第146話
カップの底に残った最後のカフェオレを喉に流し込む。
もう温かいとは言えない生ぬるい液体に成り代わっていたが、甘みが口に広がり心を落ち着かせてくれた。
「ほんとくだらない事件だったね」と、落ち着いた心で僕が語ると亜弥は俯いた。
そんなくだらない事件で半身を失った。
昂弥の暴走にかこつけたこのくだらない事件で……。
「くだらない」
もう一度投げ捨てるように言うと、ガチャンッと喫茶店の扉が開いた。
「くだらない? このくだらない世界のくだらない登場人物が起こした事件なんだよ。くだらない顛末なのは当たり前でしょ」
白のワンピース姿で茶色いウェーブがかかった髪を揺らしながら、三十路を当に過ぎた女、十鳥日向子がイヤホンを外しながら、語尾に音符が付くような弾むような声を出しながら喫茶店に入ってきた。
「ヤッホー。亜弥ちゃん。元気そうだねー。良かった良かった」
「日向子お帰り」
響は客が全く来ないせいで、新品同然のままのコーヒーカップを磨きながら微笑を浮かべる。
「……十鳥様ですか? お初にお目にかかります。姫路亜弥と申します」
亜弥は椅子から降りると、礼儀正しく頭を下げた。
「十鳥様なんて他人行儀な呼び方しなくていいよ。日向子お姉ちゃんでいいよ。もう家族みたいなものなんだからね」
日向子は颯爽と歩くと、亜弥の右隣のカウンターの席に座り、「響君缶コーヒー、アイスでお願い」と頬杖を付き言った。
「はいはい」
缶コーヒーを冷蔵庫から取り出すと、プルトップを開け手渡した。
「ありがとー」と受け取ると、喉をぐびぐび鳴らしながら流し込んでいった。
「ぷはぁー一仕事終えた後の缶コーヒーは最高だね」と、喫茶店のオーナーには相応しくはない一言を発言した。
響は微笑みながら日向子を見ていたが、心中はどうなのか気になるな。
僕にコーヒーの飲み方を講釈したくらいだ、コーヒーにはプライドやらこだわりもあるだろう。
響は美味しそうに缶コーヒーを飲み続ける日向子に微笑を崩さず、「それで首尾はどうだい」と、聞いた。
質問の答えに、日向子は親指を突き出すことによって答えを出した。
「上々かな。完璧ではないけれどこっちも被害を被ったんだし痛み分けって事で話は付けてきたよ」
話と言うのはこの事件で生き残った亜弥と来流と……刑の生き死にについてだ。
「亜弥ちゃんと来流君の安否は一応は確保できたよ。ただ、姫路の爺様は家に戻ってきて欲しいようだけれど、亜弥ちゃんはどうしたい?」
亜弥は考える事無く、「戻りませんわ」と、即答すると、決意に燃えた目をし、「お姉様の敵を取るまでは」と、付け加えた。
「うん? 敵を取るって明日葉ちゃんを殺すの? それとも……姫路叡山を殺すのかな?」
と、日向子。
まあ、質問の答えは明白だろう。
「両方です。お姉様を殺す手助けをしたお犬様も……私共を犯人に仕立て上げようとしたお爺様も……この手で殺しますわ」
明日葉も言っていたように、昨日、亜弥と沙弥が死ぬ事は確定事項だった。
二人が犯人として死に昂弥を生かす。
これが姫路叡山の計画だった。
計画を忠実に実行しようとした明日葉も、その指示を出した姫路叡山も亜弥にとっては敵でしかないのだろう。
そもそも、今回の依頼は初めから可笑しかったんだ。
中立の立場である仲介屋十鳥日向子に依頼を行った時点で、裏では姫路姉妹を犯人にし始末する計画は進んでいたのだろう。
実の孫を日向子の駒に殺させることにより、鳳凰會が損失を受けたかのように見せかけ、本当の後継者、青葉昂弥を生かそうとした。
姫路姉妹を処分しても怒りが収まらないのは悠一郎と言う、いずれ組の中枢を担う子を失った首里組だろうが、この対策として姫路叡山が取った手が、首里組の松山に誤った情報を与え学園に乗り込ませることだ。
学園の掟は、部外者を入れないこと。
この掟を破れば、どんな者でも三つの組から制裁を受ける。
いくら指を落とし組を抜けたとは言え、松山が学園で暴れた以上、首里組は責任をとる立場にいる。
姫路姉妹を殺して事件を終らせ、手打ちにしようとする姫路叡山に意義を唱える事は出来ないだろう。
これが姫路叡山の作り出したかった絵だったのだろう。
しかし、ここで大事なのが、確実に姫路姉妹を殺すことだ。
姫路姉妹は僕や明日葉からすればどうと言うこともない技量ではあるが、その辺の殺し屋風情が始末できる程弱くもない。
だからこそ、確実に殺せる人間への依頼が必用だった。
だから、姫路叡山は僕に依頼をしに来たのだろう。
まあ、あの時は僕はいなかったから、日向子の秘蔵っ子であり、売り出し中の殺し屋、波原刑が受けることになったのだけどね。
まあ、刑は僕の再来とも言われる殺し屋だから、姫路叡山も渋々受け入れたんだろうね。
亜弥の姫路叡山を殺すと言う、決意と殺意の入り混じった言葉に、日向子は、「オッケー。わかったよ」と、軽く答えた。
「それにしても姫路の爺様は大した狸だったよ。昂弥君が犯人だと伝えても、『そうだったのか、青葉組の倅が犯人だとは思いもしなかった』って、シラを切ってくれたしね。妃弓も明日葉ちゃんが共犯者じゃないの? って聞いたら事実を認めずに、昂弥君単独犯だと言い切ったしね。それどころか、昂弥君の護衛任務も防衛省から受けただろう波原刑の依頼のことも知らぬ存ぜぬだってさ」
缶コーヒーをテーブルに置き、頭の後ろで手を組み、困ったような表情を顔に浮かべたが、「だから」と、呟き、響と亜弥の顔を交互に見て、「家族に手を出したら……殺すぞって言って帰ってきちゃったよ」と、言った。
その言葉には今までのような弾むような抑揚はなく、ただただ、平坦で無感情な音の波だった。
けれど、無感情な口調といえど、室内の温度が一気に下がったように感じるほどの殺気が篭っていた。