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01.私の結婚

「何の真似だ、穢らわしい!」

「……え?」


 冷たくそう吐き捨て、彼は差し出した私の手を払いのけた。

 寝室の窓から吹き込んだ外の寒風が、厚手のカーテンと私の髪を乱暴に揺らす。

 払われた手が痛い。分からない。理解できない。


 今のは、何? この手は、なぜ……痛みを抱えているの?

 ……風? 

 そう、そうだわ。これは風のせい。風のせいよ。


 だって彼が、愛しい彼が、私を拒むはずないもの。







 彼はこの国の第三王子ロベルト。

 そして私はそんな彼の誉れ高い婚約者。

 皆に崇められ王子妃となったのは――明るい日の光の下で永遠の愛を誓い合ったのは、ほんの数時間前のこと。


 王子妃となった私に用意された私室には、高級な絨毯、シャンデリア、美術品の数々が揃い、寝室には天蓋付きの大きな寝台まであった。


 そこで私は名実ともに真の王子妃となるのだと、

 甘い夢が待っているのだと――……


「まさか本気でこのオレがお前のような阿婆擦れを愛すると思っていたのか? お前のどこにそれほどの価値がある?」


 ――信じていたのに。


 冷たい光を帯びた瞳が、鋭く私をねめつける。

 彼の口から発せられる言葉は氷のように冷たくて……私はただ呆然と彼を見つめることしかできない。


 だって、私は待っていた。

 金をあしらった柔らかい絹の夜着を着て、希少な香油から作った高価なロウソクに小さな火を灯し、愛しい彼が来るのを待っていた。

 今夜は最高のものになると期待に胸を膨らませ、指折り数えて待っていた。


 なのに、私を見るその目は嫌悪と侮蔑に染まり、声からは愛と呼べるものなんて微塵も感じられない。


 嫌悪感を隠すこともない彼に何か言わなければと思うのに、言葉が出てこない。

 ただ、心臓だけが嫌な音を立てて早鐘を打つ。


「仮にも公爵家のご令嬢ならば分を弁えることくらいはできるだろうと思っていたが……憐れなほどに度し難い女だな」


 汚物を見るような目で私を睨み、ゴミを捨てるように血の通わない言葉を投げつけ、彼は私に背を向けて遠ざかっていく。


「お、お待ちくだ……殿下ッ!」


 ようやく絞り出した声も彼には届かない。

 静かな足音が遠ざかり、最後には閉まる扉の音が聞こえた。



 新婚初夜でこんな暴言を吐かれるまで私は夢見心地だった。

 彼が持つ夕日のように赤い髪や琥珀のように澄んだ瞳を、息をするのも忘れて見惚れていた。


 愛されていると思っていた。

 愛されたいと願い、愛されるために努力してきた。


 ――どうして……なぜなの……?!

 どうして……私はいつも……!!








 ◆◆◆◆◆◆


 由緒あるカスティ公爵家の次女として、私ベアトリス・カスティはこの世に生を受けた。

 カスティ家は王都の西方にある広大な領地を持つ貴族で、代々優秀な騎士や魔術師を輩出してきた。


 そんなカスティ家の名に恥じぬようにと、幼い頃からありあまるお金と権力をもって育てられた私は、しかし、周囲が望むような誉れ高い女にはなれなかった。


 ――勉強が嫌いだった。


 どれだけ頑張っても頭に入らない。欠片ほどの魔力も芽生えない。

 寝ずに取り組んでも、兄や姉、妹には目をつぶっていてもできることが、私にはできなかった。



『どうして、こんな簡単なことが分からないんだ?』

 見目麗しく、自信に満ち溢れた優秀な兄にそう言われるたびに、自分に価値がなくなっていくような気がした。


『まだ、こんなところを学んでいるの?』

 才知に長けた母によく似た姉にため息をつかれるたびに、自分が恥ずかしくなった。


『アレは本当に儂の子供なのか?』

 厳格で恐ろしく、聡明(そうめい)機警(きけい)な父にそう言われるたびに消えたくなった。


『オマエのせいでっ……わたくしが謂われのない責めをッ!』

 思慮深く貞淑で聡明な母が私をそう断ずるたびに、生きていて申し訳なくなった。



 父の命令でいつも突然に私の食事は取り上げられ、代わりのように折檻を受けた。愚かな私は何がいけなかったのか、何を罰せられているのか、ずっとずっといつまで経っても分からない。


 いつも、突然だったから。

 いつも、身に覚えのないことが罪だったから。



 周囲を慮る母は、不出来な私のせいで父に不貞を疑われた日から、私を鞭打つようになった。「つらい、つらい」と涙をこぼしながら。

 叩き終わる頃にはいつも泣きはらした顔をして、姉に慰められていた。


 母の心は、きっと叩かれた私の体以上に血を流していたのだろう。

 しかし、愚かな私は自分の痛みに泣くことしかしなかった。


 だからだろうか、姉が母の代わりに正義を執行するようになった。

 社交界でつまはじきにされているのは、私のせいだと叫び鞭を振るい続けた。

 浅ましく愚かな私は、姉が苦しんでいることに気づけなかった。

 姉は綺麗なドレスを買いあさり、自分で切り裂いてはなぜか私のせいにして両親に泣きついた。

 姉がそんなことをする意味が、愚かな私には分からない。


 分からない私が悪いのだと、姉は狂ったように鞭を振るう。


 ――家族全員から拒絶されても、私は家族に認められたかった。

 あの輪に、私を入れてほしかった。






 家族に拒絶され、孤独に嘖まれるようになると、着飾ることでそれを紛らわせるようになった。


『ベアトリス様がお美しいから、皆、嫉妬されているんですわ!』


 ――私は、愚かで無責任な女だった。『資産』以外に何の魅力もない女だった。

 そんな私の元に集まってくる人間の底なんて知れている。

 けれど、私は彼らを友と慕いそばに置いた。


 家族の誰よりも美しいとほめそやされるたびに有頂天になった。

 ……愚かだったから。


『ベアトリス様のよさが分からない家族など、放っておけばよろしいのですわ』

『そうですわ、お美しいベアトリス様。わたくしたちと共に仮面舞踏会へ参りましょう?』

『それはよろしいですわね。ああ、でも、わたくしもう着ていくドレスが……え? 買って下さるの?』

『でも、わたくし、宝飾品もなくて――』

『ベアトリス様、実は我が家の事業が上手くいってなくて――』

『ありがとう! ベアトリス様!』


『わたくしたち、よいオトモダチですわよね?』


 兄にどれだけ窘められても、彼らとの付き合いを辞めなかった。

 夜が明けるまで勝手気ままに遊び歩いた。

 彼らは私の持っているお金が欲しいだけだと、分からなかった。


 私を窘める家族を、尊厳を奪う敵と憎み、甘言で道を誤らせる人非人を友と慕った。


 私は、どこまでも愚かだった――。







 そんな日々を送っていたある日、友人に誘われ赴いた夜会で、私は彼を見つけた。


 大きな古い石屋敷にある薄暗いダンスホールで開かれた仮面舞踏会。

 かすかに燃える蝋燭の明かりが揺れ、怪しさを漂わせる音楽に合わせ、仮面を付けた若い男女がゆっくりと踊る――そんな雰囲気に呑まれていたのかもしれない。


 一際神秘的で美しくも品のある佇まいの彼に惹かれた。

 夕日のような赤い髪、吸い込まれそうな金色の瞳は、今まで見た誰よりも魅力的だった。


 ――あの方と踊ってみたい……。


 そう思った時、私は彼の元へと歩み寄っていたのだ。

 しかし、一歩遅く彼は既に見知らぬ女との踊りを終えており、その女と腕を組みながらホールを出ていった。

 その後ろ姿を見つめていると、友人が声をかけてきた。


「彼は第三王子殿下のロベルト様ではなくて?! ベアトリス様、お声をおかけになったの?!」

「いいえ。……もう他の女性の方とお話しされていたし」

「他の女性なんて、貴女の美貌の前には何の意味もないことですわ。そうでしょう?」


 あの時の悪友が何を考えていたのか、私にはもう分からない。

 ただ、私の頭の中に『第三王子』という言葉だけが残った。


 あの方に見初められたら、きっと……。


 どんな手を使っても、何が何でもお近づきになりたかった。

 王族に見初められる自分を想像すると高揚した。

 家族の中で最も自分が秀でていることの証明だと思った。

 姉よりも妹よりも美しく着飾ることだけはできたから。





 それから何度も仮面舞踏会に参加したけれど、結局彼とは話すこともできなかった。彼の隣にはいつも違う女性がいた。

 歯牙にもかけられていないと分かっていても、諦めることはできなかった。


 いつものように彼を探して壁の華となっていた私の下に、友人の一人が朗報を齎したのは、彼を求めて半年ほどが経った頃のことだった。


「内密なお話なのですけれど、今度開かれる王妃様のお茶会、『薔薇のお茶会』となるらしいですわ!」

「『薔薇のお茶会』?」

「あら、ご存じありませんの?」


 今の私にとってはまともな社交界自体が雲の上の話だ。

 『薔薇』だの何だのを知るわけがない。


「王妃様が王子殿下のご婚約者候補を見つけるための催しですわ」

「王太子殿下と第二王子殿下はもう大国の姫君とのご婚礼が済んでおりますから、後は第三王子殿下と第四王子殿下ですわね……」

「ご年齢からして第三王子殿下ではなくて?」

「第四王子殿下は今年で十になるのでしたかしら?」

「ええ、確か……」


 社交界の情報は、いつもこうして彼女たちから齎される。

 両親も兄も姉も、私にはいつも何も教えてくれない。

 母と姉に言わせると「私のせいで恥をかかされたから、社交界に顔を出せない」のだそうだ。


「ベアトリス様、わたくしの従姉妹がその招待状をいただきましたの。ですが、これはベアトリス様にこそ相応しいものだと思っておりますのよ」

「……そう?」

「ええ。……その代わりにお願いがございますの」


「…………お困りことを聞かせていただけるかしら?」





 ◆◆◆◆◆


 今の王妃様は、歴代随一の厳格な完璧主義者……らしい。

 たった一度、挨拶を誤った宮廷員から職を召し上げたり、不興を買った貴族を宮廷から排斥したりしたことも、一度や二度ではないと聞く。

 王宮内での秩序やルールに歴代王妃の誰よりも厳しく、貴族たちへ常に模範を示してきた。その反面、持った知識や洗練された技術を活かし様々な(まつりごと)を成功へと導いてきたのも有名な話。


 そんな彼女のお気に召すことができれば、家族だってきっと私を無視できなくなる。




 お茶会当日には、緊張しながらも王妃様の前で一礼し、彼女の厳しい視線を受け、彼女の不興を買ったのではと背筋を凍らせたりもした。


 大きな円卓に叱れた華やかなクロス、花瓶に飾られた華麗な花々、銀色のトレイから回される美味しそうな焼き菓子や紅茶、楽団が奏でる上品な音楽――そんなものを楽しむ余裕などなかった。


 王妃様や他の令嬢たちとの会話を楽しんでいるように見せかけることに必死だった。緊張して味なんて分からなかったし、何を話したかも覚えていない。

 けれど、王妃が第三王子の婚約者候補として誰がふさわしいのかと、その眼光を光らせていることだけは分かった。


 そしてお茶会の終わりに、王妃様からお言葉を頂いた。


「お前は礼節、教養、そして美しさ。全てを兼ね備えている。第三王子との婚約者候補として、ふさわしい人物であると認めましょう」


 その言葉を聞いた瞬間――喜びで体が震えた。

 私は認められたのだ。

 これでようやく私も家族の役に立てるのだと思うと嬉しくてたまらなかった。


 もう誰も私を蔑まない。

 もう誰にも馬鹿にされない。

 もう誰の顔色を窺う必要もない!

 ああ……やっと手に入れた……! 私の価値を!!



 ――そんなことを考えるような愚かな私は、気づかなかった。

 言葉を投げかけて起きながら、こちらを見てすらいなかった王妃に。






 王家からの正式な使者が屋敷に訪れたのは、茶会から一月後――。

 今までのことなど忘れ、まるで別人のように振る舞う父に驚き、戸惑いさえ覚えた。……あれだけ不出来な私を嫌悪していたのに。


「お前に婚約の申し込みが来たと聞いて本当に驚いた。流石、儂の娘だ!」


 父の言葉が嬉しかった。

 このような言葉をもらったのは、記憶に有る限り初めてだったから。


 母の複雑そうな表情や姉と妹の嫉妬に塗れた顔を見て、愚かな私は愉悦を覚えていた。勝利の幻惑に酔いしれていた。


「私は、この婚約を受け入れたいと思います。国や家族のために、私にできることをしなければなりませんもの。……ねえ?」


 私の言葉に、兄は第三王子の悪い噂を聞いていると反対するが、父は喜び、母は苦虫をかみつぶしたような顔をしつつも最終的には受け入れた。姉と妹の瞳は嫉妬に塗れていたけれど、それを制したのは父だった。

 今まで私に向けていたあの鋭い視線を、今は姉と妹に向けている。


 私は、疎まれてなどいなかった……!

 だって今は悪いことをした姉と妹が責められている!

 王家の決定を妬むなど、悪いことなのだから!


 ……私は幸福の中にいた。

 見目麗しい彼の婚約者の座を手に入れ、家族の愛も取り戻した。






 ――でも、それだけでは満足できなかった。


 彼の魅力的な外見に惹かれ、ますます心を奪われてしまったから。

 彼に自分を見てほしくて、何度も豪華な調度品を送りつけ、何度も茶会に誘い、何度も彼の元へ押しかけてまとわりついた。


 その影で、自分のためにドレスや貴金属を買いあさった。

 彼の隣で見劣りしない為に。自慢の婚約者である為に。常に最高の姿を維持していたかったから……馬鹿みたいに飾り立てた。


 侮蔑を隠そうともしない瞳で睨みつけられても、それを王族の威厳と受け取った。……馬鹿だったから。何も分かっていなかったから。


 返されるものなど一つもなかったのに。

 視界の端にも入れてもらえなかったのに……。


 愛されるには、他にどうすればいいのか分からなかった。

 だってずっとそうして来たから。

 そうやって愛情(友人)を手に入れてきたから。


 どれだけ努力をしたところで無意味なのだと分からなかった。

 誰も教えてくれなかった。


 あんなに拒絶されていたのに……私は愛されていると、望まれていると思い、彼の元へ嫁いだ。






 ◆◆◆◆


 彼から手ひどい拒絶を受けた夜は一睡もできなかった。


 こんなのは嘘よ。私は彼に愛されている。

 私は第三王子妃に相応しい。

 だって王妃様は認めてくださった!

 私は間違ってなどいない――!


 何度も自分に言い聞かせた。でも駄目だった。彼に冷たく遇われたあの瞬間が脳裏に焼き付いて離れない。

 ベッドの上で膝を抱えてうずくまりながら、必死に考えた。


 私が何か、悪いことをしてしまった……? そう……かもしれないわ。

 きっと彼は……彼は、とても優しい人なんだわ。

 だから、本当のことを言うと私が傷つくと思って言えなかったのよ。

 だからあんなことを口走ってしまったのよ。

 ええ、そうよ。そうに決まっているわ。




 翌朝すぐに彼を探した。

 慣れない王城の中を、彼を探して走り回った。

 鎧兜が飾られた廊下を素通りし、天井の美しい彫刻には目もくれずに彼を探し続けた。


 礼儀も格調もなく焦燥を隠すこともできずに走り回る私を、すれ違う人々がどんな目で見ていたのかなど、気にかける余裕もなかった。




 やがて辿り着いた中庭にある大きな噴水のほとりで、ようやく彼を見つけた。


 ――……ロベルト殿下だわ!


 女神像が吹き上げる飛沫のせいで気づくのが遅れてしまったけれど、間違いない。

 水の向こうに探していた彼を見つけた瞬間、心の底から安堵を覚えると同時に、流れる水が時折彼の姿を隠してしまうことに苛立ちを覚えた。


 ああ! 早くその透き通った瞳に私を映してほしい。

 その凜々しい声で、私の名を呼んでほしい。

 そうすればこんな不安など一瞬にして消え失せてしまうはず。



 逸る気持ちを抑えながら、ゆっくりと彼に近づいていくと――彼は見知らぬ女と抱き合っていた。


 柔らかなコスモス色のドレスを着た見知らぬ女。

 私の夫であるはずの彼が見知らぬ女の腰を抱き寄せ、女はそんな彼に撓垂れ掛かり身を寄せていた。


「――ッ!」


 目の前の光景が理解できなかった。

 心臓が激しく鼓動を打ち鳴らし耳鳴りがする。

 喉が渇いて呼吸がうまくできない。

 口の中がカラカラに乾いていく。



 眩しい光の中で二人の影だけが重なり合い、風に揺れるコスモス色の裾が花弁のように揺れる。

 二人が纏う雰囲気はとても親密なもので――そこには二人だけの世界があった。


 ――誰なの彼女は?! 何故ここにいるの?!

 彼は何故……それを受け入れているの?!


 ぐるぐると考えが頭をめぐるだけで、言葉を発することも動くこともできない。

 そして、何よりも許せなかったのは……あろうことか二人は、私が見ている目の前で……そのまま口づけを交わしたのだ。


 その途端、頭の芯まで凍りつくような怒りを覚えた。なのに、この場から動くことができない。体が石になってしまったかのように動けない。



「泣くな、ルシア。オレが本当に愛しているのは君だけだ。オレを信じろ。いつか必ず、君を良い形で迎え入れると誓う」

「ロベルト……そんないけないわ。奥様がかわいそうよ」


 彼の言葉に、女が泣いていることに気がついた。

 泣きじゃくる彼女を見つめる彼の眼差しは優しくて……それが余計に私の怒りを煽った。


 『良い形で迎え入れる』? 私を捨てるというの?

 妻となったばかりの私を?!

 ……いいえ、いいえ! そんなことはさせない。


 今すぐ飛び出していって問い詰めてやりたい。


 ――なぜそんな目でその女を見るの……?!

 それは……私に向けられるべきものでしょう!?

 貴方の妻は……誉れ有る王子妃は私なのに!!

 ……恐れ多くも第三王子殿下を呼び捨てになど……なんて不敬な……!


 喉元から出かかった言葉を呑み込み、必死に抑え込む。

 ここで感情にまかせて出て行けば、全てが水の泡になる。


 彼との未来のために、このくらいの修羅場は乗り越えなくてはならない。

 震えそうな体を叱咤し、ゆっくりと深呼吸をして心を落ち着かせる。

 別れなどするものか。私は王子妃の座を手に入れた。

 ――絶対に逃さない。




「お前は本当に身も心も美しいな。あの女とは大違いだ」


 あの女って…………私?!


「そんなことを言わないで!」


 彼女は悲痛な声を上げ、涙を散らしながら彼の腕を振りほどく。


 彼に背を向け、肩をふるわせながら、嗚咽交じりの声を漏らした。

「彼女は可哀想な人よ。誰からも愛されなくて、お金でしか愛を手に入れることができないと――いいえ。お金で愛を手に入れられると思っている、可哀想な人よ……」


 可哀想……? 私が?!


「心優しいルシア――」


 彼がその華奢な肩に手を置くと、彼女は弾かれたように振り返り、彼の胸にすがりついて泣きはじめた。彼は彼女の背中を撫で、再びその腕に彼女を抱きしめて首筋に顔をうずめる。


「君といると世界中が輝いて見える。君の存在が、僕の人生に本当の意味を与えてくれたんだ」

「わたしもよ、ロベルト。ロベルトが傍にいてくれる以上の幸せなんてないわ……」

「俺の傍にいるべき人は君だ……君だけだ! 君さえいれば他には何も要らない。これは本心だ」

「ええ! 私もよ……。だからこそ、ロベルトの一番近くにいたいわ。わたしの方が、ベアトリス様よりもずっとずっとあなたを愛しているんだもの……」

「ああ……ルシア……!」


 殿下が、ハラハラと涙を流す女の目尻に唇を落とすのを、私は見ていることしかできなかった。

 そのまま数刻たたずに唇を重ね合わせても、私は何もできなかった。

 彼が他の女に愛を囁き、口づけを交わす姿を黙って見ているしかなかった。



 時が経ち、人がまばらに行き交うようになり、抱き合うのに飽きた二人がこの場を去るまで、あの場から動くことができなかった。






 ――彼が愛していたのは、私ではなかった。


 彼が愛した少女の名は、ルシア・サマコイス。

 明朗快活で慈愛に満ちた麗しい才女。

 沢山の人々に、いつだって愛され守られていた女。


 ……私と違って。

 彼に捨て置かれていることなど、認めたくなかった。

 王子妃として用意されている少ない資産の全てを使い、今まで以上に己を飾りたて、遊びの宴を催せていたのも初めの数ヶ月だけ。

 資金がなくなれば、人は去る。


 ――王子妃となったのに。なぜ、私は今、孤独に嘖まれているのだろう。


 旗色が悪くなったら、いつも逃げをうっていた私のユウジンたち。

 決して私を信じることも、愛することもなかった私のユウジンたち。

 彼らは、私がそばにいて欲しいと願ったときに、そばにいてくれたためしなどなかった。私にルシア・サマコイスのことを教えてさえくれなかった。


 家族が今の私の状況を知ったら、何を言い出すことだろう。

 認められたはずなのに。

 やっと家族のあの輪に入れたはずなのに。



 ロベルト殿下とルシア・サマコイスが愛を語り合い、抱き合い、愛し合うのを、何度も見た。

 ただ、見ていた。見ていることしかできなかった。

 だって私の周りにはもう誰もいなかった。

 己を慕う者たちに囲まれた彼女を前に、私はいつも一人だった。

 王子妃となった私の周りには、使用人の一人もいなかった。


 それなのに――――。




 ◆◆◆


「お前がここまで愚劣な人間だとは思わなかったぞ! ベアトリス・カスティ!」


 貴族や軍人、王への謁見を臨む平民など多くの人が行き交う城内の大廊下で、ある日いきなり彼に怒鳴りつけられた。


 初夜のあの日以来、数えるほどしかその顔を見せず、言葉を交わすことなど一度もなかった彼に。



 久方ぶりの言葉が……これなの?


 彼の内にある怒りの激しさに驚きを隠せない。

 彼の目は炎のように輝き、怒りを爆発させるかのように私に向けられていた。

 私の何が彼をここまで怒らせたのか理解できずに恐怖さえ覚えた。


「殿下? 何を仰っ――」

「お前のような女を迎えたことが間違いだった! 従順さ以外に何の取り柄もない家の女と思い召し上げたら……とんだ誤算だ!」


 彼の言葉は鋭く、私の心を深く傷つける。

 自分がいかに王子にとって取るに足らない存在であるかを思い知らされる。


「なんと見苦しい……ッ! お前がオレのルシアから貴金属を奪ったことは調べがついている! それを換金してふざけた宴の資金にしているのだろう!」


 なん……ですって……?!


「殿下! 私はそのようなことはしておりません!」


「お前から贈られてくる数々のゴミがあったな……あれにも使ったのだろう! ……オレのルシアへの愛の証しを……あのようなゴミに……!」


 ……ゴミ?

 私が今まで殿下のことだけを考えて贈り続けてきた品々が……込めてきた私の心が……ゴミ……?


「どこまで愚かなのだお前は……! オレは初めに言ったはずだ! オレがお前ごときを愛することはないと! 誰にでも股を開くアバズレを、このオレが愛するはずなどないだろう!」


「わ、私は神に誓って、そのようなことしてはおりません!」


 彼の怒りに圧倒され、言葉が出る前に全身が震えてしまう。

 胸が痛くなるほどの緊張感が私を襲う。

 けれど、今ここで引くわけにはいかない。


「殿下、お心をお鎮めください……私は本当に何も――!」

「嘘をつくな! お前の悪行は耳にしていたが、よもやこれほど性根が腐っていたとはな!!」


 彼の目は依然として怒りに燃えていた。私の言葉を聞いても、収まる気配はない。


「お聞きください殿下! 私は何もしてはおりません――ッ!」


 ロベルト殿下は私の話など聞いてはくれなかった。

 殿下の恋人に非人道的な危害を加えたと断じられた。

 なんでこんなことになってしまったのか、私には分からなかった。





 誤解を解こうと思えば思うほどからまわった。

 彼に話を聞いてもらおうと城を駆け回り、彼を見つけると傍に誰がいようと構わず彼に駆け寄った。


 そんな私を見て、彼はいつも怒りを露わにした。


「お願いです、ロベルト殿下! 私の話を聞いてください!」


 私の懇願は届かない。彼は私を無視して仲間たちと先へ進んでしまう。

 彼の仲間に道を塞がれ、時には振り払われ見窄らしく地べたに打ち捨てられた。

 そんな私に、彼は一瞥くれることもない。彼の仲間たちがせせら笑う声が聞こえる。その中には……あの女もいた。


 言葉を受け取ってくれないのなら、と……私はまた彼に調度品を贈った。


 邪魔だと分かっていたのに。

 殿下にとってはゴミでしかないと分かっていたのに。


 どうしたらいいのか分からなかった。相談できる者などいなかった。

 誰も彼もが敵に思えた。 


 そんな私に手を差し伸べてくれたのは、宰相だけだった。

 第三王子妃に、国庫を好きにできる権力などない。

 金に換えるものもなく、打つ手がなくなった私に色々と用立ててくれたのが宰相ダグラス公だった。

 彼から借りたお金でロベルト殿下との溝を埋めようと、バカみたいに着飾って舞踏会を催した。


 ――国王陛下が病に倒れていたなんて知らなかった。

 いえ、ダグラス公は教えてくれていたかもしれない。私がまともに話を聞かなかっただけで。


 そんな最中に宴を開いた私に、周囲からどんな視線が向けられるようになるかは、考えるまでもない。


 殿下に顧みてもらうことしか考えていなかった。

 国政に関わる知識も経験もなかった。だから、もはやお飾りでしかない王子妃であっても、私には政敵がいることが分からなかった。


 私のあずかり知らない宴で私の振る舞いを面白おかしく言い立て、挙げ句の果てには反逆者であるという噂まで流された。

 彼らは「私が王太子殿下と第二王子殿下の暗殺計画を企てていた」という噂を自分たちで流しておきながら、国の安全を脅かす存在として私を告発した。


 偽証者の横槍によって、私には無実を訴える場所さえ与えられなかった。不当に告発され、おざなりな裁判で裁かれた。

 王太子殿下と第二王子殿下が亡くなっていたことすら、私には知らされなかったのに。


 私の言葉を聞いてくれる人なんて、ただのひとりもいなかった。




 ◆◆


 罪人となった私は、壁と床が熱い石材で作られた暗く狭い部屋へ押し込められた。

 窓や明かり取り口がなく、扉を閉められると手元すら怪しくなった。

 室内には陰鬱とした蒸し暑い空気が立ち籠め、高い湿度のせいかそこかしこからかび臭さが漂ってくる。


 扉は厚く重く大きな錠前で施錠されていた。

 寝床と思われる場所には藁や毛布が敷かれているけれど、それでも床は冷たく硬い。


 こんな場所で寝ろというの。

 死を待つだけの()()だから……?!


 身を清める場所もなく、食事は水とわずかなパンだけだけ。それすらない日もあった。


 そんな日々を過ごしながら、それでも私は殿下を待っていた。

 彼が私の無実を証明してくれると。

 私が何もしていないことを、彼ならば信じてくれると。


 信じてくれると――……。





 ◆


 最期の日は、唐突に訪れた。


 扉に差し込まれた鍵のまわる音が響く。

 牢屋の扉がギシリと大きな音を立てて開くのを感じてすぐ、暗がりから強烈な光が差し込み、分厚い甲冑を着込んだ荒々しい看守の手が私の腕をつかんだ。


「さあ、時間だ! 立て罪人!」


 有無を言わせぬ様子で、肩が外れそうな程の力で引っ張り上げられた。


 この陰鬱としたかび臭い空間に閉じ込められ、どれほどの時が経っただろう。もう、私に悲鳴を上げるだけの力は残っていない。


「もう何も言い訳は許されん。歩けなくなる前に行進しろ!」


 目的地がどこなのかさえ分からず、靴を履くことさえ許されないまま、ただ乱暴に引きずられ歩かされる。

 両手足は鉄製の枷で厳重に拘束され、雑巾のようなボロを着て、自分の意思とは無関係に処刑場へ連行されるしかない。自由が奪われた屈辱と、信じた王家が自分を救ってくれない絶望が私を嘖む。


 怒りに震える民衆が群がり、憎悪に満ちた視線が私を貫く。

 鋭い石と罵声を浴びながらも足を止めることは許されない。

 分厚い甲冑を用意してきた看守は、この事態を予測していたらしい。



 いつも、私は何も分かっていなかった。






 やがて視界に処刑場である王都中央部にある広場に設置された、粗末な処刑台が現れた。

 足元に広がる大きな魔法陣の模様が、不気味な光沢を帯びてその処刑台を取り囲む。紋様は血のような赤黒い液体で描かれ、地面に浸み込んでいるかのように見えた。


 会場には貴賓席まで儲けられ、そこには貴族や役人の喜色満面な顔が並ぶ。

 楽しい催しが始まるのを今か今かと待っているのだ。



 その彼らの中心に愛し信じ待ち続けた…………第三王子ロベルト殿下が座っていた。一番豪華な椅子に座り、その手であの女の腰を抱き寄せながら、厳しい顔つきで私を睨みつけていた。



 ――彼を愛していた。私の全てだった。私だけを、見ていて欲しかった。


 彼に相応しくあるために、着飾り美しくあることだけが私の矜持だったあの日々は……全く以て無駄だった。


 雑巾のようなボロを纏い、両手足を鎖の枷で拘束され、靴すら履かずに泥にまみれ傷ついた足を隠すこともできず、石や汚泥を投げつけられながら処刑台の階段を引きずり上げられる……こんな姿を彼の前に曝している。


 彼らの顔が、愉悦に歪むのが見えた。

 長年の夢が叶うのだと、二人は今にも口づけし出しそうなほどに色めいていた。


 彼は私を助ける気などない。それどころか――


 初めから……今、この場で……私を殺すつもりだったの……?!




 異様な魔力が広場に満ちているのが分かる。魔力など生まれてこの方感じたことがなかったのに。

 魔法陣のエネルギーが高まり、血のような液体の模様が蠢く。

 立ち尽くし、この恐ろしい光景をただ見つめるしかない。心臓は激しく鼓動し、喉が渇く。


 この広場に立つ魔法陣と処刑台から、何か邪悪な力が放たれるのではないかという予感が、私の胸に重くのしかかった。


 神へ罪人の裁きを願う請願術――通称『神の裁き』。

 それが魔法が浸透したこの世界で、最も確実な処刑方法だ。


 神に死ぬべき罪人だと認められたら最期、死から逃れる術はない。

 どれほど強靱な肉体を持っていたとしても、どれほど強大な魔力を持っていたとしても、どれほど偉大な奇跡を起こすことができたとしても、どれだけ逃げても隠れしたとしても――神の意志の前には無駄なことなのだ。


 けれど――……、

 こんなにも禍々しい陣を使って願う相手が神だというの?

 何もしていない私を裁くのが……神だというの?


 こんなに怖い思いをしているのに、私のそばには誰もいない。

 愛しい彼の頭の中に私はいなかった。初めから!

 こんな運命は嘘だ。こんな終わりは私のものじゃない。


 助けてほしい。

 誰か、誰か、誰か、誰か、誰か、誰か、誰か、誰か、誰か、誰か、誰か、誰か、誰か、誰か、誰か、誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か誰か――……



「その国賊、憎き売女の首を焼き尽くせ!」


 そこから先は一瞬だった。

 悍ましい悪意と憎しみと怒りが木霊する眩しい光が齎す激痛の中――私の命は終わりを告げた。

 婚約をしてから半年、一年間の結婚生活だった。



 最期に聞こえた声は紛れもなく……私が愛したロベルト殿下のものだった。












かなり久し振りの不定期連載です!

完結できるまで気長にお付き合いいただけると嬉しいです。


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