第110話
「白石さんは屋上の上で寝ていてアリバイがありません。青葉さんは図書室にいてアリバイがありません。どちらかが犯人……私は殺人鬼ハイドと呼んでいます」
「ハイドっすか?」
と、犬山が小首をかしげる。
「はい、ジキルとハイドのハイドです。青葉さんに図書室でジキルとハイドの話を聞き、この犯人に似ていると思いました。普段は善意の塊のような二人のどちらかが、十六人もの人間を殺した悪意の塊のハイドだった。別に薬を飲んでハイドになったとは言いません。私の考えでは何かトリガーのようなものがあり、心の奥底に封じられていた悪の部分のハイドが目を覚まし、強行に及んだと考えています」
「そう言えば先ほどもそんな事を言っておりましたね」
風が当たり痛むのだろうか、肩を気にしながら亜弥が言った。
「殺人鬼ハイドが何故生まれたのか、何故強行に及んだのかは私には分かりません。それは本人にしか分からないことなんでしょう。けれどはっきりしている事は……殺人鬼ハイドはお二人のどちらかで、今も私の話を聞き心の奥底でほくそえんでいるんでしょうね」
戸惑う青葉と悲しげな白石の心の奥底にハイドはいる。
十六人を歯牙にかけた殺人鬼が。
「今から殺人鬼ハイドの正体を暴きますが、姫路亜弥さん、沙弥さん、そして鶴賀さんの無実は証明されたので、お帰りになって結構です」
「はぁっ?」
「おちびさん、ここまで来てそれはないんじゃないんですの?」
鶴賀と亜弥が言うが私は拒否した。
「安全の保障が出来ませんので、お帰りになってください」
「あら私がいてもダメかしら?」
沙弥が言ってくるが、「ダメです。お帰りになってください」と、一蹴する。
「高々十六人殺した程度の殺人鬼に殺られる俺じゃねえよ!」
鶴賀が食い下がってくる。
彼らの持つ犯人の技量に関するイメージに私と差があるようだった。
松山にはあしらわれた鶴賀だが、その辺のヤクザや、殺し屋よりは高い技量を持っている。
亜弥も流れるような動きで、鶴賀と同程度の強さがありそうだった。
沙弥にいたっては首里組の中でも五指に入る守衛を圧倒するほどの強さを持っていた。
間違いなく同世代では最高クラスの腕の持ち主達だ。殺人鬼ハイドに恐れはしなかった。
仕方がないな。
この考えを話さず済むなら話したくなかった。
いや、話して事実になる事を私は恐れているのかもしれないな。
もし事実なら……刑一人で依頼を完遂することが困難になる事が目に見えていたからだ。
そうすれば五百万では安すぎる依頼だ。
費用対効果を考えれば二倍は貰いたいな……。
私は、「はぁ」と、ため息を吐き、引きそうにない三人の心を折る一言を口にした。
「犯人は十鳥……いえ、鷹弓の翼クラスの実力者です。亜弥さん、沙弥さん、鶴賀さんでは太刀打ちできません」
鷹弓の翼と聞き、三人は固まった。
犬山の言ったとおりだ。
裏の世界でその名を知らない人はいない。
任侠の世界で生きてきた三人にもその名の持つ意味が伝わったようだ。
「わぁお。それはヤバイっすねー」
一番鷹弓の翼の凄さを知っている犬山は、ヤバイと言いつつどこか楽しんでいる様子を見せた。
「あれっ? エリちん。三人には帰れって言ってるっすけど、うちはどうするんすか?」
「犬山さんは残って貰っても良いですか? 犬山さんにはまだ聞きたい事があるので。それに事件が解決したらNESTへの連絡もあるでしょうし」
「了解っす」と、長い袖を垂らしながら敬礼をした。
「あら、犬山様だけ残って、私達は犯人の名前も聞かずに帰らないといけないんですの? そんなの嫌ですわ。この場がダメなら譲歩して、そこの扉の奥で待っていると言うのではダメですの?」
屋上の入り口を指差し沙弥は言った。
「歌波様達にはフェンスの近くに行っていただければ、距離もありますし、何かあっても直ぐ階段を駆け降りることも出来ますわ」
「それでも確実に安全とは言えませんよ」
「このまま犯人の名前も聞かずに尻尾巻いて逃げ帰るよりはずっとマシだ」と、今度は鶴賀が言った。
「……はぁ」と、ため息をつき、「分かりました。その代わり危ないと感じたら直ぐに逃げてくださいね」
「分かったよ」
鶴賀の言葉を合図に、亜弥と沙弥は開け放たれた扉の奥に歩み出す。
鶴賀も向うと、腕組し私達を見つめた。
「…… それじゃあ、私達も向いますか」
私と犬山と、容疑者の青葉と、白石はフェンスに向かい歩き出す。
フェンスから扉までは十メートル弱と言ったところか、小声は聞き取れないかもしれないだろうから、少し声を張って話したほうが良さそうだった。
「今から犯人、殺人鬼ハイドが誰なのかを話させていただきます。その為には先ほど話した三つの謎が関係してきます。足跡のない謎に消えた凶器の謎、そして血で染められた水槽の謎です。始め私は犯人は返り血を浴びずに、血を踏む事無く十六人を殺害したと考えていました。しかしそれは首里組と交戦した皆さんを見れば、不可能なのだと分かりますよね」
白石、青葉、犬山とそれぞれ見た後に、振り向き、扉の奥で見つめる三人に目配せする。
「靴底を見てください。血で汚れていない人はいますか?」
返り血を浴びずに首里組の精鋭を殺害したものは何人かいたが、靴底は血で汚れているはずだ。
誰からも自分の靴底は汚れていないという報告はなかった。
「はっきり言うと、短時間で靴底を汚さずに十六人を殺害する事は限りなく不可能です」
「エリちん、不可能なら犯人はどうやって血で汚さずに教室を出たんすか? 限りなく不可能だとしても、犯人が鷹弓の十翼クラスの人間なら出来たと考えるほうが自然じゃないっすかね」
確かに私も響さんなら可能じゃないかと考えていたが、ここははっきりと否定した。
「十翼の方なら出来たかもしれませんが、私の考えは違います。今回の殺人がもしも計画的犯行なら、汚さないように殺したかもしれませんが、今回は衝動的犯行だったはずです」