前編
「嫌だ」
「は……? 社長、今何とおっしゃりましたか?」
「嫌だと言ったんだ。私は絶対この島から出ない」
ボロボロの服を纏い、無精ひげも伸ばし放題に伸ばした壮年の社長が放った予想外の一言に、迎えに来た男たちはただただ困惑するばかりだった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
その島は、南洋に浮かぶ比較的大きな無名の島だった。特に原住民などはおらず、野生の獣もいない。植物と鳥や虫、魚の楽園であった。
観光地になってもおかしくない環境だが、交通の便が非常に悪く、大型の船が接岸できる港を築ける場所もないことから、近隣諸国からも完全に無視されている。
そんな島に数年、ひょっとすると数十年ぶりにボートがやって来たのは、「この島に人がいる」という情報をとある大企業の経営陣が聞きつけたからだった。
無人のはずのこの島で、恐らく長年生活していただろう彼の姿は、この島を偶々訪れた漁師が撮影した写真と共に世界中に伝わった。……「大ニュースになったか?」と言うと微妙なものだったが。所詮どこぞの世捨て人が辺鄙な場所で暮らしているだけだろう、とニュースを見た者は考え、そしてそのほとんどは一瞬で忘れていった。
しかし、その風貌を偶々目にした大企業の副社長は、数年前この近海で一人趣味のヨットを楽しんでいる時、荒波に誘われて行方不明になった自身の上司を思い出したのだった。
決死の捜索にも関わらずその痕跡すら見つけ出せず、結局は「死亡」扱いになって会社の経営権もつつがなく後継者に引き継がれたため彼自身記憶の彼方だったが……よくよく見れば一代でこの企業を世界に名だたる大企業へと成長させた元社長にとても良く似ていた。
慌ててその男に会ったという漁師にも連絡を取ったところ、なぜか彼自身救助を望んでいなかったためいまだに件の島に残っているという情報を得られた。なぜ帰ってこようとしないのか、副社長は困惑しながらも予定を空けられた幾人かの経営陣と共に、事情を確認し社長を連れ帰るべくその島へと飛んだのだった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
写真ではなく、直接会ってみれば確かにその男は全くの行方不明だった社長に違いなかった。彼の方でもどことなく迷惑そうな顔をしていたものの、ハッキリとした口調で副社長たちの名を口にしたためその確証は得られた。
再会の喜びも一通り過ぎたところで、副社長たちが帰ることを促したのだが、彼の返事はまるで子供のような「嫌だ」の一言だけだった。
困惑した副社長が説得を試みる。
「なぜこんな何もない島に残ると言うのです! 電気もガスも水道も、ネット環境もない! 生活を送るために必要な物など何もないではありませんか!」
「何もないからいいんじゃないか。この島には、いつ何時でも暴力的な電子音を鳴り響かせて私を煩わせる携帯電話はない。膨大な情報量を私に読むよう求めてくるインターネットはない。何より私にアドバイスを求めて殺到してくる部下たちがいない」
皮肉気な社長の言葉に、副社長たちはばつが悪そうに目を背ける。
「あるのはただ、日々の生活の糧を得るための作業だけ。自分が働かなければ今日の食事はない代わりに、働けば間違いなくその実績として今日の食事は手に入る。その充足感は、都会でパソコン相手に忙殺されていた頃には絶対に得られなかったものだ」
「し、しかし……退屈でしょう? ただ自給自足で働くだけの日々と言うのは……」
「娯楽がない? 日々変化を続けるこの島は、それ自体が巨大なエンターテインメントだ。毎日生活を続ける中で、木の成長、鳥の繁殖、海のうねり……様々な変容が私に刺激をもたらす。この楽しさに比べれば、都会の娯楽など何でもないね」
「病気や怪我をしたらどうするんです! どこにも助けてくれる人なんていないじゃないですか!」
必死の説得にも社長はどこ吹く風だった。
「野生生物は、病気になったら死ぬだけだ。私だってそれに倣おう。ついでに言うなら、美食と美酒で無意味に肥えていたあの頃に比べたら今の方が遥かに健康的な生活を送っている自覚はあるよ」
副社長たちは一斉に黙りこんで自分たちのでっぷりと脂肪を纏った腹部と、社長の野生で鍛えられた体とを見比べる。
「それに、君たちの身なりを見ればわかる。私がいなくてもちゃんと会社は回っているのだろう? なにせ万が一に備えそうなるように考えてシステムを作ったからな。だったら帰る必要なんて微塵もありはしない。元々会社にかまけて家族を作る時間もなかったほどだ。誰に迷惑かけることもない。このまま私はこの誰も知らない島で穏やかな余生を送るのさ。そう、人々の機嫌を窺い、人々に命令を下し、そして人々に感謝されたり蔑まれたりするような生活には二度と戻らない」
「…………」
副社長たちはいっそ「社長は狂っている」ということにして無理矢理ボートに詰め込んで帰ろうかと思った。しかし、彼の言っていることはことごとくまぎれもない事実であり……それだけに反論は不可能だった。
結局、迎えに来た彼らはすごすごとボートに乗り、引き返す他なかったのだった。