三の六 邂逅
恋慕の情とは違う。だが、会いたいと焦がれる思いは恋情に近しいのかもしれない。
会いたいと願っていた“一つ目”にようやく会えた。伊佐那の胸は高鳴った。
一つ目――左目のつぶれた龍を伊佐那はそう名付けた。左目をつぶしたのは伊佐那本人である。
まだ二つ目がそろっていた頃、その龍は伊佐那の村を襲った。父さん、母さん、そして妹の菜桜を食い、龍は伊佐那に襲いかかってきた。とっさにふりあげた手にあった鉈が龍の左目を潰し、伊佐那は命拾いをした。村を滅ぼし、家族を食ったその龍に伊佐那は復讐すると誓った。
殺された村人一人につき龍千匹を殺す。もちろん一つ目もだ。次に出会った時が一つ目の最期の時になる。
風の便りに一つ目の噂は聞いていた。見境なく人を食い殺す隻眼の龍。おかみとの間でも一つ目の名は轟いていた。悪名高い一つ目を倒せば、おかみととしての名をあげられる。野心を抱く多くのおかみとが一つ目に挑んでいっては命を散らした。
伊佐那は一つ目を追った。追いかければ逃げるとでもいうのか、一つ目と伊佐那は行違ってばかりだった。伊佐那が向かう前に一つ目に村が滅ぼされているか、伊佐那が立ち去った後に一つ目が村を襲う。そのうちに一つ目の名をぱたりと聞かなくなった。ついに一つ目も死んだかとおかみと達は噂した。一つ目がおのれ以外のおかみとに殺されるはずがない。一つ目は死んでなどいないと伊佐那は信じて疑わなかった。
一つ目は生きていた。ずっと憎んできた相手だったが、いざ再び会いまみえてみれば昔馴染みに会ったような懐かしさがこみあげてきたのは奇妙だった。
久方ぶりに相対する一つ目は、まるで雲を仰ぎ見るかのような巨体と化し、人でいえば壮年の風格である。左目の傷は言うに及ばず、首、胴体、翼とあちらこちらに大小無数の傷痕が見受けられた。変われば変わるものよと感慨深く思うにつけ、伊佐那自身も鬼の腕を得て、かつての非力な少年ではもうない。
一つ目は雷鳴のごとくの咆哮をあげた。他の龍たちも共鳴するかのように一斉に雄叫びをあげる。
一つ目の威嚇にも伊佐那はたじろがない。一つ目に怯え、逃げ惑う人々の中にあって一人、一つ目を見据えて立っている。逃げようとしない伊佐那を妙に思ったのか、一つ目がその巨大な顔を伊佐那の目の前まで寄せてきた。生臭い鼻息が伊佐那の顔にかかる。
「よお。俺が誰だかわかるか?」
鉄砲を捨て、伊佐那は風牙の刃先をまっすぐ一つ目の潰れた左目に向けた。
「お前の左目を潰した男だ。忘れてはいないだろう?」
一つ目は大きく口をあけた。まるで仇と判った男との再会を喜んで笑っているかのようだ。
「そうだ、俺だよ。俺もお前に会えて嬉しいぜ。俺に殺されるために今の今まで生き延びてきてくれて、ありがとよ。だが、生き延びたその命も今日限り、俺がもらい受ける!」
ヒュンッ
一つ目にむかって風牙を振り下ろす。
カツッ
風牙の刃を一つ目が左手の鈎づめで受け止める。
「挨拶ってとこかい。いいだろう。次からは本気出していくぜ」
一つ目の鈎づめから風牙を引き抜いたかと思うと、間髪入れずに飛びかかっていく。一つ目は巨体に見合わない俊敏な動きで風牙の刃先を避ける。蜂のような機敏な動きで跳び回る伊佐那を、一つ目は両の翼をはためかせたり、長い尾を振り回したりして叩きつぶそうとするも、伊佐那は軽い身のこなしで次々と繰り出される一つ目の拳をいなしていく。
伊佐那は笑っていた。嬉しくて仕方ないのだ。これまで何匹もの龍を倒してきたが、一つ目ほど手ごたえのある龍はいなかった。強ければ強いほど倒しがいがあるというものだ。
一つ目も大きな口をあけて笑っていた。龍が笑うのだろうかと疑わしく思わなくもないが、少なくとも伊佐那には笑っているようにみえた。
「一つ目、お前も嬉しいか。俺ほど戦いがいのある強いおかみとには出会ったことがなかったろう? 弱い奴をいくら倒してもつまらん。強い奴を一匹倒してこそよ。風牙もお前のような強い奴相手なら斬りがいがあるというものよ!」
虚を突き、一つ目の背に飛び乗る。すかさず風牙を突き立てようとするも、あっとい間に振り落とされる。
力の差があった。一つ目の巨体は動き回るには不利に働いたが、圧倒的な力を生み出すには利となる。伊佐那の小さな体は逃げ回るには利に働くが、致命的な傷を負わせるには不利となった。互いの利と不利とは初めのうちこそ拮抗していたが、力の利が次第に優勢になりつつあった。
苛立ちが焦燥にとってかわる。隙が生まれたのか、一つ目の鋭い鈎づめの先端が伊佐那の胸をかすめ、着物を切り裂いた。
次は肌を切り裂く。一つ目の右目がそう言って笑っていた。
強い。肩で息をしながら、一つ目を睨む。
風牙をもってしても、鬼の腕の力をもってしても、一向に歯がたたない。一つ目の方では伊佐那に掠り傷を負わせたというのに、伊佐那の方は一つ目の鱗をかすりもしていない。
一つ目の噂をぱたりと聞かなくなった理由に合点がいった。一つ目が襲った場所は人はおろか草木も残らない惨状と化す。生き延びて一つ目の悪行を物語る人間がいないからこそ、一つ目の噂もまた絶えてしまったのだ。
一つ目を倒し、生き延びることが出来るだろうか。
ふと心の隙間に浮かんだ弱気を振り払うように伊佐那は首を振った。
「死なばもろともよ!」
気持ちを奮い立たせ、一つ目にかかっていく。
カッ
風牙の刃を一つ目の鋭い鈎づめが受け止める。
力を振り絞り、刃を肉に食い込ませようとする。並みの刀の刃ならとうに折れているが、風牙の刃は一つ目の鈎づめを受けてなお耐えている。
おのれの体の重みを風牙全体に乗せる。あと少し――
すぅと目の前が暗くなった。燃える森も炎も消えて見えなくなった。だらりと生温かいものが頬に垂れ落ちてきた。一つ目をとらえることができなくなるではないか。左目にかかるそれを、伊佐那は手の甲でぬぐった。ぬぐっても、ぬぐってもそれは左目の上を流れ落ちてきた。
血だ。一つ目の鈎づめが伊佐那の左目を掻いていた。
「仕返しってわけだ。根にもっていやがったんだな」
一つ目は喜びの雄叫びをあげ、両の翼を羽ばたかせた。炎は勢いを得、火の粉があたりに舞い散った。あおりをくって伊佐那の体は地面へと投げ出された。
とどめをさしてやるとばかりに一つ目が向かってくるのが滝のように流れ落ちる血の隙間から見えた。
勝負だ。
ふらつく足取りで立ち上がろうとする伊佐那だったが、突如わき起こった横殴りの風に勢いよく吹き飛ばされた。
風の正体は歌名女、鬼の女だった。
「勘違いすんじゃないよ。あんたを助けたわけじゃない。あんたは亭主の大事な宿主だからね。死なれると困るのさ」
「なら、礼は言わねえぜ。どちらにしろ、お前の助けなんか要らなかったがな」
「減らず口たたきやがって」
歌名女の背後に一つ目の牙が迫っていた。
「歌名女!」
伊佐那は歌名女の肩をつかみ、地面に引きずりおろした。伊佐那と歌名女とは勢い余って抱き合うような格好で地面に横たわるはめになった。
「おや、もう亭主面すんのかい?」
まんざらでもないとばかりに歌名女が艶っぽい笑みを浮かべてみせた。鬼の女でなければ歌名女はいい女である。
「一つ目を殺した後になら、この体、好きにするがいいさ。だが、それまではあんたの亭主の腕が要りようなんでね。ちょっとの間、借りとくよ。なあに、すぐに済むからさ」
「お前のような人間ごときが龍を倒せるものか」
歌名女はケラケラと嘲り笑った。
「俺はおかみとだ」
「よく見ろ。あれはもはや龍ではない」
燃え崩れていく森の中を一つ目は縦横無尽に駆けまわっていた。長い尾の先で人をなぎ倒し、一歩足を前に出せばその下に人を踏みつぶす。手当り次第に人を掴み取っては地面に叩きつけ、両の翼をはためかせて強風をあおり、鉄砲の弾を吹き戻す。
「わかっている。一つ目はただの龍ではない。……あれは、化け物だ」
「化け物なんて生易しいものでもないよ。あれは神だ。人が神と戦って勝てるものか」
「人ならば、な」
伊佐那は風牙の柄を強く握った。伊佐那を見つけた一つ目が狂ったように突進してきている。
「鬼なら勝てよう!」
伊佐那もまた一つ目目がけて駆けた。風牙の刃が逆らう風を切ってヒュンッと鳴る。
一つ目の懐にすばやくもぐりこむ。心の臓をめがけて斬りつけようとするも、一つ目の鈎づめが伊佐那の体をつかみ、地面に叩きつけられた。
土埃と火の粉とを吸い、咳き込んでいる間に、一つ目の足が伊佐那の体を踏みつけていた。
鈎づめの間から手足を出し、伊佐那は必死にもがいた。どうあがいても一つ目の足をどかすことができない。手足の先がしびれてきた。息が苦しい。ミシリと骨のきしむ音が耳の底でなった。一つ目は笑っている。伊佐那の目の前に顔を突き出してみせ、大きくあいた口の中にはかつて人間だったものの一部が見え隠れしている。
「およし。この男はあたしのものだよ」
歌名女が一つ目の足を軽々と持ち上げ、一つ目をひっくり返した。地が轟き、火の粉が荒れ狂ったように舞う。
でんぐり返りをうち、一つ目は立ち上がった。その手が歌名女を掴みとった。歌名女は一つ目の指に噛みついた。悲鳴をあげ、一つ目は歌名女を手放した。宙返りをしながら歌名女は両の足で再び地面に立った。歌名女の裾の隙間から一つ目の足が向かってくるのが見えた。
「おや、ひっくり返されて怒ったのかい? いいよ、相手になってやろうじゃないの」
「やめろ、歌名女! 一つ目は俺の獲物だ。俺が倒す!」
地面を這いつくばり、伊佐那は歌名女の足首をつかんで引き止めた。
「およしってばっ!」
膝から落ちそうになる歌名女の体を、一つ目の口がくわえた。鋭い牙が歌名女の柔らかい肉に食い込んだ。断末魔の悲鳴があがる。一つ目は大きく口を開けたかと思うと、歌名女が逃げ出す隙も与えずに再び牙をその体に突き立てた。骨の砕けていく音が鳴った。歌名女は息絶えていた。
歌名女の死体を吐き出し、いよいよお前の番だと言わんばかりに一つ目が地面にうつ伏せている伊佐那の目の前に迫った。とうに骨の砕けた伊佐那はだらりと両手両足を広げて最後の時を待つほかはなかった。
突如、轟音が鳴り響いたかと思うと、地面が激しく揺れた。燃え尽きた木々が次から次へと倒れていっているのだ。ついに山そのものが燃え尽きようとしている。火の粉がひときわ激しく夜空に舞い上がっていった。伊佐那の背にもまだ火の残る木が次々と重なり落ちてきた。狭まっていく視界の中、伊佐那の目は火の粉とともに夜空をかけあがっていく龍の姿をとらえていた。




