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名前はまだない

 扉を叩く音が聞こえて、私は繕い物の手を止めた。


「えっちゃーん、開ーけーてぇー」


 どんどんと叩く音に混じって、何とも間延びした声で私を呼ぶ。あぁ、この声の主は。


「待って、うっちゃん。今、開けるから」


 うっちゃん。本名はウリッシュルエルフェンデルキン……あれ、ウリシャルエルフォンデルキン、いや、ウリュシリエラフェンデルキンだったっけ? 未だに正しい名前が覚えられないが、まぁいい、うっちゃんというのは時折訪ねてくる友人の一人である。

 扉を開ければ、見上げる程に背の高い人物が居た。ヒビ割れた土塊のような肌と、紫色の針葉樹のような髪を持つ彼女は勿論人ではない。


「あらぁ……うっちゃん、随分と渇いちゃったね」

「そーなのぉ。忙しくって来れなかったし、前みたいに他の人のとこ行く気にもなれなくって」

「入って。今、支度をするから」

「ありがとー、えっちゃん」


 彼女たちは少し難儀な生き物である。定期的に温かな物を摂取しないと生きられないのに、火の傍に近寄る事は出来ないのだ。余り近寄ると火が燃え移り、簡単に焼け死んでしまう。

 火山の傍、温泉の湧き出る辺りが彼女たち一族の住処だったが、人が増えた結果その場所も追いやられた者たちも多いという。中には温泉場を経営して人と共存している一族も居るそうだが。

 彼女たちは温厚な性質の上、治癒能力にも優れている為、人との共存も上手くいっているのだろう。


「少しぬるいけど、お茶」

「あー、ありがとー! ああああ、生き返るぅぅ」

「急いで熱いスープ作るからね」

「えっちゃん、あのねぇ、それなら美味しいもの持ってきたよ」

「何?」

「リンクス! まだ若いから、柔らかいよーきっと。弱めでじっくり煮込むとね、お肉がとっても柔らかくなるのだよ!」


 私の手を掴むと、うっちゃんは外へと連れ出す。其処には、あの子が、真っ黒な毛皮を持つリンクスが横たわっていた。


「この子……!?」

「まだ生きてるから、新鮮だよぉ。リンクスはね、すぐに肉が駄目になるから、他のお肉と違って熟成の手間が」

「まだ生きてるの!?」

「えっちゃん、どうしたの? これ、知り合いだった?」

「そう、……ええ、そう、知り合いなの。私、この子に助けてもらったこともあるの!!」

「えー、そっかぁ。死にかけてたから拾ってきたんだけど、うーん、えっちゃんコレどうする?」


 死にかけていた……? ということは、あの狩人に見つかり手傷を負わされたのだろうか。

 ささやかに呼吸を表す腹部。足の辺りは、毛皮の色で分かりづらいが血でじっとりと濡れている。


「うっちゃん、助けて……!」

「いいよー。何くれる?」

「……スープに、焼き立てのパンもつけるわ」

「やったぁ! えっちゃんのパン、大好き! それじゃ治そうねぇ」


 うっちゃんを非道とは言うなかれ。むしろ彼女はとても優しい。これだけの対価で、死にかけたリンクスを治そうというのだから。


 求めたならば、対価を差し出さねばならない。


 これは、人でない彼女たちの中では鉄則だ。勿論、抜け穴はある。言われる前に自ら施せば、そこに対価は発生しない。

 だが今の私のように、要求したならば見合う対価を渡さなければいけないのだ。たかがパンが見合う対価なのかは分からない、だが彼女が『見合う』としたならばそれで成立する。


「ありがとう、うっちゃん」

「えへへー。いいんだよぉ、えっちゃんは特別だもの。さぁさぁ、やってしまおうねぇ」


 リンクスに伸ばした指先から、ぼろりと土塊が落ちる。

 彼女たちの見た目は忌避感を与える。嫌そうな顔もされるし、好意的な場合は逆に痛ましそうな顔をすることもある。


 この辺りに流れてきたばかりの頃、今以上に乾いた彼女はすぐにでも風化して消えてしまいそうだった。私は彼女を見て、泥が渇いて顔についているのだと思い声をかけたのだ。

 泥がこびりついてるけれど、手拭いを貸しましょうか? と。

 しゃがれた声で、それより熱いものを頂戴、沸いたお湯でいいから、そう答える彼女へ、ルカさん宅へ持っていく途中だったスープを差し出した。あんまり熱くないけど、まだ冷えてない筈だから。

 文字通り私の手から奪い取って飲み込んだ彼女は、とても満足そうな声を漏らす。死ぬかと思った、と。

 振り返った時には、彼女のヒビ割れた顔は修復されていた。

 驚く私に、彼女は自分がどういう生き物なのかを教えてくれた。ただの初対面の人、という距離感で接する私を、彼女はとても好意的に見てくれた。


『よいこ、よいこ。エリーは良い子だねぇ。あんたがいいなぁ、あたし、あんたのくれる温かいものがいい。えっちゃん、ただのお湯でいいから、あんたからあたしに頂戴な』


 以来、村に居を構えた彼女は、時折こうして私のもとを訪れる。普段は薬師として村長へ薬を納めたり、ひどい怪我人は治癒をしたりと村の生活にすっかり馴染んでいる。


「……ありゃりゃ」

「どうしたの?」

「うーん、あのねぇ、えっちゃん。ちょっとこれ無理かも」

「えっ!?」

「身体は治りそうだけど、魂がねぇ、離れそうなんだよね。五体満足な死体が出来るだけ」

「そんな……」

「うーん。えっちゃん、あのね、えっちゃん。この子の命、この後も背負える? いっしょに暮らす? えっちゃんの人生にこのリンクスを組み込める?」

「どういうこと?」

「時間ないよーえっちゃん。どう?」

「……組み込む。私の人生に、この子を」

「ん。じゃーねぇ、名前。この子に名前をつけて」


 ほら早く早く! とうっちゃんは私を急かす。名付ける? 一体どういうことなのか。

 わからないことだらけだけど、それでこのリンクスが助かるなら。


「……葵。うっちゃん、この子の名前は、葵」

「ん。たまよ結べ、結べよたまを、縛れやたまよ、その名は『葵』」


 歌うように、うっちゃんが呟く。リンクスの眉間のあたりをグイグイと押し付けながら……何かを押し込みながら、何事か他にも歌い続けながらリンクスの身体を撫で回す。


「よぉーし、出来たぁぁ」


 やがて、彼女が手を放す。傷もなく、先程よりもしっかりと呼吸をするリンクスが其処に居た。


「起きるかなぁ、まだだろなぁ。じゃあ、中に入れてあげようねぇ」


 にこにこ笑いながら、うっちゃんがリンクスを抱き上げて部屋へ戻る。慌てて彼女の後を追った。


「うっちゃん、さっきの何?」

「んーっとねぇ、引き離れそうだった魂をね、名前で縛ったの。これはまだ名前を持ってなかったから」

「名前で縛る?」

「そーだよぉ。名付けることで存在を其処に縛るんだよ。生まれたばかりの子供に名付けるのだってね、本来はこの世界でまだ存在があやふやな子供をこの世界に縛り付ける為なんだよぉ」

「そうなんだ……」

「えっちゃんだって、そうじゃない」


 不思議そうに、彼女が言う。


「えっちゃんがこの世界に落っこちてきて、ルカがえっちゃんに『エリー』って名付けて、それをえっちゃんが受け入れたから、この世界に縛られる事になったんでしょ?」

「……え?」

「ありゃ?」

「どういう、こと?」

「だってえっちゃん、ほんとはエリーじゃないでしょ? こっちに来てからエリーになって、それからロンサムエリーって更に自分を縛ったんでしょ」

「……ねぇ、うっちゃん。あのね、もしも私がエリーって名前を拒んでいたら……元の世界に、戻れる可能性ってあったの?」

「そだねぇ、可能性はねー。でも、それより先にこの世界で不安定なままだったら、溶けるのが先だったかもねぇ」

「溶ける!?」

「形が縛られてないからねぇ、溶けちゃうかもしれないの。だから良かったねぇ、エリーになれて」


 さぁ、スープ頂戴! パンも!

 にこにこ笑ううっちゃんに急かされながら支度をする。

 床では黒いリンクス……葵がまだ眠っている。

 私はただ呆然と考え事をしている。


(ルカさんが最初から、私が帰る道を潰していた)

(いえ、ルカさんが最初から私を救っていた?)


 ぐるぐる頭の中を考え事が渦巻いて、それでも手元は手順を間違わずにスープを作り続けた。

 出来上がったスープは可もなく不可もなしな味だったが、うっちゃんは喜んでくれたから良しとしよう。

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