誘蛾灯
明るい夜だった。
もう寝るかと灯りを消して、それでも部屋が暗くならなくて、ようやくその事実に気がついた。天窓から差し込む光の、何と白々したことよ。
はて、こんなに明るい程に昼から空は晴れていただろうか。気になって、つい扉に手をかけた。
外に出てみれば、ああ成る程、中天にぽっかりと大きな月が浮いていた。
(……なんとまぁ、大きな月だ)
のっぺりとしたその明りに目を見張る。魅入られる様に眺めていたら、自然と足が動いてしまった。
夜中の散歩は日本と違って危険とは思う。だがこんなに今夜は明るいのだ、少しくらいは良いのではないだろうか。だってこんなに、月が。
まるで言い訳をするかのように(誰に、何に?)私はふらふらと(頭に靄でもかかったみたい)夜の中を歩き出した。
月が明るすぎる所為か、星がまったく見えない。いつもならガラスの欠片を散りばめたように夜暗に輝いているというのに。一際輝く星すら見えず、あの大きな月しか見えない。
そんな月を見上げながら、ただ歩く。
足元すら見ないのは危険では、と自分でも思う。思うのだが、目はあの大きな月から離れない。離せない。いつの間にか、村からも出てしまった。
けれど、足は止まらない。ただ月を見上げながら歩く。
おかしい。分かっている。月を見上げながら、歩く。
月を見上げながら(目が離せない)ただ歩く(止まれない)
歩く。歩く。月を見上げて、月だけを見て、見て、おかしいのに、見上げて、歩く。
(ああ、けれど、違うのだ、一番、それよりももっと、おかしいことが、ある筈なのに)
なのに、その違和感の原因が、頭の片隅にすら引っかかってくれないのだ。それこそ靄がかって、覆い隠すかのように。
ただ私はふらふらと、月を見上げて、村すら抜けて、彷徨う。
歩く。私は今どこを歩いているのだろう。見えるのは月だけで、それ以外はもう何も見えていなくて。
大きな、のっぺりとした月が、ぽっかりと浮かんだ月が、私を呼ぶ。
歩き、歩き、歩き。
(……ああ、そうだ――)
不意に袖口を掴まれ、腕を引かれる。反射的に引っ張られた方へ振り返り
(何がおかしいのかって)
ゼニアオイの花のような、鮮やかな紫が目に飛び込んだ。暗い夜道に沈むような黒い毛並みと、紫に輝く美しい瞳。
(この世界に月なんか、無いんだった)
大きな猫が、私を引き止め、静かに見つめていた。
数秒程見つめ合った後、私はゆっくりと空へと振り返った。其処にはもう月は無く、満天の星空と一際輝く大きな星、この世界の夜空を統べる「星の女王」が煌々と輝くばかりであった。
気付けば見知らぬ場所にいた私を、猫は案内するように先導した。
一体どうしたというのか、私は随分と遠くまで来ていたようだ。実感よりも尚遠くへ。結局、我が家へ辿り着いた頃には空は白み始めていた。長い散歩もあったものだ。
扉を開けると、猫は私の横をすり抜けて我が物顔で家内へと入り込んだ。私もすっかりと眠くなっていたので、特に気にせず寝室を開けベッドへと倒れこむ。猫まで一緒にベッドへ乗ってきたのは想定外だったが、咎めるのも面倒とばかりに私は布団へ潜り込んだ。
起きたらシーツ洗わないとまたルトロさんに『リンクス臭い』と逃げられるな、と思いながら、私は意識を飛ばし、泥のように眠りこけた。
「それはまた、貴重な体験をしたのだねぇ」
朝寝坊をして起きたら、もう猫は居なかった。御礼をし忘れたが、猫への御礼って肉でもあげたら良いのだろうか。また会う機会があったら何かしてあげよう。
早速シーツ他の洗濯をしていたら、ファラー翁が散歩をしているのが見えた。この村一番の長老ならば何か知っているんじゃないかと声をかけ、昨夜の出来事を語れば、翁はにこにこと笑いながらそう相槌を打った。
「こんな話があってねぇ。もうずっとずっと前の話だ」
どっこいしょ、と呟きながら手近な石に腰掛けて、翁はとある昔話を語ってくれた。
――ある夜の話だ。娘が無事に子を産んだと祝い酒でしこたま酔った男が自宅へ帰る道すがら、同じようにふらふら歩く男を見た。酔っぱらいの親父さん、自分の事を棚に上げて、アイツぁ随分酔っ払って危ねぇなぁ、なんて思ったそうだ。何せ、目の前じゃなくって真上、天を見上げたまんまでふらふらと歩いて行くんだから。
おい兄ちゃん、大丈夫か? そう声を掛けても聞こえちゃいないのか、反応がない。まぁこっちも酔っ払いだ、無視されたのが気に入らなくて、乱暴に腕をひっつかんで、人が心配して声掛けてやってんのに無視するたぁどういうことだ! と喧嘩腰に叫んだそうだ。そこでようやく振り返った兄ちゃんの顔を見て、親父さんは悲鳴を上げた。なんとその御仁は、死にかけてるのかってくらい、青白い顔をしていたんだ。
親父さんと目が合った途端、糸が切れた人形のようにその兄ちゃんは地面にへたり込んじまった。すっかり酔いが覚めちまった親父さんが事情を聞くと、息も絶え絶えに彼は語った。
空に大きな灯りが見えて、そこから目が離せなくなって、ずっと灯りを追いかけていたんだ。俺は一体、何処へ行くつもりだったんだろう、何処へ連れて行かれるつもりだったんだろう、と。
その彼は、一晩じゃ辿り着けない程に離れた村の住人だった。その夜は親父さんの家に泊まって帰っていったそうだが、後日その彼から手紙が届いた。
『同じように空を見上げてふらふらと歩き去り、そのまま姿を消してどんなに探しても見つからなかったという話を聞いた。皆、異界に誘われたのだと伝えられている。貴方へ御礼に行きたいが、以来、日が暮れかけると自宅の外へ居るのが恐ろしくなってしまった。不義理で申し訳ない』
親父さんもその手紙を貰って以降、夜遅くまで外で飲むのはやめたそうだ。いつ彼が見た灯りを見てしまうか分からないから、とね。
「エリーや」
色が抜けて、もう殆ど見えてないのではと言われる目で、翁がじっと私を見つめる。
「大猫に引き止められて、残念かい?」
もしかしたら、あのまま月に誘われていたら、異界に――私の居た世界に通じていたかもしれない?
けれど可能性でしか無いし、まったく別の異界かもしれないし、この世界の別の場所に連れて行かれただけかもしれないし、案外あのまま何かの怪物が待ち構えていてぱっくり食べられる、なんてオチかもしれない。
仮に、私の世界へ通じていた可能性があったとしても。
「引き止めてもらえて、良かったです」
「……そうかい」
保証がないなら、そんな博打は御免である。もう訳の分からない場所に放り出されるのは嫌だ。
帰りたくないわけじゃない。けれど、僅かな可能性にかけるほどの情熱はない。
「私、これでも結構、不幸せじゃないと思ってますから」
ファラー翁は、そうかい、とだけ呟いて、優しい笑みで頭を撫でてくれた。
16/4/12 一部修正。花の名前間違えました。




