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大和、第54任務部隊ト交戦ス

作者: Rafale

1945年4月7日……17:55時



「もはや、ここまでか……総員離艦用意。現時刻をもって第一遊撃打撃艦隊司令部を二水戦旗艦「矢矧」に移す」


「長官……」


「空母部隊の攻撃を跳ね返し、米海軍の戦艦を2隻も沈められたんだ。悔いはないよ」










 大日本帝国海軍は1945年3月26日に始まった沖縄戦の海軍による支援攻撃及び増援物資輸送作戦の実行を決断、その準備を進めた。


 当初、戦艦「大和」及び「長門」以外に3隻の出撃と巡洋艦5隻を主力とし、第二水雷戦隊及び第三一戦隊を護衛に付けた第一遊撃打撃艦隊と稼動可能な全空母にありったけの直掩戦闘機と少数の近接航空支援用の急降下爆撃機を詰め込んだ第二遊撃打撃艦隊を編成。その二個艦隊を護衛に付け、大型高速輸送艦「大井」「北上」「木曽」「多摩」及び9隻の一等輸送艦によって編成される特別強行輸送艦隊を沖縄に送り届け、到着後には両遊撃打撃艦隊は持てるすべてを動員し、沈没のその瞬間まで沖縄の米軍を叩く。という、特攻と何ら変わりない作戦を立案していた。


 しかし、その作戦前提はもろくも崩れ落ちる。増援部隊積載のために佐世保港に集結していた特別強行輸送艦隊は、8月以降に予定されていた小倉市へのB-29による原爆投下の事前偵察のついでに佐世保港の停泊艦艇に対する捜索爆撃が実施され、「多摩」及び一等輸送艦3隻が沈没又は横転することとなった。さらに、広島市への原爆投下作戦の事前偵察へやってきたB-29が帰りがけの駄賃に呉鎮守府を爆撃した。これにより、戦艦「伊勢」「日向」の二艦が大破着底し、重油タンクに爆弾が直撃したことにより貯蔵燃料のほとんどすべてを失い、ほとんど無傷であった戦艦「榛名」の出撃が出来なくなってしまった。


 また、燃料不足で大型間の出撃が不可能となったことで、佐世保港のドック内で本格修理前の破損個所調査中であった戦艦「金剛」も修理中止となり、ドック内で放置されることとなった。


 そうした、予定外の積み重なりによって当初よりも参加戦力をすり減らした沖縄救援艦隊の編制は以下の通り、


・第一遊撃打撃艦隊

戦艦「大和」「長門」「伊勢(書類上出撃したことになっている)

乙巡「矢矧(二水戦旗艦)」「五十鈴(三一戦隊旗艦)」

駆逐艦「雪風」以下11隻(二水戦7隻及び三一戦隊5隻)

航空機 零式水上偵察機2機及び零式水上観測機4機


・第二遊撃打撃艦隊

戦艦「日向(書類上出撃したことになっているが実際は大破着底している)」

正規空母「天城」

改造空母「信濃」「隼鷹」「伊吹」

乙巡「天龍」「大淀」「酒匂」

駆逐艦「響」「電」「潮」「初霜」

航空機 272機(常用機253機+補用機19機)

 紫電改二艦戦65機(天城2個中隊、信濃3個中隊 常用機60機+補用機5機)

 零式艦戦52型141機(天城4個中隊、信濃2中隊、隼鷹5中隊 常用機132機+補用機9機)

 零式艦戦21型39機(伊吹3中隊 常用機36機+補用機3機)

 99式艦爆19機(信濃2中隊 常用機18機+補用機1機)

 天山艦攻8機(信濃独立飛行隊 常用機7機+補用機1機)


・特別強行輸送艦隊(第二遊撃打撃艦隊後方に同行)

乙巡「名取」

駆逐艦「白雲」「磯波」

大型高速輸送艦「大井」「北上」「木曽」「多摩(書類上所属していたが沈没している)」

一等輸送艦 一号型一等輸送艦6隻




 その他、第三四三海軍航空隊を始めとする戦闘機84機が上空援護機として航続距離限界まで護衛をした。


 この作戦は菊水一号作戦と合わせて大日本帝国海軍が保有する海上機動戦力のすべてを投入した文字通り最後の作戦であった。その他、多数の戦艦や巡洋艦が各地の軍港に停泊中であったが、艦艇用重油の枯渇により動かせなかった。そのため敗戦後の賠償金現物支給のために温存されることとなった。


 かつての大艦隊を思い出してしまうと、艦隊戦力の乏しさに涙を禁じ得ないが、その分航空戦力は最大限増強されていた。第二遊撃打撃艦隊だけでも、露天係留も活用することで253機を詰め込み、228機の戦闘機が第一遊撃打撃艦隊の防空を担当し、18機の99式艦上爆撃機が沖縄到着後に陸軍への近接航空支援を提供する。という手はずになっていた。さらに信濃に搭載された独立飛行隊の天山艦攻7機は機上レーダーを搭載し、空中作戦機として、第一遊撃打撃艦隊の邀撃指揮と菊水一号作戦参加機の航空管制を担当する。空母搭乗員は台湾沖航空戦でも温存し、レイテ沖海戦で半数を失うも、何とか温存に成功した第601海軍航空隊の要員で編成されている装備、要員、組織、戦術の4点において日本海軍が実現可能な最善を尽くした編成になっている。


 この第二遊撃打撃艦隊の陣容はかつての栄光に縋り付こうと大日本帝国海軍が懸命に整えた晴れ舞台であり、航空作戦参謀や飛行隊長、空母部隊指揮官たちが必勝航空戦術検討会議で編み出した新艦隊防空戦術の実戦試験と米海軍への意地返しであった。結果、米第58任務部隊の3度にわたる航空攻撃をすべて弾き、97機撃墜、177機損傷、内48機を投棄という大戦果とともに第一遊撃打撃艦隊を無傷で送り届ける。という任務を完遂した。


 しかし、その代償は大きい。第二遊撃打撃艦隊を目標とした第58任務部隊の第四次攻撃隊89機、第五次攻撃隊93機、第六次攻撃隊112機、第七次攻撃隊64機の延べ、358機の猛攻を受け、「天城」に爆弾4発、魚雷2発、ロケット弾8発が、「信濃」に爆弾12発、魚雷4発、ロケット弾9発が、「隼鷹」に爆弾7発、ロケット弾2発が、「伊吹」に爆弾4発、魚雷3発、ロケット弾13発が、それぞれ命中した。これにより「天城」は大破漂流、「信濃」は右舷に3度の傾斜が発生し、天山艦攻が発艦不能に、「隼鷹」は応急修理班が使用した溶接機に気化したガソリンが引火し、大爆発、「伊吹」は元が甲巡であることが災いし、左舷に横転し、そのまま沈没した。


 もはやここまで……と判断した「信濃」艦長は≪我、航空戦ノ指揮ヲ執ル≫と打電したのち、陸軍支援用に残していた99式艦上爆撃機13機(8機が格納庫火災で失われたため、補用機1機の部品を使用し3機を再生した)を陸用爆弾のまま発艦させた。この99式艦上爆撃機は米艦隊のレーダー警戒を逃れるために低空を飛行し、菊水一号作戦部隊の陸軍百司令部偵察機による広域レーダー妨害、制空隊及び特攻隊による敵防空戦力の吸引、桜花部隊による敵防空放火の吸引、信濃独立飛行隊所属の天山艦攻3機による陽動特攻など数々の支援と犠牲を払い、艦爆隊13機が艦攻隊と逆方向から侵入した。結果、第58任務部隊の空母は「ホーネット」「ハンコック」の2隻以外はすべてが撃沈または大破となり、空母戦力保全のために南方へと退避したため、第一遊撃打撃艦隊の進路啓開という任務を全うした。


 数々の犠牲により前進した第一遊撃打撃艦隊は一路、沖縄へ前進し続けた。第58任務部隊の敗退を聞いたスプルーアンス大将は歓喜の声を上げ、デイヨー少将率いる第54任務部隊に対して、前進命令を出した。


 かくして、1945年4月7日1502時、日米両軍人の願望が叶い、第二次世界大戦最後の海戦……そして、人類史上最後の艦隊決戦が行われたのだ。


 「大和」及び「長門」は戦列を解き、バラバラに戦場を機動し、米海軍のコロラド級戦艦、テネシー級戦艦などに対し、速度の優越をもって頭を押さえようとし、それを戦艦「アイオワ」が単独で戦艦「大和」の頭を押さえようする。その「アイオワ」の頭を押さえんと「長門」が横から殴りつけ、「矢矧」の152㎜砲弾が「アイオワ」の高角砲群を破壊し、注意を引き付ける。両艦隊の水雷戦隊が水雷突撃を敢行と、大変混とんとした海戦が起きた。


 米海軍は駆逐艦の煙幕に隠れた戦艦がレーダー射撃により戦艦「長門」を撃沈し、「大和」にも総員離艦を決意させるほどの大損害を与えたのに対して、日本海軍は米海軍の砲弾を回避するために戦場をよく機動しながらも砲弾を命中させ、米海軍の戦艦2隻を撃沈、戦艦「アイオワ」を大破させるという奇跡を挙げた。


 1502時の開戦からおよそ3時間の激闘は日本艦隊の全滅という形で幕を閉じた。しかし、この大東亜戦争最後の「日本軍による精神的大勝利」は戦後も日米両国海軍史に、そして人類史に燦然と輝いている。終戦から70年以上たった今でも日本国海上自衛隊に「どんなに不利な状況であっても、決して諦めず、国家国民の為に全身全霊を尽くしその任務を完遂せよ」という教えとして受け継がれている。






 1945年8月28日にはテンチアメリカ陸軍大佐以下150名を、同月29日には戦艦「ミズーリ」を、30日にはマッカーサーを、9月2日には降伏文章調印式に参加した連合国軍高官を、大和特攻後に国内に残っていた最後の重油を搭載した戦艦「榛名」が東京に移動し、出迎えた。その後も、関東に駐留した占領軍部隊を出迎え、その巨大な主砲でもって、威圧し続けた。そのためか、占領軍将兵による犯罪は他地域に比べて少なかったという。


 東京に停泊し、日本国民を勇気づけるとともに占領軍将兵へ威圧を続ける戦艦「榛名」は当初、「榛名」に搭載されていた「Z旗」を掲揚していたが、9月からは戦艦「大和」より回収した「Z旗」を掲揚した。その後、1952年4月26日に海上警備隊が設置されると海上警備隊旗艦に指定された。冷戦終結後の1983年まで作戦行動が可能な状態を保ち、1984年8月に海上自衛隊から除籍される。1915年4月の竣工以来実に、70年にも及ぶ波乱万丈の生涯を一旦終えた。その生涯で巡洋戦艦、練習戦艦、戦艦、御召艦、高速戦艦、海上保安庁建造物、海上警備隊旗艦、海上自衛隊自衛艦隊旗艦、海上自衛隊自衛艦隊附属艦、海上自衛隊練習艦隊旗艦と肩書を何度も変えた彼女は翌1985年の誕生日に三笠公園に移動、記念艦「はるな」として新たな航海に出港した。


 記念館「はるな」は横須賀支庁、神奈川県庁の関係者、防衛庁、海上自衛隊、横須賀地方総監部、海上公安局の幹部、旧日本帝国海軍の生き残りの将兵やその家族、大日本帝国海軍と最後の戦いに挑んだ米海軍第54任務部隊の将兵たちが招待され、大勢の人々の祝福の元、テープカットがされた。


 1905年の日本海海戦で海軍史に燦然と輝く、完全勝利の美酒を味わった戦艦「三笠」から歩いて5分ほどの「はるな」は大日本帝国海軍の衰亡と敗北の象徴であり、同時に、海上自衛隊の苦難と信念の具現者である。その、戦いとは別の形で国民を守るという姿勢は海上自衛隊の……いや、自衛隊の信念となっている。


 「三笠」が作り、その後輩たちが組織防衛にかまけ、国民の保護を投げ出し、「大和」と「長門」が意地を見せ、散っていったと思われた大日本帝国海軍の伝統と信念を「榛名」が復活させ、名を「はるな」と変えて継承させた信念は「災統合任務部隊(JTF-TH)」となって表れた。地震発生から4分後の3月11日1450時に「災害対策本部」を設置し、10万6600名もの自衛官を動員し、同年6月11日までに1万9286名の被災者を救出した。



 大日本帝国海軍の生き残りである「はるな」は「三笠」や「宗谷」とともに、今も日本を守る後輩たちを見守っている。彼女らの献身に恥じぬよう、自衛官たちは日々日本の防衛に勤しんでいるのだ。


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