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蒼天の雲(短編版)

作者: せんのあすむ

しかし、娘は首を振った。


「私、古河公方のもとへは参りませぬ」


「しかし、参ると約束してくれねば父が困る」


…やれやれまたか。居並ぶ家臣は、湧きあがってくる好意の微笑を堪えつつ、父娘の言い争いを眺めている。


菊寿きくじゅ、そなた、志保へどういう教育をしたのだ」


「これは」


女は親の言うままの先へ嫁ぎ、嫁ぎ先の夫が死ねば出家するのが当たり前とされていた時代である。怒りを振られ、その場に列席していた父の異母弟もまた、苦笑した。「あに」だけでなく、一族のたれもが、未だに彼を出家前、幼少の頃の名で呼ぶ。


菊寿丸、母は「あに」とは異なり、父の側室である葛山氏の娘。後の『北条』幻庵宗哲、長綱である。


幼い頃より僧門を叩いて箱根権現寺へ入り、長じて父と同じように京へ向かって三井寺にて修行を積んだ。一族の『領国』へ帰ってきてからは、箱根権現の別当となったまま還俗せずに相模中郡と武蔵小机領の領地を父より任されることになるのだが、それは今、「あに」から、その娘と同じように説教を食らっているこの時期よりもほんの少し後の事…


兄弟のたれよりも…その身も心根も父に似ていると常々言われていた『菊寿丸』は、北条一族のたれよりも長く生き、一族の興亡を文字通りその目で見て、肌で感じた。彼自身もまた、彼の父が生きたよりもさらに五年あまりも長生きするとは夢にも思わなかったに違いない。


「菊兄さまのせいではありませぬ」


日は既に高い。座敷の外の植え込みの葉の影をそれが長く床の上へ伸ばすのを、長い睫を一瞬だけ伏せた瞳で見やってから、娘はするどく叫ぶ。娘の名は志保。『北条』二代目、新九郎氏綱の娘であり、同腹の弟に三代目の氏康がいる。後に彼女は古河公方足利晴氏の継室(後添い)となり、これより三十年の後、僧門に入って芳春院と号するに至る。


伊豆の興国寺より娘の祖父が、裸一貫で城を起こしてはや四十年余り。遠く上総、下総近くまでもその施政の模様は語り伝えられていて、祖父を慕って逃げてくる者は後を絶たない。ようやく相模一帯を手中に治めんか、そのためにはより一層、北条の足元を固めてかからねばならぬという時、彼女の祖父――僧号を早雲庵宗端と言う――新九郎長氏が出した案の一つが、彼女を遠く古河公方のもとへ嫁すことだった。つまり、政略結婚である。






ここで、少し関東公方について述べる。


関東公方は、いわば足利将軍家の『関東出張所…』のようなものであり、文字通り関東一帯の政治、軍事を管轄していた。


源氏の流れを汲み、武家の棟梁である将軍を公方(やや公家に偏るの意)、と呼ぶのもまた奇妙な「はなし」ではあるが、これは足利三代目将軍、義満に負うところが大きい。


彼らがその先祖とした源頼朝に倣わず、京に新たな幕府を開いたのは初代の尊氏である。


当時は朝廷もまた、尊氏に敵対していた南朝及び、尊氏が頂いていた北朝に分かれて争っていた。それゆえに京から離れられなかったという政治上の都合もあったのだが、それとはまた別に、いずれは朝廷の権威をも幕府側に取り込もうという意図もあったのではないか。


いずれにせよ、それが一応の結末を見るのは三代義満の時であり、「ただ人」であった彼が公家以外で太政大臣の位を賜った時から、人は将軍家のことを『公方』と呼び慣わすようになったのである。


無論、将軍家の連枝になる関東『将軍』も同じこと。全てが武士風でなく公家風に変わった将軍家のことを、たれもが公方と呼んだ。


武家でありながら公家。それでいて武士の反発もあまり買うことがなく何とか収まっていたのは、やはり義満の力が強大だったためであろう。


関東『公方』は、彼の叔父に当たる尊氏次男、基氏を祖としている。独立した『鎌倉府』として、代を重ねるごとに幕府とは違う独自の政治を目指そうとし始めた。


幕府の権威は、三代義満がみまかると、後を継いだ四代目義教によってとみに衰えを見せ始めていたからである。


そして永享十一年(一四三九)、古河第四代持氏に至って将軍義教及び関東管領の上杉憲実とついに対立、結果、持氏が討たれるという争いが起きている(永享の乱)。


さらにはその翌年、その管領上杉氏に反感を抱く地方豪族、結城氏朝、持朝らが持氏の子らであった春王・安王の二人の子らを守って下総結城城へ立てこもり、これもまた管領方の上杉清方に攻め滅ぼされる(結城合戦)など、関東は戦続きだったのである。


その後、やはり持氏の子であった成氏がその後を襲うことによって、ようやく安定するかに見えた『鎌倉府』は、享徳三年(一四五四)成氏が関東管領の上杉憲忠を殺したことにより、再び戦いの渦に巻き込まれることになる

(享徳の乱)。


幕府は、これも遠縁に当たる今川範忠を上杉方の援軍として差し向けた。彼がやがて『伊勢新九郎』の妹(北川殿)の婿となる義忠の父である。


今川範忠は分倍河原の戦い、小栗城の戦いなどを経て、結果的には鎌倉をその手に奪うことに成功した。


その時、上杉勢を追って鎌倉府を留守にしていた成氏は、


「不意を突かれた。我らが不覚であったわ」


…先だっての戦いでは勝っていながら、と、ほぞを噛んで悔しがったそうな。


鎌倉を追われた成氏は、新たに下総古河を根拠とした。ちなみに、堀越へ八代将軍義政の弟、足利政知が「古河殿」をけん制する目的で新たに公方として派遣されてきたのは、これより四年ほどのち、長禄二年(一四五八)のこと。


結果的には足利政知は、『古河公方』に阻まれて関東の奥深くに入ることは叶わず、堀越で足止めを余儀なくされた。よってその場所を拠点とし、それがために『堀越公方』と呼ばれたのだが、それより両者はなんと三十年の長きに渡ってあい争い続けたのである。


さらに公方を補佐しなければならない役目を負うはずの関東管領、上杉家さえも…そもそも彼らは扇谷、山内の二つの家が交代にお役目を継いでいたのだが…袂を分かって前者は古河、後者は堀越、それぞれの公方の元で争い始め、関東の情勢は混乱を極めた。


古河は、『鎌倉公方』の御料所(主に公家、天皇や将軍などの直轄地をさす)のひとつである。この時、鎌倉公方の御料所は鎌倉周辺の相模と、関東平野のほぼ中央に位置していた下河辺荘一帯の二つがあり、古河は下河辺荘の中心都市だった。


そこから上がる「収益」は、ひとつになったとはいえ『鎌倉公方』やそれに従う者たちの胃袋を常にたっぷりと満たすことが出来たという。また、渡良瀬川や利根川など水上交通の便もよく、少し移動すれば彼にとっての味方である岩松氏や佐野氏とすぐに連絡を取り合うことが出来る。さらには、当時辺りに散らばっていた大小の湖沼や湿地などが、いわば天然の要害となっていたのである。


よって、成氏がここへ本拠を移したのは最もな考えであると言えよう。古河へ腰をすえた成氏は、その後の内紛を経てようやく文明一四年(一四八三)、幕府と和睦、『古河公方』として正式に成立することになるのだが…


志保を『側室』として迎え入れるというはなしを持ち込んだのは、兼ねてから伊勢氏の力に注目していた古河殿の家臣、簗田高助である。成氏から政氏、高基と辛うじて続く「格式の高い…」公方には、亀若丸という跡継ぎの若君がおり、この時志保より二、三年上であった。これが後の古河晴氏である。


簗田高助にも娘がおり、この娘を強引に亀若の正室として入れる手はずを整えていたのだが、志保をも次期主君の側室に望むというのは、その駄目押しとして、関東において近頃目覚しい進出をしてきた伊勢一族へよしみを通じ、事があった場合の後ろ盾にしようと考えたものであろう。側室とはいえ、相手は『公方の若君』なのである。


「文句はないであろう…」


と、使者を通じて言って寄越したその書状の文面は、思わず鼻を摘みたくなるような高助の自尊心がふんぷんと漂ってくるような風情であったそうな。


もうひとつの『公方』であった堀越のほうは、今(永正九年頃)はもう、事実上存在してはいない。なぜなら、堀越公方を滅ぼしたのは彼女の祖父、長氏だったからである。


長氏の伊豆進出の格好の口実となった出来事は、堀越公方のいわゆる『お家騒動』だった。堀越政知には生前、正室の子であった足利茶々丸のほか、継室の子である義遐と潤童子とがおり、このうち義遐は京都の寺で渇食として入れられていた。のちの足利十一代将軍、義澄である。


幼少の頃はとりたてて見るべきところもないと思われていた茶々丸は、長じて乱暴者となり、それを諫める為に父の政知が牢屋に入れていたことさえあるという『悪評』はあった。が、政知には茶々丸を跡継ぎとして据え、他の子へ跡目を相続させることは考えていなかったという。


そのような実父と後妻および二人の異母弟のうちの一人、潤童子を、何故突然に切り捨てるまでに至ったのか。


彼は実の子を次期公方にしたがっている義理の母やその周りから、形には見えぬ心理的被害を受けていたとも言われている。当人は気づいていなかったが、それもまた原因のひとつかもしれない。


しかしいずれにせよ、その真実の理由は茶々丸本人でなければ分からない。その混乱に乗じて長氏が茶々丸の非道を鳴らし、幕府よりの勅許も得て堂々と堀越を攻めたのは事実である。


命拾いをした上に将軍になるという儲けものをしたのは、義澄であろう。もっとも既に将軍家の権威は地に落ちていたから、さほど『儲けもの』ではなかったかもしれないが。


茶々丸もまた、実父を殺して公方の跡を襲ったのはいいが、ただ「腕っぷしが強い…」だけの者にありがちな典型例で、政治頭はさほどでも無かったように、物の本に伝えられている。


それでいて妬み心だけは強く、『先代』であった父に仕えていた老臣が諫めると、己の無能振りを指摘されたと怒り、その老臣へ即座に切腹を命じた…と。だが、これもまたどこまで真実であったものか。


妬み心が強いということは、それだけに癇癖も強く、一面人の心を読むことに長けているということにも繋がる。だがそれは、領主として…一部ではあるが関東を管轄している政治の要として、およそあらま欲しい能力ではないのだ…。


とまれ、茶々丸が公方を力で持って『僭称』してからというもの、伊豆は混乱を極めたのである。


長氏がその茶々丸を…いやしくも、将軍家の血が流れているのである…攻めることへ、将軍家が勅許を与えたのは、時の政所執事が長氏の従兄弟であったという強みだけではなくて、長氏自身もかつて中央の政治の場に居、かつその折の勤務の実直さが覚えられていたからであろう。古河公方を牽制するためにせっかく派遣した『将軍の弟』も、物の役にも立たず、さらに言えば…これは筆者の憶測だが…己の血族より出た茶々丸のような『痴れ者』を、己の手を汚さずに消し去ってしまいたいとも…日ごと夜ごと幽玄の境に遊んでさえ居られればそれでよいと思っていた将軍家は考えていたのではないかと思えるのである。


そして長氏の行動は幕府によってお咎めなしとなり、古河公方側もまた、『目と鼻の先の腫れ物』を長氏が滅ぼしてくれたということで、


「してやったり…」


と手を叩きながら、心の片隅にでも『北条』へいささかの好意を持ったかもしれない。






さて、それより二十年ほど経った今のこと…


先ほど述べたように、関東『公方』は、今は「古河殿」ひとつである。


扇谷、山内の上杉は、今は結託して公方へ反抗しており、ために古河殿の威光はますます衰えていた。


だが、衰えたりとはいっても、「公方」の名を持つ足利一族の威光は、地方ではまだまだ生きている。それを「腐っても鯛じゃ」とばかりに己の家の為に利用しようというのは、長氏ならずとも必ず考えつくことではあったが、


「のう。志保」


父、氏綱は、いらいらと扇を弄びながら、聞き分けのない娘へ説得を重ねようと、虚しい努力を続けた。


「我らが一族のため、聞き分けぬか。否、こなたが古河殿へ嫁ぐのは、我らが為ばかりではなく、遠く民草の将来をも見据えた故の布石なのじゃというに」


「なりませぬ」


「頑固な奴めが。誰に似おったのか」


「それは血でございますから」


家臣達は、とうとう浮かぶ微笑を堪えきれずに顔を逸らした。中には吹き出す者もいて、氏綱はそちらをじろりと睨めつける。


「女は、道具ではありませぬ。私は他の女とは違う、心というものがござりまする。聴けば亀若殿には、すでにご正室候補として挙げられている方がいらっしゃるとか…私、『側室』は嫌でござりまする。よって古河殿へ参るのは気が進まぬ。気の進まぬ殿方へ嫁げといきなり告げられて、『はいそうですか』などとは言えませぬ。まして、お家の為になどと、到底納得はいきませぬ」


数え年十三、実年齢は十一か十二ばかりでしかないのに、一人前の口を利く。睨みつけても平然とした顔をしてそっぽを向く娘に、氏綱は、尚も説教してやろうと口を開きかけた。するとその時、


「やれやれ。苦労しておられるようだの」


ひょこひょこ、と、僧衣をまとった人物がその広間へ姿を現す。


「ほ、これは」


「おじじ様」


そのあまりの手軽さに氏綱は恐縮し、家臣達ともども一斉に手をついた。


「これ、志保」


その中でただ一人、頭を下げぬ娘へ氏綱の叱責が飛ぶ。


「ああ、よいよい…氏綱どの」


「おじじ様」と呼ばれたその人物は、にこにこしながら彼女の頭をごつごつと節くれた手で軽く撫でる。「おじじ様」にとっては彼女が初孫であり、数少ない女児の一人であるが故に、かわゆくてならぬものらしい。


この人が氏綱の父、志保の祖父である一族の祖、新九郎長氏である。彼は孫娘が生まれる十年あまり前に頭を丸めて法体となり、先述のように「宗瑞庵早雲」と名乗っていた。『人生五十年』といわれていたこの時代、齢八十を越えてなお腰もしゃんと伸びたまま、自ら戦の先頭に立つだけの精神と体力があったというのは、彼以外になかったと言ってよい。さらに、祖父はまだその長子である氏綱へ…伊勢氏は将軍家より『大名』として正式に任じられたわけではないので、このような名称を使うのは少々おかしいのだが…『家督』を譲っていなかった。


伊豆、相模一帯を着々と手中にしつつあるとはいえ、三浦半島には未だに頑強に一族に抗う三浦氏が健在である。彼らは祖父側に味方すると言っていた扇谷上杉方の武将であった権現山城城主の上田政盛を攻めて城を落城させ、一族を苦しい立場に追い込みさえしていたのである。


祖父にしてみれば、息子である『氏綱どの』はまだまだ頼りない。彼の命のあるうちに、将来彼の息子の前に立ちはだかるだろう強敵を、彼自身の手で滅ぼしておくつもりだった。


若い氏綱にはいささか不満もあっただろうが、長氏がいかに一族の行く末を案じていたかが伺えよう。ただし、彼の一族は彼の生存中は「北条」を己の名としたことはない。したがってこの時点では彼の遠い祖先である伊勢平氏の名を取って、「伊勢早雲入道」と呼ばれていたものである。


「北条」の名は、むしろ彼らを慕った国人や土着の農民、あるいは他の地から逃れてきた、いわゆる「逃散民」らによって、かつて同じ土地を拠点とした古い時代の支配者の名を、伊勢氏を主と仰いでいくようになる過程で自然に


「北条殿」


と、かの一族へ冠したものであろう。


伊勢氏一族のほうもまた、『通り名』として呼ばれていた『北条』という「苗字」を憎からず思っていたに違いない。伊勢と呼ばれるよりも北条、北条と皆が言うので、氏綱の代に至って自らをそう呼び習わしたのである。


「ちと手間取っておられるとお聞き致したのでの。及ばずながら参上いたした」


そしてこの時期、一族が主な居城としていた小田原の城へは長氏はあまり寄り付いてはいない。


「小田原は氏綱どのへ任せた…」と言って、主に韮山の城を彼の住まいとしており、たまさかにこうやって小田原を訪れるのである。


「そして聞きまいたときに、志保殿やお千代殿の顔が見とうてたまらなくなりまいたのでな。ああそれ、そのように畏まられるな。氏綱どのやそれ、そこに並んでおるようなむさ苦しい家老おとなどもは『ついで』じゃ、『ついで』」


ともあれ、『入道』が笑みを崩さず彼の息子へ話し掛けると、「は、これは」額に滲み出た汗を、氏綱は懐へ思わず手をやって取り出した懐紙で拭い、父へ向かって再び頭を下げた。老臣たちもまた、苦笑しながら再び手を仕える。


『氏綱どの』は、彼の父ほどに頬はそそけだってはいない。顔の造作は異母弟ほどではないが、やはり、父に似ている。


しかし、今のように顎を引くと少しであるがその首の肉が押されて盛り上がり、皺を作った。どちらかといえば幾分おっとりした面差しをしているように見える。


「これ、このように頑固なものですから」


「誰に似られたか」


志保の祖父、長氏が、けろりとした顔で言ってのけたので、とうとう家臣達は声を上げて笑い出した。その中で、氏綱と志保だけが憮然とした顔を崩さない。


「ときに志保どの」


「はい」


何を言われても聞くものか、という固く引き締まった顔をした孫娘をにこにこと見ながら、祖父は言った。


「久しぶりにの。この爺と一緒に『お拾い(散歩)』に行かれませぬか」


「お拾い、でございますか」


必ず説教が飛んでくる、そう思っていたらしい孫娘の顔は、その瞬間いかにも子供らしいきょとんとした顔になる。


「さよう、お拾いじゃ。この爺に付き合いなされ」


それへ頷いて、祖父は孫娘へ皺深い手の平を上にして差し出す。


「…お供致しまする」


内心の照れ臭さも手伝って、志保もまた、その手を取って立ち上がった。その背はいとけない少女でありながら物怖じすることもなくしゃんと伸び、長く伸ばされて黒い光沢を放つ髪もまた、何の飾り気も無く後ろで一つにきりりと束ねられているのみ。だがその様子が反って彼女の美しさを際立たせていた。


「怖じずにはきはきと物申すのが、こなた様の良いところじゃ。氏綱どのもな」


(これは祖母に似た)


孫娘をにこにこと見やり、祖父は思う。彼女の祖母は、祖父自身より三十以上歳が離れていながら、彼よりも先に亡くなった『正室』であるところの小笠原政清の娘である。


言うまでもなく、小笠原氏とは、礼法を司る京の「公家武士」、小笠原流の宗家のことである。南北朝時代の頃には北朝に従軍し、桔梗ヶ原の戦いで南朝の宗良親王を破って吉野へ追い落とすという華々しい軍功を立てたので、義満より始まる室町時代には一族が幕府奉公衆として仕えるようになった。


志保の祖父、長氏の一族である伊勢氏もまた、遠くは桓武天皇を祖先とする桓武伊勢平氏の出であり、同じように礼儀作法を司る名門である。壮年であった頃の祖父が京で申次衆をしていた間、同じ宮中儀礼一般に通ずるものとして、彼の従兄弟であった伊勢貞守が、


「…小笠原の娘をご存知か」


と、その時五十歳を過ぎても独り身でいた祖父へと「話」を持ちかけたと聞いている。


そのことによって、家格は高いがその内実は紛糾、かつ困窮していた小笠原氏との縁が出来たのであろう。小笠原氏にとっても、当時中央で一、二を争うほどに羽振りのよかった伊勢氏との縁が出来るのは、経済援助を期待できるという点でも願っても無いことであったに違いない。


当時の京小笠原氏の当主であった政清は、その少し前に起きた、いわゆる戦国時代のきっかけとなった応仁の乱にて家を焼かれ、縁ある寺の隅に仮住まいを余儀なくされていたからである。


貧を舐めたせいか、志保の祖母である小笠原氏の娘は、高貴の出らしく頬はふっくらと、肌は触れれば吸い付くように白く、『京美人』の典型のような姿を持っていた。しかし「今川の後継問題を収束させよ」との幕府…実際には志保の大伯父の貞親に政治の実権は握られていたのだが…の命を受けた長氏と共に東国へ下り、まだ幼かった「今川の正統な後継者」を彼の妹、故北川殿とともに逃れ隠れた所の長者、小川の法永の館(小川城)で守り通した芯の強さは、やはり尋常な公家武士の娘のそれではない。


「…氏綱殿もな」


その「妻―」の面影を孫娘の表情に重ね、憮然としたままの息子へ、部屋を隔てるふすまの敷居を無造作に足の裏で踏みしめながら、彼はこんこんと諭すように言った。


「人に物を申すときには、つけつけとは言わぬことじゃ。あれでは聞いてもらえるものも、聞いてもらえぬ道理であろ」


「は」


「新九郎様」


再び額へ赤く血を上らせて黙りこんでしまった氏綱を救うように、古くからの家臣の一人である荒木兵庫頭あらきひょうごのかみが口を挟んだ。兵庫は未だに長氏を若い頃の通り名で呼ぶ。


「お二人のみで大丈夫ですかの」


「ほ、年を取ってもまだまだ若い者には負けはしませんぞ」


荒木兵庫は、幕府によって取り潰された播磨赤松家の遺臣だった。上よりも下の顎ががっしりと出張っている上に、顎の肉付きもひと目で「頑固者ではないか…」と人へ思わせるほどにたっぷりとついている。にこりとすることも滅多になく、口を開けば出てくるのは遠慮も何もあったものではない苦言ばかりだと、志保の祖父は苦笑を漏らすのである。


「少しはお年を考えなされ。もう八十と…」


「三、四になるかのう。こなたとて似たようなものであろ。すまじきものは長生きですのう。煩い年寄りばかりでは、若い者は息もつけまいて」


旗揚げした古い仲間へからりと言い捨てて、荒木兵庫の口に微苦笑が浮かぶのをちらりと見やってから、


「さて、参りましょうかの」


祖父は志保を促した。


二人の素足が広間より廊下の広縁を踏んだ拍子に、辺りへ良い香りを漂わせていた満開の木蓮の花びらが、はらり、と一つ散りかかる…


「おお、良い天気ですの。春じゃなあ」


「…はい」


祖父の心の中では、まだまだ彼女は幼い頃のままであるらしい。転ぶといけないから、と、その片手を握って離さない。一国の領主が、その孫娘と二人のみで出かけるというのは、あまりにも手軽すぎて、


「おじじさま」


「よいよい。よいのじゃ」


祖父にはいつも、孫娘の言いたいことが一言のみで分かるらしい。人の良さげな笑みを口元へ上せたまま、


「どうせ大道寺あたりが、見え隠れに乱発らっぱなど我らにつけておろうからの」


これまた古い家臣の名の一つをこともなげに言い捨て、前を向く。志保も苦笑しながら歩みを進めた。


祖父の言う「乱発」とは、後の「忍び」のことである。確かに、彼らがついてあれば祖父とその孫娘の身はそれ以上ないほど安心と言っていい。


また、彼らを慕う農民や土着民もまた、隠れた『間諜』であった。


明らかにこの土地の者ではないと判断される者や、怪しげな旅人などを見かければ、別段頼まずとも彼らのほうから教えに来るのである。さほどかように、『北条殿』は領国の民に愛されていたと言えよう。


「氏綱どのもなあ」


祖父はのんびりと歩き続ける。ひょっとすると今この時にも命を狙われているかも知れぬなどと考えもしない風情で、


「頭は良いのだが、この爺に似ず真面目すぎて、融通の利かぬところがござっての。『これ』と思い込むとその他が見えぬ。それゆえに、なあ、あの物言いは許しておやりなされ」


まるであくびを堪えているような様子で、ゆるゆると言うのである。


すると、深い皺が刻まれた固い頬の上にはうっすらと涙すら流れて、それをまた祖父は無造作に右の袖で拭うのだ。


「はい」


志保もまた、その様子には微苦笑を禁じ得ない。およそ礼儀を司る家の出らしくなく、


「しばし待ちなされ、ちと野暮用じゃ」


時折、田のあぜの片隅で祖父は足を止めては彼女から背中を向けて、心地よさ気に尿いばりすら草むらへ向けて放ちさえする。


「氏綱殿にはくれぐれも内密にのう。あれに知られてはまた叱られる」


まるで悪さを見つかった子供のような表情で、片目をつぶって野袴を無造作に捌きながら、彼は志保を振り向くのが常なのだ。


「それは、もう」


苦笑しながらも、


(この放埓さも嫌いではない…)


むしろ好ましい面として、志保の目には映る。


志保を古河公方の側室へ入れるというそもそもの発案は、彼女の祖父のものなのである。


祖父は、一族や家臣が彼の耳に痛いだろうと思われることを言っても、決して声を荒げて怒鳴ったりはしない。


父氏綱が頑なに彼女へ古河公方の元へ嫁ぐように言い張るのは、父自身もこのような磊落な自分の父が『実は好きでたまらぬ…』からであり、また、それゆえに、その『言いつけ』は絶対のもの、『氏綱殿』にとっては「必ず実行されなければならぬもの」なのだということも、彼女はよく知っていた。


今日も、耕された土の匂いは日差しに照らされて濃く漂っている。風向きが変われば、今しがた畑へ撒き散らされたばかりの牛糞の臭いさえ時折鼻を突く。豊かに広がる畑の畝の中には、手ぬぐいでほっかむりをした人々の姿が点々と散らばってい、


「おお、お城の大殿さまと志保さまじゃ」


「今日はお二人で『お拾い』じゃそうな」


それらの畑を耕していた農民達が、二人に気づいて遠くより手を振った。近くへ駆け寄ってこようとするのへ、


「ああ、よいよい」


と叫び返して手を振り、にこにこと祖父は彼女へ笑いかける。


「のう。皆が我らを慕ってくれる。素晴らしいことであろ」


「はい」


祖父は興国寺城を今川氏から『預かった』時、その頃公五民五が当たり前とされていた年貢の率を、


「我らが贅沢さえしなければ、やってやれぬことではない」


と、公四民六にしたばかりか、その当時流行っていた風土病の治療にも力を尽くし、一挙に民の心をつかんだ。


「上に立つものが贅沢をしてはならない。民の声すなわち天の声じゃ」


彼はいわゆる「応仁の乱」が勃発した時には京に居た。そこで、つぶさに民の惨状を見てきた経験がそう言わせたか、あるいは建仁寺において禅を学んだ故に出た考えなのか、志保には預かり知らぬこと…


ともかく彼の思案は当時の身分の高い「申次衆」が考えることにしては開かれており、またそれが、伊豆へ拠点を移した現在に至るまで変わらぬ長氏の口癖なのである。「


民の心をな、しっかとつかんでいなければ、所領の経営は成り立たぬ。これはのう、爺が志保どのよりも十ほど年を経たときに、お天道様から教わったことでの…その頃はまだ、荏原(備中)にいたのじゃが」


よっこらしょ、と掛け声を発しながらしゃがんだ祖父の節くれた指は路傍の花を折り、孫娘へとそれを差し出す。それを受け取った彼女へ、祖父はいつもの言葉を口にした。ここまでは彼女も、というよりも一族のもの皆が訓戒として普段聞いている通りである。だが、


「領主は、民あってこそのもの。民を守るためにある。こなた様が生れ落ちるずっと前に、京の将軍家から命じられて、ほれ、氏綱どののお従兄の氏親殿(今川氏親。故今川義忠の正室で長氏の妹だった北川殿の息子であり、従って長氏にとっては甥にあたる)へ今川のお家を取り戻して差し上げられたのも、その功あって、興国寺のお城を氏親殿からお預かりしたのも、こうやって爺がこの豊かな伊豆を己の手の中へ収められつつあるのも…全てこの爺の志が天に叶うたがゆえだと思うておる。それゆえにわしは、民を氏綱どのや菊寿どの、こなた様と同じように思ってきた」


今日の祖父は、志保が聞いているのかどうかを確かめようともせず、彼女には今まで語られることのなかった言葉でとつとつと語る。


「子は宝じゃ」


そして、孫娘の顔を微笑でもって眺め、


「男子であるから、女子であるから、というようには育て申さなんだ。菊寿にこなた様の指導を預けたときも、わしはそのことを特に申し聞かせておった」


「はい」


志保もまた、こくりと頷く。


「どうであろ。こなた様には、この爺や父の領地がうまく治まっていると思われるか」


「それは、もちろん。この地のみならず他の地でも、おじじさまを徳と仰がぬ者はないと聞いておりまする」


「そうか、そうか」


孫娘が大きく頷いて答えるのへ、祖父はつるりと顔をなでた。これが照れた時のこの人の癖なのである。


まこと、伊豆は穏やかな気候に恵まれた豊かな土地であり、当時は川から砂金も取れた。海から得られる海産物も豊富であり、小田原城を手に入れるために祖父が使った「卑怯な手段」のことも、また、祖父に頑強に抵抗した下田の深根城の領主どころか城内の女子供全ての首を祖父が切るように命じ、空の下に晒したことも志保は聞き知っている。


いつも一族や家臣の者へ穏やかに微笑む祖父が、逆らう敵を皆殺しにするような、酷烈な一面を持つとはとても信じられない。ましてや祖父は『禅宗』に深く帰依した出家の者なのである。


もっとも、彼が非情ともいえる『裁き』を敵へ施したのは、後にも先にもその時一度きりではあったのだが。


「それもこれも、全てお天道様の思し召しじゃ。こなた様も知っての通り、この爺は、こなた様の祖母と出会うのが遅れた故に、こなた様の父御をお天道様から授かるのも遅かった」


「はい」


祖父は、すげ笠に野袴、虎縞の羽織という、とても領主とは思えぬ格好で、大地をゆるゆると踏みしめて歩きながら、


「子はいわば天からの授かり物。まさかにこの爺も八十を越えてまで生きて、こなた様やお千代殿に会えるとは思いもしませなんだ。全てこれ、天の思し召し。であるからの」


走り寄ってきた領民の子供達へ手を振りながら、祖父は話し続ける。


「我らが領地内に生ける者、皆に幸せになって欲しいとのう、そう思う。そのためには、これからも流されねばならぬ血もあろうがのう」


しかし、己にも言い聞かせるように語る彼の瞳に、少しだけ陰りがあるのを孫娘は見逃さない。もう四年程前になるだろうか。「仏の道」へ入ったにもかかわらず、祖父はその後半生、重い鎧を厭って軽い法衣をまとい、頭巾を被ったのみで戦いに明け暮れた。帰ってくるたびに彼は必ず、彼の一族の菩提寺とした早雲寺を訪れては仏前にぬかずいて香を焚き、華を手向けたものだが、


「猫が、己の糧とするために殺した鼠を食いながら、『彼が哀れである』と申しておるのと同じではありませぬか」


祖父を慕って彼の行く先々へ付いて回っていた志保が、別段に深い考えもなく祖父と同じように幼い両手を合わせて仏前へ共に座っていると、戦後の報告へやってきた父は、唇を苦々しく歪めて祖父をなじるのが常だった。幼い彼女には、ただ父が「好きでたまらなかった…」祖父を訳もなく避難したとしか見えなかったのだが、(…皮一枚の情けを、己が手にかけた敵へかけてどうする)恐らく父はその時、そう言いたかったに違いない。その父へ、祖父はただ苦笑でもってのみ答えた。


(…そんなことは)


志保は、ゆるゆると、しかし力強く歩き続ける老いた祖父を時折見やりながら思う。勝者が敗者へ何をどういった形で与えようとも、それはただの偽善にしかならない。祖父には百も承知なのだ。それでも、彼はそうせざるを得なかったのだ、と。


(仏の心で、鬼の裁きを…)


祖父、新九郎長氏は、彼女が幼い頃に何かの『はなし』に聞いていた『閻魔』という仏の使いに違いないのだ…。


「…あらゆるものはのう。お天道様に生かされておる」


まだ春だというのに、祖父の鼻の頭はすでに浅黒く日に焼け、薄く皮膚さえ剥け始めている。志保の手をつないでいないもう片方の手の平で、祖父はそれを擦り落とすかのように再び顔をつるりとなで、


「関東管領という地位も、関東公方という地位も、そして京におる将軍家に様々な公家ども…それらはのう、皆、与えられておる己の今の地位が天からの授かりものであることを忘れておるのじゃ」


…京は腐り果てておる、と、いつか長氏は古くからの家臣へ吐き捨てるように言ったそうな。故に、わしがやらねばならぬ、と。


烏の爪痕が刻まれたような皺深い、いつも地下の者たちへは労わりの笑みを絶やさぬ瞳の奥には尚、力強く光が宿っていて、「むっ」と口を結ぶと意志の強さはその周りに濃く現れ出でる。


「それゆえ爺は、それらに代わって、その支配に喘ぐ領国の民を助けたいと思うた。そのためには二つに分かれてなお、関東公方に深く根を張って未だに戦う扇谷、山内の腐った二本の杉をまず切り倒すという荒療治をせねばならん。そう思いながらのう、爺は昔…ほれ、三島明神様へお篭りに参りまいた。それがお天道様のご意志に叶うかどうかを尋ねにのう」


「アア…はい」


志保もそのことは、「じいや」の松田左衛門から聞き知っている。彼女が顎を引いて頷くと、祖父もまた頷いて、


「そこで爺は夢を見まいての…小さな小さな鼠が、広大な野原に生える二本の大きな杉を根から齧り倒してやがて大きな虎になる…」


彼女の手を握り締めた手と、もう片方の手でその大きさを示してみせる。


祖父は壬子(一四三二年)の生まれである。であるから、その鼠はおそらく祖父自身であろう、そして広大な平原とは武蔵野、日本の杉とは扇谷、山内両上杉のことであろう。となると、これは『伊勢』一族がいずれ、関東の覇者になろうという『お告げ…』に相違ないと、居並ぶ家臣の前で祖父は自身で『夢解き』をしたのである。


そして祖父が『霊夢』を告げた年は、まさに『寅年』に当たっていた。あるいはそれは、家臣を納得させるための彼の自演であったのかもしれぬし…事実そうであったのだろうが…家中の者は皆、縋るようにそれを信じ、


「我らが関東の覇者となるのだ…」


やがて各々の胸のうちでずっしりと根を下ろして信仰の一つと化した。そうさせるだけの『何か』が、長氏にあったからに他ならない。


無論、志保もその『霊夢』についてはいちいちを老臣おとなどもから聞かされている。彼女もまた、それが真実、祖父へ『お天道様』が示した啓示だと信じて疑わなかった。


「間違うことなく、これはお天道様のお告げじゃと思うた。伸びすぎた杉の枝をこなたが矯めよと、お天道様は申しにお出やったのじゃとなあ」


少年のように瞳を輝かせ、祖父は語る。


「根っこになどお天道様の光はいらぬ、土の中へ隠れておるのじゃからというのは誤りじゃ…伸びる場所を間違えた枝は、あらぬ場所へ葉を茂らせて、肝心な土へお天道様の光を届かぬようにさせてしもう。この爺が杉の枝を矯める…それはすなわち、我らが伊勢一族の領地と支配とをその地にまで広げるということで、いわば長年の爺の果たすべき希いでもある。遠い遠い我らのご先祖様のお一人の将門公が、関東の地へ作ろうとした『常世の国』を、たといどれほど時間がかかろうとも、子孫の我らの手で作ることが出来るなら、なんとも痛快ではないか…くどいようだが、そのためには流されずともよい血は、これからも流れよう。じゃがの、志保殿」


「…はい」


頷きながら、時折見上げる蒼い空には、一欠けらの白い雲がのんきに浮かんでいる。


「その、流れねばならぬ血をなるだけ少なく…そのためには、関東公方様のご威光を我らが背にのう、しっかと負うて、我らには公方様がついてござる、それゆえに我らが守れば安心じゃと言うて回るのが一番だと思うての。そのためには公方様と縁をつながねばならぬ。よってそれをこなた様に、上に立つものの一員として果たしてもらおうと、爺は思うた」


「…」


「それは決して天の意志に背くことではないとよくよく考えたゆえのことじゃ。古河公方様へは、事が起きた際には我らが必ずやお味方するという誠の証としてもの。幸い、こなた様をいずれ若君の側室のお一人にという先方様からの申し出もあったことじゃし」


少し気の早いはなしではあるが、と、祖父は苦笑する。


「…おじじ様」


「ああ、案じなさるな。事実は、そういったはなしが出ているというだけのことですわいの。氏綱どのは騒ぎすぎなのじゃ」


古河公方の若君とは、先述の亀若丸のことである。実権を握っていたのは、このはなしを持ち込んだ当の簗田高助だった。


高助にとっては関東公方家における己の権力維持と保身のため、『北条氏』にとっても、互いの私欲を満たすために争い続けた故に衰えたとはいえ、古河公方の権力を後ろ盾に出来ようというもので、これが実現すれば双方にとって渡りに船である。京にいる足利将軍本家が、彼らにとってはずいぶん昔に地方へ下った同族のことを気にかけていた様子はない。なぜなら、戦国時代の幕開けとされる応仁の乱の後始末を…というよりも、贅沢に慣れた彼らが考えるのは己の体面のみだったからだ。


だが、関東公方のほうでは、己が京の将軍家の一員であることを忘れなかった。


その思いはそのまま、現代の古河公方、高基(亀若丸の父)へと受け継がれたものである。


「関東の将軍家」であることを誇りに思い、肥大して歪んだ自尊心を抱く高基のこと。いかにかつては京で申次衆をしていたとはいえ


「所詮は成り上がりではないか」


高助からその「はなし」を聞かされたときには、一度は鼻を鳴らしてそう言い捨てたそうな。


もちろん、その中には都にいたことがある者への嫉妬も混じっていたであろう。


はるか昔のことにはなるが、東の重要な地へ中央より派遣された、己はれっきとした「関東の足利将軍」である。むざと京での地位を捨てて東へ下った「伊勢平入道」とは文字通り、氏も育ちも違うのだと権高く構えていたのだ。


伊勢氏とて、決して『成り上がり』などではない。桓武伊勢平氏の流れを組み、小なりとはいえ志保の祖父は荏原庄の領主の曹司(次男)であったし、彼女の大伯父である伊勢貞親もまた、殿中の礼儀作法を諸大名へ伝授する役目を負い、政務を司る幕府政所執事も兼ねていた、将軍家に仕える名門であったのだ。


ついでながら、氏綱の正室、志保と千代丸の母もまた、小笠原氏から迎えている。


だが、当時の貴人の感覚としては、その高い身分をわざわざ蹴って、東国へ下るというのは『ただの平民』に成り下がることに等しい。それゆえに、古河高基が『平入道』とその一族へ投げつけた言葉も、そういった貴人としての無理からぬ認識から来るものだったと言えなくも無い。


それを間諜から伝え聞いた彼女の祖父自身は、


「我らは『成り上がり』か。だがそれでよい」


ただそう言って笑っただけであったが…


「確かに嫁げば先方様にあるのは、こなたにとって敵ばかりとなろう。それによって、こなた様が不幸になるのは分かりきっておったのにのう。これは爺の黒星である。お天道様の意志に背いたということじゃ。一人も千人も、その幸せの重さは同じ。ならば、爺は、誰より大事なこなた様の幸せをも考えねばならなかった。お聞きお呼びであろ。この爺がこなた様の名をつけたとの」


「はい」


志保が頷くと、祖父は空を仰いで大きく息を吸い、


「志を、保つ。…我らが一族の…」


そして鼻の穴を膨らませながら、ゆるゆるとそれを吐き出した。


「全てはお天道様の思し召し。この、蒼い蒼い、どこまでも広がるお天道様ののう」


つられて見上げた蒼い空には、鳶が大きく輪を描いて舞っている。「志保どの」しばらくその動きを無言で目で追った後、


「ご自身でよう考えて、これ、と思われた殿方へ嫁がれよ。なに、公方様とのご縁があるなら、こなた様が無理に公方様へ嫁がずとも、他の形でいずれはそうなろうでの」


やがて祖父の口から出た言葉に、志保は大きく目を見張った。


「ですがのう。志保どの御自身で選ばれて、嫁いだのであれば、我がままは利きませぬぞ。踏ん張って、そして…幸せになられよ」


「…おじじ様」


「やれ、ちとお喋りが過ぎまいたの」


再び顔をつるりとなで、祖父はそっと彼女の手を離して前を歩く。


いわゆる鷲鼻、というのであろう。大きく横に張った祖父のそれは、彼の顔の中央に確たる自信を持って日々座しているように見え、それが強い意志に結ばれた唇や少し出ている額とあいまって、


「こなた様がこの爺に似ぬでよかった」


と、時折当人も冗談交じりに漏らすように、決して美男とは言えぬが何ともいえぬ愛嬌をかもしだしているのだ。志保は慌ててその後を追った。「おじじ様」ごつごつとしたその手を、何よりも頼もしく、愛しいと思いながら、自らその手をつないで志保は呟くように祖父へ言う。


「お天道様がござるあの蒼い空…頂はいずこでござりましょうなあ」


今よりもさらに幼い頃、祖父へ出した問いを、ま一度繰り返す。


「そうじゃのう」


白い指先が、翻って蒼天を指差す。同じように被っていた菅笠を少しかしげて空を仰ぎながら、祖父の目もまた蒼い。


「おじじ様は、何でもご存知でおわしまするゆえ」


「これこれ、そのように持ち上げなさるな。…しかしのう、それは」


祖父は、彼女の少し冷たい手をぐっと握り締め、


「この爺の、志保どのへの『宿題』としておきましょうぞ。願わくはのう、志保どの」


にこ、と笑って、同じように蒼天の隅を空いた手の少し曲がった指で示した。


「ほれ、あすこにぷかり、ぷかりと浮いてござる白い雲のようにのう、のんびり過ごしたいものよの」


祖父の好きな、早春の雲。蒼く晴れた春の空に浮かぶひとひらの白い雲を、自らの僧号とするほどに彼は愛したのだ。


「したが、のう、志保どの」


「はい」


小田原城への道を辿りながら、やがて祖父は呟くように、


「お天道様は遠いようで近く、近いようでまだまだ遠いわ、ワッハッハッハ」


「おじじ様、それは」


「あ、あアッ」


言いかけた志保の手ごと虚空へ上げながら、祖父は大きくあくびをして、


「さあて、少し急がねばの。皆がさすがに心配しておろうよ」


答えを紛らしたのである。


いつしか日は傾きかけていた。手をつないで城へ帰る二人を、やはりあふれんばかりの好意でもって、領民達は眺めている…。以上は、三浦半島の先端にある新井城にて未だに頑強に抵抗を続けていた三浦導寸、義意親子を、『伊勢平』入道やその一族が陸上、海上とも封鎖し始める少し前、永正九年三月末頃の出来事である。


それ以前の永正七年七月より、三浦氏との戦いはこう着状態ながらも続いていた。彼らは長氏晩年の最後にして最大の敵であったといえよう。


そして、その「忙しさ」がゆえに、古河公方との「はなし」は一時たち消えたような形になっていた…


むろん、『封鎖』の合間にも三浦一族と入道の一族との小競り合いは続いている。その『戦』模様を、


「女子供には聞かせても」


と、たまさかに小田原へ寄ることがあっても、祖父は決して語らなかった。


「勝ちにせよ、負けにせよ。我らが無事の帰還が、何よりの報告になろうよ。万が一負けまいたら、必ずや急の使いを差し向けようゆえ」


と、女子供だからと言って決して粗略にするのではないが、戦のいちいちについて細かく告げてもただ案じさせ、いたずらに騒がせるだけ…その考えはずっしりと長氏の心に根づいていたのだ。


志保の祖父はその年八月、ようやく三浦義同を住吉城から三崎(新井9城へと追いやり、鎌倉へ入っていた。


その頃から本格化し始めた三浦一族との長い戦いの間、彼らに対するために次男の氏時に命じて鎌倉玉縄の地に城を築かせており、小田原とその城の間をを忙しげに往復していたものである。


「おじじ様。こちらへ帰っておられると聞き、お訪ね致しました」


彼女がついに、いてもたってもいられなくなってその戦況について尋ねたのは、山の木々がすっかりその葉を赤く色づかせ、しかし未だに異様な『暖かさ』が続いていた頃だった。


「志保殿か」


『菊兄』の生母である側室の葛山氏に着替えを手伝わせていた祖父は、突然開いたふすまの向こうに孫娘の顔を見て、その無礼を咎めるどころかにこにこと笑った。


「ちょうど良かった。これ、この爺の背中をな、掻いてくだされ。玉縄のお城の具合を見ておる最中にな、暑うなったからともろ肌脱いで油断しておりまいたら、見事にこれ、この真ん中辺りを蚊に喰われてしもうてのう。いやはや、痒い痒い」


葛山氏が苦笑を堪えながら、白い『寝巻き』を祖父の背へ着せ掛けようととするのを「よい…」と制した祖父は、畳の上へどっかとあぐらをかいて、それぞれの膝へ左右の手を載せながら、志保へ背中を向ける。


「…また、にござりまするか」


「おお、またじゃ。ほれ、ちゃっちゃと掻いてくだされ」


何やら重大事を胸へ秘めたような孫娘は、その言葉に少し苦笑する。その拍子に、引き締まった頬が少しほころんだ。


膝を突いたまま祖父のそばへにじり寄ると、葛山氏は微笑みながら一礼して、静かに部屋を去る。このように、『伊勢入道』の一族の中では、あくまで正室系が重んじられていた。側室の腹になるものは、あくまでも「家臣」であるという姿勢を崩さなかったため、『北条殿』は同時代には珍しく、『お家騒動』に煩わされることが無かったのである。


「この爺の背に触れるのは恐れ多いと皆が申しての、たれも掻いてくれぬのじゃ。爺の背中を思う存分掻いて下さるのは、志保どのだけじゃ。『偉くなる』というものは不便なものよのう」


「おせなの、どこがお痒いのでござります?」


彼女が物心ついたときから、祖父はこのように彼女を『使って』きた。それだけ祖父はこの初孫を愛し、そして甘えて心を許しているのである。それは志保のほうとて同様で、香のすがすがしい匂いの染み付いた祖父の体臭を常に嗅ぎ慕い、一族とおとなどもが「畏れ敬う…」彼と一つの襖に包まって眠ったことが幾たびもあるのだ。


「…おじじ様」


「おお」


しばらくして、志保は動かしていた手を止めた。祖父が頷くと、彼女は改まって畳に手をつかえ、ついた膝をさらに祖父のほうへ進めた。彼女の顔は緊張に強張っている。


「…何ぞ、重大なお困り事かの」


口を開きかけた彼女に先んじて、祖父は言った。驚いてその横顔を見つめた志保へ向き直った祖父の顔は、もう笑ってはいない。


「…重大にござりまする」


「聞かせなされ」


「はい」


祖父が静かに言いながら、脱いでいた『寝巻き』を着直して襟を正す。それが終わるのを待って、


「志保も、おじじ様に従い、戦へ出とうござりまする。お許し願えませぬか」


言った孫娘の顔を、長氏は黙ったままじっと見返した。


「志保は、おじじ様が心配なのです。もしも、戦の途中、志保の知らぬ場所でお倒れになられまいたらと思いますれば」


そこまで彼女が言いかけると、ふすまの外の廊下で慌しい足音が聞こえて、月の光を背にした二、三の人影がすらりと部屋のふすまを開く。


「志保っ」


「…父上」


同じように小田原へ一時帰ってきていた父が、「じいや」の松田左衛門の他に多目権兵衛を従え、顔をしかめながらそこに立っていた。


氏綱は先だって、長氏に命じられた大庭城攻略をやっと成し終えたばかりである。


大庭城は一族の『敵』、扇谷朝興の持ち物になっていた。朝興は三浦道寸へ好意を寄せてい、ために道寸をかの城に入れたなら、朝興は必ず出てくる。そうなると、前後を敵にはさまれることになって、厄介である。それではこちらに不利だというので、長氏は先手を打って氏綱へこの城を落とすよう命じていたのだが…


「馬鹿を申さず、こなたは下がって休まっしゃい! 未だにこの父だけでなく、祖父上までも煩わせるか」


「父上は私の気持ちなど分かっては下さらぬ。じゃによって、おじじ様へ直接申し上げたまで。それのどこがいけませぬか。ここ近年、戦続きで私や母上…口には出さぬが、その他の城の女子供達がどれだけ心配しておりますことか。じゃのに父上も、他の者どもも、『戦は最後に勝つものが勝つ』と言うてなあ、戦の折々の模様については何も教えてくださらぬ。おじじ様も黙っておられるが、志保になら、おじじ様は教えて下さろうと…それでも教えてくださらぬというのなら、志保自ら戦場へ出まいてなあ、この目で確かめまいて、留守居の者どもへ文など書いてのう、安心させてやりとうござります」


「…志保どの」


黙っていた祖父が、そこで静かに口を開く。


「こなた様もお聞き及びであろ。今は、こなた様の叔父御(氏綱の弟、氏時)に、玉縄のお城を築かせておる。そのお城もなあ、残るは天守とその周りのみ。こなた様が心配なさるほどの状況ではない」


しかし、祖父もやはり志保の一番知りたい箇所の戦の模様についてだけは、頑として口を割らぬ。


「…女はのう、お家を守るのがお役目じゃ。万が一我らが倒れた場合、こなた様が我らに代わってお千代殿をなあ…まだ赤子ではないか…守らねばならぬのですぞ」


志保と『お千代殿』氏康の生母であった氏綱の正室は、氏康を生んでまもなく亡くなってい、その後に継室として氏綱の室へ入った今の『母』は、正室と同じ京の公家である近衛尚道の娘である。


この時、その腹になる為昌や後の「川越城」を守り通した綱成などの異母弟妹らは、当然ながらまだ生まれておらず、よって「おじじ様」や志保の父にとっては、志保とお千代殿だけが『子』だったのだ…。


「では、せめてその、玉縄のお城へわが身を移させていただくわけには参りませぬか」


志保にしてみれば、高齢の祖父の身がただ案じられた。『大好きな』おじじ様が、己の目の届かぬところで万が一と考えると、とても己だけ、城の奥深くでじっとしてなぞおれぬ心持ちであったのだ。


「何度も申したであろう。女子供を戦の真っ只中へ連れて行けるものか。少し控えよ、志保」


決して引かぬ娘へ、氏綱はいらいらと扇を弄びながら怒鳴るように言う。


戦の前に女人に触れるのは不吉であるとされていた時代である。父の言い分ももっともであったし、何よりも城主の娘とはいえ、「おなご」を戦場へ連れて行けば、兵士たちの士気が緩む。


「邪魔は致しませぬ。ただおじじ様のご無事を間近で拝見できれば」


「志保! 我儘も大概にさっしゃい!」


「氏綱どの」


孫娘を思わず怒鳴りつけた息子の名を、祖父が静かに呼んだ。


皆が、はっと『一族の棟梁』を振り向く。その視線を受けながら、


「申しあげたであろ」


祖父はにこ、と笑う。


「そのようにつけつけと言うては、聞いてもらえるものも聞いてもらえぬとなあ。まあそのように突っ立っていず、氏綱どのもこちらへ来てお座りなされ」


「は…」


手で差し招かれて氏綱は、部屋の間口近くの畳の上へどっかと腰を下ろし、荒々しく鼻息を吐いた。


二人の家臣はそのまま、襖の向こうの廊下へ神妙に手をつかえ、控えている。


「志保どの」


「…はい」


「爺はなあ。先だっての夏、鎌倉へ入りまいた折に、鶴岡八幡宮で歌を詠みまいた」


憮然としたまま唇をへの字へ結び、目を閉じた息子を目を眇めて見やりながら、にこにこと孫娘へ視線を移す。


「あの、お歌を」


「おお」


長氏はそこで、ずいっと一同を見回し、


「『枯るる樹に また花の木を植え添えて もとの都に なしてこそみめ』…下作ではござるがの」


「…なんと意気お盛んな」


「そう思わっしゃるか」


なんといっても、長氏はすでに八十半ばなのである。孫娘が驚いたように言うのへ、祖父はまた顔をつるりと撫で、


「鎌倉という街はの、鶴岡八幡宮様を中央に据えて、若宮大路という名の道がこう、ずっとまっすぐに伸びていやる街でしての。その鎌倉の様子が、爺が噺に聞いておりまいた昔の鎌倉の街とはまるで違っておざった。頼朝公が開かれた幕府がのう、あるのとないのとでは、かほどに街もさびれるものかとなあ」


故に、自分の手で花の木を植えなおして、元のように賑やかにしてやろうではないか、と、その心持ちを詠んだと祖父は言うのである。


「お天道様がな、それをこの爺やこなた様の父にやれと思し召しならば、爺は決して負けはせぬ」


「ですが」


「こなた様のお気持ちは、まことありがたい。それもこれも、この爺を思うてのこと、感謝いたしておりますぞ。おなごでありながら戦へ出たいと思わっしゃる、その意気、また良し」


「おじじ様」


「氏綱どの、しばらく」


それへ氏綱が向き直り、何か言いかけたのを祖父は片手を宙へ泳がせて制した。


「ですがなあ、志保どの」


では許可をもらえたのかと早合点し、目を輝かせた孫娘へ、


「逆に考えてみられよ。この爺の目の前で、もしもこなた様が敵の槍にかかって亡くなられたら、爺や父御、そして左衛門やその他の、こなた様を大事に思うておる老臣おとなどもは、どう思うであろうとのう」


「…」


「こなた様は、なんと申してもやはりおなごじゃ。男どものようには参らぬ。それ、そのようになあ、口を尖らせずお聞きなされ」


不満気に口を開きかけた孫娘を制し、


「こなた様は、優しさにすぐる。よって、つれては参れぬ」


祖父はきっぱりと言い切った。


「これは異なことを仰せある。志保はおなごにしては口が過ぎ、強気にすぐるのではありませぬか」


「いや、それは違う。志保どのほど優しいお子はおらぬ」


氏綱が言うのへ長氏は首を振り、


「戦はなあ、つまるところは人殺しじゃ。我らが兵とて、初めて人を切りまいた折には、ぶるりと震えて小便を漏らした者さえある…そのような優しいものには戦は向かぬ。さらにのう、こなた様は、この爺や父御が血飛沫上げて倒れたなら、我らの屍を踏み越えてなお、敵へ向かうお気持ちになれるかの」


「そのようなことは…まず何におきまいても、おじじ様や父上の御様子を改めることが」


「左様、こなた様なら必ずや、そうお考えであろ。それゆえに連れては参れぬ」


「おじじ様」


「戦場とはな、そのように非情にならねば、待つは死。そのような場所なのじゃ。この爺でさえも、時折震えて小便を漏らしたことさえあるのじゃ。戦へ出るたび、今日が最期の我が命かと思うて…だが、のう」


皺の深い、ごつごつと節くれた両手がぬっと伸びて、孫娘の頬を強く挟む。


「さきほどの歌をの、志保どのが心に留めおいて下されれば、必ずやこの爺はお味方に勝利をもたらすことが出来よう。お約束致す。こなた様の爺は滅多なことでは死にはせぬ」


「…分かりまいた。そのお言葉を信じて、お待ち致しまする」


「よい子じゃ、よい子じゃ」


俯いて涙を堪えている孫娘の頬を、祖父は軽く叩く。


「この目の黒いうちに、必ず爺は、お味方へ勝利をもたらすとのう…先ほどの歌を志保どののお胸に」


「はい」


孫娘が再び頷くと、長氏は「よい子じゃ」と繰り返しながら、そのつむりを撫でた。


どうなることかと廊下で手をつかえていた老臣二人は、ほっと顔を見合わせ、氏綱は今度は感慨深げに鼻から大きく息を漏らす。


(人を『動かす』ことは難しい…)


志保の父、氏綱は年齢の上から言ってもまだまだ若い。むやみやたらと恫喝するのみでは人は動かぬと知ってはいるらしいが、


(お分かりやったかの…)


己より若い者を過ちに気づかせるためには、抑え付けるよりもその中にあるものを信じて、自ら悟るほうへ持ってゆかねばならない。


(まだまだ己は未熟である)


「悪戯っぽく…」己をちらりと見やってにやりと笑みを漏らした父へ、氏綱は深々と頭を垂れたのである。






三浦導寸は関東管領、扇谷上杉氏より三浦氏へ養子に入った人物である。道寸というのは、僧門へ入ってからの僧号であり、本来の名は「義同よしあつ」と言った。


この時期には相模中央に位置していた岡崎城を領有しており、彼の息子である義意には三浦半島の先端にあった三崎城(新井城)を守らせていたものである。


三崎城には篭城しても三年は兵士をたっぷり食わせることが出来るといわれている穴倉が備わっており、そこへ三浦道寸は兵糧を溜め込んでいた。


「万が一」のことがあっても、その穴倉は必ずや三浦の助けになろう…


故に、


「いずれあの老いぼれはくたばろう。それまでの辛抱である」


何といっても若いおのれ等のほうが勝つ、と、導寸は憎憎しげにうそぶいているそうな。


「さあて」


三浦方へ放ってあった乱波よりのその報告を、長氏は明けて永正十三年正月、完成したばかりで木の香の強く漂う鎌倉の玉縄城で受け取った。彼は広間の正面に座し、床机に片肘をつきながら、下座へ神妙に控えている彼の嫡子を見やって苦笑と共に言ったものだ。


「新井のお城の食料が尽きるか、それとも我が寿命が尽きるか…それが勝負どころだと、道寸は申しておるそうな」


「は…」


「『は…』ではないわ。こなた様もな、ま少し周りに懼れられぬようでは話にならぬぞえ」


その言葉に、彼の息子はただ恐縮して頭を軽く下げ、鼻の頭を己の人差し指と親指で摘む。


翻って言えば、志保の父御、長氏の嫡子である『父に似ず、頑固で融通の利かぬ氏綱殿』は、かほどさように見くびられていたということであろう。


岡崎、三崎の城はいずれも肥沃な坂東平野の『入り口』を陸路、海路ともちょうどふさぐ要塞ともいえる場所に位置しており、長氏が常々言う「一族の支配を武蔵野へ広げる」希いのためには、どうしても滅ぼさなければならぬ存在だった。


また、長氏が小田原城を獲る際に、元小田原城主であった大森藤頼を急襲し、扇谷上杉朝良の元へ走らせたが、この大森氏は三浦導寸の母の実家であった。彼は『先代』小田原城主氏頼の外孫に当たり、したがって藤頼は「おじ」ということになる。道寸のほうでもまた、敬愛していた外祖父とおじの一族を小田原から追ったということで、伊勢一族へ恨みを抱いていたといえなくもない。余談ながら、上杉方へ逃れた藤頼が、その後伊勢入道へ報復戦を挑んだという話はついぞ聞かぬ。


道寸自身はなかなかに聡明な人物で、三浦の家でも慎み深く養父時高に仕え、家臣の心を深く捉えるまでになったのだが、故に養父の嫉妬を買った。


よくありがちな話ではあるが、養父に実子が生まれると、彼は養父より明らかに邪魔者扱いされるようになったという。それに危惧を抱いて仏門に入って頭を丸め、導寸と名乗ったのだ。


俗世と縁を切った、これでまさかに命までは狙われまいと思っていたのだが、案に相違して養父はなおも執拗に彼の命を狙う。よってついに腹に据えかねて時高を逆に倒し、その後を襲ったものである。


だが、それでも三浦家に仕えていた家臣の中からはほとんど何の不服も出なかった。家臣らもよほどに時高の導寸への扱いを…というよりも、領主としての無能さに愛想を尽かしていたのだろう。事実、不当な扱いを受ける彼へ、密かに同情を寄せる家臣も意外なほどに多かったのだ…






さて、玉縄城である。


長氏が、鎌倉周りに築かせたこの城は、容器のような形の伊豆半島にちょうど蓋をしたような格好になった。これにより、新井城へ逃げ込んだ三浦道寸と扇谷上杉との間をほぼ遮断したといえよう。


勢いに乗った軍とは恐ろしい。扇谷朝良の後を継いだ朝興は、同族出身であり、扇谷上杉家の相模における拠点のひとつを守る道寸を助けようとてしばしば玉縄城へ攻めかかってきたが、その都度撃破され、ついには後方の江戸城へ立ち退かねばならぬはめになった。


「公方を戴き、助けねばならぬお役目を捨てた管領家など恐れるに足らぬがの」


永正七(一五一三)年、七月、玉縄城より彼が孫娘に書き送った「手紙」には…


南北朝の内乱を辛くも逃れた、鎌倉時代以来の名刹や古刹なども、この両軍の「小競り合い」で大半が失われ、


「まこと、心が痛む…」


と、そう綴られていた。


長氏自身が決めた「分国法」である、「早雲寺殿二十一箇条」において、彼は「仏神を信ずべきこと」と書いている。宗派の違いを飛び越えて、志保の祖父にとってあらゆる寺社は、全ての人の祈りが込められた「心のよりどころ」となる場所なのである。


さらに同年九月二十九日、長氏によって三崎城へ追い詰められた道寸に援軍を求められた扇谷上杉氏が派遣した太田資康が玉縄城へ攻めかかったが、これもまた、志保の叔父、氏時によって撃退され、資康は討死を遂げている。


「皆々、若かりし命をあたら散らせ参りし候。それにつけても三浦の信望、軽んずべからずとつくづく思いまいて候…」


律儀に志保へ書き送る「手紙」は、ただ淡々と事実を告げたのみの文面である。


「かへすかへすも、義意、惜しむべきなり」


中で、祖父は道寸の子について述べていた。


義意は、勇猛さを謳われた三浦一族の中でも、特に武勇に優れた、まだ齢十八そこそこでしかない若者だった。たれが見ても先行きに暗雲しか垂れ込めていない一族の心の張りは、まさに彼によって保たれていたと言っていい。

「伊勢一族」から見れば、義意をそのままに生かしておけば、必ず彼は『氏綱どの』にとって手強い敵となる。だが、手強い敵ほど逆に、味方になればこれ以上はないと思えるほどに頼もしい存在になり得る。長氏は、義意の若さと武勇を何より惜しんでいたのだ。


天然の要害であるに加え、兵糧をも十分に蓄えてあった三崎城を一気に落とすのは、さすがに難しいと考えて、


(道寸はともかく、出来れば義意を味方に…)


己の年を考えているのかと、敵に嘲笑されるような『気の長い』兵糧攻めに入った長氏の心はどんなであったろう。

蛇足ながら、道寸の援軍に来た太田資康…扇谷上杉に名将ありと言われた道灌の息子である…は道寸の娘婿である。義理の父を助けようとしていたのは自然な成り行きであろう。


だが、それも全て伊勢氏の軍によって滅ぼされ、鎌倉、津久井、当麻など相模北部は全て伊勢氏の支配下に置かれた。


ぽこりと小さい腫瘍のように出張ったような形の三浦半島の海上三方は、三浦海軍の奮戦こそあったものの、今や伊勢氏のおびただしい船によって封鎖されている。さらに陸上においても、半島の入り口を玉縄城で「蓋…」をされてしまっては、いかに勇猛さを謳われた三浦一族でももはやなす術はあるまい。いくら待っても、どこからも援軍は来ないのである。否、『伊勢入道』が来させない。


そしてそのことを、三浦方でもよくよく自覚しているはずだった。


「つまらぬ意地を捨て、ともに手を携えることが出来たなら、新しい国を作れようものを」


祖父は志保への手紙をそのような嘆きと、


「こなた様もお体を厭われるよう」


との、彼女への気遣いで締めくくっていた…






「…まだまだ小田原へのお戻りは無いようでござりまするなあ」


小田原城へ届く祖父からの手紙のうち、その一番新しいものを常に肌身離さず持ち歩いている志保は、時折箱根権現社を訪れ、社の別当を担っている『菊兄』を相手に、墨をすりながらため息をついた。祖父の無事を祈って、ここへ訪れるたびに彼女が書き上げている経文は、すでに二巻目になっている。


祖父の『好きな…』春は過ぎ去り、またかしましい蝉の声を聞く季節になっていた。


赤子であった弟、お千代殿も、今はようよう、立って歩くか歩かぬか、というほどに成長している。彼は今日も志保の後を慕い、ともに権現社へ詣でているのである。


そして今では、社の境内を我が物顔に歩き回り、乳母を『きりきりまい』させているらしい。


「社の中にいまいても、これ、汗がじっとりと沸いてきまする。おじじ様方はさらにお暑いことでござりましょうなあ」


「焦らずお待ちなされ」


また、共に春を愛でることが出来ればと考えていたらしい『めい』へ、長綱はにこと笑って経文を書いていた机を傍らへ押しやった。


「…決して焦らぬこと。それは我らが父が我らに言い聞かせていることゆえ」


「やはり私も、お供をすればよかった」


「またそのようなことを。我らが父は、何におきまいてもまず「い」の一番に志保どのへ…そう思われまいて、きちんきちんと手蹟を寄越されるのではありませぬか」


「はい…」


ことり、と、白い手が筆を置く。つ、と立ち上がって庭へ降りながら、彼女の祖父の歌を呟くと、


「枯るる樹に また花の木を植え添えて もとの都に なしてこそみめ」


たちまち彼女を認めて小さな弟がこちらへ歩いてくる。それを抱き上げ、


「こなた様のなあ、おじじ様が詠じられた歌じゃ。…この夢、我が父上が成し遂げられるか、それともこなた様が継ぐかの?」


首をかしげて弟を見ると、彼もまた同じように首をかしげて姉を見つめ返す。


そこへ、


「お姫様!」


「おお、じい」


「小田原のお城を探しまいてもお姿が見えぬもので、もしやと…やはりこちらへおわしましたか」


めっきり薄くなり、ところどころに地肌が見える白髪頭を振り立て振り立て、松田左衛門は鎧姿のまま、志保へ駆け寄って片膝をついた。


「戦は我らが勝利にござります。伊勢入道におきまいては、先月見事、三崎のお城を落とさせまいて、こちらへゆるゆると向かってござる」


「しかと左様か」


「はい。このじいが、なんでお姫様へ嘘を申し上げましょう。こなたは先へ参って志保へ告げよと、はい、これは入道様直々にこの左衛門へ下されたお言葉にて」


言うと、左衛門は懐から汗みずくになった手紙を取り出した。


「仔細は、こちらへ」


おそらく、昼夜馬を飛ばしてきたに違いない。


左衛門は、『小田原以来』より祖父に心服し、伊勢一族に従っている。氏綱の付家老として長氏から特に氏綱につけられた者であり、性情は温厚篤実。このたびも、長氏がたれよりも「愛している」孫娘のためにと、その一念で老骨に鞭打ち、馳せつけてきたものであろう。


「感謝致しまする。じいも、まこと、ご苦労でした」


「はっ」


左衛門は恐縮しきって頭を下げた。その前でさらりと祖父から来た手紙を広げ、読み始めた志保の眉は、しかし少し顰められる。


(討つものも、討たるるものも 土器かわらけよ 砕けて後は ただの土くれ…)


義意が自ら命を発つ前に詠んだ歌であると、祖父は書いていた。


(なんと…)


歌としては限りなく拙い。だが、それから伝わる切なく、激しい虚無感に襲われて、彼女は慌ててその歌から目を逸らした。


「菊兄さま。私共も、お城へ戻りまする。さすれば、おじじ様をお迎え出来ましょうで」


「それがようございます。この叔父も後ほど御挨拶に参りましょう」


長綱は、にこと微笑んで小さな「おい」を乳母の手へ渡す。


それを見て、志保は若い叔父へ深く頭を下げ、


「左衛門、参りましょう」


「ははっ」


左衛門を促した。境内では、相変わらず蝉の声がかしましい。






かくて永正十三(一五一六)年七月。


「わしの目の黒いうちに」


の言葉通りに、最大の懸念であった三浦一族を、後の古河公方の継室の祖父は、三年をかけて兵糧攻めにし、三崎城にて滅ぼした。


彼の言う、『伊勢一族の足場固め』の一歩はここに成ったのである。


志保の祖父が戦場より凱旋したのは、左衛門が彼女へ勝利を告げた、そのあくる日のこと。相模、伊豆一帯を手中にし、


「これでようよう、わしも目を潰れるのう」


すっかり日に焼けて、法衣を着ていなければどこぞの農夫と変わらぬ皺の刻まれた顔を擦り擦り、彼の息子へ冗談めかして言いながら、小田原城の廊下を天守へ向かって歩いていた長氏は、


「おじじ様」


「おお」


その途中で、床へ両手をつかえ、こちらを見上げている孫娘の姿を認めて顔をほころばせた。


「無事の御帰還、祝着至極にござりまする」


「ウン、ウン」


てっきり飛びついてくるものと思っていた孫娘が、わずかの間に「大人びた」仕草で彼を迎える。


「志保どのもな。ようお家を守うて下さりました」


「はい」


彼が言うと、志保は羞んで微笑む。


「これからも、お千代殿とこのお家をなあ、頼みましたぞ」


彼女の前に差し出された祖父の手は、日に焼けてはいるが一年前と変わらない。


「はい。それはもう」


その手を取って立ち上がり、志保は祖父と共に歩き出す…






その後も、長氏は上総国において小弓公方を自称していた足利義明(古河高基の弟)と、上総武田氏を支援して、房総半島にまで出陣するなど、翌永正十四(一五一七)年まで戦を続けている。


それらの戦の「ふんぎり」がついたところでようやく、


「これでよし」


と見た彼は、さらにその翌年の永正十五年に至ってやっと、『家督』を嫡男である氏綱へ譲ったのだ。しかしそれから祖父は、一年も生きなかったのである。


ようやく氏綱へ家督を譲り、楽隠居を決め込んでいた祖父が、いよいよいけないとの知らせが、一族を震撼させたのは、彼が楽隠居を決め込んでから一年経った夏の日のこと。


「どうも古傷が痛みますでの…いやご案じめさるな」


最後に見た、苦しそうな祖父の笑顔を思い浮かべながら、志保は小田原より韮山城へ輿を急がせる。祖父は、どうやら己の死期を悟ったらしい。最初に『領主』として縄張りをした、あの小さな城で最期を迎えたい。古い仲間達へ祖父は告げたという。(おじじ様)焦る志保の心とうらはらに、輿は進まないように感じられる。


「おひい様。到着致しましてござりまする」


その声に我に返り、彼女は輿から転げ落ちるように出て、韮山城の急な坂を駆け上った。たちまち、彼女の額や胸の谷間を、じっとりと汗の粒が流れ落ちていく。


平山城であるこの城の、目と鼻の先ほどにある興国寺城は、のちに伊勢氏一族の所有からは一旦離れ、今川、武田を相手に「奪い合いー」を演じることになるのだが…。


大きな滴が、志保の両の目から零れ落ちそうになっている。縁起でもないと己を叱咤しながら、城のとある一室のふすまを開ける。途端に、病室にこもる病独特の『臭い…』が彼女の鼻をついて、


「…おじじ様…」


「やはり来たのか。左衛門は何をしておったのだ」


小田原で待つよう言い聞かせておいたのに、と、父が左衛門の名をいらいらと口にして軽く舌打ちをした。左衛門も場合が場合でもあり、城主の娘という遠慮もあって強くは言えず、志保の強情に押し切られたものに違いない。そもそも、小田原の家臣の中で一番彼女を「密かに甘やかして」いるのは当の左衛門なのである。


父の膝には、かむろ頭の小さな彼女の弟がすがりついていて、あどけない瞳を見張っていた。これが、乳呑み子の頃より志保の後を常に慕っていた『お千代殿』。「伊勢氏」の三代目、後の「北条」新九郎氏康である。『相模の虎』と謳われるほどの名将になるのだが、当時はまだ四つ五つの頑是無い幼子であり、少しの物音にさえ驚くような『軟弱ぶり』で、父である氏綱の、心配の種の一つだったのだ…


「どうぞ父上、左衛門をお叱りなさらぬようお願いいたします。志保が無理を申したのですから」


彼女が言いながら畳へ両手をつかえると、その声を聞きつけたらしい。


「志保どのか」


のべてある床から、かすれた小さな声が聞こえる。その枕元では葛山氏が蝙蝠かわほりを持って耐えず祖父の顔を仰いでおり、志保はそれを押しのけるようにしながら、慌てて祖父の側へ駆けよって座りこんだ。


(少し見ぬ間に、お小さくなられた…)


「はい、志保は…ここにおりまする」


布団の中を探り、げっそりと痩せてしまった祖父の手を志保はつかむ。


痩せた手をしっかりと握り絞めてくる孫娘の手の力の確かさに安心したかのように、


「実はのう。先ほどこの爺は、こなた様のおばばに夢で会いまいた」


「…おばば様に」


「おお」


そこで笑おうとして、痰を喉へ絡ませたらしい。慌てた氏綱へ助け起こされて、しばらく苦しげな咳をした後、


「こなたのおばば様はな」


再び床へ痩せた体を横たえられながら、ぽつりぽつりと語りだした。


ここでいう「おばば様」とは、祖父よりも早世した、彼の正室である小笠原氏、依姫のことである。彼女は永正四(一五○六)年にみまかってい、当時数え年四つほどの幼子であった志保は、無論その顔を覚えてはいない。


「…そのような年まで永らえながら、まだ若い女子をこさえて、情の薄さを嘆かせるような罪作りをなさるのかと爺を叱ってのう。それへ爺はの、『いやはや、男とはのう、かほどにしようがない生き物じゃて。己の年や姿などとんとわきまえず、佳いおなごと見ればすぐに我が物にしたがるものなのじゃ』と…そちらへ参っても、こなたのものが一番じゃと言い返しはしたがのう」


そこで氏綱が、「志保の前でそのようなことを」と、言いたげに顔をしかめているのに気づいて、


「幸いなあ、こなたの父御はこの爺に似ず、今の嫁御前も、やっとこなた様の母の喪が明けてから迎えたほどの『堅物』であるによって、その心配はござるまいよ…おばば様はな」


祖父は口元をゆがめてにやりと笑った。


「年寄りは年寄りらしく、きっぱりさっぱりと身の回りを掃除致しまいて、早うこちらへ来てござれとつけつけ申しての。さもなくんば、氏綱殿やこなた様の邪魔になるばかりじゃ、八十八まで生きられたならもう十分であろ、いつまでそちらへおわしますおつもりじゃと…いやはや、散々に叱りまいてなあ」


「…おばば様が」


「おお。…叱る叱る」


そこでほろ苦く唇を歪め、長氏はふと遠い目をした。


「しばらく辛抱して頂ければなあ…先に逝ったものどもとも会えように、まっこと、こなた様のおばば様はせっかちなお方じゃて」


「おじじ様」


そこで志保は咳き込んで彼の手を握り直し、


「おじじ様。まだ『宿題』の答えを聞いていただいておりませぬ。それゆえ、志保は参りました」


笑おうと努力し、彼女は震える声を励ました。


「…聞かせなされ」


わずかにその口元に微笑を浮かべ、祖父は目だけを動かして彼女を見る。その声は、いつも真摯に彼女の訴えを聞いてくれていたそれと変わらず、反って彼女の哀しみを増した。


「蒼い空の頂は…」


志保の目から、ほろりと涙がこぼれ落ちる。


「遠くて近く、近くて遠い…これ、ここに、ござりまするなあ」


「…良うお分かりじゃ。お千代殿にも、こなた様からそれをよう言い聞かせてのう…菊寿がこなた様をよう見てくれたように、お千代殿はこなた様が」


「はい、それはもう…おじじ様」


お家を継ぐべき『弟』は、あまりに幼く、頼りない。己にこのような偉大な祖父があったということを、その手が己の頭を撫でたこともあったということを、きっと覚えておりはしないのだ。


片方の手で、己の胸を抑えた孫娘へ満足の微笑で答える祖父へ、志保はさらに告げる。


「志保は…おじじ様が申されるまま、どこのどなた様のもとであろうが参りまする。それが民草を『幸せ』に導くための道の一つでありますならばとなあ、思い定めました。それゆえ、どうか…のう、最後の志保の『わがまま』にござりまする。まだまだ永らえて志保のお側にいて下さりませ」


しかし祖父は、かすかに笑みを浮かべたまま、その目を閉じた。緑が生い茂る庭先で、今を盛りと蝉が鳴き狂っている…


今川義忠の正室の兄として、伊豆の片隅の小さな城から身を起こした伊勢新九郎長氏は、永正十六年八月十五日の暮れ、八十八年の長い人生を終えたのである。その遺言通り、彼は死後、荼毘に付されて箱根の湯元に立てられた寺へと埋められた。その寺の名を早雲寺という。古河公方足利晴氏の元へ、新九郎長氏…『北条』早雲の孫娘が嫁したのは、それから間もなくのこと。だが、それから三十年余り後、老いて彼女は頭を丸め、仏門に入らなければならなくなった。僧号を芳春院…


彼女の祖父が愛した春を、その名へ込めたものであろうか。    



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