三の三 龍守
街道を行く沙智の背後に夜が迫っていた。秋の日はつるべ落としだ。気のせいか、足音まで聞こえるようだ。
由良の頼まれ事で外出したついでに旅籠に寄り道したのがまずかった。金の工面に苦労していただけで、ひょっとしたら今ごろになって返しに戻ってきているかもしれない。金を返しに戻ってきたのかだけでも旅籠の連中から聞きだせないだろうかとふと思い立ち、洛外にまで足をのばした。
だが、肝心の旅籠の前まで来て、沙智は踵を返した。伊佐那は金は返したという事実を知らされるのが怖くなったのだ。金だけ返しておいて沙智の行方については気にもかけなかったというのではあまりな仕打ちだ。知りたくない事柄というものがある。真実を知るくらいなら、伊佐那は龍に食われてしまい旅籠に戻ってきたくてもこれなかったのだという虚実を信じていきたい。
二人して旅籠を追い出されてから幾月にもなる。今の今になっても伊佐那からは音沙汰がない。旅籠で作った借金を返しているのであれば、沙智は伊佐那に見捨てられたのである。所詮、伊佐那とは縁が切れたということなのだ。
由良とは縁あって、沙智は今、由良の邸で生活している。沙智に会いに春海楼まで足繁く通ってきていた由良だが、通うのが面倒になったらしく、沙智を自分の邸に引き取った。話し相手になってくれるだけでいいと言われ、綺麗な着物をあてがわれて請われた時にだけ由良の相手をする。それ以外は自由の身で好き勝手している。
ならばと見よう見まねで剣術の稽古をしているが、好きにしていいと言っているはずの由良は、剣術の稽古に関してだけはいい顔をしなかった。由良は鉄砲を使うおかみとだから、刀など古いと否定しているのだろうかと思っていたが、どうもそういうわけでもないらしい。おかみとになりたいという沙智の希望を知っているくせに、おかみとにはなってもらいたくないような節がある。おかみとになって欲しくないのかと思い切って尋ねると、少しの間を置いたのち、由良は「そうだ」と答えた。
「他に生きる道を探して欲しい」
「嫌だ。おかみとになるって、とうに決めたんだ」
「そうか。だが、残念ながら、じきに、おかみとというものは廃れていくだろう」
「なんでよ。龍がいる限り、おかみとは龍を退治して食っていけるはずじゃないのか」
「その龍がいなくなるからだ。龍がいなくなれば、おかみとは必要とされなくなる」
「龍がいなくなる? どういうことだよ」
謎めいた笑みを浮かべるばかりで、由良はそれ以上は何も言わなかった。
龍がいなくなる――確かに、石垣に守られた洛中では龍の姿を見かけない。洛外に出ずに生活していれば龍のいない世界にいるような錯覚に陥る。石垣の建築は各地で進められている。由良は、これからは石垣で守られた世界での生活になると言っているのだろうか……。
久しぶりに訪れたとあって沙智は旅籠からの帰り道で迷ってしまった。闇はますます沙智に迫りつつある。何処を歩いているかもわかりづらくなってきた。
羽ばたきが頭上をかすめていった。鳥がねぐらへ急ぎ帰って行くのだろう。はて、鳥は夜は目がきかないはずだがと怪しんだ時にはすでに遅かった。
目の前に大人の背丈ほどの龍が立っていた。子どもなのか龍にしては小さい方だ。小さいとはいえ、龍は龍、沙智の体を一口で飲み込めるほど口は大きく、肉をいともたやすく引きちぎることのできる鋭い歯が並んでいる。沙智の頭を一握りで潰せるだろう龍の鈎づめが沙智に迫る。
食われる――
とっさに両手を顔の前で組み、首をすくませる。強い風が巻き起こった。攫われまいと身を縮こませる。地鳴りが響き、足元の地面が震えた。恐る恐る目を開けると、白い雲のような塊が視界を遮っていた。その正体は、沙智を襲おうとした龍を上回る大きさの白い龍である。
「今のうちだ、早く逃げなさい!」
頭上から女の声がした。白い龍の背に女が乗っている。逃げろと言われても足がすくんで沙智は身動き取れなかった。動けずにいる沙智を見、龍の背から女がひらりと飛び降りてきた。長い髪の若い女で、半身の着物、腰から下は股引に脚絆という身軽な格好で、背に薙刀を差している。
「さ、早く! 白仙が食い止めてくれているうちに」
「白仙?」
「私の龍だ」
「龍が人に懐くのか?」
「懐かないとでも? お前たちは龍について知らなさすぎる。だが、今は龍の話をする時ではない。逃げることに集中して。私の名は姜夏」
姜夏と名乗った女に手を引かれながら、沙智は背後を振り返らずにはいられなかった。姜夏と沙智に迫ろうとする龍の鈎づめを、白仙が受け止める。その鈎づめもやはり鋭い。鈎づめと鈎づめとがかち合う音は、逃げる沙智の背中を総毛立たせた。
突如、つむじ風が舞い起こった。雷鳴が轟く。
「白仙!?」
姜夏が立ち止った。姜夏に手を引かれていた沙智も足を止められた。姜夏につられるようにして後ろを振り返ると、白仙が叫び声をあげていた。白い翼に赤い線が一筋走っている。線はたちまち滲み広がり、血の吹き溜まりと化した。
「よけやがった。すばしっこい奴だな」
風牙を提げた伊佐那の背中が見えた。
「だが、次は仕留める」
タンッ
地面を蹴り、風牙をかまえた伊佐那が白仙に向かっていく。
ヒュンッ
風牙が風を切る。
カツンッ
姜夏の薙刀が伊佐那の風牙を受け止めた。
「おい、女。その白い龍は俺の獲物だ。邪魔するんじゃねえ」
「おかみとだな。お前に白仙は倒させん」
姜夏が毅然と言い放った。
「何言ってんだか。それは龍だ。やらなければ、こっちがやられる」
伊佐那が迫る。しかし、姜夏も一歩も引かない。
「どかねえってんなら、龍ごとお前も切るぞ」
「やれるものならば、な」
薙刀の腕によほどの自信があるとみえ、姜夏は余裕である。実際、姜夏の薙刀の刃は風牙の刃をとらえて離さない。
姜夏と伊佐那の小競り合いに気を取られてしまい、沙智は背後に迫る危機に気づくのが遅れた。
生温く血生臭い息を耳もとに感じ、振り返った時にはすでに龍が沙智の真後ろに立っていた。
ああ、と、天の闇を仰ぐ沙智の目の端を、雷のような鋭い光が走り抜けた。同時に悲鳴があがり、沙智は耳を塞いでその場にしゃがみこんでしまった。
伊佐那の投げた風牙が龍の額に突き刺さり、龍はもだえ苦しんでいる。頭をひとしきり振り回し、ようやくのことで風牙をその身から抜いた龍は、凄まじい咆哮をあげながら伊佐那に向かっていった。迎えうつ伊佐那は素早い身動きで地面に転がる風牙を拾い、つかみかかってこようとする龍の鈎づめを一刀のもとに切り落とした。鈎づめが雹のようにパラパラと落ち、傷口から血しぶきが吹きだした。
「龍二匹ってのも、やぶさかでないんでね」
顔にかかる血しぶきをぬぐいながら、伊佐那が龍に飛びかかった。
カンッ
またしても、風牙の刃を受け止めたのは姜夏の薙刀である。姜夏に助けられた格好で、龍は空へと飛び去っていってしまった。
「俺は人は斬らねえ主義だけど、あんまり邪魔するようだとためらわないぜ」
「本性を現したな。お前たちおかみとは下衆野郎だ。龍でなくとも動くものとみれば切り刻みたいだけのな!」
「言ってくれるじゃねえかよ。お前、おかみとに親を殺された恨みでもあんのか?」
「そうだな。龍を殺された」
「やらねば、こちらがやられる」
「それは、龍も同じことではないのか?」
カッ
姜夏の薙刀が伊佐那の風牙を押し返した。
「龍にしてみれば身を守っているだけ。襲われたら抵抗せねばならない」
「お前は人なのか、龍なのか、どっちだよ!」
伊佐那の振り上げた風牙の刃先をさっとかわし、姜夏は白仙の背に飛び乗った。
「お前たちおかみとのようなケダモノではないとだけ言っておく!」
「ぬかせっ!」
「だめだ、伊佐那!」
白仙にむかって風牙を投げつけようとする伊佐那の腕を沙智はとっさに引いた。宵闇の空高く白仙は舞いがっていき、星の光とみまごうかの点となって姿を消した。
「おい、沙智。お前のせいで龍を取り逃がしたじゃねえかよ。しかも二匹。一匹は大物だったってのに」
伊佐那はすこぶる機嫌が悪かった。
「一匹は子どもの龍っぽかったよ……」
「子どもだろうと、龍は龍だ。食われたら死ぬんだぞ!」
「うん、わかってる。あの白い龍が助けてくれなかったら、食われていたと思うよ。でも、だからこそ、あたいを助けてくれたあの龍を伊佐那に殺させるわけにはいかなかったんだ」
「龍がお前を助けただぁ? 寝言は寝て言え」
「本当だって。あの女の人、姜夏っていう人の龍なんだ」
「あの女……たぶん、龍守だな」
伊佐那が苦々しく吐き捨てた。
「龍守?」
「噂でしか聞いたことがなかったが……」
伊佐那によると、龍を狩ろうとするおかみとの邪魔をする人間が存在するのだという。龍退治が出来なくなり、結果として稼ぎがなくなるので、おかみとの間では嫌われているのだとか。その正体は不明であり、どこの何者なのかは謎に包まれている。おかみとに危害を加えるわけではないが、間接的に龍を守っているため、おかみとたちは彼らを龍守と呼んでいるらしい。
「龍退治を邪魔されたら、龍はまた人を襲うじゃないか」
「やっとわかったかよ。お前は龍退治の邪魔をする奴の邪魔をしたってわけだ。あの龍、人を襲うぞ。お前でなくても別の子どもが襲われるだろうな」
伊佐那の不吉な予言はあたった。翌朝、子どもの死体が発見された。発見された場所は沙智が襲われた場所からそれほど遠くはなかった。姜夏が助けた龍に襲われたとしか考えられなかった。
朝餉の時、由良から龍の襲撃を知らされた沙智はそれきり米が喉を通らなくなってしまった。
沙智の心は引き裂かれた。沙智が伊佐那の邪魔をしなければ、龍は伊佐那に退治されて、人を襲うこともなかったろう。子どもは死なないでもよかったはずだった。だからといって白仙を殺させたくはなかったし、子どもの龍も憎めなかった。
沙智の苦々しい思いを知ってか知らずか、伊佐那は何も言わなかった。




