二の六 呵責
えいっ、やあっ、とうっ。
勇ましい掛け声と共にカッカッと軽く硬い音が澄み渡る秋の空に舞い上がる。「遊んでいないで稲刈りを手伝え」と、父さんの怒鳴り声も飛んできた。
「遊んでいるんじゃないよ。龍に襲われても反撃できるよう、特訓しているんだ」
伊佐那をはじめとする子どもたちは、稲刈りに精を出す大人たちを横目に刀に見立てた木の枝を振り回し続けた。
「お前たちが手伝ってくれさえすれば龍に襲われる前に稲刈りを済ませてしまえるだろうが」
父さんは伊佐那の手から木の枝をとりあげ、鉈を握らせた。
伊佐那はしぶしぶ稲刈りを手伝い始めた。
稲の茎を龍の首に見立て、根元すれすれに刃をあて、素早く引く。刃をあてては引く。稲とは違って龍の首は動くが、切りつける訓練にはなる。刃をあてて引く。体で覚えてしまえと、伊佐那は単調な動きをひたすらに繰り返し続けた。作業の合間には腰をあげて空を見上げる。龍が上空を飛んでいやしないかと確かめるのだ。
龍の腹は青く、白く浮かぶ斑は空に浮かぶ雲と見え、下から見上げるだけでは龍の腹とは見分けがつきにくい。ずっと空を見上げて警戒していればいいのだろうが、それでは畑仕事にならない。龍が空を飛んでいやしないかと空をじっと見ているのは畑仕事ができない幼い子どもの仕事だ。伊佐那も幼い頃は茣蓙の上に寝頃がされ、空を見ていろと言われたものだ。空が割れたら大声を出して大人を呼べとも。今、龍を見張る役を担っているのは伊佐那の妹、菜桜だ。
大人たちは一心不乱に稲を刈り続けている。菜桜が空を見ているとはいえ、伊佐那はつい手を止めて空を見上げてしまう。体が覚えてしまった空見の仕草はそう簡単には抜けない。
「よそ見せんと、稲刈りをしろ」
父さんの注意が飛んでくる。
秋の空は透き通るように青い。晴れた日は畑仕事にはよいが、龍にとってもまた視界が良く、人を襲うには良い日よりだ。一刻でも早く稲刈りを終わらせてしまわなければならない。伊佐那は再び腰を折り、鉈を振り始めた。
一陣の風が巻き起こったかと思うと、あたりに散る稲藁が渦を巻いて空へと舞い上がっていった。どんっと地が鳴り、足元が大きく揺れた。しまった、と伊佐那は空見をしている子どもたちのいる方を見やった。陽気がいい日だった。茣蓙に寝転がりながら空を見上げているうちにうとうとしてしまったとしても責められない。
あちこちで悲鳴があがった。龍が縦横無尽に人を襲っている。呆然とする伊佐那の目がとらえたのは龍の口にくわえられてもがいている母さんの姿だった。父さんが、母さんを助けようと鉈をふりあげながら龍にむかっていった。
伊佐那は動けなかった。腰を抜かしてしまって、ただただ母さんと父さんたちが食われていく様子を震えながら見ているだけだった。
「兄やん!」
菜桜が助けを求めて伊佐那にむかって駆けてきた。稲刈りの済んだ田んぼに身を隠す場所はない。来るなと言わんばかりに伊佐那は手を振り、追い払う仕草をしてみせた。
「菜桜、こっちへくるな! 森へ逃げろ。森で隠れていろ!」
伊佐那は叫んだ。しかし、恐怖のあまり取り乱している菜桜に伊佐那の叫び声は届かない。とにもかくにも伊佐那のそばに行きたい。菜桜は手をのばして伊佐那に助けを求めた。その背後に龍が迫っていた。
龍はにやりと笑った。
龍が笑うはずはない。口を大きく開けただけだっただろう。その様子が伊佐那には挑戦的に笑ったように見えた。
次の瞬間、菜桜の小さな体はいとも簡単に龍の口に捕らえられてしまった。
伊佐那の手には差しのばされて握った菜桜の手――肘から下があるだけだった。
龍は菜桜をかみ砕きながら伊佐那に迫った。ガリリ、ガリリと骨の砕ける音を目の前で聞いている。鋭い牙の間に菜桜の着物の切れ端がちらついていた。
地面に尻をこすりつけながら、伊佐那は後ずさった。目と鼻の先に龍が迫る。その息は血生臭い。
伊佐那は菜桜の腕を龍めがけて投げつけた。人の片腕など、まして子どもの小さな腕などぶつけられても龍には木の葉をあてられたようなもので、行く手を阻めるはずもない。
伊佐那を食ってやろうと龍の口が目の前で開きかけたその時だった。反射的に伊佐那は龍の顔目がけて右手を振り下ろした。その手には知らず知らずのうちに握っていた鉈があった。鉈の刃は龍の左目に突き刺さった。龍は身震いするほどの叫び声を上げたかと思うと空へと真っ直ぐに飛びあがっていった。
強い風がわき起こり、伊佐那の体は吹き飛ばされた。森の中にまで吹き飛ばされた伊佐那の体は木の根にあたってようやく止まり、伊佐那は気を失ってしまった。
しばらくの後、ようやく息を吹き返した伊佐那だったが、息苦しさのあまり再び気を失いそうになった。何者かが首をきつく絞めている。
菜桜だった。菜桜の食いちぎられた腕が伊佐那の首を絞めている。小さい、子どもの手だというのに首の骨を折らんばかりの強い力だ。
「菜桜よ、勘弁してくれ……」
菜桜の腕を引きはがそうとするも伊佐那の右手は失われていた。絞めつける力はいよいよ強くなる。
子どもの力だというのに――。
いな、伊佐那を絞め殺そうとしているのは鬼であった。長い爪、節くれだった指、毛に覆われた腕……。
ああ、お前か。探したぞ。俺の腕。
鬼の腕を引きはがそうと左手をかける。力ずくで引きはがそうとするも、締めつける力、腕を払おうとする力ともに拮抗してうんともすんともいわない。ひきはがそうとする力を吸い取られ、その力が締め付ける力となって返ってきているようだ。
ぱちんと目が覚めた。
夢だったかと安堵したのも束の間、現の世界でも鬼の腕は伊佐那の首を絞めていた。鬼の腕というが、今は伊佐那の右腕だ。おのれの手でおのれの首を絞めている。
前の時と同じだ。移しの施術後、鬼の腕が体になじむまで時間が要った。鬼の腕を己の腕として制することができるようになるまで何度も鬼の腕に殺されかけた。
おのれの腕であっておのれの腕ではない。一体となっているもののその動きを制することもできなければ、思うように扱うこともできない。肘から下が別の生き物となって――もともと別のものではあったのだが――伊佐那を襲った。
切り落としてしまいたいという衝動に駆られたが、そういうわけにはいくまい。なじむまでは何度も右腕を傷めつけたものだった。
鬼の女からたっぷりと鬼の精気を吸った後に移された鬼の強さは以前の施術後の比ではない。まして鬼の気を抜かずに移したものだから、鬼そのものである。
肘のあたりがじんと痛んだ。熱く煮えたぎる鋼を擦りこまれているかのようだ。指が首の皮にくいこんでくる。
伊佐那は、左手で枕元をさぐり、短剣を求めた。施術後、鬼の腕が襲ってくるだろうと見越して用意しておいた。ずぶりと刺す。
脳天を貫かれたような激しい痛みに襲われ、伊佐那は叫び声をあげた。鬼の腕は力を緩め、首から手を離した。骨を砕く勢いで深く刺したはずだというのに傷はたちどころにふさがった。伊佐那の首を目指して指がうるさく駆けてきた。
「やってらんねえなあ」
すかさず短剣の刃先で鬼の爪を制す。鬼の手は刃をむんずと掴んだ。鋭い刃がてのひらに食い込んでいく。傷つくのも痛みを感じるのも伊佐那自身だ。顔が歪んだ。施術で痛い思いをし、今もまた傷めつけられている。
「わりにあわないねえ」
起き上がるなり、膝の下に鬼の腕をくみしだいた。上向いたてのひらに短剣を突き刺し、板の間に打ち付ける。鬼の腕は刃を逃れようともがいた。そのたびに肉を切り裂かれる痛みに襲われるのは伊佐那だ。
伊佐那の悶絶を聞きつけてか、叉和がかけつけてきた。ふところには酒壺を抱えている。
「そろそろ、これが要る頃合いじゃろうと思ってな」
「遅えよ、ばばあ」
「悪態つくなら、酒はやらん」
「いいから、さっさと寄越せ」
酒壺をひったくるなり、伊佐那は開けた口に酒を流し込んだ。湯浴みでもするかのような勢いで、酒は首から胸元に流れていった。酔いはすぐには回らない。
「もっとだ、もっと酒をもってこい!」
叉和の後ろに控えていた沙智が酒壺を置いたなり、走り去っていった。その酒もあっという間に飲み干してしまった。沙智が再び持ってきた酒壺の酒も飲みほしてようやく頭がぼんやりとし始めた。
肘のあたりの燃え滾るような痛み、手のひらに感じる肉の引きちぎられる痛み。存在こそ感じるものの痛みの輪郭が次第にぼやけていく。正体を失ってしまうほどに酔ってしまわなければ。沙智が三度運んできた酒壺も一息にあおる。
呆れる叉和、心配そうな沙智を横目に、伊佐那は板の間に転がった。右手は板の間に突き刺さったままである。
「伊佐那よ、お前が鬼になったら、誰がお前を倒す?」
「それは困った。俺より強い奴はいないからな」
「抜かせ」
叉和が短剣の柄をぐっと深く押し込んだ。伊佐那は叫び声をあげ、叉和を睨みつけた。
「いっそのこと、まだ人間であるうちにお前を殺すか……」
「面倒みたはずの人間を殺すってか。医師の風上にもおけねえな」
軽口を叩いてみせるも、叉和は乗ってこなかった。皺だらけの顔が浮かべる表情は暗い。
「伊佐那、わしはとんでもないことをしたと後悔しているんだよ……。いくらお前の頼みとはいえ鬼の腕を人間の体に移すなど、してはならなかったのではないのかとね。お前はもう鬼になりかけとる。以前のように、鬼の腕をつけたり、外したりはもう出来ないじゃろう。そいつはもうお前の腕、お前の体の一部じゃ。人としての寿命が尽きるのが先か、鬼になるのが先か。龍に食われて鬼にならずに死ぬか」
「鬼にもならねえし、龍にも食われねえよ」
短剣を引き抜き、伊佐那は板の間に大の字になって寝転がった。酔いがまわったのか、鬼の腕は伊佐那を襲おうとはしなかった。左腕同様、おとなしく天井にむけててのひらを開けている。切り刻まれたようだった傷口は何事もなかったかのようにふさがっている。
「とんでもないものを生み出してしまった。すまない、伊佐那……」
深々と下がった叉和の白髪頭は、ぼんやりとし始めた視界には牡丹雪のように映っていた。伊佐那の命を救うことを建前に鬼の腕を人の体に移してみるという医師としての好奇心を抑えられなかったのだという叉和の懺悔は念仏のようにしか聞こえていなかった。




