消えたカプリコ
真夏の自動車の中にカプリコを忘れた。
三種類のが10本入っているミニカプリコのアソートセットだ。9本は食べてあったので、残りの1本だけだけれど。
イチゴ味だった。前にも同じことをしたのでどうなっているかは予想がつく。
あれは高校一年の時……。12年ぶりに思い出す。
「お母さん、ちゃんとカプリコ救出しといてくれた?」
制服姿のまま台所であたしが聞くと、意味がわからないといった顔をして母は、「は?」と答えた。
「忘れちゃったんだよ、昨日のドライブに持ってったカプリコ! 車ん中に」
「そりゃもうダメよ。猛暑の車内に置き忘れたカプリコがどんなんなってるか、見なくてもわかるわ」
「どんなんなってるって?」
「ドロドロよ」
高校生になったばかりだったあたしはまだ子供っぽいところがあった。絶対に母の言うことなんか信じなかった。熱を通さないアルミに守られた個装は強いと信じていた。
「ううん! アルミが守ってくれてるよ! 車開けてよ、救出するから!」
学校から帰るなりカプリコの救出に必死になる15歳の娘に母は苦笑いし、はいはいと車のキーを取り出すと、開けてくれた。
ミルク味のミニカプリコだった。それはきれいなまま、助手席の後ろポケットに刺さっていた。何も変わったところはない。アルミの袋だってぴんぴんに膨らんでいる。
それでももし中身だけドロドロになっていたら悔しいので、あたしは自分の部屋に駆け込むと、夕食前のおやつにと、おそるおそるその袋を開けて、見た。そして固まってしまった。
首が、なかった。
黒いチョコの部分はコーンのおしりにしっかり残っているのに、白い頭の部分だけが綺麗になくなっていた。ふわふわとしていながらずっしりと重い、あの白いかたまりが、コーンの中に何の跡も残さずに、ごっそりといなくなっていた。
袋の内側にもいなかったはずだ。密閉された包装の中で、どこに消えたというのだろうか? 煙になったとしても、溶けてサラサラの水になったとしても、跡は残すはずだった。
あたしは謎解きをする探偵の顔で椅子の背もたれに体重を預け、コーンだけをぽりぽり齧りながら、はっと閃いた。
ゴミ箱に捨てていたアルミの袋をほじくり出すと、見た。おしりのほうから破ってあり、そのため頭のほうは開ききっておらず、隠れていたのだ。
いた。
隅っこに白いかたまりが、隠れるように、ねっちょりとひっついていた。あの逞しく重く、それでいてふわふわとしていた白い部分が、少量のハンドクリームみたいな姿に変わって、そこに身を潜めていた。
あたしはそれを舐める気にはとてもなれなかった。そのねっちょりとしたものはまるで粘着質の妖怪みたいで、今にもその中から目や口が覗いて、にやりと笑いそうに思えてしまった。
背筋に冷たいものが走り、楳図かずおのキャラみたいな声が口から小さく「ぎゃぁぁぁぁあ」と漏れた。
「伝わるかな。それぐらい気持ち悪かったんだよ」
教室でぶりちゃんにその話をすると、彼女はうんうんと何度もうなずき、気持ちいいぐらいにわかってくれた。
「うん怖い、怖いよぉぉ」
ぶりちゃんは大袈裟なぐらいに怖がってくれた。
「見慣れたあの『もこっとしたもの』が『べちょっとしたもの』に変わってたんだよね? こわ!」
「だろ? やっぱりぶりちゃんだけは話せるなぁ」
ぶりちゃんは気が弱くて、少し太めだけどちっちゃくて、とても可愛かった。歯並びが悪くてにきびだらけだったけど、あたしには本当に可愛く見えた。
なぜ忘れていたんだろう、ぶりちゃんのこと。
12年ぶりに思い出した。
あたし達はとても仲良しだった。
あたしには他にも友達が何人かいたけど、ぶりちゃんにはあたしだけだった。だからといってあたしにうざいぐらいにべったりというわけもなく、むしろもっとべったりして来いよと思うぐらい引っ込み思案だった。
あたしはぶりちゃんにだけカプリコの話をした。
他の子にしてもたぶん「何それ、そんなんなるんだー?」ぐらいの反応は返って来るだろうが、あの怖さをわかってくれるのはぶりちゃんだけだと思ったので。
表向き陽キャで通っているけど本当は陰キャを自覚するあたしには、彼女と一緒にいる時間は心から楽しめるものだった。彼女と一緒にいると本当の自分になれる気がした。
ぶりちゃんというのはもちろんあだ名だ。
栗中留美子というれっきとした名前があった。
彼女のことをぶりちゃんと呼ぶのはクラスであたしだけだった。別にぶりっ子なわけではない。ぶりぶりとオナラの音が大きいわけでもない。なぜそんな呼び方をしていたのか、今となってはもう、覚えていない。
あたし達は2人っきりになると遊びでキスをしたり、抱き合って飛び回ったり、結構恋人同士っぽいことをやっていた。それをなんとなく知っていて、嫉妬しているらしい子がいることには、あたしは気づいていなかった。
あたしの他の友達がぶりちゃんをいじめているらしいことを知ったのは後になってからだった。あのことがあるまでは全然知らなかった。
みんなあたしにそのことを匂わせもせず、いつも楽しい話ばかりして来た。
あたしも「へー、そうなんだー」と明るく笑い、そんな時ぶりちゃんは隅っこに隠れるように顔を伏せていたのを覚えている。まぁ、気のちっちゃい子だったから、あたしはそれほど気にすることもなかった。
ぶりちゃんもあたしに何も言わなかった。
2人っきりでいる時はいつも笑顔で、あたし達は互いの唇の感触を楽しんだり、手を繋いで外を歩いたりした。
ぶりちゃんはあたしがいると明るく輝き、遠くから見るといつも顔を伏せて電気が消えたようになっていた。
特別暑い夏の日のことだった。
あたしの通っていた高校は夏期に登校日が何日かあり、クーラーの効いた教室で、夏休み中だというのに補習授業を受けた。
汗を流して学校に辿り着くと、みんな急いで教室をめざした。扉を開けると楽園だった。白クマくんが出迎えてくれるような清々しい空気にあたし達は笑顔になり、もうそこから帰りたくなくなった。
ぶりちゃんが教室の扉を開けて入って来たのだった。廊下の向こうから誰かに呼ばれたようで、んっ? という顔をして横を向く。扉を開けっ放しで。
「おい、早く閉めろよ。熱気が入って来るだろ!」
「何やってんだノロマ! 入るなり出て行くなり早くしろや!」
天使になっていたみんなが途端に鬼のような顔になり、何人かが怒声を浴びせた。
ぶりちゃんはお腹を刺されたみたいにガクッと身を震わせ、脅えるような視線を廊下に一瞬だけ向けると、扉を急いで閉めて教室に入って来た。
「誰に呼ばれたの?」
あたしが聞くと、ぶりちゃんは何かを隠すような笑顔になり、答えた。
「ううん、なんでもなかった」
補習授業が終わっても大半の生徒がしばらくは楽園の空気を享受してなかなか帰らなかった。
しかし先生が意地悪な声で「じゃ、クーラー消すぞー」と言うと、しぶしぶといった顔でバッグを持ち、ノロノロと教室を出て行った。
「どうしたの、ぶりちゃん? 早く帰ろうよ」
一緒に帰る約束をしていたのだった。いつも通り自転車を並べて風を浴びながら帰る予定だった。
「ごめん。ちょっと○○○○」と、ぶりちゃんは言った。
○の中身は忘れたが、何か用事があって、今日は一緒に帰れないとのことだった。
「ふぅん」
あたしは少し不機嫌になったけど、素直に言うことを聞いたのだった。
「じゃ、いいよ。他の子と帰る」
あの時一緒に帰っていれば、ぶりちゃんは死ななかったのだ。後悔してもどうにもならないが。
翌日、閉めきられた教室の中で、彼女は豚のように膨れ上がって死んでいた。
熱中症だとのことだった。
ああ、黒いチョコのところが苦い。
なぜこんなことを思い出したのだろう。
カプリコだ。
消えたカプリコの話をぶりちゃんにしたことを思い出したからだ。
いや、違う。
記憶が違っている。
……思い出した。
なぜ間違って覚えていたのだろう。
思い出した。あの時、ぶりちゃんが言ったことを。
あたしが一緒に帰ろうと言った時、彼女はこう答えたのだった。
「ごめん。ちょっと岩下さんに残るよう言われてるから」
あたしは聞いた。
「岩下に? 何の用だって?」
ぶりちゃんは答えたのだった。
「かくれんぼするんだって」
そう言って、助けを求めるようにあたしを見た。
あたしはその言葉と視線の意味に気づいてあげられなかった。
「かくれんぼぉ? 子供じゃあるまいし、何それ?」
「ごめんね」
「ま、いいけど……」
あたしは少し不機嫌になったけど、呑気に自転車を漕いで1人で帰った。
他の友達はなぜかみんな学校にまだ用事があるとかで、あたし1人だけだった。
途中で自転車を止めた。
なぜか嫌な予感がしたのを覚えている。あたしは自転車の向きを真後ろに戻すと、学校へ急いで戻ったのだった。
その時に見た夕焼けの色がやたらと赤黒かったのを覚えている。
校内には誰の気配もなかった。
あたしはまっすぐ教室へ行くと、扉に手をかけた。鍵はかかっていなかった。
中へ入ると誰もいなかった。
いや、誰かが隠れているような気配を感じた。
クーラーが切られ、窓も閉めきられた教室の中は蒸し暑く、熱いお湯の張られた水槽の中みたいだった。
整然と並べられた机の間を歩きながら、あたしは彼女の名前を呼んでみた。
「ぶりちゃん?」
すると教室の前側の隅、どこにも隠れるところなどないその辺りから声がした。
小さくかすれるような声で、
「もう、いいよ」
放課後の静かすぎる教室の中でなかったら聞こえないほどに幽かな声だった。
「何? かくれんぼしてるの?」
あたしは窓から照りつける西陽の暑さに不快になり、責めるように言った。
「勝手に人を鬼にしないでよ」
するとまた何もないところからぶりちゃんのかすれる声が聞こえた。
「もう、いいよ」
「どこにいるの?」
あたしはきょろきょろと教室内を見回し、声の聞こえた何もない隅に向かって歩いた。
「ふざけないでよ。こんなところ早く出ないと熱中症になっちゃうよ。早く……」
そこまで喋ってあたしは絶句した。
何気なく見上げた教室の天井の隅に、びっちゃりと赤黒い溶けた肉のようなものがひっついていた。
内臓も骨も見えず、少しだけ髪の毛が混じっていた。
それはぎょろりと丸い目玉であたしのほうを見ると、言った。
「ようやく見つけてくれた」
ぶりちゃんの声だった。
あたしはそれがいつもキスをして遊んでいる相手だなんてとても思えなくて、ぞっとしながら後退った。
「ぶ、ぶりちゃんなの?」
「うん」
「ど、どうしたのその姿?」
「暑さで溶けただけだよ」
「そこから降りておいでよ」
あたしは願うように言った。
「いつも通りの姿になってよ。一緒に帰ろう」
「なんでそんなこと言うの?」
ぶりちゃんの声は泣きそうだった。
「私のこと、忘れてたでしょ?」
「え? 忘れてないよ」
あたしはなぜかきょろきょろした。
「忘れるわけないじゃん! ぶりちゃんはあたしの……」
「思い出してよ」
ぶりちゃんがあたしの言葉を弱々しく遮った。
あたしと並んで、何か見えない人間が教室の中にいた。
ゆらゆらと蒸気のように、気配だけの人間たちが、含み笑いをするような幽かな音を立てて、あたしと並んでぶりちゃんを見ていた。
あたしはぶりちゃんに聞いた。
「……何を?」
「思い出してよ」
「もう、いいかい?」
「まあだだよ」
それからどうしたんだっけ。
その間のことは忘れたけど、次の日学校へ行くと、ぶりちゃんは薫製室みたいに蒸した教室の床の上で、豚のように膨れ上がって死んでいた。
事故という扱いになった。
岩下をはじめ、あたしの他の友達が、ふざけて真夏の教室に閉じこめて、そのまま鍵をかけて帰ってしまったのだった。まさか死ぬとは思っていなかったし、ぶりちゃんも教室を出ることは出来たのだ。あの時あたしと一緒に帰っていればよかったのだから。
かわいそうな出来事を思い出してしまった。
あたしはカプリコのコーンを食べ切ると、袋の隅に隠れているイチゴの部分を救出することにした。
どんな風になっているかはわかっている。ミルク味の時と同じだ。
でも今度はイチゴだから、もっと気持ち悪く、赤黒くひっついているのだろう。
あの日、学校へ途中で引き返した時に見た夕陽みたいに。
今は午後6時過ぎ。ちょうどあの時も同じぐらいの時間で、季節もちょうど同じぐらいだった。
今、窓の外はまだ明るい。だって夏だもの。
夏だもの。
「嘘つき」
袋の中を覗くと、予想通り、赤黒いぶりちゃんがそこにひっついていた。
ぎょろりとあたしを見ると、悲しそうな、か細い声を出した。
「あたしのこと……憶えてる?」
あたしは自分を守った。
「お、憶えてるよ」
「それなら……いいけど」
そう言ったきり、ぶりちゃんはただのカプリコになった。
本当は、覚えていた。
あたしがあの時、教室の中にいて、みんなでかくれんぼをしたこと。
ぶりちゃんを鬼にして、教室の隅っこに蹴って座らせて、ずっと「もう、いいかい」を言わせて、それきり忘れたふりをしていたこと。
流されただけだった。
ぶりちゃんのために岩下や他の友達に嫌われたくなくて、見て見ぬふりをしたのだ。
本当はいじめるつもりなんてなかった。
ぶりちゃんが好きだった。それは本当だ。
だからいじめが終わった後、一緒に帰ろうと言ったのに、ぶりちゃんはあたしを鬼でも見るような顔をして、そこに残った。
それがムカついたから鍵を閉めたのだった。
あたしが。
心の中に隠れていた鬼を、消えたカプリコが見つけた。
あたしは1人の部屋にいられなくなって、外へ出た。
夜の町に車で出て、どこか隠れられる場所はないか、探す。
「ごめんね、ぶりちゃん。助けてあげられなくて」
ハンドルを握りながらそう呟くあたしを、信じられないものを見るように、窓に映った女が見つめていた。