四の五 翻意
一足、いや一飛び遅かった。
鉄砲隊の先発隊が谷の入り口近くに陣取っている様子が空から見て取れた。夜は明けつつある。
谷間の険しさ、川の流れの激しさに阻まれ、往生しているものの、鉄砲隊の全隊がいずれは八牙谷の谷底にまで達するだろう。森の獣たちが鉄砲隊の進出を避け、八牙谷のさらに奥の谷へと向かっている。龍もまた谷の奥へ、その先の九頭岳を目指していた。そして鉄砲隊はその龍たちにむかって鉄砲を撃ち放っているのだった。
「急いでくれ」
白仙のたてがみを握る手に力が入る。伊佐那の気持ちが通じたのか、白仙がその翼を速めた。
谷底にむかって突き出た楼閣の縁を目にするなり、白仙が降りるのを待たずに伊佐那は縁の上に飛び降りた。
「白仙、お前は姜夏のもとへ戻れ! 急げ!」
空を舞う白仙にむかって伊佐那は叫んだ。二度、三度、谷間の空を旋回したかと思うと、白仙は来た道を引き返していった。
「起きろ、春日! 寝ている場合じゃねぞ!」
声をはりあげながら伊佐那は奥へと駆けこんでいった。
「何事か」
春日がのっそりと自室から顔をのぞかせた。
「誰かと思えば伊佐那ではないか。谷から落ちてのうなったとばかり思うていたが、生きていたか。それともあの世のものか? わしはもう逝ったのか?」
「おい、ばばあ。しっかりしろ。寝ぼけている場合じゃねえんだ。今すぐ谷から逃げろ。もうすぐ鉄砲隊が龍を追って谷に攻め込んでくる」
春日の着物の袖をつかみ、伊佐那は春日を縁へと引きずりだした。日は山の端にかかり、谷の入り口にたむろする鉄砲隊の姿を明らかにしつつある。
「夢、幻ではないからな。現の出来事だ」
「お主、どうやってここまで来たのだ?」
春日がふいに明後日の方向の問いを投げかけてきた。
「龍に乗ったのか? 龍嫌いはどうした?」
「行きがかり上、やむなしってとこだ」
にやけている春日にむかって言い捨てる。
「鉄砲隊が谷に向かっていると聞いたんで、逃げろと忠告しにきた。ここにくるには龍に乗るしかねえだろうが――」
はたと様子のおかしいのに気づく。あれだけの大声をあげたのだ、眠っていられるはずがないというのに、春日の他には誰も姿を現さない。
「逃げるとは、いずこへかな?」
春日が落ち着き払った声で言う。
「春日? 他のものはどうした?」
春日の老いた目は遠く西の方を向いていた。
「みな、行ってしまった……」
「龍を守りにか……」
水城を襲った龍はどうなったのか。逃げろと忠告したものの姜夏は水城へ向かっただろう。無事でいるだろうか、無事でいられるだろうか。八牙谷からは毎日ように姜夏が龍を連れて水城のある西にむかってはその数を減らして帰ってきたものだった。谷に戻って来れていただけでも幸運だったのかもしれない。よしんば今夕、谷に戻ってこれたとしても、その谷がはたして残っているのやら。
「龍は我らの庇護など必要としていないというのにのう」
「春日たちは龍を守る龍守だろう? 散々、俺の龍退治を邪魔しやがってきたくせに。おかげで取り逃がした――生き延びた龍はいるんだから、龍の方では感謝してるんじゃねえの」
「龍守とはお主たちが勝手にそう呼び慣わしているだけじゃ」
「そうは言うけどよ、姜夏たちが龍を守っていなければ龍はとっくに滅んでいたぜ。今も、おそらく水城で龍を必死に守っているはずだ」
「わしは反対じゃった。龍を守ろうとすることにな。われらは龍と共に生きる者。守ろうとは、おこがましくはないか?」
春日と姜夏の激しい声音での言い合いなら、たびたび耳にしてきた。姜夏の身を案じているのだろうぐらいにしか考えていなかったが、意見の相違があったとは。
「龍は我らが助けが必要なほど弱くはないのだよ」
「そうだな……」
龍の強さなら身に染みて知っている。人が挑んで敵う相手では所詮ないのだ。だからこそ伊佐那は右腕を切り落とし、鬼の腕を付けた。人外の力を借りなければ龍の相手はまともに出来ないからだ。龍を守る必要はないという春日の言い分には納得がいく。しかし、その強いはずの龍を凌ぐ力を人は手にした。
長い隊列を成し、先頭で火花散らせながら弾を撃つ鉄砲隊は火を吹く龍のようにも見える。人では適わない龍だが、龍のようなものならば互角、下手をすると龍を凌駕してしまうかもしれない。
「鉄砲の世では、龍はあるいは守ってもらう必要があるかもしれない」
「姜夏も同じことを言っておったな。お主らはほんに似合いであったというに」
この朝初めて春日が柔らかな表情を浮かべてみせた。
「龍には龍の道がある。それは共に生きるとはいえ、我ら人とは違う道だ」
「滅びの道を行くのを黙って見ていろと?」
「お前は龍に滅んでもらいたかったのではなかったか?」
「姜夏にもそう言われた」
伊佐那は両手をじっと見た。
てのひらに感じた白仙のぬくもりをまだ覚えている。もう龍を斬れそうにもない。やっぱり乗るのではなかった。
殺された村人一人につき龍千匹斬ると誓った。龍に敵うだけの力欲しさに右腕を切り落とし、鬼の腕をつけたというのに。
鬼の腕を付けている痛みは尋常ではない。酒を飲んでも飲んでも痛みは和らがない。龍に食い殺された者たちの痛み恨みつらみを負っているのだとしてひたすら耐え続けてきた。
痛みは日々増していき、この頃では鬼の腕が人の体を侵食し始めている。右腕の肘から先の鬼の腕は手入れを怠るとすぐさま爪がのび、剛毛に覆われてしまうが、近頃では二の腕から肩にかけての肉質が鬼のそれに入れ替わりつつある。鬼の侵食は背中へと拡がりつつあり、右半身が鬼と化すまであまり間がないと思われた。
人でいられる時はあまり残されていない。
そうまでして龍を斬り続けてきたというのに――
「お主のその右腕は鬼の腕じゃな」
「気づいていたか」
「だてに年は取っておらん。鬼も昔は数多にいたものを。龍もまた鬼のように滅びていくのじゃな」
「龍が滅びていくのを口に指くわえて黙ってみているつもりか」
「なにが出来ようか」
気色ばむ伊佐那を春日がやんわりと牽制する。姜夏もまた、伊佐那が得た苛立ちを感じていたのだろうか。
「龍はそもそもその数を減らしつつあったのじゃ。滅びゆく宿命じゃ。生きとし生けるもの、すべて栄えたままではいられない。それは人も同じこと。鬼が滅び、龍が滅びゆくように人もまたいずれ滅びる。鉄砲の力に頼るものはいずれその力によって滅ぼされよう。滅びに至る道は短いものじゃ……」
鉄砲隊は確実に谷に迫りつつあった。彼らを阻むものは両側にそびえる険しい崖と龍の群れだ。姜夏が率いる八牙谷の龍たちだった。水城から取って引き返してきたか、今は鉄砲隊の前に立ちふさがり、その侵攻を食い止めようとしている。その中に雲とみまごう姿があった。白仙、姜夏、あれほど逃げろと忠告したというのに。
横に立つ春日を見やると、春日も白仙と姜夏の存在に気づいたようで悲し気な表情を浮かべていた。
「さて、では、わしもそろそろいくかな」
春日が一歩足を前に踏み出した。それ以上は落ちてしまうと危ぶんだ瞬間、春日の二の足は宙に踏み出していた。
「姜夏を頼む」
そう言い残し、春日の体は谷底へと落ちていった。
「頼むって、簡単に言いやがってよ」
伊佐那は空を仰ぎ見、ため息をついた。
「まあ、頼まれちゃあ、しょうがねえか」
縁の端に立ち、伊佐那は勢いをつけて跳んだ。体が宙に浮く。足元に龍の背が見えた。鉄砲隊に追われて逃げ惑う龍の群れの中に伊佐那は飛び込んでいた。龍たちの背に次々と飛び移りながら、伊佐那は地上を目指した。
鉄砲隊を前に姜夏たちはなす術がなかった。もとより龍の庇護が目的だから人を傷つける術を持たない龍守たちである。龍のするどい鈎づめで空から牽制するも鉄砲隊を止めるには至らず、はがゆい思いでいる伊佐那の目の前で龍たちは次々と鉄砲の餌食になっていく。
「姜夏! 逃げろと言ったろうが! なぜ戻った?!」
銃声にかき消されぬよう、がなり立てる。姜夏は白仙の背に乗り、鉄砲の届かない宙を飛び続けている。
「谷が気にかかった。春日を残してきたからな」
「春日なら逝った。お前を頼むと勝手に頼まれたぞ」
「春日が……」
呆然とする姜夏にむかって鉄砲の筒先が向いていた。素早く駆け寄り、鉄砲の筒を握り、筒先を下へと折り曲げる。弾が足元ではじけ、足を撃たれた男がもんどり撃って倒れた。
命を助けられたはずの姜夏は怯えた目で伊佐那を凝視していた。人が鉄砲の筒をまるで飴のように曲げることなど出来るはずもない。
「伊佐那、お前は一体、何者なのだ」
鬼か。鬼だな。叉和にはいずれ鬼になると忠告された。鬼になるのか。いや、みずから腕を切り落とすという狂気の沙汰をやってのけて以来、人ではなくなっていたのだ。力に頼るものは同じその力に滅ぼされる。春日の言い草が身に染みた。
「姜夏、みんなを連れて逃げろ。何かを守るためにとはいえ一度でも命を奪えば俺のような化け物になる。春日は知っていたんだ。知っていたからこそ、お前のやろうとしていたことに反対していたんだろう。戦うな、逃げろ!」
そう言い捨てるなり、伊佐那は鉄砲隊の中央へと突進していった。
目についた鉄砲から手当り次第、筒を折り曲げていく。伊佐那が押し入ってくたびに悲鳴があがる。鉄砲を投げだして逃げ出すものもいる。強者は鉄砲を撃ち続けた。
いかに伊佐那が縦横無尽に鉄砲を曲げようとも、一人で無数の鉄砲隊にかなうはずもない。伊佐那の手の届かない後方の鉄砲隊からひっきりなしに弾が撃ちこまれた。
たちまち辺りに煙がたちこめる。姜夏は、白仙は逃げのびられただろうか。煙にむせかえりながら伊佐那は空を見上げた。龍の群れがすっかり日のあがった東の岳へと去っていく。胸をなでおろしたのも束の間、伊佐那の目は朝の空が揺らいでいると鋭くとらえた。
朝の空にたったさざ波はその波紋を大きく広げ、いまや鉄砲隊の上空へと迫ってきていた。
轟音をたてて空が割れた。




