訪問者
深夜の2時過ぎにチャイムが鳴って、驚いて飛び起きた。ぼんやりと靄のかかった頭で、酔っ払いか誰かが間違えたのだろうと考えて、また布団に潜り込んだ。しかし、チャイムの音は執拗に聞こえてくる。なんなんだ、いったいどうしたんだ。もぞもぞと布団から這い出て、玄関のドアスコープから外を伺う。
ん?誰もいない?
驚いたことに、ドアスコープから見たところ誰もいなかった。そっとドアを開けて外に顔だけ出して、辺りを見回す。
真夜中に、一人暮らしの男の1Kのアパートに訪れた客は、どうもガタイがよかった。アパートの通路は電灯で明るく照らされており、身長が2メートルほどで長い髪を後ろで結いだ大男がそこに立っていたことがハッキリとわかった。男が俺を見て、ずんずん近づいてくる。
「ヒィっ」
変な声が出た。声というには少し変かもしれない。変な音が喉からでたというのが正しいだろう。
怖くなってドアを閉めようとしたが、駄目だった。男はあと少しで閉まりかけたドアを片手で掴み、こじ開けて、体をドアの内側に滑り込ませた。男の背後でバタンと音を立ててドアが閉まり、廊下は真っ暗になる。
死んだ、と思った。真夜中に大男が家に訪ねてきて、あろうことか、その男の侵入を許してしまった。無理だ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ。
短い人生だった。人生百年時代と呼ばれるこの時代に、まさか20歳で死んでしまうとは。しかもそれが弟の訃報を聞いた数時間後とは。何の因果だろうか。
アパートの廊下にヘタリ込む。体が動かない。せめて、無駄だろうけど、逃げてみるなり、男に立ち向かうなり、精一杯足掻いて死にたかった。それが実際は恐怖で腰を抜かし、挙句、声も挙げられないとは。涙がこぼれる。恐怖で泣いているのか、何も出来なかったことへの最期の悔いの涙か。どちらでもないような気もするが、よく分からない。俺は昔から泣き虫で、いろんなことが原因で泣いてきた。
小学生の時、近所に住んでいたガキ大将がアリを踏みつぶして遊んでいたのを見て号泣していた。自分の自転車が盗まれた時も泣いた。これは高校生の時だ。怒っていたのか悔しかったのかも分からない。もう昔のことだ。
「おい」
大男が俺に声をかける。低く、くぐもった声だ。返事をしようにも声が出ない。もっとも、声が出るなら今頃大声で叫んでいる。
「お前、俺を助けてくれよ」
助けるだと?それはこちらのセリフだ。人の家に上がり込んできて助けろとは一体どういうことだ。
俺が混乱するのを気にせずに男は話し続ける。
「お前の母親を殺してくれないか?」
大男は顔をぐっと近づけて俺を見た。その顔は雄々しく、大小の傷が見える。眼力が強く、何か意志の強さが表面化しているようだ。
俺の混乱は益々激しくなった。母を殺す…?こいつは何を言っているんだ…?
よく見ると男は眉を寄せてこちらを睨んでいるが、その表情には、困憊の色が浮かんでいる。
「今は…ダメそうだな。話を聞いていないようにしか見えない。また朝方、ここに来るから準備しておけよ。」
そう言って、男は背後のドアを開けて、出ていこうとする。体半分、外に出た時、「あっ」と言って動きが止まった。
「忘れていたよ。これはとりあえず今日の分の迷惑料だ。」
そう言って男が指をパチンと鳴らすと、俺の意識はたちまち闇の中へ落ちていった。
目が覚めると、ベッドの上だった。カーテンの隙間から光が差し込んでいるので、日は昇っているのだろう。枕元の目覚まし時計を見ると7時半ピッタリだった。ぼうっとして、まだ冴えない頭をもたげて、ベッドに胡座をかくように座る。
夜の出来事はぼんやりと覚えていた。大男が家に押しかけて、何かを話していた。もしかしたら、夢だったのだろうか……。夢……?
重たい体を引きずり起こして部屋を出る。思った以上に疲れが溜まっているらしい。なんだか足元がふらふらする。短い廊下を進み、玄関のドアノブに手をかける。夜は外に大男が……。一応ドアのチェーンだけをしっかりと付けて、ドアを開いた。隙間から見える範囲には男はいない。
1度ドアを閉めて、考えた。
どうする?外に出てみるか?ドアの隙間から見える範囲はあまりに狭い。しかし、大男がそこにまたいたとして、開けたドアから中に入られるのを阻止できるものだろうか。きっと無理だろう。
いや、しかし待て。昨日、というよりも先程、男はなんと言っていた?助けてくれと言ってはいなかったか。それならば、男とは対話することが可能だろうか。いや、待て待て。真夜中にいきなり訪れた大男を信じていいのか?あの男は怪しすぎるだろう。
そこで気づいた。悩んでいてもしょうがない。俺は昨日、弟の訃報を聞いて、今日のうちに実家に帰る必要があるのだ。どのみち玄関を開くことになるのだ。
ええい、なるままよ。1度呼吸を整え、チェーンを外して、ゆっくりとドアを開いていく。人間1人くらいなら入り込めるくらいまで開く。男はいないようだ。なおもゆっくりとドアを開いていき、部屋のドアは全開になった。アパートの通路を見渡すが、そこには誰もいなかった。
よかった。ほっとしながらドアを閉めて鍵をかけた。あの大男は酔っ払いだったのだろうか。今となってはどうでもいいことだが。
……もう一眠りしよう。目はまだ寝ぼけ眼といっても差し支えない状態だ。時刻はまだ7時半。実家に帰る準備は昨日のうちに済んでいる。もう少しだけ眠ろう。コンロと流し台を横目に、廊下を戻り、部屋に入る。
そこで、全身が、冷水をかけられたように固くなった。なんということだ。大男が、昨日の大男が俺のベッドの上に座って、こちらを見ている。微妙に口角が上がっているような気がするが、とにかく不気味である。
「なっ、えっ、どうして……」
俺が動揺して、そう口走ると、大男は不思議そうに眉を寄せた。
「どうしてって……さっき言っただろう。また来ると。」
「いや、しかし!そもそもお前はなんなんだ!いきなり真夜中に来たと思ったら、助けろとか、母を殺せとか……」
敵意むき出しの俺の言葉を遮るように、男は疑問に一言で答えた。
「わかりやすく言えば神というやつだ。」
自分でも訝しそうな表情をしていることは鏡がなくてもわかった。反射的に、身構えてしまったことも。
「か、神!?……せめてもう少しまともな嘘をつけ!」
「いやしかし、そもそも神はいるから神を名乗るのは違うな、実体はあるし、信仰の対象という訳でもない……管理者というところか。」
男は俺の声が聞こえていないのか、1人でブツブツ言っている。
「大体どうやって入った?何が目的で……殺すのか……?俺の……」
話の途中で声が出なくなった。二、三回口をパクつかせ、驚いた。呼吸はできている。舌もなくなってはなさそうだ。声だけが出ない。いや、金縛りのように体も動かないことに、少し遅れて気づいた。
「うるさいな、落ち着けよ。声を出せなくしたのと、足や腕なんかを動けなくしたので、俺が超常的なものだと証明になるか?まあ、納得してもらうしかないがな。」
男は口元に明らかに笑みを浮かべて続ける。
「少し一方的に喋るぞ。俺が管理者ということは言ったな。ではなんの管理者か、神とも言ったから大体分かるかもしれないが、世界の管理者だ。ここ以外にもいくつかの世界を管理している。数時間前に話したことは覚えているか?お前の母親を殺してほしいという話だ。」
声が出るなら、いくつかの異議が飛び出していただろうが、叶わず。
「まず、お前の母親について。お前の母親は異世界にいる。」
さすが自称「世界の管理者」だ。話の内容がゲームだ。しかし、構わずに男は話し続ける。
「違う世界に行くこと自体は珍しい話じゃない。従って問題はそこじゃない。では、何が問題であり、何故俺がお前に母親を殺せと言っているのか。分かるか?」
男が俺を指さす。分からない上に、それを示すことも出来ない。この男は俺が動けないことを忘れているのだろうか?
この時点で、この男が俺を殺す気がないことがようやく分かってきた。おそらく、交渉しにきたのだ。
俺が返答しないところを見て、男がまた話始める。
「……分からなくても仕方あるまい。突飛な話だろうしな。お前の母親は、皇帝を殺そうとしているのだ。違う世界の、とある国の。お前にはこれを止めてほしい。」
「な、あれ?声出た。」
ふっと体の力が抜ける。足も手も動くようになっている。
「質問がある。3つだ。答えてもらおうか。」
俺はそう言って指を三本立てる。男が小さく頷くのを見て話し始めた。
「まず1つ目。俺の母親について、どこまで知っているんだ?」
男は訝しげにこちらを一瞥し、目を閉じて答えた。
「当麻文香、旧姓は黒本、享年42歳。職業は表向きはデザイナー、本職は魔術師だ。」
「なに?」
「だから、お前の母親は魔術師だ。」
狼狽を隠せてはいなかっただろう。魔術師なんてファンタジーの世界の話だと、普段笑い飛ばせそうだが、先程の金縛りのようなものを見たあとだっからか、すでにそこについては受け入れてしまっていた。しかし母が魔術師?そんな馬鹿な話が……いや、分からない。俺はあの人とあまり話したことがない。
「好きな料理はクラムチャウダーだったか。いわゆる美人だったが、本人は気にしていなかった。四輪の自動車には乗らず、移動は専ら大型バイク。服は基本的に白と黒の2色。首に古傷があり、首元はいつも隠れていた。7年前、次男を連れて、夫と長男の元を離れた。」
あってる。クラムチャウダーに関しては今初めて知ったが、それ以外は紛れもない事実だ。
「夫と長男の元を離れる前日に、長男を抱きしめて、気持ち悪がられた。当日には家のダイニングテーブルの上に手紙も残して行ったはずだ。」
男ははこれで十分かと確かめるように俺を見た。
「なるほど、試してすまなかった。神を自称する男は怪しすぎるからな。俺しか知らない情報を知ってるくらいじゃないととても信じられん。」
男はニヤリとして、得意げな表情になった。
「大体分かってるさ。お前のことも知っている。ちなみに先程はすまなかった。神を名乗ったのは間違いだ。正しくは管理者だ。それよりも、俺が当麻文香と仲が良くて、お前との話も聞いていたし、服や食の好みも知っていたとは考えないのか?今のは俺みたいなやつじゃなくても、知ることが出来る情報だろう。魔術師なら動きを止めるくらい造作もないはずだ。俺はまだ自分が世界の管理者だということを示してはいないが?」
ふむ。確かにそうだ。まだ怪しいことに変わりはない。それに、俺も信じたとはいえ、全部を信じているわけじゃない。
「そうだな、あんたが何者かは質問を終えてから考えさせてもらおうか。今はどちらでも大して変わらんからな。さて、2つ目だ。最初に予定していた質問ではないが、母は魔術師なのだろう?そもそも魔術とは何なんだ?何が出来るんだ?」
男は顎をさすり、思案顔になった。
「まず魔術は使えるようになり、かつ慣れるまでに非常に時間がかかるものだ。だからこの世界、いや、ほかの世界においても一般にはほとんど普及しない。満足に使えるようになれば、大体のことは可能になる。空を飛ぶことも出来るし、手を触れずに人も殺せるし、世界の裏側にも行ける。お前の母親はそういう人間だった。これでいいだろうか?」
「ということは、俺の母は世界の裏側とやらにも行ったのか?」
「それが他の世界というやつだ。」
「?しかしさっきあんたはいくつかの世界を管理していると言ったはずだ。表と裏なら2つじゃないか?」
「裏の裏が元の表とは限らん。それに表と裏のセットがいくつかあるかもしれんしな。」
む、そういうものか。よくわからん。
「とりあえず魔術師が常識的ではないことは理解出来たよ。次、3つ目だ。」
男は腕を組んで俺の目を覗き込んでくる。自分の体が少し強ばったのが分かった。
「その国を助ける理由はなんだ?内乱なんて世界中で起こっているだろ。止める理由が分からん。」
「お前の母親が反乱軍の首謀者で、それがその世界の人間ではないからだ。違う世界から来た人間が国を滅ぼすなんてあってはならんのだ。それは世界が違う世界に滅ぼされるのと同義になる。そうならないように俺が調整しなければならない。」
「では、何故俺なんだ?」
俺は真正面から男と対峙している。目と目を合わせ、対話している。小心者の俺は、そんなことが出来たのか。今までは1度もこんなことをしたことがない。
「バランスの問題だ。一方に違う世界の人間が加担するなら、もう一方にも違う世界の人間をいれるのが、1番バランスを取りやすい。この世界の人間の中から、お前を選んだ理由は、お前には世界で唯一彼女を殺す動機があるからだ。そして、この世界に未練がないからだ。」
男はあっさりと俺を選んだ理由を告げた。彼は誰にも話したことはない、母親への恨みを知っていた。俺が自分の人生に価値を見いだせなくなっていることも。
不意に笑いがこみ上げて来た。男は不思議そうに俺を見ている。
「なるほど、だから俺のところへ来た訳か。あんたに着いていけば母に会えるのか?」
「すまないが会える保証はない。同じ世界の同じ国にお前を飛ばすだけだ。」
ああ、なんという、なんという馬鹿げた話か。魔術師だあ?異世界だあ?こんなの信じるやつが地球上にどれだけいるのだろうか。
そして、この話に乗り気な俺はどんだけ馬鹿なんだろうか。