守銭奴ぼっちの俺に美少女たちが絡んでくるんだが、そんなことよりお金の方が大事なので今日もバイトに勤しみます
『――金と愛、蔵人はどっちの方が大事だと思う?』
小学生のころ、口癖のように何度も言ってきた親父の言葉を今でも思い出す。
『またその話かよー……いつもそうやって母さんとの惚気話はじめるから嫌なんだけど。もう聞き飽きたって』
毎度、その質問をするときは少し酒臭い親父に俺は顔をしかめ、いつも決まってそう答えていた。
でも親父は嫌そうな顔をする俺に構うことなく、毎回「そうだったけなぁー?」とわざとらしくおどけた後に、わしゃわしゃと頭を撫でてきて、にっと笑うんだ。
母さんも保育園児の妹をあやしながら、親父を見て困ったような、恥ずかしそうな顔を浮かべていたっけ。
そんな、酒を飲むと少し強引になって、持論を話し出す親父が苦手だった。
思えば、俺はかわいくない子供だったと思う。
子供のくせに斜に構えた言動をしたり。
無駄に論理的に話して親父を論破して泣かせたり。
とにかくまあ、子供らしくないひねくれた子供。つまりクソガキ。
両親がそんな俺をどう思っていたのかは分からない。
ただ、親父は俺を見ていつも楽しそうに笑っていて、口数の少ない母さんも微笑んで、柔らかに見守ってくれていたのは覚えてる。
『――でな。金と愛、人間が幸せになるためには、どっちの方が大事なんだろうってたまに考えるんだ。父さんは難しいこと考えるのは苦手で、いつも答えは出ないんだが……蔵人はどう思う?』
親父はごつごつとした大きな手で、捕まえた俺の頬をぐにぐにと動かして遊ぶ。
酒くさい息が顔に吹き付けられ、俺は身体をよじって拘束から逃げ出す。
そして、問いに答えるために口を開いた。
『お金と愛情……うーん、どっちかって言ったら――』
――俺があのときなんて答えたか、今ではよく覚えていない。
$$$
――人生で一番大事なものは金である。
俺――財前蔵人は十六年生きてきて、つくづくそう思う。
この現代社会、何をするにも金が必要だ。
生きるための最低限の食事。
社会生活に必要な身だしなみ
雨風を防げる寝床。
どんなものにでも絶対に必要になるのは金、銭、マネー。
まだお金という存在が無かった弥生時代ならいざ知らず、法律や規則で雁字搦めにされた現代社会ではそうはいかないのが現実。
つまり、この世界において金は絶対。神に等しい存在。
俺がこの持論を展開すると、決まって
「金よりも大事なものはある!」
と、猛烈な批判をしてくる人がいたりする。
確かに、宝くじで大金が当たり、結果的に不幸になった……とかはよく聞く話。
どこから嗅ぎつけたのか、見たことも聞いたこともない親戚がわらわらと沸いて出てきて、
「お金を貸してほしい」
だの
「寄付してくれ」
だのとつきまとわれ、心身ともに疲れ切って
「これなら金なんていらなかった!」
と、天を仰ぐのだろう。
でもそれは……金ではなく、金を得た本人の問題だ。金は悪くない。
むしろ、金があるんだからさっさと海外にでも逃げればいいんじゃねーのと思う。
んで、ほとぼりが冷めたころにまた戻ってくればいい。金で変わってしまう人間関係? そんなもん捨ててしまえ。
金があれば、できる選択肢が広がる。
十円あれば公衆電話が使えるし、百円なら飲み物が買える。数千万なら、ずっと住める家が手に入る。
金はあればあるだけいい。
塵も積もれば山となる。一円だって無駄にはできない。「五千兆円欲しい!」と空に叫んでも、お金が振ってくるわけではないのだ。
そりゃまあ……俺だって、何もしなくても無限に金がわいてくるなら働きたくない。
でもそんなことはあり得ないから、誰も彼もが身を粉にして金のために働く。人生はクソゲーなのである。
長々と講釈を垂れたけど、つまり、俺が言いたいのは――
「そのニンジンの残しは十円くらいに相当するってことだぞ――こはる」
月曜日、早朝。
俺は正面の、小さな丸テーブルに配膳された朝食の中、ニンジンだけをバレないようにこちらの器に入れようとする少女に圧をかけ、食べるように促す。
「ぅぇっ……」
その少女――妹のこはるは、ギクッと小さな身体を跳ねさせ、そろそろと気まずそうに、自分の器にニンジンを戻した。
そして目を逸らし、誤魔化すように下手くそな口笛をひゅーひゅー吹く。コイツ……!
「お、おにいちゃ…………"くらんどさん"、ニンジンは身体にいいらしいですね」
「そうだな、健康にいいな」
「くらんどさんは最近、顔色が悪いですね」
「そうか? 普通だと思うが」
「こはるは心配です」
「おう、ありがとな」
「だからあげます」
「いらねーよ。お前が食え」
諦めずにニンジンを俺の器に移そうとしてくるこはるを一刀両断。
しかし、こはるはどうしても嫌いなニンジンを食べたくないらしく、
「ニンジンって漢字にすると人参ですね。人という字が入ってますね。こはるは人は食べたくないです」
とかなんとか意味分からんことを言って食べる未来を回避しようとする。
……まあ、それは別にいい。俺が食えば良いだけの話だし。
それよりも――
「……こはる、食事中はそれを脱ぎなさい」
こはるの着ている服を指さし、これまでで何回も言っていることを注意する。
「くらんどさん。これはこはるのあいでぃんてぃてぃなのです」
「そりゃすごい、じゃあ早くゴミ箱に捨てた方がいいな」
俺の言葉をどう受け取ったのか、こはるはなぜか胸を張り、誇らしそうにした。褒めてない褒めてない。
「……」
ちらりと、こはるの姿を見る。
中学二年生にしては小さな身体にまとった、季節外れの暑苦しい黒いマント。
頭に装着した魔女帽子からぴょこんと飛び出る、尻尾のような黒髪サイドテール。
足下には、何やら怪しげな分厚い本が無造作に何個も転がっていた。
ちなみに、今日は普通に学校の登校日。断じて休日じゃない。つまり、こんなコスプレみたいな格好をしていい日ではない。
「……はぁ」
思わず、ため息。
いやマジで。いつからこんなポンコツになってしまったんだ……
数年前――親父たちがいたころは、もっと普通だった気がするんだけど。
……もしや、俺の育て方が悪かったのか?
親代わりとして妹の面倒を見て数年、時には厳しく、時には優しくしてきたはずなのだけども、もしかしたら甘かったのかもしれない。
というのも……こはるはすぐ、アニメやマンガの影響を受けるのだ。
この前は魔法少女になろうとして、近くの猫に契約云々が~と話しかけていたし、
その前は石油王になろうとして、近所の公園で油田を掘り当てようとしていた。全力でとめた。
いまは……異世界系のアニメを見てからずっとこの調子。
月に一度の少ないお小遣いで怪しげな黒魔術の本を買って夜な夜な何かしてるし、
得意の裁縫技術を使い、余った衣類を使ってハイクオリティなコスプレ衣装を作ったりして遊んでいる。その才能を他に生かして欲しい。マジで。
あと、兄である俺に"くらんどさん"呼びで敬語で話すのは、そっちの方が大人だと思うから、らしい。
今日も朝、飲めないブラックコーヒーを飲もうとして涙目になってたし。結局、ミルクと砂糖入れまくって飲んでたし。お前はそれでいいのか。
あとその、敬語を使うとグーグル翻訳の再翻訳みたいに棒読みになるのも、大人だとか以前の問題だろって俺は思う。
なぜ、こはるがこうなってしまったのか。経緯も理由もさっぱり分からない。
「……こはる」
目の前でニンジンを見てうーうーうなっているこはるに、俺はなるべく優しげな声を意識して、声をかける。
「……? なに、おにいちゃん?」
こはるはきょとんとした顔になり、こちらを見上げた。自分で決めた敬語をよく言い忘れるのもこはるの特徴だ。
俺はそんなこはるを見て柔らかな顔を作りながら、こう言った。
「ニンジンを食べたら、何かごほ――」
「ほんとっ!」
いやまだ言い終わってないんだけど。
俺が何を言いたいのか理解したのか、こはるは身を乗り出して顔を輝かせ、すぐに箸を持ち直してニンジンをつまむ。
「おにいちゃん、こはるが食べるとこみてて……!」
そして、一世一代の決心でもするかのごとく、こちらを真剣な顔で見ながら、ニンジンを口の中に放り込んだ。
……あ、めっちゃ嫌そうな顔。涙目……ってか泣いてね?
「よーしよしよし、よくやったぞこはる。偉いなー? さすがだなー?」
褒めて頭をわしゃわしゃすると、こはるは「うへぇへへぇ」と顔をだらしなく緩ませる。
「うっし、じゃあ朝食も食べ終わったし、片付けして学校の準備を――」
「へへぇ……? お兄ちゃん! ご褒美! こはるご褒美貰ってないよ!」
何事も無かったかのように片付けをしようとするが失敗。ちっ……!
「おお、そうだったそうだった。じゃあこれをやろう」
「……? ふうとう?」
こはるは手渡された茶封筒を見て、小首を傾げる。俺は「開けていいぞ」と促した。
「……十円?」
「うめえ棒が一本買えるぞ。やったな!」
茶色い硬貨を見て、フリーズすることしばし。
数秒後。
「おにいちゃあああん! 騙した! こはるのこと騙した!!」
大粒の涙を貯めて、俺に詰め寄ってきた。あ、ちょ……十円投げるな!
「お、おまっ……何をいいやがる! 十円様を馬鹿にすんじゃねーぞ!」
俺がせっせと貯めている十円貯金から引き出した十円様を……公衆電話も使えるし十円チョコだって買えちゃうんだからな! すごいだろ!!
「うううう……お兄ちゃんなんて知らない! 嫌い! もうこはる学校行くから!」
「……そうか。俺はこはるのこと大好きなんだけどな」
「さっきの嘘! やっぱりお兄ちゃん好き! いつもご飯ありがとごちそうさま!」
「おう! 食後はちゃんと歯磨きしろよ!」
光のごとく手のひらを返すこはる。ちょろい。
「そういやこはる……起きてから親父たちに挨拶したか?」
朝ご飯の片付けと食器洗いをしつつ、しゅこしゅこと歯磨きをするこはるに聞く。
「びばぼー、ばぶべぶばべばいばぶー」
「歯磨きやめて。何言ってるか分からないから」
「ちゃんとしたよー」
俺はこはるの返答を聞き、そうか、と答えた。
……ならいい、こういうのは毎日、習慣にしないと忘れちゃうかもだからな。
「っと……そう言ってる俺がまだやってないんじゃ意味ないか」
言いながら、もう長らく物置としか使っていない、和室に足を踏み入れる。
そして、ある物体の前で腰を下ろした。
俺はその物体に視線を向けながら、静かに両手を合わせ、目をつぶる。
正面にある物体は――仏壇。
――三年前、両親が死んだ。
死因は、交通事故。
当時、まだ子供だった俺とこはるは現実を受け入れられず親戚中をたらい回しにされ、誰が引き取るだの、財前家がどうだのと話し合いが続く中……
結局、親父の学生時代の友人だったおじさん――総一郎さんに拾って貰った。
それからは総一郎さんの援助を受け、両親が残したこの一軒家にこはると二人で暮らしている……という現状である。
総一郎さんには感謝してもしきれない。
血が繋がっていない俺たちに、こっちに来て一緒に住もうと言ってくれたり、心身ともに不安定で混乱していた俺たちを支えてくれた。
結局、俺たちはこの家に残るという決断をして、総一郎さんも立場があって一緒に住むことはできなかったけれど……
いまこうして、こはると共に暮らせているのは総一郎さんが経済的にも、精神的にも支えてくれたからだと思っている。感謝してもしきれない、恩人だ。
現状、なんとか暮らすことはできている。でも――
「こはる。そういえば最近、学校のほうはどうだ?」
日課である挨拶を終え、中学校の制服に着替えたこはるに声をかける。
こはるは「うっ……」と途端に渋い顔になり、顔をふいっと逸らした。
「……こはる。あんまりこういうことは言いたくないが……ちゃんと勉強しないと、しっかりした大学に行くことは難しいぞ」
言うと、更に渋い顔になりうつむくこはる。
そして、顔を上げて。
「高校も大学も行かないから大丈夫! こはる働く!」
「……馬鹿いえ。金は俺がバイトで稼ぐし、気にするな。それより勉強してくれ」
「で、でも……いつもお兄ちゃんバイトばかりで負担かけてるし、早くこはるも働いたほうが――」
暗い顔になるこはるに、俺は安心させるように優しげな声を作り、口を開く。
「大丈夫だ。今は総一郎さんに生活費諸々を援助して貰ってるから金を貯められる状況だし、大学は奨学金制度もある。入学金とか、大学での生活費とかいろいろと必要だけど……それは俺がバイトで稼いでやるから心配するな。それとも……こはるは俺と一緒に大学、行きたくないのか?」
「! ううん。こはる、お兄ちゃんと一緒に大学いきたい!」
こはるはパッと顔を上げ、明るい声を出す。
「だろ? だから、こはるは勉強を頑張ってくれ。金のことは兄である俺に任せてくれていい」
頭に手を乗せぽんぽんと叩く。こはるは「うん……」と分かってくれたようだ。
ぶっちゃけ、こはるはあまり頭が良くない。
でも、分からないところは俺が教えていたりするし、いまは駄目でも高校卒業までにはある程度の学力を付けられるはずだろう。
「よし、じゃあ次のテスト期待してるからなー?」
未来に期待しつつ、そう言うと。
「そ、それは追々ということでありまして……」
しどろもどろになるこはる。おいこら、そこは頑張るっていうとこだろオイ。
「あー、それと友達も。女の子で友達がまったくいないのはお兄ちゃん心配。家に連れてきたりしていいからな」
「…………こはるは強い子なので大丈夫なのです。休み時間に机で寝てても、それは眠いからであって友達が居ないからでは決してないのです。二人組、修学旅行……うっ、頭が」
「ダメじゃねーか! めっちゃ死にそうになってるぞ!」
言動はともかく、こはるは見た目だけならけっこうな美少女だ。
もっさり黒髪陰キャである俺とはぜんぜん似てないし、よく話しかけられそうな気はするんだけど……。
「お、お兄ちゃんだって、友達いないでしょ! 一回も家につれてきたことないし!」
うぐッ……こいつ、痛いところを。
「…………そ、そんなことないぞ? ちゃんと友達居るし! ば、バイトで忙しくて連れてこないだけでな!」
言うと、「ほんとー?」と訝しげな視線を向けてくる。
「あ……当たり前だ。俺は勉強もできるし、バイト先でも高評価。家では家事だってこなす最強高校生だからな。そんな俺が友達いないわけないだろ?」
「そっかぁ……確かにお兄ちゃんは何でもできるし、顔もかっこいいからできないわけないよね。ジャ○ーズのセンターに居ないのが不思議なくらいだもん」
こはるはうんうんと納得するように頷き、キラキラした眼で俺を見る。妹からの過大評価がすっごい。
俺はふんぞり返るように腕を組み、妹からの尊敬の視線に答えるように、堂々と叫んだ。
「俺にかかれば友達なんて百人は余裕だ! そう、友達なんて――」
$$$
「――居ないんだよなあ」
学校、昼休憩の時間。
もそもそと朝に作った弁当を食べながら、ひとりでに呟いた。
周りを見渡す――が、俺以外誰も居ない。
だがそれもそのはず。ここは学校の空き教室。
普段は鍵が掛かっていて、生徒は誰も入ることができないからだ。
じゃあなんで俺が入れているのかというと……俺の場合は少し事情があり、ある先生と"取引"をして、この空き教室を使わせて貰っているから。
……いや、「使わせて貰っている」というより「使わされている」の方が正しいだろう。
まあ、そんなことはどうでもいいか。
問題は、こはるにあんなに啖呵をきっておいて、俺に友達が居ないということ、である。
入学当初の頃は、ある程度話せる人はいた。
移動教室のときとか、休み時間とかにたまに話す程度のことを友達といっていいか分からないけど、少なくとも話をできる人は居たのだ。
しかし、それも二年生となった今では皆無。ゼロだよゼロ。
「ゼロって響きかっこいいよな」とか、「二個あったら∞になるし実質いっぱいいる」 とか考えちゃうくらいには居ない。マジで居ない。
いや、なんでそんなことになっちゃたのかの理由はわかるんだけども。
放課後の遊びの誘いを「バイトがあるから」と毎回断ったり、休み時間に授業の復習で勉強してたりして話かけづらい雰囲気作ってたのが原因ですよね。知ってました。
「ま、まあ……別に友達なんていらないけどな!」
ひとり、声を張り上げて叫ぶ。
むなしくなんてない。無いったら無い。むしろ、友達なんて居ない方が良い。
そもそも学生時代の友達、恋人ってものは社会人になったらお互いに忙しく、関係が消滅するのがほとんどだ。
恋人なんて特にそう。
高校生の恋愛なんて大学に進学したり社会人になったりしたら破局するのが常。
「遠距離恋愛でも俺と○○の愛は不滅だぜ! フゥ!」とか思っていても、相手もそう思っているかは別の話。
それに……あくまでも俺個人の考えだけど、友達や恋人間でのメッセージの返信だの遊びの予定だの、いわゆる「お付き合い」をするのって面倒じゃね?と思う。
遊びに行きたくない日に誘われて、
「断ったら付き合いが悪いと思われるかも」
とか考えて逆に疲れるくらいなら、そもそも友達なんていらないんじゃねーのと。
つまり、俺に友達や恋人が居ないのは合理的で正しい選択といえる。
空いた時間を勉強やバイトに使えるし、人間関係で頭を悩ませることもない。他人に左右されずに自分のやりたいことに没頭できる。ぼっちライフは最高だぜ!
あと、こはるは俺のことをかっこいいとか言っていたが、それは間違いだ。
家やバイト先では長い前髪を上げてヘアピンで留めているからまだ好青年に見えるかもしれないが、学校では髪を下ろしてもっさり根暗男。そりゃモテないよね。
いや……なんとなくこうしてると安心するんだよな。自分の目線を見られないから楽というか……これに更にマスクを装着とかすると倍プッシュで快適になる。
前に総一郎さんに「蔵人くんは作ろうと思えば彼女できると思うけどねぇ……」とお世辞を言われたことがあるが、間違いなくできないと断言できる、できるわけない。
毎回、テストで学年一位をとり続けていることから、クラスではほぼ空気のような存在のもっさり前髪根暗ガリ勉くんとして通っているし、もしこんな俺に告白なんて来るものならそれは罰ゲームかなにかだろう。
この前なんて俺と廊下ですれ違ったクラスのパリピ男子の池田くんが「うわ、あいつ暗ッ……」って陰口叩いてたくらいだからな。ちょっと泣きそうになったからな俺。陰口叩くなら本人に聞こえないとこでして欲しい。いややっぱしないで欲しい。お願いします。
そんなことを考えていると。
『ピンポンパンポーン……2-A、財前蔵人くん、至急、校長室へ来て下さい』
教室に設置されたスピーカーから軽快な音が流れた後、滅多に学校では呼ばれることの無い俺の名前が耳に聞こえてきた。
「…………またか」
思わず顔をしかめ、ため息をつく。
高校に入学してから幾度となく繰り返された呼び出し。
もはや、行かずとも誰が来て、どんな内容の話をされるのかが分かってしまう。
俺は億劫になりながら、食べ終わった弁当を風呂敷で包んだ後、重い腰を起こし、立ち上がる。
考えてみれば……この度重なる呼び出しも、俺に友達ができないことの理由の一つなのだろう。何か問題を起こしているヤバいやつだと思われているのかもしれない。
しょーじき、行きたくない。めっちゃ行きたくない。
……けども、行かない、ということはできない。
俺の目的のため、表面上では友好的に見せなければならないからだ。
「はぁ……仕方ない。行くか」
気怠い身体を動かし、俺は空き教室を出て呼び出された校長室へと歩き出した。
やっぱこの世界ってクソゲーだわ……と、そんなことを考えつつ。
$$$
「――失礼します」
校長室前の廊下。
やけに大きく見える両開きの扉をノックした後、扉の先から低い男性の声で「入れ」と返答が帰ってきたので、扉を開けて入室する。
まず最初に目に入ってきたのは、大人が三人座れそうなくらい大きな黒いソファに、今年で齢九十五歳になる校長先生が座り、プルプルと小刻みに震えている姿。
その様子はどこか怯えているようにも、恐れているようにも見えた。
この校長はいつ見てもこんな様子だが……今に至っては違う理由で震えていると分かる。
それは――
「お久しぶりです――お祖父様」
俺は失礼にならないように姿勢を正し、慣れない敬語でそんな言葉を吐き出す。
「……ああ」
校長室の大きな執務机、黒革でできたこれまた大きな椅子に腰掛けた人物。
その人物はただ一言、それだけを口にした。
「息災のようだな」
地が震えるほど低く、しわがれた声。
齢五十歳越えにも関わらず、三十前後に見える相貌。
瞳は蛇のように鋭く、その表情からは何の感情も読み取ることができない。
俺を見る目は冷徹で冷たく、孫を見る祖父とは到底思えない。
「はい。万事問題ありません」
問いかけられた問いに、俺も感情を乗せないようにそれだけを返答する。
目の前の人物。この冷徹で、人を人とは思わないような瞳の人物が。
死んだ親父の父親であり、俺の祖父。
そして、この国に住んでいるなら知らない人は居ないだろう、大企業を多く経営している――
財前グループの最高責任者――財前厳司だった。
$$$
「お祖父様、本日は何用で参られたのでしょうか」
「……変わりないか見に来ただけだ」
問うと、祖父は底冷えしそうなほど低く冷たい声で言い放った。
「学業の方は学年成績一位、この間の全国模試では八位でした。言われた条件は問題なく、達成しています。……では、用事は済んだと思うので失礼致します」
俺は早口で答え、早々に立ち去ろうと背を向けるが……。
「待て、話は終わっていない」
不機嫌そうな声に止められてしまった。
「何でしょうか、まだ何か」
「私が来たのはそんな事を聞きに来たんじゃない。……お前も分かっているだろう。いい加減、駄々をこねるのは止めろ」
心の中ではぁ、とため息をつく。
……やっぱり、またその話か。なんとかはぐらかして逃げようとしたんだけどな。
「お前は跡継ぎだ。もっとその自覚を持て」
「ですから……俺は跡継ぎになる気はありません。それに、卒業まで掲示された条件を達成していれば認めてくれる、と言ってくれた筈です」
「私は言っていない。決めたのはあの女狐と総一朗だ。丈幸が死んだいま、お前しか跡継ぎはいない」
それは、両親が亡くなり引き取り先の話し合いの時から、何度も聞かされたセリフ。
さすがにうんざりとしてしまう。俺に意志は無いと言っているのに。
「別に、俺以外の人でもいいでしょう。それこそ、会社の人間に跡を任せたらどうですか?」
「それはできん。所詮は外部の人間だ。我がグループを受け継がせる訳にはいかない」
「……じゃあ、父の兄弟の方に任せてはどうです。それなら問題ないでしょう」
確か……親父には兄弟が二人、姉が一人いたはず。
俺は会ったことはないが、その人たちに任せればいいだろう。何も、俺でなくてもいいはずだ。
「鄕司と秀晴に、経営者としての素質はない。だが、お前にはある。……だからこそ、嘆かわしい。あの娘にこだわっているお前がな」
不機嫌そうに、低い声でそんな言葉を吐き出す祖父。
「だから、早々に切り捨てろ……ということですか?」
俺が問うと、「ああ、そうだ。所詮、他人だろう」と淡々とした返答が帰ってくる。
「私はお前の為を想っていっている。お前の父親……丈幸も、お前と同じで優秀な男だった。だが、丈幸は愚かにも道を踏み間違えた。お前にはそうなって欲しくない」
祖父は、蛇のような眼を俺に向け、悔やむように歯がみした。
その祖父の眼は、俺を見ているようで俺ではなく、別の人物――親父を見ているように見えた。
だからきっとこの言葉は、亡き親父への後悔や未練が籠もった言葉だったのだろう。……俺と親父の顔はよく似ているから。
「綾小路の女狐も、面妖な条件を付けてくれたものだ。まったくもって腹立たしい……」
祖父は顔をしかめ、呪詛を吐く。
俺はちらりと、視線をあるモノに向けた。
この校長室で大きな存在感を放つ、黒革の高級そうなソファ……の隅に印字されている、CMや広告でよく見る、特徴的なロゴマークに。
"綾小路家"。
財前グループ同様に、この国に住んでいれば何度も耳に聞く大企業を経営している名家。
その規模は財前グループに負けず劣らず、国の代表的な企業を束ねる名家として認識されているほど。
なぜ、そんな大それた名家が話に出てくるのか。
それは……
「丈幸め。なぜ、綾小路の人間となど……私の言うことを聞いていればいいものを……」
俺の母親が――綾小路家の人間だったから。
それも、駆け落ち結婚。
聞いた話によると、ある日親父が母に一目惚れをしてしまい、それから熱烈なアピールをした結果、母も親父を好きになり……結婚したいと祖父に申し出たらしい。
お互いに大企業を束ねるグループの名家。お似合いにも思えただろう。
しかし……綾小路家と財前家は、多くの会社でビジネスモデルが似ている競合他社ということもあり、壊滅的に仲が悪かった。顔を合わせればお互いに悪態をつきまくるほどには。
だから、当然のようにその申し出は受け入れられなかった。
愛し合っているのに家の影響で結婚できない現状に、親父は酷く悩んだらしい。
それで、結果的に――二人で海外に駆け落ちすることを選んだんだと言う。
小学生の頃までは俺も、海外で暮らしていた。
それも、色々なところを転々としていたお陰で英語、中国語、フランス語などの外国語がある程度は喋れるようになった。
そんな事情があり……両親が実は財前家、綾小路家の人間だと知ったのは、日本へ帰ってきて、しばらくしてからである。
俺は両方の家の血を継いでいることから、綾小路家と財前家で、どちらが引き取るのかの論争になった。一時は会社を巻き込んだ裁判沙汰になりそうだったくらいだ。
結果……親父の友人だった総一郎さんの助力もあり、条件を達成している限り、どちらの家にも引き取られないようにして貰った。
なので、親権は一時的に総一郎さんに持って貰っている。そういう意味でも色々と迷惑をかけて申し訳ない気持ちだ。
綾小路家から出された条件は――
『学業において、常に好成績を収める』ことと、
『たまに出す"依頼"を受ける』こと、この二つ。
前者は、単純に学校の成績、全国模試でいい点数を出していればいい。簡単ではないが、できないことはない。
問題は……後者の『依頼』のこと。
専用として持たされた携帯電話に連絡が来るはずなのだが……未だ、この携帯に連絡が来たことはない。
始めは何を言われるのかとビクビクしていたけど、来ない今ではラッキーとしか思ってない。たぶん相手も忘れてるんだろって思っている。
財前家から出された条件は無い。そもそも祖父は認めていない。
だが、祖父も大企業グループの最高責任者として、下手に全面戦争をすることはできないのだろう。非常に助かる。
両家とも、大企業を束ねる名家。引き取って貰えるのであれば、金には困らない。
だけど、俺は引き取られないことを望んだ。
「合理的に考えろ。何がお前にとって得なのかを。あの娘……たしか、"こはる"と言ったか。あの娘は所詮は他人だ。これ以上関わっても何の利も無い。無駄な時間だ」
祖父の口から、聞き覚えのある名前――妹の名前が聞こえてくる。
「それに……こちらの施設で面倒を見させると言っているだろう。何が不満なんだ」
俺が両家に引き取られないことを望んだ理由は簡単だ。
それは……引き取る候補に、こはるは入っていなかったから。
俺とこはるは血が繋がっていない。
こはるはある日、まだ海外で暮らしていた頃に、親父がどこからか連れてきた子供だ。
親も、出自がどこかも分からない。
始めは親父が不倫でもしてやらかしたのかと思っていたが、血液検査をするにそういう訳でもなかった。
親父は何も教えてはくれなかったけど、「今日からはこの子が家族になる。蔵人もこれでお兄ちゃんだな!」と豪快に笑いながらその子を家族として迎え入れていた。
当時、小さくて精神的に不安定だったこはるはその時のことを覚えていない。
だから、こはるは俺のことを本当の兄だと思っている。
両親が亡くなり、親戚同士の話し合いで、両親にまったく似ていないこはるが疑われてしまったのは仕方の無いことだったのだろう。
こはるはああ見えて、案外聡い子だ。
いつも何も考えずに笑っているようで周りの変化に敏感で、周りのことを気遣える子だ。
だから……俺とこはるが別々に引き取られてしまったとき、きっと気付いてしまうだろう。俺と血が繋がっていなかった、その事実に。
俺は祖父に顔を向け、祖父の蛇のように鋭い眼を見据えて、言葉を吐き出した。
「お言葉ですが……お祖父様の発言に二つほど間違いがありましたので、修正させて頂きたく思います」
「……なんだと?」
眉を寄せる祖父に俺は構わず、言葉を続ける。
「まず一つめ、父は道を踏み間違えた、と仰っていましたが……俺にはそうは見えませんでした。むしろ、父はすごく幸せそうで、後悔なんてしていなかったと思います」
親父は、いつも楽しそうに笑っていた。
いつも、口癖みたいに母さんののろけを語り始める親父だったけど、その様子は、俺とこはるを見つめるそのまなざしは、本当に幸せそうに見えた。
「そして二つ目。俺とこはるが他人、と仰っていましたが……それは違います」
「……お前とあの娘に血縁関係は無い。他人だろう」
何を言っているんだと訝しげな表情を浮かべる祖父。
確かに、書類上では他人なのかもしれない。
だけど――
「俺は、両親にこはるを任されました。兄として、家族として、こはるを守ってやってくれって」
それは何気ない会話の中で言われた、軽い口約束。
きっと、あのときの両親の言葉にはそんな大きな意図は無く、「兄だから妹を気にかけて欲しい」という程度の意味だったのだろう。
当時の俺は、その言葉を適当に聞き流していた。
だって……あのころの俺は、こはるのことが嫌いだと思っていたんだから。
いつも俺の後ろを金魚のフンみたいにくっついてきて、遊んで欲しいとも何も言うこと無く下を向いて俯いている。そんなこはるが理解できず、俺はうんざりして邪険に扱っていた。
遊べ遊べとやかましく構ってくるようになったのは、それから少し経ってからだ。
だから、両親にそう言われたときも、斜に構えてまともに聞いていなかった。
でも――
『お父さん、お母さん……やだ、やだよ……行っちゃ嫌だよ――』
親父たちが亡くなって数日後の深夜。
たまたま起きてしまったときに聞こえてきた、嗚咽混じりの小さな寝言。
『お兄ちゃん……行かないで――』
その声は今にも泣きそうで、寂しそうで。
葬式でも、引取先を決める親戚同士の話し合いでも、こはるは唇をぐっと結んで気丈に振る舞っていた。
荒れていた俺に、馬鹿みたいに明るく何度も話しかけて、両親が死んだなんて思わせない態度でいつも元気に笑っていた。
いま思い返すとあれは、俺に元気を出して欲しかったのだと思う。
こはるなりに考えて、冷たく振り払う俺に何度も話しかけてきていたのだろう。
そんなこはるが見せた、本当の気持ち。弱い自分の姿。
「確かに、俺とこはるに血縁関係はありません」
あのとき、あの瞬間、俺は気付いた。
こはるは強いんじゃない。誰よりも弱く、それを隠しているだけだって。
滅多に泣く姿を見せなかったのは、心配をかけたくないからだって。
それと同時に、自分の本当の気持ちにも気付いた。
俺がこはるのことを本当はどう思っていたのかを。うるさい妹だと邪険にしていたけれど、本当の心の中では、そんなこはるを家族として、兄として好ましく思っていたということを。
こはるは聡い子だ。
別々に引き取られてもきっと、何でも無いような笑った顔で受け入れるだろう。……寂しいとか嫌だとか、そんな気持ちは一切出さずに。
「それでも……俺とこはるは間違いなく『家族』です。血の繋がりなんて関係ない。俺はこはるの兄で、こはるは俺の掛け替えのない、大切な妹、家族なんです。だから――」
あのとき、俺は決めた。
兄として、妹を守ると。
家族として、こはるの側にいると。
独り立ちして過ごせるようになるよう……親代わりとして、こはるを立派に育ててみせるんだと。
「二度と、こはるが他人だなんて言うんじゃねえ。…………では、失礼致しました、お祖父様」
それだけ言い残し、校長室の重いドアを開けて、無造作に閉める。
退出するとき、滅多に表情を動かさない祖父の、呆気に取られたような顔を見て。
少しだけ、胸がスーッとすくような気がした。
$$$
「いやーさすがは蔵人くん。僕もあの厳司さんが驚いてる顔、見たかったなぁ……」
放課後。バイト先の喫茶店にて。
HRが終わり、誰とも話さずに学校を出て、いつも通りバイトに勤しんでいると、店主である総一郎さんがそう言ってきた。
「……あ、そうだ。今度、厳司さんと会食するときに蔵人くんも招待するからさ、もう一回やってみてくれない?」
「はは、勘弁して下さい……マジで」
ニコニコと人の良い笑みを浮かべながら悪魔みたいなことを言ってくる総一郎さんに、全力で拒否の意思を示す。やりかねないんで本当に止めてください。
喫茶店『CAFE FortunA』。
俺の通っている高校から徒歩で約十五分。
最近、近くに大きなデパ地下が出来て人通りの少なくなった商店街の端っこの目立たない位置に、その喫茶店はある。
レンガ造りのアンティークな外観に、それでいてごちゃごちゃとしていないシンプルでおしゃれな内装。
十席ほどしかない少ない客席は、仕事帰りの会社員や大学生などで半分ほどが埋まっている。
俺はその喫茶店にて、今日も今日とてバイトに勤しんでいた。
今日の客入りは平日のこの時間帯にしては多い方だが、土日の忙しさに比べれば普通。
なので、こうして暇になった時間はよく総一郎さんが話しかけてきたりする。
「でも、厳司さんも蔵人くんのこと可愛いと思ってると思うよ? あの人はちょっと不器用なだけだからさ」
この喫茶店のマスターでもあり、俺の雇用主でもある男性――総一郎さんは、苦笑しながらささやいた。
「不器用って……いつも敵意しか感じないんすけど」
「まあ、それも愛情表現ってことでね」
そんな愛情いらない。
げんなりしていると、少し離れた客席に座っていた二人組の大学生であろうお姉さんたちが、こちらをチラチラ見てキャーキャーと頬を赤く染めているのが見えた。
「ん、どうしたの?」
「……いえ、ちょっと俺には眩しくて」
総一郎さんから目を背けると、「照明が強かったかな? ちょっと待っててね」と言って裏に引っ込んで行く総一郎さん。そうじゃないです。
総一郎さんは親父の学生時代の友人だ。
つまり、三十代後半~四十代以上の年齢のはず。
……しかし、その容姿はどうみても二十代前半の大学生か、いっても二十代後半。
スッと細く筋の通った高い鼻に、180センチ以上の長身。
顔は小顔でスタイルも良く、聞き惚れそうな色気のあるバリトンボイス。
服装は紺色のYシャツに、黒いベストとネクタイ。いわゆるバーテンダーの服装をしている。
少し鋭い印象を受ける切れ長の二重も、いつもニコニコと優しそうに目を細めているおかげで、冷たい印象なんて少しも感じない。
年齢不詳で、完璧なイケメン。ついでに素性も不詳。それが、総一郎さんだ。
ぶっちゃけ……この隠れ家みたいな喫茶店にこんなにお客さんが来てくれるのは、総一郎さんのコーヒードリップの腕前もそうだが、この甘すぎる顔につられて来てるんじゃねーのと思ってる。
いまも、店の中にいる女性がこっちの様子をチラチラと伺っているし。
当人はそんなことお構いなしにニコニコと笑ってるし。陰の者である俺には眩しすぎる。
「――でも本当、蔵人くんに彼女がいないのが不思議だなぁ……作る気はないの?」
そのまま少し話していると、話題が変わりなぜか俺の交際事情の話に。
「いやいや、俺なんかにできるわけが無いですって」
「そうかな? 蔵人くんは真面目だし、気も効く子だから好意を持ってる女の子とか居そうだよ? ……たとえば、うちの雛子ちゃんとかね」
「ひよこ先輩? いや、あの人はたぶん俺を召し使いか何かにしか思ってないですよ。それに、そういうのは総一郎さんみたいなイケメンに来る話ですからね。俺には縁のない話です」
カップを洗いながら、突然ふられた話題に返答する。
ちなみに、いまはバイト中なので髪を上げてヘアピンで留めている。喫茶店だし、俺みたいなやつが雰囲気を壊してはいけないと思って少しは見た目に気を遣っているのだ。
「現に、いまもお客さんたちが総一郎さんのことを見て楽しそうに話してますよ」
「……うーん。これは重症だね」
総一郎さんは俺の返答に何やら不満そうで、首を傾げて呟いていた。
その仕草もなんだか様になって見えて、「やっぱり総一郎さんカッケぇな……俺もこうなりたい」と尊敬の念を抱いていたのは、本人には内緒である。
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それから少し雑談し、お客さんからのオーダーが入ったりしてせわしなく働いた後。
「――蔵人くん。そろそろ、雛子ちゃんを呼んできてくれる?」
総一郎さんが、そんな声をかけてきた。
時刻は十七時半。
外は少し暗くなり始めていて、ちらほらとお客さんが帰り始める時間帯。
「分かりました。……というか、今日ひよこ先輩って午後からだったんですね。てっきり、いつも朝からだったんで今日は休みかと思いましたよ」
"ひよこ先輩"は、ここで働いているバイトの一人だ。
この喫茶店近くの大学に通っている大学生で、開店日にはほぼ毎日のように朝からシフトに入っている女性の先輩。
俺の出勤日には殆どいるので、いつ大学に通っているのか不思議で仕方が無い。単位とか大丈夫なのだろうか。
休みだと思ってそう聞いたのだが、総一郎さんは困ったように苦笑して。
「はは……休みじゃないよ? 雛子ちゃんは朝からだね」
「へ? じゃあもう上がったんですかね。あれ、でも引き継ぎもなかったし……」
おかしいな。俺が来たときには既に居なかったと思うんだけど――
「うん。蔵人くんが来る一時間前からサボってたからね。新しく出たゲームをやりたいんだってさ」
「呼んできます。今すぐ」
あのアマ。
早急にあのサボり魔を引きずり出してこようとすると。
「あ、そうそう……蔵人くん。来週の土曜日のシフトだけど、いつも通り店を閉めてみんなで"アレ"に出かけるから、予定を空けておいてね。いつも通りお給料は出るからさ」
背中越しに声をかけられた。
いまから楽しみにしているのか、総一郎さんは声を弾ませ、いつもよりもニコニコと笑みを浮かべている。
「えーっと……"アレ"っていうのは総一郎さんの趣味の"アレ"ですか?」
「うん、"アレ"。蔵人くんも楽しみでしょ?」
ニコニコした顔で、「楽しみだよね?」と問いかけてくる総一郎さん。
……おっかしいな、何でか分からないけど圧を感じる。冷や汗出てきた。
もし、総一郎さんに憧れの目線を向けているこのお客さんたちが、この人のアレをしてるとこを見たらどう思うのだろうか。イケメンだからギリギリセーフになるのだろうか。
……いや、無いか。俺も初めて見たとき衝撃うけまくったし。ドン引きすること請け合い。
うーん、正直いきたくねー……
「えっと、実はもう用事をいれてい――」
嘘だけど。
「そっか、いつもの時給、二倍出そうと思ってたんだけどなぁ……」
「――たと思ったんですけど気のせいでした。来週の土曜ですね? ばっちり空けて準備しておきます。任せてください」
「蔵人くんは面白いなあ」
くつくつと愉快そうに笑う総一郎さん。金は偉大だからね。しょうがない。
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「ひよこ先輩、いますかー……って、やっぱここにはいないよな」
裏口を通り、従業員用の休憩室にやってきた。
しかし、目的である当人はおらず、がらんと部屋の中には誰も居ない。
休憩室には、従業員の制服とかをいれておくロッカーが設置されており、それぞれの名前が書いてあるネームプレートが張付けられている。
「うわ、また散らかしてんな……」
そのネームプレート。ひよことかわいらしい文字で書かれたロッカーは開けっぱなしになっており、色々な私物がごちゃあ……と乱雑に詰め込まれているのが分かる。
俺はせっせと、ロッカーの中を勝手に弄り整理整頓を行う。
……よし、これで綺麗になった。
勝手に人の私物に触ったらまずいんじゃないのと思われるかもしれない。
しかし、ちゃんと許可は貰っているので大丈夫なのだ。むしろ「めんどいからやっといてー」とすら言われている。自分でやれよ。
というかこの休憩室。休憩室とは言ってもバイトは俺を含めて三人しかいない。
一人はひよこ先輩で、もう一人はある大学生の女性。んで俺。
だけど、もう一人の人とはシフトが一度も被ったことが無い。なぜかは分からないが奇跡的に被らない。
ネームプレートにも名前が書いてないし、最近ではもはや存在していることすら疑っている。一体何者なんだ……?
この喫茶店、結構いそがしいはずなんだけど。なんでこれで回せてるのかが疑問で仕方が無い。おかしいだろ。妖精さんでもいんじゃねーの?
休憩室を出て、店の裏側にある階段を上る。
実はこの喫茶店は、二階が居住スペースになっており、そこにひよこ先輩は間借りという形で住み着いている。
何やら特殊な事情があるらしいけど……詳しくは聞いていない。
ひよこ先輩は基本的に、休憩時間などは休憩室ではなく、こっちにある自分の部屋で休んでいることが多い。
なので、ここにいるんじゃないかとやってきている次第だ。
そのまま二階へ上がり、リビングを抜けて、ある部屋の前で立ち止まる。
ひよこのかわいらしいマークが印字された表札が掛けてある扉をコンコンとノック。
「……」
しかし、返事が返ってこない。まあ、よくあることなんだけど。
ガチャリと扉を開けて入室。
「うっへえ……」
すると、先ほどのロッカーとは比にならないほど散らかった部屋がご対面。
俺は思わず苦笑い。あれーおかしいな。この前掃除したばかりなんだけど。
床は足を置く場所が若干あるくらいで、漫画本やゲーム、生活用品などの物が煩雑に転がっていた。そこまで広い部屋では無いはずなのに、物で溢れすぎていてひよこ先輩がどこにいるのかも分からない始末だ。
「ひよこ先輩、どこにいるんですかー? 俺がこの前綺麗に片づけてから数日しか経ってないのに、なんでこんな汚いのかの弁明をして貰いたいんすけどー?」
若干キレ気味で声を張り上げる。
すると、部屋の中心あたり……毛布っぽい物体のところがもぞもぞと動いた。
「んぁ……なんあよぉ。うるあいあぁ……」
這い出てきた件の人物は、どうやら寝起きだったようで、寝ぼけ眼をくしくしとこすりながら、呂律の回らない幼げな声を出す。
まず目に入ってくるのは、日本人離れした腰まで伸ばしたプラチナブロンドの金髪。
少しウェーブが掛かった頭髪は、手入れをサボっているとは思えないほどに艶やかで、窓から差し込む光を反射してきらびやかに輝いている。
眠そうに細められた瞳の中は蒼く、水晶のように吸い込まれそうな淡い水色。
顔立ちは幼く、美しさよりもかわいらしさを印象に受ける。日本人とのハーフだと前に言っていたがその通りで、双方の良い遺伝子を受け継いだとしか思えない。
だがしかし、何よりもひよこ先輩を表す一番の特徴はそんな物ではない。
それは――
「ふわ……もうあさか……?」
ひよこ先輩はかわいらしくあくびをして、んーっと伸びをする。
その身体は非常に小さく、大学生ではなく……中学生、下手したら小学生低学年でも通用するほど。
そう。ひよこ先輩の一番の特徴は、見た目と年齢がかけ離れていることである。
一言でいえば、西洋人形。もしくは金髪ロリ。
寝ているだけならば天使の生まれ変わりみたいなこの容姿も相まって、実はこの喫茶店で密かにファンがいたりする。本人は知らないみたいだが。
ひよこ先輩は伸びをした後、こちらに目を向ける。
「なんだくらんどか……もう一回ねよ……」
そして、そのままごろんと寝そべって二度寝しようとした。おいちょっと待て。
「ひよこ先輩、起きて下さい。仕事中ですよ」
「ねむいからねる。かわりにやっといて」
「よっしゃ。じゃあその分の給料は俺が貰っておきますね。いいですか?」
「やだ。おかねほしい」
「じゃあ仕事してください」
「はたらきたくない。やしなってほしい」
ふざけたことをいいやがる。
俺は無言でひよこ先輩が被っている毛布を掴み、そのままの勢いでひっぺがす。ぶべっ……と床に叩きつけられたみたいな声が聞こえた。
「な、なにすんだ! 鼻ぶつけたんだけどっ!」
悶えた後、抗議してくるひよこ先輩。少し鼻頭が赤い。
「そうですか。これで目も覚めましたね。……ほら、髪と服、はやく整えて来て下さい。ぼさぼさですよ」
「あぇ……?」
俺の言葉に、ひよこ先輩は自分がどんな姿をしているのか確認する。
寝ていたからか髪はぼさぼさで跳ねまくっていて、着たまま寝たであろうFortunAの和風メイド服みたいなファンシーな制服は、息苦しかったのか胸元のボタンが数個開けられて、下着が見えそうになっていた。
つまり、めっちゃだらしない格好をしていた。
ひよこ先輩は顔を真っ赤に紅潮させたあと、裏に引っ込んで行く。
俺は空気を読んでドアの外に出て待機。
数分後。
まだ少し頬を赤くしながら、髪と制服、ついでに化粧を整えて戻ってきた。
ひよこ先輩はんんっと咳払いをして。
「と、というか。いつも勝手に入るなっていってるだろ! デリカシーが欠片も無いのかお前は」
「……いや、ノックしましたよ。それに、こうでもしなきゃサボったままでしょうが」
「そ、そうだけど! もうちょっと気遣いをな……」
「仕事中である以上、時給は発生しているんです。総一郎さんが許しても俺は許しませんよ。されたくなけりゃ、自分の身の振り方を見直して下さい」
むぐぐ……とひよこ先輩は顔をしかめさせる。
総一郎さんは甘いようだが、俺はそうはいかない。
たとえ相手が着替え中だろうと風呂に入っていようと、仕事中ならば俺は構わず呼びに行く。気遣い? デリカシー? なにそれ金になんの?
「てか、てっきり新作ゲームをやってると思ったんですけど。なんで寝てたんすか? なんかちょっと泣いてるような痕あるし」
ふと、疑問に思ったことを聞いた。
新しく出る新作ゲームは、発売前から評判だったタイトル。
俺もクラスの人たちが話しているのを(盗み)聞いて、少し気になっていたのだ。
すると、途端にぶすっと不機嫌になって。
「やってたよ、途中までは。……でもあのクソゲー、何を思ったのか途中のクエストからはオンライン接続必須とか言ってくるんだ。二人以上じゃ無いとできないクエストとか出してくるし……つまんなくなったから止めた」
ぼそぼそと小さな声で不満そうな声を出しながら、毛布をぼすぼすと力なく叩くひよこ先輩。ほこり立つから止めなさい。
俺はそれを聞いて、なんでこんな落ち込んでいるのかを理解した。
「あー……なるほど。ひよこ先輩ぼっちですもんね」
「ぼっ……お、お前おこるぞ! わ、わたしは一人が好きでいるのであって、けっしてぼっちなわけじゃない! わかったか!」
「大丈夫、分かってますよ。おれは味方ですから……」
生暖かい目を向けると、「そんな目でみるなー!」とゆさゆさ揺らして抗議してくる。
こうみえて、ひよこ先輩はぼっちで人見知りが超はげしい。
大学ではいつも一人でいるらしいし、選択式の講義とかでも一人。
新作ゲームはオンラインゲームらしいし、見知らぬ誰かとフレンドにでもなったりすればいいものを。それすら出来ないというのだから筋金入りだ。
いわば俺の完全上位互換。プロぼっちと呼べるだろう。師匠って呼んでもいいすか?
俺も最初の頃、この喫茶店に初めてバイトとして入った頃はまったく話して貰えず、コミュニケーションを取るのに一苦労した。
だけど次第に認めてくれたのか、いまではこうして素の状態を見せてくれている。ありがたい。
まあつまり……ひよこ先輩がこんなに落ち込んでいるのは、
『いつもソロで遊んでいるのに、ずっと楽しみにしていた新作ゲームはマルチ専用だと知って出来なくて、めっちゃ落ち込んでいる』
ということだ。自業自得じゃね?
「ほんと、人生ってクソゲーだよなぁ……楽しみにしてたゲームは出来ないし、大学ではロリコンしか寄ってこないし、街を歩けば小学生と間違われるし……死にたい」
悲壮感漂いすぎだろ。ちょっとかわいそうになってきたんだけど。
「ま、まあ……よければ、俺が休憩時間にでも一緒にやりますよ。確かそのゲーム、コントローラー挿してマルチプレイもできましたよね」
「ほ……ほんとかっ! 約束だぞ!」
あまりにも不憫だったのでそう提案すると、ひよこ先輩は顔を輝かせる。
すぐにガサゴソと近くに置いてあったコントローラーをたくさん出して
「くらんどはどれ使うー?」
と、聞いてきた。なんでぼっちなのにそんなコントローラー持ってんだよって疑問は口にしないでおいた。それが優しさだよね。
「あ、あとさ、くらんど。ずっと言おうと思ってたんだけど……ひよこのイントネーション、そっちで呼ばないで欲しいんだけど。鳥のヒヨコの方じゃなくて、雛子(ひ↑よこ)だから」
「えぇー……別にいいじゃないですか。ヒヨコの方が呼びやすいしかわいいですよ」
「……かわいい名前だからいやなんだ。わたしは大学生で、大人のかっこいいれでぃー。ヒヨコはわたしのイメージに合わないからな」
ぴったりですけど?
「……じゃあ、苗字の方で呼びましょうか?」
「それもやだ。なんか距離おかれてるみたいで傷つく」
「めんどくさすぎる」
……まあ、別に俺としてはどっちでもいいんだけど。
だが、そう言われると反抗したくなるのが俺というひねくれ人間。「勉強しろ!」と言われるとしたくなくなるアレだ。
「……ひよこ先輩。俺は悲しいですよ。俺のこの気持ちが伝わらなかったことに」
「へ? 気持ち?」
「俺がこう呼ぶのは、親しみをこめてそう呼んでいるんですよ。(ヒヨコは)好きだし、かわいいですから」
「すっ――!?」
個人的に、ヒヨコは動物の中でも好きだ。機会があれば飼ってみたい。
親しみ云々ってのはもちろん嘘。本当は呼びやすいからが理由。
あと、ひよこ先輩は髪色とか体型とかも相まってヒヨコっぽいので、雛子だと違和感がすごいからである。
「それに、俺が先輩に敬語を使っていることから先輩を尊敬していると分かるでしょう? 決して、軽んじているわけではないんです」
これも嘘。ひよこ先輩はいつもサボるし威厳が無いし年上感皆無なので尊敬とかしてない。むしろもっとちゃんとやれって言いたいくらいだ。
しかし、ひよこ先輩はそんな俺の言葉など耳に入っていないかのように。
「そうか。うん。好きか……そっかそっか……ふへへ」
と、なぜかにやにや笑みを浮かべていた。
……俺がヒヨコ好きなのがそんなに嬉しいのか。あのふわふわしたかんじ、かわいいよね。
その後……ご機嫌な様子のひよこ先輩をつれてお店に戻り、いつも通りバイトに励んだ。
「くらんど、次はいつシフト入ってる?」
帰り際、ひよこ先輩に弾んだ声で呼び止められる。
「次は……確か、来週の月曜ですね」
「そっか……分かった。ゲーム一緒にできるの楽しみにしてる!」
「はい。俺も楽しみにしておきますね」
ひよこ先輩は「うん!」とニコニコ顔。こんなに喜んで貰えると俺も嬉しくなる。
あのゲームを作っている制作会社は特にストーリーが良く、やりこみ要素のボリュームもたっぷりで何十時間でもあそべるという。
それこそ、ストーリーを完走するだけで百時間は――
「……ん?」
あれ、これよく考えてみたら休憩時間にしかできないから、ゲーム殆ど進まないんじゃね……? それ以外はバイトで忙しくてできないし。
俺としては、気になってた新作ゲームが出来るなら嬉しいしいいんだけど。クリアできるのは何ヶ月後だろうか。そもそもクリアできるのだろうか。
「ん? なに?」
嬉しそうな顔のひよこ先輩。小首を傾げていて、かわいらしい純粋な目。
そんなひよこ先輩に俺は「やっぱ止めた方がいいかも」とは言えず……帰ったら、操作方法を勉強しようと固く決意した。
……せいぜい、足を引っ張らないように頑張ろう。うん。
$$$
翌日。土曜日。
俺は、もう一つのバイト先である『シング書店』にて、朝からバイトに勤しんでいた。
時刻はもうすぐ昼下がり。休憩時間になろうという頃。
俺はここ、シング書店以外に、他にも二つ、合計で四つのバイト先で勤務している。
一つ目が、昨日働いた喫茶店『CAFE FortunA』。
総一郎さんが経営している個人経営の喫茶店で、そのおかげで勤務時間に融通が利くし、何より気楽に働ける。
週に四日しか店を開いていない、総一郎さんの道楽の店と言えるだろう。
二つ目はここ、『シング書店』。
最近出来たデパ地下の三階にある書店で、全国1000店舗を超える日本最大級のチェーン書店。
書店といっても、CD・DVD・ビデオのレンタルや販売、ゲームソフトの販売から買い取りと手広く手がけている複合量販店だ。
三つ目は、今日も早朝に入った新聞配達のバイト。
朝3時30から5時30までの二時間勤務で、配達部数による完全歩合制ではなく、時給制。
朝2時30に起床して準備しなければならないことがネックだが、深夜なので時給が高いのが大きなメリットだ。
そして四つ目……は、正直バイトと言って良いのか分からない。
雇用契約が無いからどっちかっていったら手伝いになるのだろうか。詳細は割愛。
「ふぅ。ここまでで3611円か。これぞ労働の喜びだな……!」
このシング書店は大型デパ地下に入っている有名チェーン店ということもあり、とにかく忙しい。朝から夜までひっきりなしに客が出入りし、休む暇などない。
正直バイトする側からしたら常に忙しいしクソみたいな店だと思うだろう。俺も思う。この店マジでクソ。
じゃあなんで働いているかというと……答えは簡単。時給が高いから。
その時給、なんと1300円。
深夜の割増賃金もなしで、学生なのにこの時給。
さすがの俺も、これには求人広告で見つけてから十秒後には連絡をいれざるを得なかった。それほどひきつける魔力がその時給にはあった。
当然、倍率も高く受かるのは難しい。
でも、俺の面接での誠実なアピールのお陰か、なんとか雇って貰うことができたのだ。
……ので、クビにされたくない俺は今日も今日とて真面目に仕事に勤しむ。
同僚の高校生や大学生たちがクソ忙しい仕事中にも関わらず駄弁っていても俺が混じることはない。
業務上必要なこと以外は話しかけもしない。まあそのせいで嫌われているみたいだけど。べ、別に仲良くなりたいわけじゃ無いからいいもんねっ!
「っと……休憩時間か」
そんなことを考えていたら、昼休憩の時間になっていた。
今日のシフトは朝から夕方までなので、昼の休憩が四十五分ほど入る。
俺としてはそのままぶっつづけで働きたい。
でも、労働基準法で決められていることは仕方が無いのだ。さて、2階のフードコートでお手製の弁当でも食べてきますかね。
弁当をカバンから取り出し、移動しようとすると。
「く、蔵人くんっ。い、いまいいかな……?」
小さな声で呼び止められたので、足を止めて振り返った。
この声は……
「神宮か、どうした?」
俺は声をかけて来たバイト仲間の少女――神宮言葉にそう言葉を返す。
神宮は自分から話しかけてきたにも関わらず、落ち着かない様子で目線をさまよわせ、わたわたと手を動かした。何か用なのか?
神宮の特徴を一言で表すとしたら……"文学少女"だろうか。
濡れ羽色の肩にかかる程度の黒髪。両目は長い前髪で覆い隠されていて見ることが出来ず、前がちゃんと見えているのかと心配になる。
声は小さく、いつもおどおどと遠慮がちな態度。
始めは怖がられているのかなと思っていたが、聞いてみるにどうやらそういうわけでは無いらしい。
ここの近くの、偏差値がかなり高い事で有名な女学校に通っていて、全国模試では十五位の才女。本がこんなに似合うと思える女性はそうそういないと言える。
神宮は小さく深呼吸をしたあと、落ち着いたのか少し吃音気味に言葉を紡いだ。
「え、えっとね。お父さんが、次の蔵人くんが入ってるシフトの日に、隣町のたかさごデパートの中に入ってる本屋さんで、調査をしてきてほしいっていっててね。あと、日用品とかも買ってきてほしいって……」
「あー、いつものやつか」
聞いて、納得する。
というのも、ここの店、シング書店は神宮の父親――神宮仁さんが店長を務めており、何かと俺に雑事を押しつけるのだ。
まあ勤務時間内での雑事なのでちゃんと給料は出るし、その間のシフトの穴もちゃんと埋めておいてくれるだろうからいいんだけども。自分で行けって言いたい。
……てか、一バイトに任せるなよ。あの人適当すぎだろマジで。
「了解。じゃあ俺、昼休憩いくから……」
「あ、あっ……その、えっと」
立ち去ろうとするも、まだ何か言いたげな様子。
「どうした? あ、毎度のことながら気にしないでいいぞ? 仁さんの適当さには慣れてるし。神宮は毎回気にして付いてきてくれようとするけど、俺一人で問題ないからさ。ありがとな」
毎回、神宮は優しいので気遣ってくれる。
ただのバイト仲間の俺に、必要ないといっているにも関わらず、一緒に付いてきてくれようとしたりするのだ。これも仕事だし気遣わなくていいんだけどな。
神宮はあうあうと口を開けたり閉めたりした後。
やがて決心をしたかのように息を飲み、こう言った。
「今回はその、わ、わたしも一緒に、行きたいなって」
一緒に? 神宮はその日シフト入ってないし、別に二人で行かなくても……
「いや、別に――」
「こ、これっ」
俺が言い切る前に、何かを渡してくる神宮。
見てみると……隣町のたかさごデパートのすぐ近場にある映画館の、座席指定済みの前売り券が二枚。
そこに書かれているのは、最近話題になっている恋愛漫画を原作とした映画。
たしか、勢いのある女性歌手が出演しているとかで話題の映画だった気がする。
「あの、これ、お父さんが渡してきて……せっかくだし、私が書いてる小説の参考にもなるから蔵人くんと一緒に行ってきたらどうかって……あっ、ほんとに嫌だったら良いんだけどねっ? 迷惑だと思うし――」
聞いて、理解した。そういうことね。
「分かった。じゃあ一緒に行くか」
「――蔵人くんも私と一緒に行くのなんて困るだろうし、ぜんぜん大丈夫だか……えっ」
承諾したにも関わらず、神宮は驚いたような声を出す。
「え、え……いいの?」
「? 別にいいけど。なんでそんなに驚くんだ?」
「だ、だって……蔵人くん。いつもこういうの一緒に行ってくれないし……この前のチケットも……」
この前って……「ゆ、有名歌手のライブチケットを友達に貰ったんだけど……二枚あるから、蔵人くんさえよければ――」って言ってたやつか。
……え、あれ社交辞令じゃなかったの? 普通に「お金になるから売ればいいんじゃね?」って答えてたわ。口ぶりからして神宮の友達も来るみたいな感じだったし、他人の俺が行ってもしょうがないかなって。
いやほんと、神宮は前からこうして、バイト仲間である俺を何かと気遣ってくれるんだよな……。
結構前、こんなに気に掛けてくれた神宮の気遣いを好意を勘違いして「も、もしかしてさ、神宮って俺の事……す、すきだったりすすすすする?」とかなんとか誤爆してしまったことがあった。
しかし、返ってきたのは無言。虚無の時間。
言ったきり、神宮はうつむいて地面を見つめ、俺はスッと真顔。
その後、何も言わずに立ち去った神宮の後ろ姿を見て、俺が死にたくなったのは言うまでも無いことだろう。
そんなことがあったので、俺はもう二度と勘違いしたりしない。
もう布団の上でジタバタと眠れぬ夜を過ごすのは勘弁願いたい。時が戻せるのであれば今すぐ戻って過去改変するレベル。そのくらい黒歴史。
「あー、それに、神宮が書いてる小説の参考にもなるんだろ? バイト中だから時給も出るだろうし、むしろ仕事中に映画見れてラッキーだよ」
そう言うと神宮は「う、うん! 勉強になるから……」とぼそぼそ呟く。
「でもすごいよなぁ。今度、漫画にもなるんだってな。この店でも売れ行き好調だし。俺もコトノハ先生って読んだ方がいいか?」
「せ、正確にはコミカライズ……だね。あ、あとそっちの名前で呼ぶのはやめてほしい……恥ずかしい、から」
俺が少しからかい混じりに言うと、神宮は顔を俯かせ、恥ずかしそうに手で隠した。
そう、実は神宮は小説家である。
それも、十冊以上の本を出している売れっ子作家。
その人気は、読者が投票できるランキング形式のサイトで、恋愛小説部門の上位に食い込み、売り上げオリコンは月のランキングで五位以内に入るほど。
なんでも作風としては、恋をしている少年少女の心模様を繊細に描写していて、恋する少女はもちろん、主人公のかっこよさから、思春期真っ只中の少年などにも強い支持を受けているという。
最近出した新作では……ある個人経営の本屋に働いている少年と、内気な少女との甘酸っぱくももどかしい恋愛模様を書いているらしく、それもかなりいい評価を受けているらしい。
俺も、バイト仲間が書いている本、ということで見てみたいのだが……「蔵人くんは絶対に見ないでっ……!」といつもおどおどしている神宮に強く言われてしまったので読むことが出来ていない。ちなみにその日は、俺嫌われてんのかなと一日落ち込んだ。死にたくなった。
まあそんなこんなで、俺は神宮の小説家としての活動を応援している。
バイト仲間として、少しでも力になれるのであればなってやりたいと思う。なので、映画に付き合うとかそのくらいのことは全然問題ない。
「じゃあ俺、昼飯に――」
「く、蔵人くん!」
話も終わったから昼飯に行こうとすると、神宮が俺の服の袖を控えめにつかみ、引き留めて来た。え、なに?
「その、あの…………た、楽しみにしてるね……」
「うん? ああ、俺も楽しみにしてる」
俺の返答に、こくこくと首肯する神宮。よっぽどその映画が楽しみなようだ。
「あ、あと蔵人くん。これおすすめのやつ……良かったら読んでほしい、かな」
そのあと、神宮は手に持っていた紙袋をおずおずと俺の方に渡してくる。
お、これはまさか。
「おお……いつもありがとな。俺ってケチで自分の趣味に金使わないから、漫画とかラノベとか小説とか、神宮の貸してくれるのでしか読まないんだよな。ほんと助かる」
中身――漫画やライトノベルなどが十冊ほど入っているのを見て、心からの感謝の言葉を述べた。
以前、少し話したときに貸すからよかったら読んでみて欲しいと言われ、せっかくだから借りてみたらドハマりした。こういう娯楽はあんまり手が出なかったから、貸してくれる神宮の心遣いは素直に嬉しい。
「う、ううん。ぜんぜんぜんぜん! むしろ、わたしも好きな作品のお話ができて嬉しいし…………………………それに、蔵人くんを私の嗜好で染めてるみたいでゾクゾクするというか………」
「え? 何かいったか?」
最後の方、小さな声で何かを言っていた気がしたので聞いて見るも、「な、なんでもないよ。なんでも……」と返される。少し顔が赤い。
昼飯後。
仕事に戻り、レジ業務とか本の運搬や陳列とかで肉体を疲弊させて、退勤時間になったのでタイムカードを切って帰宅した。
「……あれ、なんかヒロインの子に偏りがあるな」
家に帰ってから神宮に貸してもらったおすすめ本を確認すると……長い前髪で目が隠れているのが特徴的な女の子がメインヒロインのお話が多いことに気付いた。
……考えて見れば、神宮の髪型もこんな感じだ。
俺は「そういうキャラが好きなのかな」と思いながら、ご飯の準備とお風呂、明日の支度をした後に、寝る前の空き時間にパラパラと読んだ。
感想は……めっちゃ面白くて、次の日寝坊しそうになった。とだけ言っておこう。
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バイト漬けの日曜日も超えて、月曜日。
早朝の新聞配達のバイトを終えて帰ってきてから、自分の分の弁当と朝ご飯、夜ご飯の作り置きを作り、いつものようにこはると朝ご飯を食べてから学校に登校した。
こはるは中学生だから給食、まだ弁当を用意しなくて良いのが幸いだ。
……こはるもこんな飾り気のない弁当なんていやだろうし。そのうち俺もデコ弁とか勉強してみようかなーって思ってる。ちょっと興味あるし。面白そう。
「ふぁ……ねむ」
教室の自分の机の上。
あくびをしたあと、眠気でぼやける眼をこすり、ノートを見て先週の授業の復習を行う。
うーん……にしても、今日はいつにもまして眠い。
いつもなら、このくらいは身体が慣れてて普通に動けるんだけど。昨日の夜に一時間くらい神宮に貸して貰った漫画を読んで夜更かししたのが原因か。
いや……にしても、あのヒロインにあんな過去があったなんて。あれは予想出来なかった。主人公の素性にも何やら謎があるっぽい引きだったし……続きを借りるのが楽しみだ。
「んー……」
頑張って眠気を覚まそうとするが、眠い。
……さすがにこの眠気は授業に支障をきたすかもしれない。HRまであんまり時間ないけど、少しでも寝ておくか。
ノートを閉じて、机に顔を伏せる。
眠ることはできないが、こうして数分眼を休ませるだけでも効果があるらしい。前になんかの本で読んだ。
そのまま、突っ伏していると……教室の右側、廊下側の席の最前列の方からある単語が耳に聞こえてくる。
「でよー、あの映画、昨日見に行ったんだけどめっちゃ良くて泣いたわ!」
「あ、それわたしも見た! "ミレイちゃん"、今回が初めてと思えないくらい演技上手かったよね~」
「そうそう! 雰囲気ちょっと違くて、すげえよかったし――」
話題に上がっているのは、ちょうど先日、神宮と見る約束した恋愛漫画が原作の映画。
普段の俺なら、こういった会話は耳に入ってこない。
人は、耳や目からの情報を無意識的に、自分に関係のある情報を選び出して他をシャットアウトしているというけども、これがそうなんだろう。カクテルパーティー効果ってやつだ。自分の悪口とかだとよく聞こえるアレね。
彼らが言っているのは、"ミレイ"という最近なにかと騒がれている女性歌手。
年齢は俺と同じ十六歳。
有名事務所に所属していて、デビューして間もないのにも関わらずその容姿からSNSで話題になり、いまではドラマや映画にも出演するほど。
俺も前、ひよこ先輩が動画を見せてきて顔を見たことがある。
感想は……俺が言うのもおこがましいけど、苦手といった感想。
確かに、騒がれるだけあって容姿はとびきりいい。千年に一度の美少女と何かの記事で見たことがあるが、その通りと言った相貌をしている。
だけど、なんというか……その表情や振る舞い方が、"作り物"みたいな印象を受けた。そのせいか、精巧な人形のようで気味悪く思ってしまっている。俺みたいなやつが言うのも本当におこがましいことなんだけどさ。
勝手に申し訳なく思っていると、教室の扉がガラッと開き、このクラス2―Aの担任である百目鬼先生が出席簿を片手に入ってきた。
すると、教室内は水を打ったように静かになる。
……この先生は見た目は美人なんだけど、怒るとマジで怖えからな……あの姿をみたらその印象は消えるんだろうけど。
「あー、おまえら。突然だが、今日から転入生がこのクラスの一員になることになった」
百目鬼先生は鋭い眼で教室内を見回したのち、ざわつきを見せる生徒たちに構わず、「……綾小路、入って良いぞ」と教室の外に声をかけた。
こんな時期に転入生か……綾小路って、あの歌手と同じ苗字じゃん。珍しい。
「ん……電話?」
それと同時、机の横にかけておいた俺のカバンが震えだした。
……おかしいな。俺はスマホとか自分用の携帯持ってないんだけど……。
ガサゴソと探る。
すると、綾小路家から持たされていたガラケーの携帯電話に、メールの通知を知らせる電子表示が……え、あれ!? なんで――?
戸惑いつつ、受信したメールを開くと。
「――は?」
その内容を見て、俺は驚きのあまり眼を見開き、声を漏らしてしまった。
だが、クラス内の喧噪も更に大きくなり、俺の小さな声はかき消されていく。
百目鬼先生が収集をつけようとするも、落ち着くことがない。
「ったく……じゃあ綾小路、自己紹介を頼む」
先生の気怠そうな声に答えるように、「わかりましたっ」と柔らかく聞き心地のいいソプラノボイスが鳴り響いた。
どこか、"聞き覚えのある声"が。
俺は恐る恐る、顔を上げる。まさか、そんなわけと疑うように。
「"綾小路美麗"です! 趣味は歌うことやお料理で……えっと、知ってる人もいるかもしれないけど、お仕事で歌手とか、最近は映画にも出演させて貰ってます! なかよくしたいと思ってるので、気軽に話しかけてくれると嬉しいなっ!」
花が満開に咲いたような笑顔を浮かべたその少女は、はきはきとした声で自己紹介を行い、ぺこりと頭をさげる。
クラス中が更にざわつきを見せ、中には倒れて動かなくなってしまった者もいる。
「あ、それと。この学校に来た理由は――」
俺はもう一度、メールを見た。これが間違いなんじゃないかと何度も。
だがしかし、そこに書かれていた内容は一切合切変わることがなく……
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■依頼:綾小路家本家の三女、綾小路美麗の悩みの解決。
本日、そちらに向かわせます。詳しいことは本人にお聞き下さい。
※なお、この依頼が期日までに未達の場合、綾小路家三女、綾小路美麗と財前蔵人様の婚約を執り行います。お忘れ無きようお願い申し上げます。
――――――――――――――――――――――――
転入生――綾小路美麗は大きく息を吸い込み、宣言をするように。
大きく、はっきりとした声で、こう言った。
「――財前蔵人くんと……将来を見据えた、お付き合いするためですっ!」
――――いま思えば、俺の平穏なバイト生活が激変しはじめたのは、このとき、この瞬間からだったのだろう。
これから先、俺は様々な騒動に関わり、巻き込まれることになる。
それは、ある財閥の少女の悩みの解決だったり。
だらしないバイトの先輩の素性だったり。
本が好きな後輩の複雑なお家事情だったり……。
はたまた、交際経験皆無の偽装クールな女性の彼氏役をさせられたり、
喋らない無口少女のお世話係をやらされたりする。
……もしかしたらこれは、俺が財前家と綾小路家を蹴ったことで起こった必然だったのかもしれない。
けど、それは考えても仕方が無い。答えが出ないことだ。……それに、俺は自分のあの選択を間違いだと思ってはいないから。
『――金と愛、蔵人はどっちの方が大事だと思う?』
口癖のように言っていた、親父の言葉。
あのときなんて答えたかなんて、もう覚えていない。
でも、もし。この問いの答えが出るとしたら。
きっとそれは、もっと先……未来の話なのだろう――――