表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
おかみと  作者: あじろ けい
第四章
21/26

四の二 奔流

 まんじりともせず、伊佐那は夜が明けるのを待った。

 日が昇ると一旦風が絶えた後、東よりからの風が吹き始める。女たちはその風に乗って西に向かう。風が吹き始め、女たちが起き出すまでのわずかな時間が伊佐那に与えられた脱出の猶予だ。

 姜夏は、毎日のように西に向かって行っては疲れ切って八牙谷に戻ってくる。昨晩も戻って来るなり春日の部屋に引きこもり、明け方近くまで話し込んで伊佐那をやきもきさせた。姜夏が引き連れる龍の数は日に日に多くなっていったが、戻ってくる数は少なくなっていった。

 西で何かが起きている。伊佐那は西へ行くと決めた。

 空は淡い色合いだ。死んだ風が向きを変えて吹き始めている。雪はすっかり解けたが、風の芯にはまだ冷たさが残る。伊佐那は身震いした。

 見下ろす谷は深い。遥か遠くに糸くずのように見えているものは谷合を流れる川だ。川は山を降りていく。伊佐那の考えでは、川の流れに乗っていけばいずれどこかの人里にたどり着くはずだ。

 問題は、どうやって川に降りるかだった。飛び下りるわけにもいかない。かといって龍の背には乗りたくない。

 伊佐那は、懐から鹿の皮を取り出し、広げた。八牙谷の子どもたちは鹿の皮を両手足に結びつけ、谷を吹くを風をはらませて自由に空を飛ぶ。彼らにとっては遊びだが、翼もなければ龍にも乗れない伊佐那には地上に降りる手段と見えた。

 鹿の皮は仲良くなった子どもから譲ってもらった。飛び方は見よう見まねで覚えた。飛ぶのは一度きり、上手く川に落ちることができなければ地面に激突する。一か八かの賭けだ。

 伊佐那は風が勢いをつけるのを待った。強すぎては飛ばされる、弱すぎては谷底に真っ逆さまだ。空が白み、日が崖の端にかかると空気が暖かくなった。風が軽やかになった。

 今だ。伊佐那は谷底目がけて飛び降りた。すかさず鹿の皮を結び付けた両手足をめいいっぱい広げる。風をはらんだ鹿の皮が大きく膨らみ、伊佐那の体はふわりと上空にむかって浮き上がった。吹き上げられないよう両手に握る皮の端を引き込み、風を逃がす。体は急激に下降し始めた。即座に手を緩め、皮と背の間に風を招き入れる。体は再び浮き上がっていく。すかさず皮を引き込んで風を逃がす。風を取り込む、逃がすを繰り返しながら、伊佐那は川面を目指した。

 想定していた動きは水鳥のそれだった。翼をはためかせて風を切り、勢いを殺して水面に降りる。翼をはためかせるかわりに鹿の皮を引き込んで風を押し殺し、ゆっくりと川面に降りるはずだった。

 何度目かに鹿の皮を引いた時だった。思いの外、風が逃げてしまい、伊佐那の体を押し上げるはずの腹の下に流れる風が絶えていた。伊佐那の体は勢いよく谷底の川面に叩きつけられた。

 飛沫をあげ、川は大きな口を開けて伊佐那の体を飲み込んだ。飛び込んだ勢いのまま、川底へと引きずり込まれていく。伊佐那は必死にもがいた。両足首にくくりつけた鹿の皮が動きを阻む。口から泡を吐きながら、今は頭上にとある水面を目指す。

 風よりもはるかに重い水をかきわけ、ようやくのことで川から頭を出した。やっと息ができると思い切り吸い込んだ勢いで水をしこたま飲みこんでしまい、むせてしまった。

 目的であった川にたどり着き、後は流れに乗るだけと安心するのは早かった。雪解けの水は冷たく、勢いが強かった。足先から凍りついていき、猛り狂った流れにもみくちゃにされ、思うような身動きが取れない。必死にばたつかせているはずの足の存在が感じられなくなっていった。冷たくなった血が心の臓へと迫りつつあった。ああと、ため息をついた次の瞬間、伊佐那の頭は水の中へと沈んでいってしまった。

 水面に落ちた葉のごとく、伊佐那の体は力なく川の流れのなすがままに運ばれていくばかりだった。迫る岩を避けられるはずもなく、流れと共に伊佐那の体も岩に強くうちつけられる。水は砕け、伊佐那は弾き飛ばされた。飛ばされた先も荒い流れである。流れにもてあそばれ、岩に打ちつけられながら、伊佐那の体は押し流されていく。あらがう間もなく、伊佐那は滝つぼへと叩き落とされていった。


 一生、水は飲まなくていいというほど、しこたま水を飲んだ。目を覚ました時、息を吸うよりも先に水を飲み、むせかえって起き上がったくらいだ。

 伊佐那は浅瀬に押し流されていた。川幅は広がり、流れは穏やかだ。下流まで流されてきたとみえる。

 どのあたりだろう。伊佐那はぐるりと周囲を見回した。遠くに山が連なっていた。山間の谷のどれかが八牙谷だろう。浅瀬の近くには芽吹き始めた木々が連なる。地面は平だ。人がいる気配はまだなかったが、小さな村落ならそう遠く場所、歩いて行ける範囲にありそうだ。

 足首にくくりつけた鹿の皮を外し、伊佐那は浅瀬を歩き始めた。川の流れを下っていけば人里近くへとたどつくはずだ。

 日は高くなりつつあった。伊佐那は立ち止り、空を見上げた。雲一つない晴れた空だ。その空のところどころが揺らいでいた。空と見分けがつきにくいが、何匹かの龍が飛んでいる。彼らの行く先と川の流れていく先が同じだった。

 急ぐか。

 空を見上げ、龍の腹を目の端で追いながら浅瀬を駆けていく。

 パァーン……パァーン……

 火の弾け飛ぶような乾いた音が響き渡った。伊佐那は足を止め、耳を澄ました。

 パパァーン……

 間違いない。鉄砲の音だ。鉄砲を使う者がいるということは、龍もしごく近くにいるということだ。

 寒さではなく、興奮で体が震えた。

 はやる気が足を駆り立てた。顔にまでかかるほどの水しぶきをあげ、伊佐那は音のする方を目指した。走りながら腰に手をやったものの、あるはずの風牙はない。山狩りのあの夜、一つ目と対峙した時に失くしたきりだった。しまったと足を止め、空を握る手をみると、血しぶきがついていた。

 一足遅れた。鉄砲に撃たれて死んだ龍の死体が川にいくつも浮いている。周囲は血の溜まりである。かたわらには由良と若い女がいて、二人は言い争っていた。

 どうやら、女が龍に襲われたところを由良が助けたのだが、女は感謝するどころか鬼のような形相で由良を睨みつけているのだ。

「なんだ、生きていたか」

 最初に伊佐那に気づいたのは由良だった。

「伊佐那!」

 由良が投げかけた視線につられるようにして振り返った女が一目散に伊佐那に駆け寄ってきた。女は沙智だった。しばらく会わないでいるうちに沙智の女ぶりがあがっていて、伊佐那は気後れがした。

「やっぱり生きていた!」

「そう簡単には死なねえな」

「今までどこで何してたのさ」

「寝てた。春になったんで起きた」

「まるで熊だな。姿も熊そのものだ」

 由良の言う通り、伊佐那の髪も髭も八牙谷にいる間に伸び放題だった。

「熊に間違えられて、お前に撃たれなくてよかったぜ」

「そうだな。撃っていたら、今頃お前は生きてはいない」

 悔しいが、川に浮かぶ数体の龍の死体を見るまでもなく由良の鉄砲の腕は確かだ。

 それにしてもと、伊佐那はあらためて周りを見回した。由良が撃ち殺した龍の死体が累々と横たわっている。由良がいなかったら、無数の龍に襲われて沙智の命はなかったはずだった。

「数が多いな」

 伊佐那はひとりごちた。単独行動を好んでいたはずの龍が群を成すようになっている。気づいてはいたが、たかが沙智一人相手に数で襲いかかるとは、もはや闇雲に人を襲っているとしか考えられない。いくら腕に覚えのある伊佐那でも数で襲ってこられては勝てる気がしない。それは鉄砲を用いる由良とて同じはずだ。数で畳みかけろと言わんばかりに、龍は大勢で人を襲っている。

 パーン……

 遠くで鉄砲の音がした。別の場所でも龍が人を襲っているのだろう。パパーン、パーン……鉄砲の音は二度、三度と鳴り響いて途絶えた。鳥と共に数匹の龍が飛び立っていく様子が見えた。どうやらあちらでは龍が勝利したらしい。

「何が起きているんだ?」

 伊佐那は由良を見やった。

「龍が迫って来ているのだ」

「違う! あたいたち人間が龍の住処を侵しているんだ」

 由良の言葉が終わるか終わらないかのうちに沙智が畳みかけた。

「山を崩し、森を切り開いて、龍に迫っているのは人間の方じゃないか」

「人も食わねばなるまい。生きていくために森を開いているのだよ」

「食うため以上に森を焼いているじゃないか! 人一人、生きていくのになぜ山一つ切り崩す? 殿様一人住む城のためにどうして森の木を千本切り倒す必要がある?」

 由良も伊佐那も、沙智の疑問に対する答えはもっていなかった。もっとも、沙智の言い様は問いかけているようであって、責めていたのだったが。

「龍にしたら、龍の領域を侵してくる人間を追い払っているだけなんだ」

「……それは私たちとて同じこと」

「あたいたちの方が退けばいい。進んできたのはあたいたちの方なんだから。どうして前に進み続ける?」

 沙智の言葉に、伊佐那は上流を振り返った。その先には八牙谷があり、龍たちが静かに暮らしている。人が前へ前へと進み続ければいずれ八牙谷の龍たちと会いまみえることになるだろう。そうなった時、八牙谷の龍たちはどうするのだろう。人を押し戻そうと牙を向くのだろうか。

「退くにはもう遅すぎる」

 陰鬱な面持ちで由良が空を見上げた。空に擬態する龍の姿は見えない。だが、騒がしい空の底はそこに龍が群れている証だ。

「やっぱり由良は意気地なしだ。迫ってくる龍を離れた場所から撃つしかない。龍が倒れてから前へ進むんだろう? 見損なったよ」

 赤く腫らした目で由良を睨みつけたなり、沙智は森の中へと駆けていってしまった。「沙智!」と由良が声をかけたものの、沙智の足は止まらず、由良も追いはしなかった。

「嫌われたな」

 そう言うと、由良は苦笑いを浮かべてみせた。

「龍守のような口をきくようになった。困ったものだ」

 姜夏の影響だろう。よくはないなと伊佐那は憂いた。人の手から龍を守ろうとしている姜夏の疲労は日に日に濃くなっていっていた。鉄砲を手に前へ前へと進んでいく人間相手に龍を守り続けることは難しくなりつつあるのだろう。

 伊佐那は空を見上げ、白い雲を探した。白仙――生きているか。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ