第9話
「やっぱり胸の谷間はないんだね。残念」
「はぁっ?」と声を上ると、私は勢いよく頭を上げ、左手で胸元を隠す。
今日の服装は黒のカットソーの上に、グレイのカーディガンを合わせた服装だ。頭を下げたため、胸元が開いたらしい。
しゃがんだのは胸を見るため?
最低でしょ、この人!
そもそも残念って何? 胸の谷間が見られなくて残念?
胸の谷間が無くて、私が残念?
前者なら最低。後者なら死ぬべきでしょ。
瞳が怒りに染まっていくのが分かった。
「あっ、ちょうど牛乳買ってきているから、焼け石に水かもしれないけど飲む?」
怒りから殺意に、瞳が染め直される。
瞳に最低。死ね。とメッセージを乗せ、響さんを睨みつける。
「牛乳は好きじゃなかったかな?」
私のメッセージは届かなかったらしく、微笑みを返してきた。
その表情に思わず怒りが―――もとい、殺意が抜けていく。
セクハラ発言も、逆撫でするような言葉も、悪意があって言っているのではない。
ただ、思った事を言っているだけなのだ。
まあ悪意がない分、より悪いといいえるかもしれないが……。
争うだけ無駄―――それこそ、焼け石に水だ―――だと思い、私は話を返ることにした。
「ところで、響さんは買い物帰りなんですか」
視線をビニール袋に送る。
「ああ、これね」と、言うと袋を持ち上げる。ガサガサと商品とビニールがこすれる特有の音がした。
「日向子が夕飯はベーコンを食べたいと言ったから、スーパーで一キロ分も買ってきちゃったよ。後はお店で使う牛乳や、ハチミツとか買っていたらこの量だよ」
「一キロって大分買いましたね」
「うん。日向子と僕と刑ちゃんだけでは多いかもね。そうだ、今日はエリちゃんも一緒に夕飯食べていかないかな?」
食事の誘いを、「……いいえ、私は……」と、断わる。
私には刑と一緒に食事を取るイメージが湧かなかった。
それどころか、三年間もパートナーとして一緒に働いているというのに、食事をいっしょに取った事は一度もなかった。
一緒にとったことはない。
一緒には取れない。
響さんは、「そうか。残念だね」と、微笑を崩さずに言った。
表情からは本当に残念だと思っているのかは、読み取れなかった。
「……」
返す言葉が見つからず、私は黙り込んだ。
すると響さんは、「帰ろうか」と、視線を並木道の先に送った。
私は頷き、落ち葉を踏みしめ響さんと一緒に歩き出した。
響さんは音を出さずに歩き出す。
戯言を話し忘れてかけていたが、やはり響さんは凄腕の殺し屋だと、最実感した。
ポケットの中の紅葉が、カサッと音を立てたような気がした。
殺し屋の群れに、殺すことのできない女が一人。
紅葉した落ち葉の中に一枚の新緑。
赤くなること無く落ちた葉は、枯れるのを待つだけ。
私と同じではないのだろうか。
「……フッ」
思わず苦笑してしまった。
声に気づいた響さんは、「どうしたの?」と、声をかけてきた。
私は慌てて、「なんでもないです」と、否定する。
センチメンタルになって、思わず笑ってしまったなんて恥ずかしくて言えない。
刑に響さんに劣等感を持っているなんて、辛くて笑うことしかできないなんて言えない。
そう思った私は、視線を響さんの持っているビニールに送る。
「一つもちましょうか?」
「大丈夫だよ。エリちゃんも仕事で疲れているんだし、このくらいは一人で持てるよ」
紳士然とした態度で、丁寧に断わりを入れてきた。
「そうですか」
気疲れはしていたが、今回は敵と相対することも無かったので、体力的には疲れは無かった。
響さんの口から仕事と言う言葉が出たので、私は疑問を口にすることにした。
「今回、刑が請け負った仕事のこと、日向子さんから聞いていますか?」
「うん。聞いているよ」
答えはイエスだった。
「三日前かな? 依頼を受けたときに、誰に仲介するべきか相談されたからね」
「それで、刑を推したのですか?」
「うん」
これもイエスだった。
「僕が、刑ちゃんと、エリちゃんのペアを進めたね」
響さんは微笑みながら、視線を私に送った。
「そもそも、日向子の仲介できるフリーの殺し屋で、今回の依頼を完璧に遂行できる人は、そういないと思うよ」
そう言うとビニール袋を手首に掛けなおし、指折り数え始めた。
「刑ちゃんエリちゃんペアに、巽爺。四季場君に秤……は依頼の条件的に無理かな。後は、久々利君と……僕くらいかな」
指は五本折られた。
「五人もいるのに、なぜ刑と私を進めたんですか?」
「エリちゃんの経験のためかな」
響さんは、刑と私ではなく私の経験の為と語った。
「身内贔屓みたいで、恥ずかしいけれど、刑ちゃんの腕前はかなりのものだと思うよ。もしNESTに属していたら、上位……羽持ちに上げられるくらいの強さはあるかもしれないね。けれどそれは戦闘技能の話であって、暗殺の遂行力の話ではないんだよね。刑ちゃんは強くなったけれど、罠の張り巡らされたところ―――例えば、爆薬で埋め尽くされた所に出向いたら、一溜まりも無いよね。それを見破るためにエリちゃんだろ」
返す言葉が見つからなかった。
「今回の事態は、エリちゃんが予想し、対処すべきことだったんじゃないかな?」
響さんの微笑が、私の心に突き刺さった。
響さんは偶然私を見つけたと言っていたが、嘘なんだろう。日向子さんから私の失態を聞き、護衛として来てくれた。きっとそうなのだろう。
今回の依頼を思い浮かべて見る。