第43話
プリントはやってもやっても終らなかった。
教科書を見て、解き方を理解しながら進めようとしたが、三年の数学は複雑怪奇な内容だった……。
せめて高二……いや高一の内容なら出来たかもしれないのに……。
数学を諦め、私は教科書を見ながら進めることが出来そうな、古文のプリントを行なった。
何とか三枚目が出来たとき顔を上げると、「エリちん? エリちん?」と、呼びかける声が聞えた。
顔をあげると、「エリちんお昼っすよー」と言ってきた。
お昼何を言っているんだ?
まだ二時間目も終っていないのに?
早弁のことかなと思い、教室に備え付けられている時計を見ると、時刻は十二時二十五分と表示されていた。
もうこんな時間になっていたというのか?
プリントに集中していたので、時間が過ぎていくことに気づかなかった。
と言うか、私は三時間かけて、プリントを三枚しか進めることが出来なかったのか……。
また泣きそうになってきた。
「めっちゃ集中してったすね。休み時間も一心不乱にやっていたっすよ」
一心不乱にやって三枚……。
自分の馬鹿さ加減が良くわかった。
「勉強なんて久しくしていなかったのですが……これだけやって三枚しかできないなんて、私って馬鹿だったんですね……」
「まぁここの授業内容は難しいっすから、しょうがないっすよ」
慰めの言葉かもしれないが、傷ついた心には優しく染み渡った。
染み渡り気づいた。
あれっ?
犬山慰めてはくれたが、馬鹿って事を否定してはいない気がする……。
「ところで、教室にはうちら二人っしかいないっすけど……見るっすか?」
キョロキョロと辺りを見回すと、教室には私と犬山の二人だけだった。
「見たいですけど、護衛はいいんですか?」
「鳳凰會と鶴賀組に分かれて食事に行っているっすから、少しくらいなら大丈夫っすよ」
一時間目に教師がいたとは言え、護衛なしだった事を考えると、私が過敏になりすぎているのだろうか?
少しの時間か……。
けれど見ないよりはマシだろう。
「それじゃあ……見せてもらってもいいですか?」
「じゃあ見るっすか」と言うと、犬山は携帯を取り出した。
「えっ……」
なぜ携帯?
プリントを見せてくれるんじゃないのか。
プリントを見せてもらわないと、あと三時間で四十枚以上やることなんて不可能なんだ。
「えって、何見ようと思っていたんすか? エロ本っすか? ボーイズラビューっすか?」
プリントですとは言えなかった。もちろんエロ本が見たいわけでもない。
だって私はまだ十八歳ですよ。十八禁の本を見てはいけない歳ですからね。
興味はありますよ。
興味は。
でも法律で禁止されている以上……あれっ?
十八禁って十八歳以下だったかな?
十八歳未満だったかな?
見ても法律違反にならないんじゃないだろうか?
殺し屋のパートナーだと言うのに、殺人教唆罪が適応される罪人だというのに、それ以外の法律は律儀に守る私は、犬山の手に握られた携帯――ラインストーンでこれでもかというほどデコレーションされたド派手なもの――を見て、犬山が何を見せたいのか察した。
普通はすぐに分かることかな?
他の生徒がいては見せられない映像。
殺しの現場の映像だ。
「じゃあ見るっすか。えっと、ムービーを見るときは……ギャラリーは……あったあった」と、呟きながら、携帯を捜査する犬山。
私のスマートフォンより、画面が大きそうなので見やすそうだったが、画面に顔を近づける。
「ムービーの撮影時間は十二時十分から……三分八秒撮っているっすね。途中時計も映るっすから、時刻は間違いないっすよ」
ムービーの開始画面が表示されると、下には録画時間三分八秒の表記があった。
しかしその時間に目が行ったのは一瞬の事だった。
それよりも私の目は映し出された映像に釘付けになった。
移された映像……赤い教室に。
静止画で映し出された教室は、机に椅子が飛び散った血で、床が流れ出した血で、赤く染め上げられていた。
私は昨日歩いた並木道を思い出した。
紅葉で赤く染められた道と、血で染め上げられた教室。
同じ赤でも趣は全く違かったが、赤く染め上げられた紅葉も、血で染め上げられた死体も……最後は腐るのを待つだけの存在だという点では同じだった。
「それじゃ、再生するっすね」
ボタンが押されると、止まっていた時間が動き出す。
画面が揺れると、『うちがまず見回るっすから、先生たちは待っているっすよ』と言う犬山の声がスピーカーから流れてくる。
映像には映し出されていないが、教師達もいるようだ。
今私がいる教室とは同じとは思えない赤い教室に、犬山が入り込む。
『生きている人は……いなさそうっすね』
映像が教室の右端を捉えると、ゆっくりと左にスライドしていく。
そこには死体があった。死体。死体。死体。おびただしい数の死体が映し出される。
一人一人捉えた時間は、一瞬ではあるが、額にナイフが刺さった男子。腹を割かれ、顎まで真っ二つになった女子。折り重なるように、床に寝そべった男女もいた。
一番左まで移すと、映像が下がっていき、入り口直ぐの席を映す。
画面には机に突っ伏している少女が映し出される。一見寝ているようにも見えるが、後頭部が赤く染まっていた。
『ショウちん……死んだんすか?』
犬山の呼びかける声が聞えたが、返事をする声は聞えてはこなかった。
袖捲くりをしている華奢な手――犬山の手が画面に映し出され、赤い頭の少女の肩を押す。
頭が机から離れ、顔が画面に映る。額には穴が開き、そこから血が滴っていた。
後頭部から突き刺された刃物が、額を貫通したのだろう。
傷を確認した犬山が手をそっと下ろすと、少女はまた眠っているかのように、机に突っ伏した。
画面が再び上がり、左からまた右にスライドしていくと、倒れた机や椅子があった。
大量殺人が行なわれたのだ、暴れる犯人によって、逃げ惑う生徒、抗う生徒によって蹴散らされたのだろう。
整然としている机もあったが、どれも飛び散った血や赤い足跡で汚れているようだった。
右隅に映像が映ると、時計を映し出した。
斜めから撮っているため見えにくかったが、時刻は十二時十一分と言ったところか。
映像がゆっくりと下がり、黒板を映し出すと、自習と白のチョークで描かれているのが見えた。
黒板には自習以外にも、赤黒い血痕や、血の足跡が映し出される。
『…………ショウちん……頑張ったんすね』
黒板を走り抜けた足跡を追うと、画面が下がっていく。
私が挨拶をした教卓の後ろには、人が仰向けに倒れていた。
ぺちゃっと言う音がすると、『うぅ、ベチャリとするっすね』と、犬山の声が入った。
ぺちゃぺちゃと言う足音と共に死体が大きくなる。
『グウちんも死んだんすね……』
グウちんと呼ばれた死体は、髪が長く一見すると女性のようにも見えたが、男子の制服を着ていたので、どうやら男のようだ。
死体の首は横に裂かれ、骨が露見していた。
『自慢の髪がボサボサじゃないっすか』
長い髪は方々に広がり、蜘蛛の巣のようだった。
巣の中心には見開かれた二つの目が、まるで巣の主のように、存在感を出していた。何を見たんだろうか。その瞳は絶望に支配されていた。
画面がまた上げられ、次々と死体を映し出していく。
うつ伏せになっている死体には近づき、頭を上げさせ、顔を映し出す。
教室を半周したところで、画面が止まる。
教室の端に座り込む男子生徒を映し出す。
上着は着ておらず、白いシャツ姿だったが、滅多刺しにされた痕があり、白いシャツを赤く染め上げていた。喉からも血を流し、膝の上に載せられていたブレザーにポタポタと血が滴っていた。
私と同じ濃紺のブレザーのはずだが、彼のブレザーは血でどす黒くなっていた。
『あれっ?』と言うと、その男子生徒の手元にカメラが向けられた。
右手の人差し指と中指、薬指がなかった。
他の死体とは違い、猟奇的に殺されていた。
『ライちんもっすか……護衛がうち以外全滅じゃないっすか』
画面から男が消え、掃除用具入れやロッカー、その上に置かれた水槽が映し出された。
水槽は血で赤く濁っていた。水槽にピントがあうと、アップされていった。
うん?
何か浮いているな?
初めは金魚か何かが浮いていると思ったが、浮いていたのは三本の指だった。
赤い水槽に三本の指が浮いている映像は、死体をいやっというほど見た後でも、おぞましく思えた。
カメラがそのまま進んでいくと、出口側に折り重なるように倒れている死体の顔を映し出す。
『十五……十六人っすね』と呟くと、画面が床に向けられた。
『先生、五人生き残っているっす! 青葉、白石、鶴賀、姫路亜弥、沙弥っす。連絡するっすよ』と、教師に呼びかける声がすると、画面が暗くなり、最初に映し出された教室の映像に戻った。
録画された映像はこれで終わりのようだ。




