私が落ちた日 1
その日は朝からやけに耳鳴りが酷かった。少し収まったかと思えば、また耳鳴りがやってくる。
うんざりしながらも、どうにか午前の授業をやり過ごす。あんまり頭の中には入ってないから、体調が戻ったら復習しないと来週の小テストはヤバいな。
「絵里、お昼はー?」
「お弁当サボったから今日は購買」
「分かった。いってらっしゃーい」
「先に食べてて良いからね」
鞄からお弁当を取り出す友人へ軽く手を振って、私は教室を出る。余り調子は良くないし、今日は軽めにしておこうかな。購買のパンのメニューを思い浮かべながら廊下を歩く。
「……ッ……ぅ……」
耳鳴りが強くなる。階段を一歩降りるごとに酷くなるような気がしてしまう。壁に手をつきながらゆっくりと下り、
「……ぁ」
ぐらり、と目眩に襲われた。思わず目を閉じ、最後の一段へ脚を出す。
けれど。ある筈の地面は、其処になく。
僅かに遠い距離に足がつき、たたらを踏んで目を開く。
「――えっ?」
視界に入ったのは、校内ではなく大自然だった。
なんだこれ。何がどうしてこうなった。
呆然としながら周囲を見回す。校内どころか、日本ですら無さそうな風景。一体此処は何処なんだ。
暖かな日差しは燦々と降り注ぎ、そよそよと風は吹き渡る。
深緑の香りは爽やかで、鳥の声は耳心地よく響いている。
こんなにも長閑な光景に、こんなにも恐怖を覚える日が来るとは、思ってもみなかった。
何も出来ず立ち尽くしていると、不意に強い風が吹いた。
突風に身を固くしてやり過ごす。ようやく通り過ぎ、ほっと息を吐いて何気なしに空を仰ぎ……絶句した。
遥か上空、鮮やかな青空の中に、悠々と飛ぶ影がひとつ。
――其処に、竜が居た。
……ああ、成る程、今の風はきっとあの竜の所為だ。
混乱する頭の中、妙に冷静にそんな事を思いつく。その考えは、何故かストンと私の中に収まった。そんなこと有り得ないのに。有り得ない事なのに、そう考えるしか仕方ない。
(異世界、というやつ、なんだろうか)
ゲームや漫画や小説や、色々と物語に語られるような場所に、私は今こうして立っているということなのだろうか。
普段見るよりも鮮やかな、抜けるような青い空。
白い雲。
遠ざかる翼竜。
似ているけれど違う樹々。
なんて長閑で、美しくて――苦しくて、悲しいのだろう。
(この異常を、誰かの所為にも、出来ないなんて)
この日、私は久方ぶりに、声を上げて泣いた。
このまま此処に居ても埒が明かない。進まなければ。
思い切り泣いた所為だろうか、気持ちに区切りがついたようだ。
今は明るいが、暗くなる前に人の居る場所なり休める場所なり探さないとヤバい。
袖で顔を拭って、歩き出した。
方角もよくわからないし、とりあえず先程あの竜が飛んでいった方向へと向かう。
そういえば昼食もまだだ。どうせこんな事になるのなら、せめて食事の後だったら良かったのに。
携帯電話も教室の鞄の中、手に持っていた筈の財布もどうやら無い模様。何か無いか、とポケットを探る。あったのは、ハンカチと飴玉三つ。なんか微妙、という評価と共に貰った塩レモン味。
塩分を取れるものが手元にあったのは僥倖かもしれない。ひとつ口に含んで、足を速めた。
時折足を休めながらもひたすらに歩く。やがて私の耳はある音を拾った。
(……川だ!!)
必死にその音を頼りに道を行く。喉はすっかりカラカラだ。身体が水を求めている。
だが見付けた川は、崖を下りないと辿りつけなかった。思わず膝を折りそうになる気持ちを必死に振り払い、下りやすい場所を探そうと下流に向かい川沿いを行くことにした。十分程歩いただろうか、傾斜が緩やかで木の根や蔦、岩など足場や捕まりやすそうな物が多い場所を見付けた。
滑り落ちて怪我でもしたら進めなくなってしまう。野垂れ死になど御免だ。逸る気持ちを抑え、出来る限り慎重に傾斜を降りる。なんとか下まで辿り着き、知らずに詰めていた息を吐いた。
……よく生水は飲むなとか色々言うよなぁ。
海外旅行で水が合わないと本当つらい、なんて話も聞く。だがサバイバル状態の今、そんなことを気にしている余裕なんかない。どうか腹を壊しませんように、と祈ったのは、たらふく水を飲んでからだった。
もう一度傾斜を上るのは面倒臭いが、このまま川に沿って歩いても良いだろうか。
周囲を見渡す。食べられそうなものもついでにないかと思ったが、そこまで都合良くはいかないか。
『また』
『毛色違いが』
『やってきたものだね』
嗄れた声がした。耳の真横で。
反射的に手で抑え、振り向く。もちろん其処には何も居ない。だが、よく見れば木陰に影があった。
影、としか言えない何かが。
『お嬢ちゃん』
『こんな所でどうしたんだい』
ぼんやりした塊は時折ゆらりと揺れながら私へ問いかけた。離れているのに声は耳元で聞こえて、その度に背筋がぞくぞくとする。鳥肌立つ二の腕を軽くさすりながら、その声へ答えた。
「……気付いたら、此処に居たんです」
『そうかい』
『道理で珍しい匂いがする』
「あの、近くに村とかってありませんか? 無いなら今晩休めるような場所とか、知っていたら教えていただきたいんですが」
『ああ、あるとも』
『この川をそのまま進み、爪跡の岩が見えたら川を渡り、崖を登りなさい』
『川を背に真っ直ぐ進めば、道に出る』
『どちらへ進むべきか、君が決めなさい』
「岩が見えたら川を渡り、川を背に歩く……わかりました。有難うございます」
『ああ、良いとも』
『それで君は』
『何をくれるんだい?』
「え……?」
『君の望みに答えたのだから』
『君はそれに対価を差し出さねばならない』
『さぁ君は』
『何をくれるんだい?』
ぼやけた影が、段々と濃くなっていく。ざわりざわり、と影が揺れる。
――何でもいい、早く何かを。
咄嗟にポケットにあった飴をひとつ掴んで放り投げる。小さな飴は影の中へと消えていった。
『……おやおや』
『これはなんとも』
『ふふ、美味しいものをくれるのだねぇ』
どうやらお気に召していただけたらしい。濃くなった影はまたぼんやりとしたものへと戻っていた。
『稀人のお嬢ちゃん』
『君の行く末に幸あらんことを』
ゆらりゆらりと揺れる影は、気がつけばその場から姿を消していた。