後編
そして、新しい住人と物々交換のシステムを加えて無人島暮らしは再び流れていく。外部との積極的なつながりができたわけだが、社長の生活はさほど変わりはなかった。元々島内だけで生活が完結するような環境だったし、住人達も都会的な暮らしが嫌で逃げて来たような連中ばかりである。
研究隊が気になっていた本の続きを提供してくれたことは社長にはありがたがったが、それ以外には取り立てて変化もなく穏やかな時間が過ぎていく。夫婦にも子供が生まれ、島内が少しずつ騒がしくなっていった。
時折、新しい住人がやって来ることがあった。しかし、その頻度は決して多くはなかったし、社長は慣例通り彼らを拒まず受け入れていた。別に社長に拒否権があるわけでもないのだが、なぜか住人が揃って社長に意見を聞きに来るので、彼としても何も言わないわけにはいかなかったのだ。
かくして夫婦の間に生まれた子供が3人を数えた頃、事件は起こった。
果物を抱えていた新入りの青年を、運悪くしばらく収穫がなかった比較的古株の中年が分けてもらおうとして口論になり、殴りかかってしまったのだ。幸い青年に大きな怪我はなく、中年男も腹が減って錯乱していただけなのかすぐさま自分が何をしたかに気付いたものの、謝罪だけで済む問題でもなかった。
(……だからと言って、なんで皆私の所に来るかな)
社長の小屋にはいつの間にか20人を超えていた島の住人が勢ぞろいしていた。夫婦も乳飲み子を抱えて来ているし、研究員たちも興味深げに小屋の外にいる。副社長に至っては社長の横にまるで補佐するかのように立っていた。
社長は、自分の目の前で神妙な面持ちで座り込む中年を見る。
「社長。皆が貴方に裁定を求めています。貴方が出した結論なら、皆納得できると言っています。どうか、ご判断を」
(別に私はこの島の主でも何でもないんだがなぁ……)
社長は疲れたように頭を振るが、それで目の前の人々が消えるわけもない。この連中を追い返すには、自分が何か言う他ないようだ、という結論に社長はようやく至る。
「……では、私の判断を述べる。この楽園で他人を傷つけて楽をしようとした罪は重い。私は、島外退去処分が妥当であると信じるが、皆はどう思う?」
社長としてはとりあえず一番厳しいだろう裁決を下すことにした。流石にこんな判決は受け入れられないだろうし、皆が反対してくれればそこから議論を起こして自分にだけ決断の責任が降りかかることを避けられるだろう、という計算からだった。
「異議なし」
「異議ありません」
「異議なしです」
「……異議なし」
……社長の誤算は一斉に賛同の声が上がり、罪人である中年自身も、少し辛そうな顔をした後ポツリとその結論を受け入れたことだった。
かくして副社長が持っていた衛星電話で船を呼び、中年は寂し気な面持ちで島から追放されていった。後には見事な裁定を下したことで、皆からますます尊敬の目で見られるようになった社長を残して。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
そして無人島暮らしは変わりなく……否、社長にとっては変化を加えながら続いていった。
事の起こりは、副社長が「皆で暮らしていくためのルールを作るべきではないか」と提案したからだ。
先日の事件を除けば、今まで通り住人たちは互いに積極的に協力も敵対もしないで生活しているのだが、それでも細かいトラブルが全くないわけではない。水場の使い方や、排泄物の処理、互いのプライベートな空間の確保など住人が多くなればささくれが起こらない方が不自然なのだ。
だからこそ、トラブルが大きくなる前に互いに平穏な生活を送るための決まり事を作るべきであるという副社長の提案は妥当なものだったし、社長も自分がそれを定めることに納得した。だが、問題は……
(まさか自分の食べ物を集めに行く時間もできないとは……)
社長の前には、この数年で情報を集めて作られた研究隊提供の地図がある。今はこの地図に、住人達それぞれの要望に合わせて彼らのささやかな領地を決めているところだった。領地と言っても、小屋一軒を建てられる程度のスペースしかない(新たな住人が今後も増えることを考えると、今いる人々だけで島を分割するわけにはいかなかったし、限られた水場などは共有としなければならなかったため)が、それでもその圏内には領地の住人の許可なしに入ってはならない、というルールを定めるためには絶対に必要だった。
最初はその程度簡単だろうと思っていたのだが、実際に要望を集めると、やれ水場が遠いだの、やれ海が近い方がいいだの、やれ虫が多い場所は嫌だのと社長の頭を悩ませる代物ばかりだったのである。何度も島中を駆け回って意見を折衝し、頼み込んだり頼み込まれたりして、住人の要望を余さず満たせるような地図作りには一月以上かかってしまった。その間社長の食料は島内の有志が集めてきてくれることとなったので生活には困らなかったが。
かくして、あぁでもないこうでもないと一月に渡って社長を悩ませた渾身の地図が完成したその時だった。
「あ、あの……私新しくこの島に住まわせてもらおう、という者でして……島の主さんの家はこちらでよろしかったでしょうか?」
小屋の入口から顔をのぞかせる新入りに、社長は手元の地図をグシャリと握りつぶしながら必死で笑顔を取り繕った。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「いやぁ、本当に素晴らしいですね、悠々自適の楽園暮らし! ……あ、社長。こっちの書類も処理をお願いします」
副社長は、自分で取って来たみずみずしい果物を齧りながら笑う。
「うむ……南の海の魚が不漁か……交換レートを少し引き上げた方がいいな」
分業制の進んだ島内では、物々交換が積極的に行われるようになったため、公平な交換レートを決めて行かないと揉め事が起きるのだ。研究隊が設置したベースキャンプは、島外との交流の拠点となり、手先が器用な住人が貝殻などで作ったアクセサリーを輸出したりしているが、そこでの交換の基準も定める必要が出るようになった。そろそろ物々交換だけでは無理が出てきたため、通貨を作るべきではないか、という意見も散見されるようになったほどだ。ボートは毎日のように島と外を往復しており、副社長が持ち込んだ衛星電話は社長の小屋に設置され、様々な物資や情報を外部とやり取りするためにやかましくその電子音を響かせている。
「あ、あと北部地区から不満の声が来ています。何でも大きなハチの巣ができたらしくて……対処するか、領地を交換してほしいとのことです」
「そうか……少し人手を集めよう。駆除のためにハチに刺されないようできるだけ目の細かい網を用意して……」
「島長、本日の食料です。今日もありがとうございました」
今日の食料提供係が少し誇らしげに籠一杯の食料を社長の元に持ってくる。今や社長は自分が「長」と呼ばれることを諦めていた。住人たちが悪意を持って彼を祀り上げているわけではないことはわかっていたし、誰かが纏め役をやらなければ人間の集団は回って行かないのだ。
「そちらに置いておいてください。今社長はお忙しいのです。……それでは、社長。私は午後の果物集めに行って参ります」
「う、うむ……」
楽し気に自給自足の生活に戻っていく副社長の背中を見送りながら、社長は「不便だから」という理由で導入されたパソコンとプリンターを眺めて溜息を吐く。暴力的な電子音を鳴り響かせて社長を煩わせる衛星電話と、膨大な情報量を社長に読むよう求めてくる書類の山と、社長にアドバイスを求めて殺到してくる住人たちとがそこにはあった。
「……最初は良かったはずなんだけどなぁ……一体どこで間違えたんだ、私の楽園生活……」
社長は実に忙しい今の暮らし……人々の機嫌を窺い、人々に命令を下し、そして人々に感謝されたり蔑まれたりするような生活を思い返して、もう一度深い溜息を吐いた。