三の二 花火
思いがけない場所で、思いがけない人物を見かけた。
確か、伊佐那の刀が欲しいと言って市で由良を付け回していた少女だ。
少女は、「春海楼」と掲げられた廓に入っていった。おかみとになると息巻いていたはずだが、世間の荒波には逆らえず、流されるままに苦海に身を沈めてしまったか。
珍しい話ではない。由良は廓の前を通り過ぎようとした。
都には石垣の具合を見に立ち寄っただけで、遊びに来たわけではない。また、その気もなかった。
廓の前に若い女がいた。
通り過ぎようとする由良に女が声をかけてきた。誘われるまま由良は廓の入り口をくぐった。
少女の容姿を告げ彼女を呼ぶようにと頼むと、主人は大きな目をさらに見開いて驚いていた。何を驚くのかと由良は逆に不思議に思ったが、後になって、少女、沙智は遊女ではなく下働きなのだと知って主人の戸惑いに納得がいったのだった。
亀のように背を丸めた主人はしかし、沙智は下働きだとは言わず由良を部屋に案内した。
以来、由良は足繁く春海楼に通っている。
沙智とは話をするだけである。沙智が話をしている間、由良は酒の肴をつまみながら酒をちびりとやる。由良と寝なくていいのだと分かると、沙智の警戒心も溶けていき、次第に由良に心をゆるすようになっていた。
そうして由良は、沙智が天涯孤独の身の上であること、伊佐那のもとに弟子入りをしたが、伊佐那の作った借金の形に売り飛ばされたといった事を知った。
「もし伊佐那が戻ってきたら、どうするつもりだ?」
「戻ってなんか、くるもんか。厄介払いができたって思って、今頃どこかの廓で遊んでいるか、酒を飲んで酔っ払っているかだろうよ」
沙智は苦々しい顔で吐き捨てた。女だと判った途端に手のひら返しでおかみと見習いを取り消されたという話は聞かされていた。立ち居振る舞いを男ぶってはいても沙智は少女だろうに、少年と思い込んでいた伊佐那の間抜けぶりに呆れたものの、おかみととしては一流でもそれ以外は使い物にならないような人間が伊佐那という男だ。
「遊んでいるなら、まだいいさ……」
「死」という言葉を口にするのは憚られた。伊佐那は腕がたつおかみとだ。何度も死線をかいくぐってきただろうが死とは常に隣合わせだ。会うたびに互いに「生きていたか」と憎まれ口を叩き合うが、次はないかもしれないという恐れは頭の隅にある。もしやと思うものの、言葉を音として発してしまうと現になりそうで怖い。
「伊佐那なら死なないさ」
沙智がすかさずそう返したので、由良は我知らずのうちに笑みをこぼした。しかし、沙智はすうっと顔を曇らせ、「ああ、でも、そうか、そういうこともありえるのか……」と口ごもってしまった。
「そういうこととは?」
「……鬼の腕さ」
「鬼の腕?」
「伊佐那の奴、鬼の腕を移したんだ。でも移しがうまくいかなくって、鬼の腕が伊佐那を殺そうとするんだ」
「沙智は、もしかしたら鬼の腕が伊佐那を、と考えているんだな」
沙智は暗い面持ちでうなずいてみせた。
「龍に食われてしまうかもしれない。おかみととはそういう危険と隣り合わせでいる。それでもまだおかみとになりたいか?」
「なるよ、おかみとに」
沙智は屈託ない笑顔を浮かべた。
「なぜ、おかみとにこだわる? 金か? 確かに金は稼げるが、死んでしまっては使えないというのに。金を稼ぎたいというのなら、他にも道はあるだろうに」
「はじめは確かに金だったよ。でも、姉さんたちを見てて考えが変わった。姉さんたちは金を稼いでいるけど、苦しそうだ。金を稼ぐためだけに生かされているから、死にたいっていう姉さんもいるよ。でも、親のつくった借金を返さないとならないから、仕方ないんだってさ。金は稼いでいても、ちっとも楽しそうじゃない。あたいは楽しみたいんだ。楽しい事をして稼ぎたい。龍を狩るってのは何だかヒリヒリして楽しそうだから、おかみとになりたいんだ」
まるで伊佐那のようじゃないかと由良は苦笑いを浮かべた。伊佐那ほど龍を倒していれば一生遊んで暮らせる金はあるはずだというのに、伊佐那は龍を狩り続けている。金が目的でないのは誰の目にも明らかだった。伊佐那に弟子入りした期間はわずかだったはずだというのに沙智はすっかり伊佐那に中っている。
「姉さんたちの頼み事をきいてやってもらった駄賃を少しずつ貯めているんだ。もう少ししたら、市場で安い刀なら買えるくらいになるはずなんだ」
「刀でなくとも、鉄砲ではいけないのか?」
「鉄砲なんて買えるわけないじゃないか」
「わたしから与えてやってもいいんだ」
沙智は目を輝かせたものの、すぐに疑いの眼差しを投げて寄越した。
「大丈夫だ。そのかわりに、などとは言わない。わたしが沙智に鉄砲を与えてやりたいだけだ。刀で龍を狩る時代は終わった。これからは鉄砲が主力になる」
「鉄砲かあ……」
沙智の食いつきは思いの外、悪かった。労せずして手に入る物を欲しがらないとは。
「鉄砲は意気地なしの使う道具だって、伊佐那が言っていたっけな」
出くわすたびに聞かされる伊佐那の言い草を沙智の口から聞かされた。伊佐那の憎まれ口には慣れてしまって何ほどとも思わないというのに、沙智の口からこぼれた「意気地なし」という言葉は由良の触れられたくはない部分にぶすりと突き刺さった。
「『意気地なし』か……。伊佐那の言う通りかもしれない……」
「なんだ、由良は自分を意気地なしだと思っているのか?」
「龍を恐ろしいとは思っている」
「おかみとなのに? 龍が怖いんだ」
「龍に、食われたのでね……」
――笛を吹いていただけだった。
人に聴かせるほどの腕前ではないからと森の奥で吹いていた。それが徒となった。
笛の音が気に障ったのか、龍がふいに目の前に現れた。
そこから先のことを由良は覚えていない。
龍の大きく開いた口の次に来る記憶は険しい面持ちの清基だ。
眠りの闇に落ちては引き上げられ、目を覚ますたびに相変わらず険しい清基の顔があった。
肉を引き裂かれるような痛みによって目を覚まし、さらに苛烈さを増した痛みによって闇に引き込まれていく。その繰り返しで、日を追うごとに痛みは激しさを増した。あまりにも耐えがたい痛みに、噛まされた猿ぐつわを何本も噛み切った。死んだ方がましだと思い、そういうことを口走った。殺してくれと泣き喚き、清基にすがった。のたうち回る由良を清基は力ずくで抑えつけた。腕で首を絞めあげられると痛みがむしろ和らぎ、由良は安息の闇に落ちていったものだった。
腰から下の左半身を龍に食いちぎられたと知ったのは幾月も経った後、ようやく上半身を起こせるまで回復してからであった。
遠乗りに出ていた清基がたまたま通りかからなければ死んでいたはずだった。清基は、瀕死の由良を発見し、城へと連れ帰った。この日、清基の城には医師が滞在していた。この医師は、人の体の一部を別の人間に移す術を研究していた。鉄砲をもたらした国から伝えられた術である。
危険なこの術を、清基は由良に施すようにと命じた。由良は実に運が良かった。この日、死んだばかりの人間の体があった。腰から下の左脚がそっくり由良の体に移された。由良が先に死んでいれば、由良の脚がその女に移されていただろう。由良に移された脚は若い女のそれだった。由良が十三、四と年若であったことも幸いした。かくして由良は命を取り留めた――。
由良は、着物の裾をつかみ、腰まで引き上げた。人の目には決して触れさせぬようにしてきた傷痕が露わになる。この傷痕ゆえ由良は女を知らずにいる。
肉の連峰が腰から左脚の付け根にかけて広がっている。食いちぎられた由良の体の皮膚と移した女の脚の皮膚とをつなぎあわせた部分だ。針と糸を使い、互いの皮膚を無理やり引っ張って縫い合わせたものだから、余った部分は盛り上がり、引き伸ばされた部分は他に比べて薄く血管が透けてみえる。癒えてなお傷痕だけは毒々しく生々しい色合いを保っている。
おぞましい傷痕から沙智は目を背けなかった。
「花火みたいだ」
由良自身でも忌まわしく思う傷痕を沙智は美しいものに喩えた。由良は戸惑った。
「気味が悪いとは思わないのか? 傷も――わたしのことも」
「由良を気味が悪いだなんて思ったことは一度もないよ」
沙智は屈託ない笑顔を浮かべてみせた。ふと言い知れぬ欲望を覚え、由良は素早く裾を重ね戻した。膝から下に雪原に遊ぶ鶴が戻った。
他人の脚をつけたせいなのか、由良の髪は白いものしか生えなくなった。傷痕は隠せても、若くして白い髪の由良を人々は薄気味悪がった。死んだはずの身であるし、今さら生きた人間の住む世界に戻っていかなくてもいいと諦めている。寂しくないわけではないが、慣れてしまえば独りも苦ではない。そう思っていた。気まぐれを起こして沙智に会いにくるようになるまでは。
すり寄ってきた野良猫――由良にとって沙智はそういう存在だ。実際、市場で付きまとわれて沙智を知った。拾って飼いはしないが、猫の様子が気になって顔を見に来る。廓通いを始めた当初はその程度だった。ほんの少しの寂しさを慰めてもらえるならば。清基が時たまに由良を構う気持ちがわかった気がした。
清基だけが由良を薄気味悪く思っていなかったが、清基の由良に対する愛情は飼い猫へのそれで、二人の関係は主従とはいえず、ましてや対等ともいえなかった。満たされない思いが隙を作っていたのかもしれない。その隙間に沙智が入り込んだ。
奪われるくらいなら手放してしまえ、という気があったのかもしれない。おぞましい傷痕を見せて沙智を突き放す。独りでいることが恐ろしくなる前に、手遅れになる前に、沙智から去っていってもらおう。だが、沙智は去らなかった。由良は沙智を失うことが怖くなった。とことん弱い人間なのだなと由良は胸の内でおのれを嘲笑った。
「私は龍が怖い」
「伊佐那が言っていたっけ、『強い奴は怖がり』だって。だから、龍を怖いと思う由良は意気地なしなんかじゃなくて、強い奴だと思うよ」
「伊佐那が言いそうなことだ」
口元に笑みを浮かべていても、由良の芯は冷えていた。
由良は龍が恐ろしくてたまらない。怖くて仕方ないものに存在してもらいたくはないので、おかみととして龍を狩ることにした。恐怖ゆえに近くに寄ることすらできない龍を退治してやろうと思えたのは鉄砲のおかげだ。鉄砲がなければ、おかみとになろうと考えもしなかっただろう。龍の懐近くまで寄っていかずとも龍を撃ち殺せる。由良は鉄砲なしには龍を狩れない。
由良は鉄砲の名手として知られる。一発で龍を仕留めるからだが、鉄砲の扱いが上手いわけではなく、撃ち損ねてからの龍の反撃を恐れているからこそ、初手の弾撃ちに集中しているだけだ。由良は龍が怖くてたまらない。実際、意気地なしなのだ。伊佐那の言う「怖がる奴は強い」という論は由良に限っては当てはまらない……。




