プロローグ
初めて煙草を吸ったのは中学一年の秋だった。きっかけがあった訳ではない。たまたまリビングのテーブルの上にあった、母が吸っていたものを1本頂戴したのだ。吸いながら火をつけるものだと知ったのは随分あとになってからだ。当時は火をつけるのに一苦労だった。
喉と肺にトゲが生えたようなチクチクとした感覚に我慢出来なくて、ひどくむせ返ってしまった覚えがある。それでも吸い続けて、そのあと二本ほど灰にして、それで星がデザインされたソフトパックは空になってしまった。
でも、その時吸った煙草の味はもう覚えていない。
玄関を出て、音を立てないようにそっとドアを閉めて、煙草に火をつける。アパートの廊下から見える暗闇には灯りが散らばり、けれどそこには深海のような静けさが充満している。
502と書かれたプレートを一瞥する。白い板に書かれている数字は黒色だが、ところどころ掠れていてその歳月を思わせる。
アパートの階段に煙草の煙とブーツの靴音だけを残して、一階の郵便受けの前を通る。
横目で見ると、郵便受けには新聞が差し込んである。そういえば今日は夕刊を取りに行ってない。
歩き出したコンクリートの歩道にも夜がまだそこにいる。空は暗く、冷たい空気を街全体に押し当ててくる。
十一月も下旬、あと数日で師走というところで俺はあのピエロ野郎に着いていくと覚悟を決めた。
吸い終わった煙草を携帯灰皿に押し当てる。それは煙草を飲み込み、パチンと音を立てて閉まった。
マフラーに口を埋めて、とある路地裏を目指す。ポケットにも手を入れるが、空気は体を冷やすばかりだ。
ふいに涙が頬を撫でて、地面に落ちる。せめてあっちに行くまでは泣きたくなかったのだが、こればかりはしょうがない。俺は昔からずっと泣き虫だ。地面に落ちたそれは朝になれば消えるだろう。
馬鹿みたいだ、そんな思いが心に、錘のようにぶら下がっている。
色々なものがこぼれていく中で、思い出したこともある。
あの日、母と弟が手紙を残して居なくなった、紫煙がくゆるアパートの一室で、俺は独り泣いていた。