第116話
生かしては置けないという言葉とは裏腹に、犬山はスッと左手を伸ばしただけだった。
私には彼女が手を伸ばしたようにしか見えずに反応が遅れた。
「……ッ!」
僅かな殺気を感じ慌てて後ろに飛ぶが、遅かった。犬山の手が私の腹の右側――携帯をしまったポケットに触れた瞬間、ギンッと金属音が鳴った。
着地し、痛みはなかったが、犬山の手が触れた部分を確認するとポケットが切り裂かれていた。
手が触れただけなのにどうして刃物を突き刺した跡が残るんだ?
視線を犬山の手に移すと、答えが分かった。
ぶかぶかのカーディガンを突き破り、銀色の刃先が見えたからだ。
指先を隠す長さの袖の中にフィンガーリングナイフを隠していた。
「あーあ。エリちんが情報に踊らされてアヤちんサヤちんを犯人だと言っていれば波原刑が来るのを待っていれたんすけど、ばれちゃった今、敵を増やすわけにはいかないっすからね」
敵を増やすわけにはいかない?
「狙いは――携帯だったんですね」
ポケットに手を伸ばし、取り出すとディスプレーの中央にも穴が開いていた。
液晶画面も黒くなり、どう見ても使用できる状態じゃなかった。
つまり……刑との通話は切られていた。
「当たりっすよ。エリちんさっきからそのポケットを気にしていたっすから、十中八九携帯で連絡を取ったんだと思ったんすよね。教室では盗聴器付のペンが壊れてたっすから、外部に情報を送るなら携帯以外にないっすもんね」
「……ッ!」
「あとエリちん、あんなにメモを取りたがっちゃダメっすよ。メモを取ることになにか理由があると考えるのは普通じゃないっすか。それに持っているペンも変わっていたっすからね。あっ、あのペン、ネットで調べたら直ぐ出てきたんすけど、便利そうだったから通販で買っちゃったすよ」
私は犬山を見くびっていた。
ミステリ好きなNESTの殺し屋くらいにか思っていなかったが、洞察力も思考力も高かった。
どうする。
携帯がダメな以上、刑に連絡を取る方法はない。
戦うか逃げるか。
考えるまでもない。
こっちは怪我人二人に無傷の鶴賀と沙弥。
相手は十六人殺した姫路昂弥にNESTの殺し屋。
ダメだ勝てる気がしない。
これで白石が無傷だったら可能性があるかもしれないが、白石の怪我の重さは戦えるようなものじゃない。
逃げるしかない。
けれど……逃げられるのか?
この二人から。
私が逃げる方法を模索していると、白石が私の前にスッと立った。
「なあ犬山、俺らは青葉が姫路叡山の子供なんてことも、クラスメイトを殺したことも吹聴しない。何事もなかったように、学園生活を続ける事は出来ないのか?」
「無理っすね。姫ちんの存在は秘中の秘。口約束で言わないからオッケーなんてことは出来ないっすよ。解決する方法は死人に口なし。つまり皆殺しにする意外ないんすよ。学園生活は楽しいからこれからも続けたいんすけど――仕事だからしかたないっすよね」
笑いながら言う犬山の目に嘘の色は現れてはいなかった。
彼女にとって優先すべきは仕事。
これが殺し屋として育てられた彼女の命の持ち方。
「青葉……いや、姫路はどうなんだ? クラスメイトを殺したのには何か訳があるんだろ? それなら俺達までも殺す理由はあるのか?」
「ああ。僕がクラスの皆を殺した理由? 愛瀬さんの肘が僕の机の上に乗せられていたんだよ。それでどかそうと思って彼女の首にナイフを突き立てたんだ。そうしたら教室がざわめいて煩かったから全員殺したんだよ」
「……肘が乗っていたから?」
思わず私は口を開いてしまった。
人を殺す理由が肘が乗っていたから?
到底私には理解する事はできなかった。
動機が分からないはずだ。こんな答え、どれだけ考えようが辿り着けるはずがない。
「僕の机にだよ。彼女のような低脳な殺し屋風情が、神の子でもある僕の机に肘を置いた。殺すには十分な理由じゃないかな?」
「……」
同意を求めるように聞いてきたが、私は答えることが出来なかった。
机に肘を乗せただけで殺すような人間に、ノーと答えたなら結果は見えている。
殺される。
間違いないだろう。
「……お前狂ってるよ」
私と同じ意見を白石が言った。
「狂っている? 僕が? 違うね。狂っているのは僕じゃなく、この世界だよ」
この世界が狂っている?
どういうつもりで言ったのか知りたかったが、私の眼前には大きな白石の背中があり、表情を伺うことが出来なかった。
「ヒメちん……そろそろ終わりにするっすかね。エリちんの携帯を壊したとは言え、いつ波原刑が来るかわからないっすからね。厄介極まりない相手が来る前にちゃっちゃと殺っちゃうす」と、瞳に微かに殺意を宿した。
「そうだね。さあ殺そうか。誰からがいいかな? 歌波さん? 亜弥さん? 沙弥さん? 鶴賀君? それとも白石君? 安心してね。拷問等せずに安らかに逝かせてあげるよ」
姫路昂弥が言うと、吐き気をもよおすような殺気が屋上を包んだ。
「……ッ!」
殺るきだ!
そう思った瞬間、白石が私の肩を突き飛ばした。
「逃げろ!」