変えていくのがはっきりと分かった。
愛していた。心の底から、彼を愛し、彼を求めていた。その想いが――……
「お嬢様?」
「……行くわよ」
踵を返す後ろで、リリィが黙ってついてくる気配がした。
当初目指していた目的地へ向かう、回廊を左へ右へとしばらく歩いてからふと後ろを振り返る――もう二人の姿は見えない。
追って来ないことに安堵しつつ、今度はゆっくり歩き出した。
後は無言で二人、馬車に乗り込み屋敷へ急ぐ。
外の風景が流れる中、私は窓辺に寄りかかり、カーテン越しに目の前を流れる風景を眺めていた。
レースカーテンの模様が、太陽の光を通して車中に美しく浮かび上がる。
その様をぼんやりと眺めながらも、心は晴れなかった。
一朝一夕では消えない思いが、この胸に生まれたことに気づいてしまった。
その娘がそれほどまでに愛おしいの?
私を殺してまで、手に入れたかったの?
幸せになれると信じ、喜び勇んで私を殺したの?
私のことなど、欠片も考えずに………………!!!
ああ、この男を――――――――――――――――――――殺してやりたい。