蜘蛛との邂逅
これ程までに緊張したのは、多分高校受験の合否発表の時以来ではないだろうか。いや、それ以上かもしれない。
朝起きて、着替えて、寝る前に用意していた水差しと洗面器で顔を洗い、使った水を畑にまこうと寝室を出た私は
「ッぃ……!?」
叫ぶ事すら満足にできず硬直した。
部屋の中、外へと通じる扉の前。その床に鎮座まします、巨大蜘蛛。
緑と黄色と黒の三色をベースにした縞模様は警戒色ですかという程に目に鮮やかだ。お陰で寝ぼけ眼もしゃっきりである。嬉しくない。
影絵でカニを作った事はあるだろうか? 分かるならばちょっとやってみて欲しい。その手が男性であろうとも、それより尚も一回りは大きいだろうと言えば私の衝撃を理解していただけるのではないだろうか。
タランチュラ、という名詞を思い出す。あれは毒蜘蛛だったよな……これも、か?
どうしよう、どうしたらいいのかサッパリ分からない。取りあえず、持っていた水入り洗面器はそっと机の上に置いた。
別にファンタジーな世界だからといって物語にあるみたいに『森にゴブリンが住み着いた、退治だ!』とか『ダンジョンから魔物が!』とか、そんな話はこの辺りで聞いたことはない。そんな脅威がゴロゴロ転がっていることはない。何故なら定期的に国主導で領主お抱えの騎士や傭兵たちが見回り兼討伐を行っているから。
相手だって何度もやられたら何処までなら進めるのか、何処ならば安全なのかは覚える。なので今のところは上手いこと住み分けが出来ている。
故に日常の脅威なんて、身近な危険生物と病くらいのものなのだ。ちょっと危険生物のスケールが違うだけで、現代日本とそう変わらない。
そうだ、そう変わらない。だから何か対処法だって思いつく筈だ。そうだとも。そうに違いない。
何も思いつかないけどな!
……お気づきだろうが、私は絶賛混乱中である。
逃げ出したいが逃げ道は塞がれているし、下手に動いて蜘蛛を刺激して向かって来られても怖い。そうなったら冗談抜きに泣く、絶対泣く。
窓から出る? いや、そうなったら今度は戻るのが怖くなる。入ろうとしたら窓の真上に、とか窓枠に手をかけようとしたら其処に、とか恐ろしすぎる。
村長さんを呼んでくるか? でも呼んできて窓から入ってもらうのは流石に申し訳ない。なら適当に誰かを……いや、朝は皆それぞれに忙しいだろう。
腹を括って自分で扉の鍵を開け、外へ出す。そう決心したところで蜘蛛が動いた。
息を呑み、一挙一動も見逃すまいと睨みつけていると、蜘蛛はゆっくりと脚を動かし方向を変え――扉に、張り付いた。
何故! わざわざ! 其処に!
なんだ、こちらの考えを見透かしてでもいるのか。人の決心を嘲笑っているのか。出て行くつもりはないという意思表示のつもりか。何なんだ貴様。
そのまま凝視していると、蜘蛛は閂の端まで辿り着き、吐き出した糸を其処へグルグルと巻きつけだした。一体何をやっているのだろうか、と訝しんでいると、やがて蜘蛛は床へと降り立ち、動き出した。
「お、おぉ……」
鋳物で出来た閂だ、それなりに重さがある。だというのに蜘蛛は、ゆっくりと、だが確実に閂を抜こうとしていた。何という力だ。
とうとう閂が抜けた。それを見て、蜘蛛は更に扉から離れる。まるで私に道を譲るように。扉を開けろと言うように。
唾を飲み込み、ソロソロと動いて扉を開ける。そしてまた、ソロソロと動いて元の場所へと戻る。勿論この間、蜘蛛からは片時も目を離していない。
「こ……これで、良いですか、ね?」
思わずそう尋ねかけてしまう。その声をきっかけにしたかのように、蜘蛛はそそくさと――いや、本当にそう見えたんだ――外へ出て、一度だけ振り返ってから何処かへと消えていった。
一気に脱力した私は、そのまま床へとへたり込む。朝からなんでこんなに疲れなきゃいけないんだ……。
顔を覆って、大きく溜息を吐いてから、私はのそのそと立ち上がった。
「あぁ、ミツシマジグモ? あれ見た目キモチワルイわよねぇ」
昼、一緒に刺繍をする約束をしていたテレジアに今朝の話をすると、災難だったわねと彼女は苦笑した。
ミツシマジグモ……ああ、三縞地蜘蛛、か。成る程。
「見た目はアレだけど、危険なものじゃないから安心して。賢いから、声かけたら理解するわよ」
「えっ、そんなに賢いの!?」
「何処まで分かってるかは分からないけどね。でも前に倉庫指さして『あの中に虫がいっぱい居るの』って言ったらまっしぐらに向かって行ったわよ。一週間したら綺麗になってたわ」
それは凄い。
……おや? ということは、あの蜘蛛はひょっとして私の怯えを理解していたんじゃないだろうか。
蜘蛛もまた、どうやって家から出れば良いのか考えていたのかもしれない。そして、怯えていた私が動き出す気配を察知して、自分も出て行きたいのだという意思表示の為に閂を外した……とか。
もしや出て行った時に振り返ったのは、謝罪の意味もあったのかもしれない。
「……悪いことしちゃったな」
相手がこちらの言うことを理解していたと分かると、途端に罪悪感が湧いてくる。いや、だがあれは事前知識なしに怯えるなっていうほうが無理な話だろう。
もしまた同じ個体を見つけたら謝っておこう。見分けつかないだろうけど。
「蜘蛛にそんなこと思う娘、初めて見たわ」
「私もこんなこと蜘蛛に思うのは初めてよ」
呆れた様に言うテレジアへそう返すと、彼女は吹き出すように笑いだした。
後に我が家の近くでムカデらしき虫を捕食している所に出くわした。このムカデがもし屋内に入っていたらと思うとゾッとしたので礼を言った。
以来、何かと我が家付近で見かけるようになり、その頃には他とその個体の見分けもつくようになっていたので、有名なあの蜘蛛に肖り『軍曹』と呼ぶことにした。
「軍曹、もしかして鼠捕ってくれた? ありがとう、気になってたんだ」
「…………」
「でもそれで寝室に入ってきた事チャラにはしないからね。蜘蛛避けのハーブ吊るすよ?」
「…………」
「分かってくれたようで嬉しいよ、軍曹。じゃあこれ鼠の御礼ね、小魚だけど」
「…………」
今ではすっかり親しい隣人だ。最近では軍曹の動きなどから言いたいことも朧げながら分かるようにもなってきた。因みに先程の会話で言うと、得意げな様子から一転落ち込み、小魚を渡されて大喜び、である。
「……馴染みすぎじゃない? エリー」
「でもテレジア、馴染めないより良いと思わない? ねぇ軍曹?」
「…………」
笑う私と軍曹(テレジアには分からないだろうけど)に、彼女は深い溜息を吐いていた。