真夜中
母と喋ったり、遊んでもらったことはほとんどない。うちは、父が専業主夫で、母がお金を稼いで生活していた。忙しかったのだろうと数年前から勝手に納得していた。実際はどうなのかは知らない。同じ家に住む他人、それが俺の中の母のイメージだった。
弟は活発で優しい子供だった。歳は俺の5つ下で、いつも俺に付いてきて一緒に遊んでいた。きっと同い年の友人達よりも、俺や俺の友達と遊ぶことの方が多かったんじゃないかな。今思えば5歳の差があったのは良かったのだと思う。きっと、もう少し歳が近ければ喧嘩が絶えなかったと思うし。俺は弟に友人のように接していたし、弟も俺を兄として見ていたか、友人として見ていたか微妙なところだ。
母が弟を連れて消えたのは7年前。俺が学校から帰ってきたら、台所のテーブルの上に手紙が残っていた。俺と父に対する短い謝罪の言葉と、探さないでくれという旨だけ書かれた、短い手紙だった。
そりゃあ、怒ったよ。母の行動に対して。近所の人間が友人を攫って行くようなものだ。しかも自分がそれを止めることが出来たかもしれないと考えると、余計に腹が立った。自分はなんて無力なんだって。せめて、納得させてほしかった。直接でもいいし、手紙ででもいいけど。
弟は死んでしまった。訃報を聞いたのは俺の20歳の誕生日の2日後だった。そう、昨日のことだ。正直、泣いたよ。号泣だった。でも5分くらいだったよ、泣いてたのは。悲しいことは悲しかったけど、もしかしたら、もしかしたらもうすでに死んでるんじゃないかとは思ってたから。
傑作だろ?あの女、弟を連れ去った挙句に殺して消えやがった。しかも異世界なんかに行くとはな。まあ、あんたの話を信じるなら、だが。
さて、
「長くなったな。すまない。」
謝って頭を下げると、大男は小さくため息をついた。
「俺にそれを話して気持ちの整理はついたのか?」
「気持ちの整理のために話したわけじゃないよ。あんたについて行く決心をするために話したんだ。」
男が訝しげな表情をする。
「同じじゃないか?」
「違うさ。まあ別にいいけど。」
そう言いながら俺はこの部屋唯一のカーテンを開いた。外はすでに明るい。身の上話をしたからか、大男にようやく慣れてきて、いろんな感覚が普段通りになってきた。腹が減ったしトイレに行きたい。
「少し、失礼する。」
男に一言言って部屋を出る。キッチン(廊下)にあるトースターに食パンを入れて、ダイヤルを捻る。ジィーという音とともに、次第に熱源が赤くなった。
トイレで用を済ませ、部屋に戻ると大男が話かけてきた。
「それでどうするんだ?」
「一応拒否権はあるのか?」
そう訊くと男は腕を組んで鼻を鳴らした。今一度大男をよく見ると、日本人ではなさそうだとすぐに分かった。腕は筋肉質で太く、顔はアラブ系というのだろうか、彫りが深く、色が黒い。
「当たり前だ。もしお前がやらないと言うなら、それこそ神様ってやつに報告して、対処してもらうことになる。」
「お前は神の代理人ってところか?」
「だいぶ落ち着いてきたか?大体正解だろうな。下請けというのがさらに正解に近いだろうが。」
「自分でも驚いたことに、だいぶ落ち着いてきたよ。まったくもってアホみたいな話だし、あんたを信用しているわけでもないが、良かったな、俺がこんなんで。」
こいつの話が本当ならもちろんついて行く。しかし今はその保証がない。そのせいで迷っていたのだが、よく考えれば、いや、よく考えなくても答えは出せたのだ。別に嘘でもこちらに大してデメリットはない。死んでしまうのならそれでいい。
「まったくだよ世捨て人君。今のは話に乗ったという返答ととってもよろしいのかな?」
「……いやまだだ。母を殺したとして俺への報酬はないのか?」
大男は大口を開けて笑いだした。そんなに面白いことは言っていないのに。
「なるほど、確かに母親に会える可能性を与えるだけでは釣り合わんな。いいだろう。成功報酬は何が欲しい?」
実は喉から手が出るほど欲しいものとかはない。ただなんとなく、タダ働きが嫌だっただけなのだが。
「そういえば、帰って来れるのか?ここには。」
「もし成功すれば、帰って来ても来なくてもどちらでもいい。お前が選べばいい。ただし、お前があちらで死ねば、強制的にお前をこちらに引き戻す。肉体と精神が長時間離れるのは良くないからな。」
「この体で行くわけではないのか?」
「そうだ、あちらに新しい体を用意して、それに入ってもらう。今のお前の体は俺が保管しておいて、戻ってきた時にまた使えるようにしておく。」
ううむ、これまた中々どうして信じ難い話が飛び出してきた。母が同じことをしたという話は聞いたが、俺もやるのか……
「お前のためだぞ?普通は体をもうひとつ用意してやることなんてないんだ。特別待遇ってやつだ。例えばお前があちらで腕1本なくなっても、こちらに帰ってきた時に今の体があれば、問題ないからな。」
腕くらいなくなるのが想定のうちということだろうか。内戦だからそりゃそうか。
「……言い出しておいてなんだが、成功報酬は後から決めてもいいだろうか?」
「問題ない。」
俺はこの話が出てから不思議に思っていたことを口に出した。
「そもそもあんたとかが直接行けばどうなんだ?」
俺なんかより明らかに強そうな巨漢は、バツの悪そうな顔をした。
「お前がやらないなら、俺や他の人間なんかがやるさ。物事には流れがある。人間達に起きたことに関してはなるべく人間達で対処するのが、1番いい。ちなみに、俺やその他の管理者達もだが、戦いとなると、そこまで強くはない。」
驚きが顔に出たのだろう。大男は笑って話した。
「闘争本能がないからな。そのくせ肉体は平凡なものだ。かつ役職的に、そうほいほい死ねない。だから、業務委託しているわけだ。」
目の前の巨漢は意外にも温和な生き物らしい。人を見た目で判断するのは良くないらしい。
「他に質問は?」
男が笑顔を引っ込めて訊く。
「母は何故皇帝とやらを殺そうとしているんだ?」
「分からない。」
男は即答した。分からないならしょうがない。あまり関係もないし。
「そうか。それで俺はどうすればいい?」
「今日中にここから徒歩5分のところにある、『Laundry』というバーに来てくれたら、あちらに連れて行くよ。では、後ほど。」
男は俺からの質問はもうないと判断したらしく、不敵な笑みを浮かべて一礼すると、窓から出て、ベランダから飛び下りた。ここは五階だが、どうせ死んでないだろう。見に行くのも面倒だ。それに……そろそろだ。
予想通り、廊下の方でトースターがチンっと音を立てた。
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11月下旬ともなれば夜は冷える。マフラーに口を埋め、手はポケットの中にしまい込み、とある酒場に足を急がせた。空は晴れていて星がキラキラと輝いている。しばらくは夜空なんて眺める機会がなくなるかもしれない。そう思って、上を見ながら歩いていたら、路上の自転車に転がされた。誰だこんなところに自転車を置いたやつは。
時刻は午後十一時、こんな地方都市でも飲み屋街となるとまだ周りはだいぶん明るく、キャッチの兄ちゃんや酔っぱらいのおっさん達で賑わいを見せている。酒場が軒を連ねるメインストリートから一本外れて、そこからまた路地に入ったところに、クリーニング店、基、『Laundry』という名のバーがあった。
木製のずっしりしたドアに直接スプレーか何かでLaundryと描かれていて、ドアの上につけられた裸電球がそれを照らしていた。ヤンキーや危ない人達が溜まっていてもおかしくないような佇まいだが、大男の指定した場所は恐らくここだろう。ドアの取手に手をかけてから気づいたが、取手は金属製だった。外気に触れたままのそれはヒヤリとした冷たさを保持していた。
恐る恐るドアを開いた。ドアの上部に取り付けられた鈴が心地よい音を鳴らす。
薄暗い屋内は細長く、奥に伸びている。そこはバーだった。純然たるバーだ。入口から見て左手には酒が並んだ棚があり、右側にはカウンターチェアが10ほど並んでいる。当然、そこを仕切るようにカウンターが奥に伸びている。
鈴の音で来客に気づいたらしい店員がカウンター内の奥のほうのドアから顔を見せた。否、店員ではあるのだろうが、その人物は先程の大男だった。
「いらっしゃいませ。お待ちしておりました。」
そう言ってお辞儀をする姿はどこぞの社長と言っても通用するであろう気品と清潔感が見て取れた。先程の男と本当に同一人物だろうか。
「奥にどうぞ。準備は出来ています。」
男が奥のドアに目をやった。あそこから出発するのか。男がドアの中に入っていく。店の奥の方はカウンターが途切れている。俺は店の奥へと進み、男を追うようにドアをくぐった。
中は不思議な空間だった。四畳半くらいの広さの部屋で、中央に丸テーブルがあり、百科事典のような分厚い本が1冊置いてある。天井から電球がひとつぶら下がっていて、光源はそれのみ。しかし、部屋の中を照らすには十分な明るさではあった。
部屋の中にあったものはそれだけだった。テーブルと本と電球。天井も床も壁も白色だった。その部屋は、今から行われるであろうことの為だけに作られたような部屋だった。
「さて、じゃあ始めるが、心の準備は大丈夫かな?」
「ちょっと待て。あちらで簡単に死なないために何か武器くらいはくれないか?生まれて5分で盗賊に襲われて死んだらシャレにならんだろう。」
男は失念していたのか、そんなこと言われると思っていなかったのか、口を開けてぽかんとした。
「ああ、忘れていた。」
失念していたらしい。
「とはいえ、そんなに大したものを持たせることも出来ないんだがな。ああそれとあちらの説明を少しするべきだな。お前ファンタジー小説とかそういう漫画は読んだことあるか?」
そういう世界ということだろうか。首を縦にふる。
「じゃあ問題ないな。お前が行くのはそういう世界だよ。」
「中世ヨーロッパとかってことか?」
男は渋面になってかぶりを振った。
「残念ながら。文化レベルはもう少し高いし、激しい。」
激しい……?
「分かりやすく言うと、世界全体がダンジョンって感じか。地球よりも広いぞ。えげつないくらいにな。そこには国もあるし、文化もある。」
「質問だ。」
挙手して質問を申し出るのはいつぶりだろう。小学校低学年くらいか?
「なんだ?」
「……言葉って通じないよな?」
俺の言葉を聞いて男は息だけでで笑った。
「この世界の人間って感じがするな。安心しろ。言語はひとつしか喋れないようになってるから。」
「というと?」
「『無口な従者』というのが、生まれた時から、1人1匹ついてくる。こいつのおかげで、住人達は全員1つの言語しか喋れなくなる。たしか祝福とも言われているが、ここでいう呪いってやつに近いな。」
「なるほど、仕組みはわからんが言葉は通じるのか。」
「そういうことだ。」
男は急に眉を寄せた。何かまずいことを言っただろうか。
「忘れていた。お前があちらで使う体だが、どんなのがいい?」
驚いた。自分の体を注文できるとは。
しばらく悩んだ末、俺は男を指さして言った。
「体はあんたと同じくらいガタイをよくしてくれ。顔は、適当でいい。」
男はキョトンとして俺を見た。意外だったのだろう。
「今の体とは随分サイズが違うが大丈夫か?」
「そのうち慣れるだろ。」
「まあ、そうだろうが。一応理由だけ聞いておこうか。」
男はニヤニヤしながら俺を見た。どういう感情からくるニヤニヤなのだろうか。
「よく言うだろ?筋肉は人を裏切らないって。」
「ふふん。いいセンスだ。ちなみに人間の体のサイズは大して変わらんから安心しておけ。」
言われてから気づいた。あちらの人間達が、こちらの象くらいデカかったら話にならない。
訊きたかったことは大体訊いたな。あとはもう行ってからのお楽しみってとこだろう。
今朝、この男を訝しく思っていたのが嘘のようだな。自嘲するようにそう思った。
「俺が訊きたいことはもうない。」
それを聞いて男はふうと息を漏らした。
「了解した。さっき言っていた武器ってやつはあっちに行ってから渡す。始めるぞ?」
「ああ。」
「じゃあそこの本に手を置いて目を閉じてくれ。」
目の前のテーブルに載った本の表紙には題名も作者名も、何も書いていない。ただ、深緑色をしているだけの分厚い本だ。言われるがまま手を乗せて目を閉じる。
「目を開けていいぞ。」
「は?目を閉じるだけ……か……?」
目を開けると、そこには草原が広がっていた。