第3話 邂逅
出会ってしまったが最後、この男から逃れられるものは誰もいなかった・・・桜一十三の今後は絶望か、それとも・・・
校舎の屋上に立つ少女と寝転ぶ少年。二人は見つめ合ったまま、膠着状態が始まった。
「・・・」
「・・・」
だがそれも長くは続かなかった。ずっと押し黙っている一十三に対し、犬太はついに我慢の限界を迎えた。むくりと上半身を起こした犬太は、吐き捨てるように口を開いた。
「気に食わねえ・・・」
「・・・え」
「ウジウジしてんじゃねえよ、俺はお前みたいなやつが大嫌いだ」
じっと睨みつけて一十三を全否定する犬太に、ずっと溜まっていた何かが一十三の全身を駆け巡った。
「・・・・・・・・・・・・う・・」
「まだなんかあんのか」
いきり立つ犬太。そして一十三の涙腺が一気に決壊した。
「うわああああああああん!」
「!???」
一十三は泣き叫んだ。犬太は全身の肌を逆立て驚天動地した。一十三の叫びに呼応するかの如く突風が屋上を、二人を瞬く間に包み込んだ。
「まっ・・・・待て・・・・」
犬太は耳を必死に抑えながら、少しずつ一十三に近づいていく。
「うわああああああああ!!!」
一十三の涙は止まらぬどころかどんどん大きくなっていく。だが何とか一十三の目の前に辿り着いた犬太は、一十三の肩をがっしりと掴んだ。そして犬太は一十三の泣き声よりも、より大きな声で叫んだ。
「うるせぇええ!!!」
「ひっ!」
空を切るような犬太の叫び声に反応した一十三は、大きく顔を引きつって、喉の奥が完全に遮断された。じーっと犬太はさっきよりも力強く一十三を見つめた。一十三はその目に恐れをなして、目を逸らそうとする。が、そうはさせまいと犬太は一十三の頬を押さえ、身動き取れないように固定した。一十三は何が起こったのか訳が分からず、必死に目を瞑った。だが犬太の親指がちょうど目じりの窪み部分を押さえているために、完全に目を瞑ることが出来なかった。一十三はもはや半開きの目と口のまま、どうすることも出来ないでいた。
「は・・・はい?(な・・・なに?)」
「名前は!!」
「ひぃ!」
犬太は相手が泣き出してしまうほどの怖がりように、少しだけ声のトーンを落として復唱した。
「名前は?」
何故自分がこんな状況に立たされているか。一十三は何度も自問自答しながら考えたが、導き出される答えは見つからなかった。ただ目の前の男の質問に答えるほかなかった。
「・・・さっ、さくら・・・ひ・・とみ・・・です」
「年は?」
「じゅういっしゃい(十一才)」
「好きな食べもんは?」
「やきいもとおすし(焼き芋とお寿司)」
「好きな生き物は?」
「きりんさん(首の凄く長い黄色い動物)」
「好きな天気は?」
「はれ(晴れ)」
「・・・ワンワン!」
「・・・・・・・わんわん」
最後の言葉の意図はよく解らなかったが、一十三はただ解る範囲で答えた。犬太は大方の質問を言い終えて満足したらしく、少し笑うと最後にこう言った。
「お前は明日から俺に会いに来い!」
「・・・な・・・なんで?」
「今のお前を見てると、何かもう・・こう・・ムカつくんだよ!だから明日からそのうじうじした性根を叩き直してやる!」
一十三は犬太が冗談で言っていると思った。だがそんな幻想はすぐに砕かれた。相手の目を見れば分かる。多分他の人間でも分かるだろう。嘘を付く人の目じゃない。この人の瞳はひたすら黒くて、濁っている部分が何もない。真っ直ぐな瞳が一十三の目を、瞳を、心を見て言っているんだ。
「・・・返事は!」
一十三に断るという行為は、まず脳内になくてはいけないはずだ。だが一十三は勢いなのか、脅しに屈したからなのか、それともどちらとも違う何かなのか。
―私は最後だと思った。
「・・うん」
犬太は一十三の小さき返答に喜びながらも、その小ささに憤りを露わにした。
「うんじゃない!はいいいだ!」
「はっ・・・はいっんんっ!!?」
一十三は緊張しすぎて、変てこな回答をしてしまった。だが犬太は、その回答に「待ってました」と言わんばかりの笑みを見せつけて言った。
「・・・・よし!帰ってよし!」
犬太は一十三の言葉を聞き入れると、ようやく一十三の頬から自分の手を離した。一十三は久しぶりの肌の空気、そして初めて異性に強く、長い時間触れられたことで、心臓の音がさっきから「ドクンッドクンッ」と一十三の耳を支配して止まない。
「・・・」
犬太は一十三から離れると、元いた所に戻ってそのまま寝転んだ。寝息が聞こえないので寝てはないのだろうか。一十三は暫く犬太から目が離せなかった。一十三が今できる事は息をする事と、目の前の男の子を見ることだけだった。
時間が経つのも忘れた頃、一十三の背後からこちらに近づいていく足音が聞こえた。段々(だんだん)と足音が大きくなり、それが限界まで大きくなったその時、屋上の扉が勢いよく開け放たれた。
―バンッ
「大原犬太!貴様転入生に何をしている!」
一十三は扉から放つ風を感じて、ようやく体の緊張から解放され、腰の留め具が取れたように地面にへたり込んだ。両開きになった扉の前に立っていたのは五年二組出席番号十一番中村剛。一十三の泣き声が聞こえるほど近い位置にいた為に辿り着くことが出来た。だが着いて早々(そうそう)剛は、犬太が一十三を苛めて泣かしたのだと思い込んだのか、ズカズカと地面に怒りを流すように歩きながら、仰向け寝そべる犬太に近づいていった。
―ドッドッドッドッド
そして犬太の目の前まで寄ると、怒号の波が雨のように犬太に降り注ぐのだった。
「貴様という男はまた女の子を泣かして、男として恥ずかしくないのか!いつまで女にそうまで敵対するんだ!私の意見も聞き入れず、いつまで屋上で自分の世界に浸っている!どうして暴力でしか訴えられないんだ!・・何故集団行動ができないんだ!・・・」
まさに台風だった。台風が犬太に向かって猛威を振るっている。その頃になると、一十三の意識がはっきりと覚醒して、誰かが何か勘違いして犬太という男の子を叱っているんだ、という状況まで頭が回っていった。
「・・・あ・・・あの・・・ち・・・ちがう・・・」
そして一十三は「犬太は何も悪くないんだ」ということを、叱っている人にちゃんと伝えようと、必死に言葉にして伝えるが、全く言葉になっていない。一十三は今までメイドや家政婦、そして父親としか話さなかったので、どうしたら相手に伝わるのか、口の中で葛藤しながら言葉を途切れ途切れ伝えた。
「あ・・・ええっと・・・・だから・・・」
「おお、そんなところにいたのか」
「!」
一十三はいきなり背後から低い声がしたことで、背筋の端から端まで電流のような何かが一気に流れ込んだ。そして一十三は恐る恐る後ろを振り返ると、そこに現れたのは【河志野浩司】、五年二組という教室の先生だった。
「お、こんなところにいたのか桜。あとお前らも」
「河志野先生、来るのが遅いですよ・・」
剛は浩司の気配に気づき、ホッと一安心して浩司の元へ集まった。そして剛は事の真相を説明した。
「えっ・・・てことは、誰かに絡まれて泣かされた声を聞きつけた中村が、急いで屋上に駆け付けたら大原と桜がいた。泣かされたのは大原のせい・・・と」
「はい!」
「ち・・・」
剛の出鱈目な説明に、一十三はあの時犬太の前で言った大きな返事を思い出した。
―そう、あの声だ。あの声さえ出れば・・・
「ちがう・・・わたしが・・・」
だが出ない。出そうとしている声が、喉の方で止まっている。門に閂でもされているかのように、喉の奥が堅く閉ざされている。
「ん?・・・どうした桜」
「!」
浩司はもじもじする一十三を心配して、膝を付いて一十三の顔を覘いた。一十三は突然目を合わせてきた浩司にドキッとして、すぐ下を向いて俯いた。
「あ、・・・んじゃあ、ほれ」
「・・・?」
真っ青な一十三の顔を見た浩司は、胸ポケットからヒヨコ柄の、ペン付きメモ帳を渡して言った。
「言いたい事を紙に書くってことでいいか?」
「え・・・・うん」
一十三は考えた末、浩司の案に賛同してメモ帳を受け取った。そしてそのメモ帳に、震えながらもメモ帳に何かを書いて浩司に渡した。
「どれどれ・・・」
メモ帳には小さな字でこう書かれていた。
〝私のせいで男の子を怒らせてしまいました。悪いのは私だから男の子を責めないで〟
拙い文字であったが、浩司は一十三の文を理解し、そのメモを剛にも見せた。
「え・・・でも」
剛は自分の意見が見当違いだったことに激しく動揺した。
「ってことで、桜も大原も悪くないで決着だ。先に教室に戻ってくれ、中村」
浩司は剛を叱ることなく、優しく諭した。剛は意気消沈し、寂しそうな背中を見せながら屋上を去っていった。浩司は犬太に聞こえるように言った。
「ごめんな。勘違いして」
「・・・」
「お前は帰らないのか」
犬太は無言のまま、「さっさと出でいけ」と言わんばかりに手を振った。浩司は一十三の聞こえるくらいの声で、「そうか」と呟いた。そして一十三に向いて言った。
「お前はどうする?先生と一緒に行くか?」
「・・・」
一十三はもう一度犬太に目をやると、犬太は変わらぬ姿勢で寝転んでいた。
「・・・うん、行く」
一十三は未だに締め付けられる胸を抑えて、精いっぱい喉を引っ掻き回すように答えた。浩司は一十三の答えを汲み取ると、一十三を五年二組の教室まで先導していった。
剛と浩司が教室を退いて、大凡三十分経った。五年二組の教室は、生徒達の話し合いが未だに継続していた。議題はもちろん一十三の謝罪である。前と後ろの教室から聴こえる教師の声は、五年二組にはまだない。
そんな中で剛が戻ってきた。生徒達は一十三の事を聞こうとしたが、剛はどこか疲れ切った様子で、話しかけられる状態ではなかった。生徒達はとりあえず先生か、転入生が来るのを静かに待っていた。
更に五分後、漸く浩司と一十三が一緒に教室に戻ってきた。
―ホッ・・・
生徒達は一斉に安堵した。もしそのまま一十三が家に帰ってしまったらどうしよう。そしてもう二度と学校に来なくなったら・・・・それが生徒達にとって最悪の可能性だった。だが、そうはならなかった。そうならなくて本当に良かったと思った。そして一十三がまだ教壇前に立っているこの時を見計って、生徒達は一斉に立ち上がった。
「!・・(何?)」
驚く一十三に、生徒達は頭を直角に下ろして言った。
「「「ごめんなさい!」」」
「・・え?」
「桜さんを困らせるようなことをして・・・本当にごめん」
生徒を代表して【牧野恵美】が改まって謝った。一十三はあわあわと慌てながら、一体全体どうしたらいいか考えた。少しして一十三は気持ちを落ち着かせると、答えもようやく決まったようで、生徒達を見ようとした。だが自分を見つめてくる大勢の目を見るにはまだ早すぎた。一十三はすぐに目を背け、それから今振り絞れる声を集め、答えを言った。
「私の方こそごめんなさい!・・勝手に出て行って」
「だから桜さん・・仲直りしたい!」
恵美は一十三の元に近づいて手を差し出した。一十三は恵美の手を見ると、自分の手を差しだした。手と手を繋いだ二人の手を見た途端、ワァッと沸々(ふつふつ)と喜びの声が沸き起こった。喜び合う生徒に浩司は、一十三に続いて言った。
「ということで、この話は終わり。んじゃあ桜の席だが・・」
そして一十三の席が決定した。というよりかは浩司が昨日漬けで決めていたことであった。席は犬太の右隣。生徒達は一十三を同情の目で見つめた。
「・・・」
一十三は視線を避けるように指定された席に向かった。席の前に立つと、一十三は周りの生徒達に頭を下げて、そのまま席に着いた。
「・・・」
一十三は理解した。すぐ左にいる席はあの男の子の席だということを。一番の理由は臭いだ。この教室の中の人達にはない、独特の臭い。まるで太陽に焦げた地面のような・・・
(あ・・・そういえばまだ名前を聞いてなかった)
一十三は席に着いてから、隣の席を見て犬太を思った。席には名前を書いている所がない。というかボロボロのランドセルが、椅子に掛けてあるだけだった。
(また・・会いたいな)
会った時から、あの男の子に叱られた時も、別に嫌いになったわけじゃなかった。自分をこれほどまでに否定してくれた人がいただろうか。一十三の心は初めての気持ちが生まれようとしていた。もしまた会えたら分かるのだろうか、この胸に募る何かが・・・
一時間目の授業が三十五分遅れで始まった頃、犬太は屋上で大の字の格好で寝転んでいた。雲一つない晴天の空。それなのに何故か心が晴れない。
―そうだ。あのうじうじ野郎のせいだ。
「・・・・俺が変えてやる・・・」
犬太は何かの決意をした。あのうじうじしている一十三のを思い出す度に、イライラが大きくなっていく。
「・・・そうだ。『杏の森』に行けば何か解るかもしれねえ!」
『杏の森』が頭を過った犬太は勢いよく起き上がると、避けるほどの笑みを浮かべた。
「あいつを変えてやる!」
空に思い切り手を伸ばした犬太は、何かを掴むように拳を握り締めた。
おおばるけんたにした理由は、なんかおおはらって普通かなと思っただけです。犬太にしたのは似てるからです。桜一十三は、金田一二三ちゃんという可愛い子がいたので・・・