第6話 杏(あんず)の森
神蜾儀町のはるか昔から逸話のある『杏の森』。犬太と一十三がそこへ向かう時、一体何が起こるのか・・・
その頃、一十三は・・
「ちょ・・・ちょっと!?」
廊下を走っていた。
「あいつらが目を離していてよかったぜ!」
一十三はピエーディアと別れてすぐ、開け放たれた窓から犬太が廊下に入ってきた。そして一十三の手を引っ張ると同時に、いきなり走り出したのだった。一十三は犬太に流されるまま、犬太の行動の意味を考えた。犬太はすぐに答えを出した。
「今から『杏の森』に行く!十分もあれば大丈夫だろ」
「え?・・・『杏の森』?」
初めて神螺儀町に来た一十三は、その言葉に何の感慨も湧かなかった。バラ科サクラ属の落葉小高木の杏を辞書で見たことはあるが、果実は食べたことはない。
「はあはあ・・」
そして廊下を犬太の速度で走った結果、一十三は真っ先に息が切れた。一十三は体力が殆どない。ずっと家で英才教育を受けていた。多少の運動はしていたが、それよりも勉強に力を入れていたことが原因だった。一十三にとって、机の上でじっとノートに書き続ける行為はとても楽であり、しかし好きではないのだ。犬太は一十三の足が息切れと共にぐらつくのを見て、すぐに立ち止まって後ろを向いた。犬太は未だ階を猛スピードで下りても尚、息切れせず、寧ろまだまだ走り足りない顔をしていた。一十三は犬太が止まったと同時に、ピタリと足を止め、体を曲げて深呼吸した。一十三は走っている間、ほとんど呼吸が出来なかった。それは犬太の速度に合わせていたことで、自分のリズムで走ることが出来ず、呼吸がままならなかったのが原因であった。
犬太は一十三に言った。
「お前、もうきついのか?」
「ひい!」
自分を睨みつける犬太に、一十三はブルブルと震えながら怯えた。犬太は溜め息を付くと、一十三から目を逸らして釈明した。
「・・・怒ってねえから」
「こんなに・・・走った・・・ことない・・・から」
一十三は息が切れながらも、必死に犬太に伝えた。犬太は一先ず考えた。そして犬太は考えた末、後ろを向いて屈んでみせた。手は一十三の方を向いている。驚く一十三に、犬太は声を少し抑えて言った。声をこれ以上大きくすると、また一十三が怖がってしまうと思ったからだ。
「ん。・・・・おぶってやるから乗れ」
「・・・うん」
一十三は一瞬強張ったが、犬太の好意を無下にすることは失礼と思い頷いた。だがそれと同時に、自分の体重が重かったらどうしようと思った。犬太の背中は擦り傷、切り傷、打撲痕などいろいろな傷が刻まれていて、それに負けないようにモッコリと筋肉が体中に敷き詰められている。一十三はゆっくりと犬太に近づいて、ゆっくりと跨った。まるで怖そうな動物に、恐る恐る触れる小動物のように・・・一十三は犬太の首に手を回すと、犬太は一十三の足を掴んで、容易に立ち上がった。自分と同じくらいの年の子を背負っているにもかかわらず、犬太はこんな重さ、何の障害にもならないような顔を見せ、一十三は(良かった)と心の底から思った。そして一十三は初めて男子の肌に触れて思った。
(すごく固くて・・温かい・・・)
一十三は目を瞑って、犬太の肌を、温もりを感じた。じっと動かない一十三に、犬太は用心のために言った。
「よ~く捕まっとけよ。振い落されねえようにな、桜」
「・・・うん」
一十三は犬太の言ったように、足を犬太の腰にしっかり絡め、手もしっかりと犬太の首に固定した。一十三は犬太の胸の鼓動を感じ取った瞬間、自分の胸の鼓動がより一段と動きを増したのを感じた。
(・・あの時の感じだ)
一十三にとって異性と密着したことはこれが初めて。だがそれだけではないと思った。また別の何か。ほんわかする気持ちがより一層大きくなった。
「行くぞ!」
犬太は勢いをつけるために、手をつかない軽いクラウチングスタートの構えを取った。そして一気に走り出した。
「!」
一十三はびっくりして、必死に振り落とされないように犬太にしがみついた。風が犬太を通して、一十三の膝や腕、髪の毛を通り過ぎた。その時。さっきよりも犬太の顔と一十三の顔が密着して、凄まじいほどの胸、いや体全身に鼓動が溢れ出した。そう感じている間にも犬太のスピードは緩むことなく、風抵抗や重力があるにも関わらず、それに劣ることのない速さで学校を駆け抜けていく。
「まだまだあ!」
犬太は更にスピードをあげようとしたが、両腕が塞がれているために思いっ切り走ることが出来なかった。犬太が廊下を走り去った後から突風が吹き荒れ、廊下にいた生徒達を一気に巻き込んだ。
女子「きゃー!」
男子「うおおお!」
多くの女子のスカートが一斉に捲りあがり、それを見た数人の男子達がスカートの中を凝視する始末。この後スカートを見た男子がどうなったかは言うまでもない。
しばらく走っていると、グラウンド地点から犬太の息が段々(だんだん)荒くなっていった。自分とほぼ同じ体重を、一人で抱えて全力疾走しているのだから当然である。因みに犬太の走行距離は現在二・五キロを越えた。一十三は犬太の荒い息が聴こえたことで、その原因が自分にあるのだと察した。
「あ・・・あの・・・」
犬太は耳が良いので、一十三の声を瞬時に聞き取った。だが自分が疲れていることが知られたのかと思い、荒い息を静かにしてから強がって言い返す。
「あ?・・・小せえから聞こえねえよ、はっきり出せ!」
「!・・・えっと!・・・あの・・・」
「あ?」
一十三は犬太の怒りに満ちた声にビクビクと怯えるが、犬太は話している最中でも息が荒くなっていき、更に顔から汗が出始めた。そんな犬太を見て、怯えているどころではないと感じた一十三は、必死に喉の奥から『言葉』を一気に引き上げた。
「重くないですか?」
今までで一番大きな一十三の声を聴いた犬太は、少し言葉を選んで答えた。
「そんなに重くねえな・・」
「でも・・きつそう・・・」
一十三は犬太がムキになって言っているのだと思った。すると犬太は「ああ」と、何かを思い出したように、ニヤリと笑って言った。
「授業中に葉山と鬼ごっこしてたからな」
葉山とは、本名【葉山覇郎丸】三十一歳。この神螺儀小随一の筋肉バカで、いつも暇さえあれば筋トレをしている。そのお蔭で肌は黒光りしていて、体中に風船のように膨れ上がった筋肉をしている。本人は今の自分の体に、自信と誇りを持っている。
極めつけは犬太に強い敵対心を燃やし、問題があれば一目散に犬太を追いかけ、体罰しに行くのだ。だが覇郎丸は事務員という仕事上、中々犬太と戦うことがないことを残念に思っている。犬太と覇郎丸が戦闘を行えば、その周りにあるものが滅茶苦茶にされる。それを恐れた教員達は、犬太との戦闘を減らすため、覇郎丸を事務員に任命したのは正解だった。だがその結果、犬太の非行はより一層増えることになるのだった。
そして今日の一時間目から覇郎丸は、学校の見張り番という仕事をヒマそうに勤しんでいた。そんな時に四階の教室から、生徒達の悲鳴が聞こえたのだった。
―大原がまた暴れた!
その声を聞いた途端、覇郎丸は「今だ!待てぃ、犬太!」とばかりに仕事を放棄し、犬太を追いかけていったのだった。それから三時間くらい、二人はグラウンドの周りを走り回っていたとのこと。
一十三は不思議そうに犬太に言った。
「本当に暴れたの?」
一十三も自分が言った言葉に、何の怯えも恐怖も束縛もないことを感じ取った。一十三は誰かにおぶって貰いながら、会話したことはこれが初めてであり、本当に自分の言葉が相手に伝わっているが不安であった。だがそんな気持ちは、犬太にとっては杞憂そのものであり、犬太の耳の前ではどんなに不安定な音、小さな音でもしっかりと聞き取ることが出来る。犬太はヘラヘラと笑って答えた。
「暴れたっちゃ、暴れたな。・・・いつも貴神って奴に大人数で虐めてる奴らがいたから、そいつらぶっ飛ばしてたら、葉山がやって来て久しぶりだから遊んでやったぜ!」
【貴神高鬼】十歳。四年生でいつも新品の服を着ているが、その服を気に食わない上級生をリーダーとした、十人程のいじめっ子に虐められている。性格は臆病で、いつも他人に怯えながら生きている。親が金持ちでランドセルから鉛筆にかけて、あらゆる道具が高級品である。その高級品がいじめっ子の前では恰好の的になってしまった。だがそんな高鬼を見てイライラしていた犬太は、いつも高鬼を助けては「強くなりたくねえのか」と問いかけていた。だが高鬼の答えはいつも、「僕は君みたいに強くなれないよ」と返すばかりで、そこから進展した試しがない。犬太は十対一でも負けず劣らず、終始優位に立っていた。相手がどんな武器を持っていようが、犬太は「そんなものは必要ねえ」と寧ろ楽しそうに遊んでいた。事実、武器相手でも負けることはなかった。多少の傷は残るが、犬太にとってはある意味勲章のようなものらしい。
「貴神さんを助けてくれたの?」
「ん?・・・まあ他の奴らから見たらそうなんだろうが、俺は単に抵抗もしねえで、ボコボコにされてるのが気に食わねえだけだ。他の奴がボコボコにされても、同じように助けただろうよ」
一十三は犬太が誰かを助けるために、一人で立ち向かったことを知ると、嬉しそうに微笑んだ。犬太にとっても、こんなこと言ったのは一十三が初めてであり、少し気恥ずかしくなって、目線を前方に集中した。
「何笑ってんだ、お前?」
「え・・・あ・・・ごめんなさい」
やはりまだすぐに謝ってしまうことが、一十三の弱い所であり、犬太はすぐ指摘した。
「謝んな」
「・・・はい、・・・あの・・・大原君が悪い人じゃないって分かったら、なんだか嬉しくて・・・」
犬太は一十三をしばらく見ていたが、溜め息を付くと続けて言った。
「俺はただ自分勝手にやってるだけだぞ」
「ごめ・・あ・・・いや・・・」
すぐに謝ってしまう一十三を見て、犬太は「まあいい」と流した。すぐに直せる人間はそうそういない。いろんな人間を見て、犬太も少しは人間という生き物を理解している。
「後、俺のことは犬太でいいぜ。その方が呼びやすいだろ?」
「・・・はい、・・・おおばじゃなくて・・・犬太君」
下の名前で呼ぶ。たったそれだけで一十三の心はざわざわと揺蕩うた。犬太も少し照れたように、頬を赤く染めた。
「犬太様の方が良かったか?」
「え・・・じゃあ・・・犬太様?」
「別に冗談だから気にすんな。犬太でいい」
「あ、はい」
他愛もない会話が続く中、犬太と一十三は無事学校の正門を抜けて、道路を跨いだ先には広大な森が広がっていた。名は【神螺儀の森】と言って、遥か昔から殆ど変わっていない。果物もバナナや梨、枇杷や映日果、他にも多くの食用植物があり、よく薬に使うために薬屋に働いている人も、よくそこに立ち寄っている。動物もいるが、数百年に渡って神螺儀に来た渡来人達の尽力によって、動物が人に懐くようになっていたらしい。森の動物は人に攻撃してこない、または不用意に略奪しない場合以外の被害は少ない。【神螺儀の森】は、神螺儀町の三分の一の面積を占めているが、災害が起こり、町に甚大な被害が及んだことがほとんどない。それは昔、神螺儀を襲おうと何百万の大軍が襲ってきたが、【杏尊の神】がその軍勢をたった一人で屠ったことで、その森を【杏の森】と呼び、その中心部に【杏尊の祠】を建てた。町の人が【杏尊】を尊び、いつまでも守ってもらうために作ったとされていて、【杏尊】は神螺儀町を妖精のような姿で、元気に飛び回っているらしい。犬太の暮らした場所と杏の森とは反対方向で、犬太の場所の森は、未だに黒こげになった場所が点々と残っている。
犬太と一十三は神螺儀の森に入ると、少しずつ【杏尊の祠】に向かって行った。森の茂みを掻き分けること数十分。一十三は遂に犬太に質問した。
「・・・何時着くの?」
「葉山のやつがいなけりゃ、もっと早く着けたんだけどな・・・っと、もう着くぞ桜。歯あ食いしばれよ!」
「え?・・・きゃあ!」
犬太は全体重を両足で踏みしめると、勢いよく飛び跳ねた。前方に見える三メートル級の緑の花の群生地帯が、飛び跳ねたとともに凄い速度で、犬太の足元に移った。自分は今、高さ五、六メートルの高さを跳んでいるのだ。一十三は時間が止まったような感覚に襲われ、下から見える緑の花にうっとり見惚れていた。緑と言っても様々あり、黄色っぽい緑、濃い緑、緑に見えない緑が大地の絨毯の上に彩られていた。どんな名前の花だろうか。花の香りはどんな感じだろうか。一十三は杏の森を忘れ、緑の花に心も視線も奪われていた。
「桜!歯ぁ食いしばれ!」
「・・・え?」
―ドサーッ!
犬太の言葉で我に返った一十三。一十三が気づいた時には、既に緑の花から遠く離れた場所に着地していた。着地時の衝撃は、発条となった犬太の体が緩和させて、一十三にかかる衝撃が殆どなかった。寧ろ跳んでいた時に生まれた風がとても心地よかった。
「よぉーし、到着!」
犬太はずっと一十三を支えていた両手を、勢いよく空に突き上げた。と同時に、一十三の足は自然に地面に着地した。一十三はぐるりと緑を見渡して、自然と言葉が漏れた。
「ここが・・・犬太君の行きたかったところ?」
「あたぼうよ!」
満面の笑みを浮かべた犬太が振り向いた。一十三はそれを見て、更に心臓のドキドキが高まった。一十三は恥ずかしくなって、犬太の顔をすぐに逸らすと、森をもう一度見渡した。鬱蒼と生い茂る緑に、一十三の腰くらいに細長い雑草、そして大きな木が点々と、太陽を浴びるように広がり立っていた。犬太は一通り周りを見渡すと、一十三を呼んで目の前にある大木の前に案内する。
「これが【杏尊の祠】ってやつだ」
「(これが・・・)」
神様などを祭る場所、それが祠。辞書で調べた一十三だったが、具体的なことは分からなかった。だが実際見てみると、大木にぽつんと佇んでいる様子で、大きさは一十三の少し低く、鏡開きに開かれた木戸の中には、更に小さいお地蔵様が祀られていた。
「・・・小さい・・・ですね」
「まあな、そんなに大きくする必要もないとかなんとか。まあ別にそんなことは関係なくて、問題はこれだ」
「?」
犬太が指差した先にあるもの。それは・・・
「・・・・・翼がある」
犬太の指差した木の方を見た。一十三の目に映るものは、背中に翼を生やした小さな人間だった。要約すると妖精のような・・・何か。だが犬太が指差した方向は、一十三が見ている場所よりももっと上の幹で、その幹には翼を生やした人の姿が描かれていた。人が手を加えたわけでもなく、自然が作り出した『幹の絵』だ。犬太はその絵を見て、誇らしげに説明した。
「そう!これがこの【杏尊】って奴がすげえっていわれる所以だ。俺も見たことねえけど昔の人は【杏尊】は妖精だって伝えられてたんだ」
「・・・それで?」
「?・・・どうした」
まだ犬太は一十三が別の方を見ていることは知らない。そして一十三の目に映る妖精は、一十三を見ることもなく、翼を使って飛ぶこともなく、木の枝に座ったまま動かなかった。
「・・・これがどうかしたの?」
「ああ、そうだな。この【杏尊】ってやつは特別な力があったらしいんだ。その力は
《弱きもの、強さを知り、覇者となる》
と言って簡単に説明すると・・・」
「強くなれるんだね」
犬太の思考能力を上回る一十三はすぐに理解した。
「お前を手っ取り早く強くするには、これが一番かと思ってな」
「強く・・なる?」
自分が強くなる。そんなこと思いもしなかった。こんな弱い自分が何をどうすれば強くなるのだろう。だが犬太は至極当然のように続けた。
「今のお前じゃ周りから舐められっぱなしだろ?お前見てると、お前の心と体も反発っつうかなんつうかまあ・・・上手くいってないんじゃねえかなって思うんだ」
「・・・よく解らないよ、犬太君」
犬太は手を大げさに振り回しながら一十三に訴えた。だが頭の回転が速い一十三でも、犬太の説明は抽象的で解りにくい。だが犬太自身、自分の心に疼くモヤモヤした何かを、どうやって相手に伝えればいいかを考え倦ねいていた。
「俺だって解んねえよ。でも今のままじゃ、お前はもっとダメになっちまうんじゃねえかって思って・・・」
「私を心配してくれるの?」
犬太は一十三の言葉に大きく動揺するかの如く、顔が真っ赤になって否定した。
「ち、ちげえって!俺はただ今のお前を見てっとすげえイライラするんだって!」
激しく動揺する犬太を見て、一十三の顔が少し緩んだ。まだ私を心配してくれている人が居る。どこにも居場所がなかった一十三にとって、それはとても大きなことだった。家に帰っても稽古、稽古、稽古・・・今まで何千、何万の稽古をやらされて思ったことは、自分には何も合わなかった。ただそれだけだった。やればやるほど苦痛に変わり、体も心も少しずつ窶れていく姿に、自分は一体どうなるのだろうと悲観してばかりだった。そんな一十三にとって、犬太の存在は大きな・・
「太陽みたい・・・」
「は?・・・何が?」
「!・・・あ、え・・・っと、・・・犬太君って太陽みたいだなって思って・・・や、やっぱりおかしいよね・・・ごめ」
「太陽か・・・良いな」
自分の言葉に動揺して狼狽する一十三に対し、犬太の心はスーッと清々(すがすが)しくなった。そして犬太は太陽を見上げて言った。
「俺さ、ガキの中のガキの頃から太陽を見ることが出来た。すげー大きく見えて。夢ん中で、よく太陽を間近で飛び回ってるんだ。・・・だから・・・いつの間にか好きになった」
「・・・」
一十三はいつの間にか落ち着いて、静かに犬太の言葉に耳を傾けていた。犬太は太陽の話になると、目をキラキラと輝かせて語った。太陽を直に見ることは、目に甚大な障害を残すとされ、人間は色んな道具を使った上で太陽を見る。
「親(犬太を拾い育ててきた羆)よりも、ずっと見ることができたからって、どうだってわけじゃねえけどな。お前が言った通り、もし本当に太陽だったらいいな」
「・・・」
(もう、私にとっての太陽だよ)
そう。早く言いたい。
早く伝えたいのに、喉の中にある何かが邪魔をする。
一十三は手をギュッと握り締め、必死に力を込めても未だに喉から先が出ない。
また、前の自分に戻ってしまう・・・
「あ・・・・・・っ」
「ん?どうした。何か言いたいのか?」
犬太が心配して一十三に声をかけてきた。一十三もそれに答えるように声を上げる。
「・・・・」
だけど言えない。あのセリフを言いたいだけなのに、どうして私はこんなに苦しいのだろう。その理由が解らない。でもこれだけは解った。それは転校初日までの、相手に対する巨大な壁のようなものじゃない。少しでも知っている人であり、少し気になる人。そんな相手に対して、一十三の心はどこか恥ずかしかった。あのセリフのどこが恥ずかしいのか。自分でも、何度も頭の中で考えたが見つけることが出来なかった。
「おい・・・本当に大丈夫か?」
一十三の顔がどんどん赤くなり、呼吸も荒くなっていく。汗もポツポツと顔に表れ始めた。
「はあ・・・はあ・・・はあ・・・」
犬太が一十三の異変に気づいて体を揺らす。だが一十三の異変は収まることはなく、一十三の頭の中はまるで嵐のように荒れ狂っていた。
―早く言わなきゃ早く言わなきゃ早く言わなきゃ早く言わなきゃ早く言わなきゃ早く言わなきゃ早く言わなきゃ早く言わなきゃ早く言わなきゃ早く言わなきゃ早く言わなきゃ早く言わなきゃ早く言わなきゃ早く言わなきゃ早く言わなきゃ早く言わなきゃ早く言わなきゃ早く言わなきゃ早く言わなきゃ早く言わなきゃ早く言わなきゃ早く言わなきゃ早く言わなきゃ早く言わなきゃ・・・・・・・・・・・
早く言わな
―プツンッ
一十三の頭が、身体がついに限界を迎えた。そして糸が切れたように、全身の力が抜け、その場で崩れ落ちる一十三を、犬太が咄嗟に抱え上げた。一十三の異変に犬太は慌てつつも、それ以上に一十三の体を心配した。
「おい、全然大丈夫じゃねえじゃねえか!・・・熱中症か?」
『熱中症』は、運動や、暑い所に長い間いると、体が熱くなって、頭がくらくらしてしまい、放置すれば死に至る病気だ。犬太は体温を測るため、一十三の額に自分の額をくっつける。そして驚いた。犬太でさえ焼け焦げてしまうほどの一十三の額・・いやそれだけじゃない。体全体が熱を帯びている。今でも燃え上がりそうな勢いだった。一十三は自分の体が知らない間に、慣れない長時間の日照りに身体が参ってしまったのだろう。
「やべっ、早く学校に戻って休ませねえと!」
犬太は太陽を見て、もうすぐ後半の授業が始まることを思い出し、【杏尊】のことなど忘れて、一十三を背負ってそそくさと学校へ戻っていった。
その一部始終を見送る少女が一人。木の枝に座って、足をブランブランさせる少女はとても小さく、そして羽が生えていた。一十三だけが見ることが出来たその少女は、樹液を美味しそうに飲んでいた。
「・・・」
樹液を舐めながら、一十三を眺めていた少女は、笑みを浮かべて言った。
「いいもの見~つけた♪」
一十三が何故少女を直に見ることが出来たのか。何故少女に驚きもせず、ただ普通に見ていたのか。一十三の謎がまた一つ・・・
ここまでが起承転結の『起』。そしてここからがどんどんと話が進んでいきます。気を引き締めていきましょう!