第70話
「そうだね」
「本当にそうならば、白石さんの謎は解けますが、ハイドが現れるなんて物語の話であって、現実には有り得ないですよね?」
薬を飲んだ白石がハイドになり犯行に及んだ。
それこそファンタジーの世界の話だ。
「それが有り得るんだよね。歌波さんは解離性同一性障害って知っているかな?」
解離性同一性障害と言うと、テレビドラマで聞いた事があるな?
えっと……記憶を辿り、「二重人格のことですか?」と聞いてみる。
青葉が、「うん」と頷いてくれたのでホッとする私。
「解離性同一性障害は自分の身に起きた苦痛や耐えられない出来事から、自分を守るために、もう一つの人格を作り出すことなんだ」
テレビで見たときもそんな説明をしていた気がするな。
「白石さんも苦痛から逃げたく、身を守るためにもう一人の自分が生まれたということですか?」
「白石君なら有り得ると思うよ。歌波さんは彼の体の事は何か聞いているかな?」
体の事は何も聞いてはいないな。
白石の事は、両親はいないことと、祖父に育てられ、今は鶴賀組のお世話になっていることくらいかな。
あっ、あとは子供のとき雪山に捨てられた話しも聞いたな。
もしや白石の体の話と言うと、雪山で遭難した時に戦った……熊の爪あとがあるとかかな。
熊のことですかと言いたかったが、話の流れ的には違うかなと思った私は、「白石さんの体がどうかしたんですか?」と返答を変えた。
「白石君の背中には傷があるんだよ」
やっぱり、熊の爪痕か!
「銃創や刀傷がある人ならこの世界では珍しくも無いけれど、彼の背中にある傷跡は……虐待の跡だね」
「虐待ですか……」
熊の爪痕よりも、衝撃的な答えかもしれない。
白石はネグレクトに合っていたと聞いたが、虐待まで受けていたとは……。
どれだけ辛い幼少期を送ってきていたのだろうか……。
「彼の背中には火傷の痕、凍傷の痕、殴打された痕、細かい切り傷も沢山あったよ。治っては傷つけ治っては傷つけを繰り返してきたんだろうね。変色した皮膚が、継続的に虐待を受けてきた証だね」
重い話だった。白石の笑顔の裏にそんな秘密があったなんて想像もしていなかった。
「つまりその苦痛から逃れるために、もう一人の白石さんが生まれたと言うことですか?」
「僕はそう思うね。人は辛すぎることがあると、簡単に壊れてしまうからね」
「辛……過ぎるですか」
辛いではなく、辛すぎる。
「過食症や拒食症、失声症に解離症。人は心を壊されて、簡単に病に犯されるんだよ」
私は白石の事を考えてみた。
臆面も無く全ての命には価値があると言った彼を。
彼の言葉に嘘があったようには思えなかった。
けれどもし、もう一人の彼がいて、犯行を行なったのだとしたら、殺したくはないと言う言葉に納得がいった。
もう一人の自分がいることに白石が気づいていて、それを止めようとしているのならば、殺さないではなく、殺したくないと言ったのだろう。
けれど……。
「白石さんが二重人格なんて事が本当にありえるんでしょうか?」
犯人は二重人格者。ミステリではよくある展開かもしれないが、現実にありえることなのか?
「解離性同一性障害はれっきとした実在の病気だし、彼の傷跡を考えれば、僕はもう一人の白石君がいる可能性は高いと思うな。歌波さんは今までになんで私がこんな目に合わなければならないんだって、思った事はあるかな?」
私の頭には、二丁の拳銃の絵が思い浮かんだ。
「……あります」
『何で私が……なんで私の家族が……』と、あの夜の日以来、数えられないほど何度も何度も、呪詛のように呟いていた。
「生きていれば誰しも思う感情だよね。そんな思いから、解離性障害は生まれるんだ」
「解離性障害と言うと、解離性同一性障害とは違うんですか?」
「解離性障害は辛い思いを別な人が味わっていると思い込んだり、辛い思いを忘れたりすることだよ。それが重症になると、同一性障害……別の人格を生み出してしまうんだ」
解離性障害に同一性障害。
二つが合わさり、解離性同一性障害になると言う事だろう。
ああ、頭の中が漢字がいっぱいだな。
難しい言葉を一度に聞き、頭が痛くなりそうだ。
「解離性障害は多くはないけれど、それなりに起きる障害らしいよ。歌波さんの周りにはいないかな? いもしない人をいるように語ったり、自分がやった事を、他の人が行なったように話す人が?」
私の周りにはいないと思うが……。
喫茶雛鳥に集まるメンバー達の事を考えてみるが、誰もそんな様子を見せたことは無かった気がする。
それにしても話が難しくなってきたな。
本当に頭がズキズキしてきた……。
「いないと思います……」
頭痛に耐え、何とか言葉を発する。
「そっか。僕は何人も見てきたよ……」
何人も見てきた……。
それは拷問を行なってきた青葉だからこそ言える言葉なのかもしれないな。
拷問に合う人間は思うことだろう。何で自分がこんな目に合うんだって。
「白石君の場合は虐待から逃れるために、解離し、新たな自分を……ハイドを作り出した。それが今回の事件だと思うよ」
「青葉さんの考えでは、白石さんのもう一つの人格……ハイドと鶴賀さんが共謀して犯行を行なったということですか」
「少し違うかな。ハイドが犯行を行ない、鶴賀君がその手助けをした。それが僕の考えだね」
主犯はあくまでもハイドだということか?
「鶴賀君は突然暴れだした白石君、つまりはハイドを助けようとしたんじゃないかな? 被害者が振り下ろしたナイフからハイドを守るために、凶刃を振るってしまったとかね。刺殺体に比べ、斬殺体が少ないのはそのためなんじゃないかな? 鶴賀君は言動や見た目から粗野な人物に見えがちだけど、彼よりも義理堅い人物はうちのクラスにはいないからね」
青葉はそう言うと、「仮説だけどね」と、続けた。
もし、今の仮説が正しいなら、鶴賀が白石を庇った理由に辻褄があった。
鶴賀は白石が犯人だと分かっていたから庇ったのだ。
しかし、当の白石は犯人が自分だと分かってはいないから、鶴賀のアリバイの証言をする事無く、ありのままを語った。
これが二人の意見が噛み合わなかった理由なのか?
鶴賀はこう言っていた、『命とは家族』だと。
家族である白石を庇っていたということだ。
この事から、犯人は鶴賀と白石の可能性が高くなってきたように思える。
犯人はこの二人なんだろうか?
もし、二重人格によって、ハイドが生まれていたとしたならば、限りなく可能性は高いと思うが……まだピースが揃っていない。
もっとピースを集めなければ、犯人の顔は見えてきそうになかった。
私が思考を巡らしていると、「そろそろ戻ろうか?」と、青葉が切り出してきた。
話し込んでいた為か、いつの間にか時計の針は二時を指そうかというところだった。
「あのっ、最後に一つ良いですか?」
本を手に取り立ち上がった青葉を呼び止める。
「なんだい?」と、返事を返す青葉に、「あなたにとって、命とはなんですか?」と、尋ねる。
「命か……」と呟く青葉。
鶴賀と白石にした質問を青葉にもぶつけてみた。
「僕にとって命は……なんだろうね」と言うと、眉をしかめ、難題に挑むんでいるかのように考えこんだ。
「たった一つのもの、尊いものとか口では言えるけれど、本心で思っているのかと聞かれたら、ハイとは言えないね。上辺の言葉は見つかっても本当の答えは見つからないな。いや、奪う立場の僕だから、答えを出したくないというのが正解かもね」
青葉は答えを出したくないという、答えに苦笑すると、「歌波さんは……命ってなんだと思う?」と、尋ねてきた。
私にとって命とは……。
何だろう?
考え始めるが頭には何も浮かんでこなかった。
買ったばかりのスケッチブックのように、頭の中は真っ白になった。
命って何だろう?
分からない。私にとって命ってなんなんだ?
思いつかない私に気づいたのか、「教室に戻ろうか」と青葉が切り出してくれた。
私は頷き二人で図書室を後にした。
時刻は二時を回り、強い日差しが窓越しに私に降りかかってきた。
けれど、どれだけ照らされようと、私の心は晴れなかった。
命って何だろう。
何故私は……何一つ答えを出すことができないんだ……。




