第142話
「見守るため?」
「そう。刑は、自分の両親を守るために自分の身を差し出したんだ。けれど、僕が両親を撃ち殺したら……刑は壊れた。叫んで叫んで叫んで声を失ってなお叫んで……僕を殺そうとした。最初は手に持ったぬいぐるみで殴りかかり、次は爪で僕を引っ掻こうとし、更にはキッチンから包丁を取りだし斬りかかってきたんだよ。まあ、中学に入ったばかりの裏の世界の事も知らない少女がいくら斬りかかった所で僕にかすり傷一つ付けられなかったけれどね。何度も何度も斬りかかって来ると、刑に変化が起きたんだよ。自分で自分を殺そうとした。首に刃を当て自殺しようとしたけれど、少し刺したら踏みとどまりまた僕を殺しに来る。何度も何度も白いパジャマを赤く染め上げ、倒れるまで繰り返したんだよ。僕を殺したいという思いと、両親の元に行きたいという気持ちが小さな刑の体の中に渦巻いていた。このコーヒーのようにね」
カップを傾け茶色に変わったコーヒーを見せる。
「僕はその結果が知りたいんだよ。僕を殺す事を諦めて死ぬ道を選ぶのか? それとも僕を殺す道を選ぶのか? はたまた二つの感情が合わさり別の思いが産まれるのか? 僕はその答えが知りたい。生れ落ちてずっとずっと探してきた答えが……命とはなんなのかの答えが」
「その答えが知りたいから、あなたは波原様の側にいるんですね。けれど……どうしておちびさんを作り出したのかが見えてきませんわね」
「最初は自分の手で、僕を殺そうとする波原刑と言う人間を作り出そうとしたんだけれど、日向子に止められてね。僕の存在は刑にとってトラウマそのものだから、一緒にいれば刑の精神崩壊にも繋がる。だから殺しに来るその時まで会わないほうがいいって言われたんだよ。けれど、僕としては刑の心がどう傾くのか見ていたかった。離れたくはなかったんだ。だから僕は作り出すことにした。秤恵美奈と言う刑の両親を殺した復讐相手ではなく、刑の傍らで刑の復習を……秤恵美奈を殺すことを夢見る、貧弱で脆弱な少女を」
これが僕と刑の歪んだ関係の成り立ちであり全てであった。
「……作り出した? ちょっと待ってください。それでは歌波様を演じていたのではなく……人格を作り出したと言うことなのですか?」
「いや。初めは演じていただけだなんだけど、いつの間にかエリハと言う疑似人格が生まれていたんだよ。虐待にあった子供も、はじめは違う人が虐待にあっていると信じ込み生活していくと、実際に擬似人格が生まれることもある。僕の場合もそうであり、他のケースと違う理由は、僕がエリハに主人格を譲ったという点かな」
「そんなことが可能なのか私には分かりませんが……波原様がそれを受け入れたというんですか?」
「初めは信じることなどしなかったさ。僕を見るたび殺そうとしたくらいだしね。けれど、そのたびに日向子達に止められた。僕とエリハは違うと言われ、エリハを殺しても僕を殺したこと……復讐を果たしたことにはならないと」
亜弥は僕の言葉を俄かには信じられないと言った瞳で見て来た。
まあ、信じられなくても仕方ないのだろうな。
当の刑だって、心の奥底ではエリハという人格が存在するとは信じていなかったのだから。
だから、エリハは刑とは顔を合わせることを拒み続けた。
顔を会わせれば無意識に殺意が体から溢れてくる。
顔を会わせれば理由もわからずに殺意を向けられる。
昨日の屋上のようにね。
まあ、エリハは自分が僕だと言うことを知らなかったから、なぜ自分がこんなにも刑に嫌われているのか分からなかったようだけどね。
生み出した僕と生み出されたエリハの違い。
それは、僕にはエリハの見聞きしたこと全て知る事が出来たけれど、エリハには僕の事を見ることも知る事も出来なかった点だろう。
まあ、そうなるように僕が想像した……創造したんだけれどね。
「僕らはジキルとハイドの関係だった。誰もが忌み嫌う殺し屋であるハイドが生み出した、弱く脆いジキル。ジキルの中で僕を……ハイドを殺すために、腕を磨く刑を見続ける。今までの人生で……最も悪くない日々だった。まあ、そんな生活も昨日で終ってしまったけれどね」
「……歌波様が消えたからですね……」
「ジキルが自分がハイドだと言うことに気付いた以上、存在することは出来なかったからね」と、僕は語った。「またエリハのような弱く脆い人格を演じ、生み出すことは出来るだろうけれど、もう同じエリハとはならないだろうね」
そして、言葉にはしなかったが、僕はまたエリハのような弱い人格を生み出す気はなかった。
エリハはもう必要ない。
いや、エリハはもう存在しても意味のない人間だ。
亜弥の中でエリハが消えたことが寂しかったのか遠い目をした。
僕には分からない喪失感が彼女の中にあるのだろう。
それとも、もう一人の自分であるエリハを失った僕を、片割れでもある最愛の双子の姉を失った自信に重ね合わせているのだろうか?
しかし、はっきり分かったことがある。亜弥はまだこの事件の真実に気づいていないということに。
「亜弥。君は今回の事件をどんな風に感じた?」
抽象的な質問を投げかけると、亜弥はコーヒーカップの中を覗き暫く考え、「青葉様の暴走により起きてしまった悲しい事件です」と、答えた。
「エリハもそう考えていたね。けれど、君もエリハもこの事件の本質を理解していないようだ」
僕の言葉を聞き亜弥はカップから目を外し、僕を見つめてきた。
その瞳には事件の真実を知りたいという思いが宿っている。
いや、姉がなぜ死んだのかと言う重いと言った方が近いかな。
「物語には起承転結があるんだよ。起は昂弥がクラスメイトを虐殺してしまった。転はエリハが学園に潜入し事件解決の為に奔走した。結は事件を解決したこと。分かるかな? 承がまだ語られておらず、話がまだ完璧には結ばれていないんだよ」
「どういう事ですか?」
「君はこの事件を昂弥の暴走により起きた悲しい事件と言ったけれど、僕はこう捕らえたよ。嘘つき達によって捻じ曲げられた悲惨な事件だってね。この事件に関わった人は全員嘘つきだった。依頼人も仲介人も容疑者も犯人も探偵役も皆が皆、嘘つきだった」
僕の発言を聞き、グラスを磨いていた響の手が止まった。
仲介者も嘘。
そこに引っかかったんだろう。
殺気も怒気も感じさせずに微笑を浮かべていたが、内心はどうなっているんだろうか?
瞳の中を覗き込んでも感情を読み取ることはできなかった。
うん。面白い。
殺しの世界の人間でもほとんどの人間は感情を百パーセント消すなんて事はできないものだ。
口角の上がり、唇の潤い、鼻腔の広がりと、人間の顔には隠しきれない感情を表すパーツが沢山ある。
中でも一番隠すことができないのは目だ。
瞳孔の収縮に微細動。
瞬きの速度の変化。
訓練を受けたものでも隠し切ることはできない。
そうだというのに……響からは何の感情も感じる事はできなかった。
笑っているのに笑っていない。
うん。面白い。
読み取れない人間がいる事は僕にとって生きる糧になる。
何でも分かるという事は何の楽しみもない事と一緒だ。
日向子や響の心が読めないという事は、これから起こることが予想出来ないという事。
ああ。なんて楽しいんだろう。