第147話
僕や響は怒る日向子をいやと言うほど見てきたので、この空気には慣れていて平然としていたが、隣に座った亜弥はガタガタと震えていた。
手に取っていたカップはソーサーにぶつかりガチャガチャと音を立てている。
「ありゃりゃ? 亜弥ちゃん恐がらせちゃったかな? ほーら、もう優しいお姉さんだよー」
ピースサインを作り亜弥に笑いかけたが、当の亜弥の震えは止まらなかった。
犬山明日葉よりも、殺人鬼に成りきった青葉昂弥よりも、姫路叡山よりも恐い存在が誰なのか分かったようだな。
さあ、亜弥はどんな判断を下すんだろうか?
十鳥日向子の恐さを知った今、彼女の手を借り、復讐を果たすと語った気持ちに変化はないのだろうか?
目を見つめればその気持ちも分かるだろうが、亜弥は恐怖のあまり俯いていたので、その心中を読み取ることはできなかった。
まあ、顔を覗き込めばわかるんだけどね。
しかし、僕はそうはしなかった。亜弥の心中なんかよりも気になる事があったからだ。
いや、気になる点かな?
「歳が倍ほど違うんだから、お姉さんは無理があるんじゃないか?」
僕が疑問を口にすると、顔目掛け缶コーヒーが飛んできた。
「よっと」と、声を出しながらキャッチする。
良かった零れなかった。
「何か言ったかな? ねえエミちゃん?」と、無理やり笑みを作りながら言ってきた。
よほど怒っているのか眉尻がぴくぴくしている。
「三十路を悠に過ぎているんだから、怒っていると皴が出来る――」
言葉を遮り、ドガンっと轟音が喫茶雛鳥の狭い店内に響き渡る。
日向子がテーブルに拳を打ちつけた音だ。
「殺すよ」と、ドスの聞いた声で僕を睨みつけてきた。
昨日聞いた鶴賀の声とはどすの利き方が異なっていた。
例えるなら鶴賀の声が、餌を横取りしようとする犬を威嚇する猫の声だとするなば、日向子は巣に入り込もうとするハンターを威嚇する虎の鳴き声と言ったところだろう。
猫なら可愛げもあるが、虎からは可愛らしさは感じないな。
虎はその持ち前の馬鹿力で机を叩いたため、洒落たウッド性のカウンターは陥没し破片が飛び散っていた。
修理代がかかりそうだな。
僕と日向子の間に挟まれた亜弥は可哀想に頭を抱えガタガタと震わせ、、「うっ……うっ……ぐっ」と、涙まで流していた。
「ストップ。亜弥ちゃんが怯えて泣いているよ。あと僕も店が壊れて泣きそうだよ」
響が声をかけると、日向子の表情は一瞬で元に戻り、「ごめんごめん。恐かったかな?」と、また弾むような声で言ってきた。
「……はい。大丈夫です」
亜弥は大丈夫と言ったが、唇はまだ微かに揺れ、所々声が擦れていた。
「それで、亜弥ちゃんに提案なんだけど、姫路の爺様を殺すにしても、明日葉ちゃんを殺すにしても、私に威圧されているようじゃ敵なんか討つ事は出来ないよ。もし、自分の手で打ちたいなら……うちで働きながら腕を磨かない? 腕利きの指導者も紹介できるよ」
「それは……殺し屋になれということですの?」
「そう捉えて貰っていいよ。私の仲介を受けていれば嫌でも腕は磨かれるからね。NESTに行くような費用対効果がいい依頼はうちには来ないよ。今の亜弥ちゃんみたいに家族を奪われた人や、野に放たれた凄腕の殺し屋を政府からの依頼で処分するのが主な仕事だからね。もし、私の仲介を受けるならこれだけは頭に入れておいてもらいたいんだけど、私たちのポリシーは悪いやつしか殺さない」
「悪い人だけですか」
「そう。仕事の邪魔になる相手を消してくれや、遺産目当てに旦那を殺してくれなんて依頼は受けないからね。まあ、その分厄介な依頼ばっかりになっちゃうんだけどねー」
亜弥は目を閉じ心の整理をすると、「なります」と、静かに答えた。
「良かった。良かった。実はもう来流君もフリーの殺し屋になる事を決めたから、一緒に訓練を行うことが出来るよ」
今日始めて僕は驚いた。
亜弥が姫路叡山と明日葉への復讐の為に殺し屋になる事は予想していたが、まさか来流までもがこんなにも早く殺し屋になる事を決めるとは思ってもみなかった。
人を殺す事を恐れた彼が……裏の世界にいながらも、誰も殺さずいた彼が、この裏の世界でも魑魅魍魎が跋扈する殺しの世界に足を踏み入れるとは……。
「ちなみに来流君にはもう、一件の依頼を仲介してるんだ。依頼報酬は二千万。姫路叡山の暗殺の依頼をね」