記憶の欠片
それは些細なことが切欠だった。
摘んできたハーブでサラダを作ろうとしていた時の事。ふと妹がサラダ好きだった事を思い出した。小さい頃は生野菜が嫌いで、食べられない野菜だって多かったのに、いつの間にかサラダが大好きになっていた妹。
あれやこれと母は工夫して料理して……そうだ、ドレッシング。妹がサラダを食べるようになったのは、母の手作りドレッシングが最初だった。
「……、あれ?」
どんな、ドレッシングだったっけ? 妹が一番好きな……、いや、そういえばあの子は色んなドレッシングをお小遣いで買ってきては試していた。事あるごとにランキングは入れ替わっていたから、今は何が一番好きかは分からないか。
母も妹がドレッシング次第でサラダも食べられると分かってからは、色んなドレッシングを用意してくれた。手作りドレッシングのレシピもどんどん増えていったけど、ここじゃ香辛料にも限りがある。再現出来るのは少ないのが残念だ。せめてマヨネーズくらい作れたら良いのに。
自分でもよく分からない、けれど小さな違和感を無かったことにして私はサラダ作りを再開する。今日は、植物性オイルと塩漬けにした柑橘のみじん切りで和えてみた。一枚抓んで味見、柑橘の風味が中々良い感じだ。塩味の加減も丁度良い。
こういう味、ルカさんは好みだろうか? 以前テレジアは絶賛してくれたけど。収穫の時期を過ぎていたから自分では今すぐに作れないと嘆くテレジアに後日塩漬けをお裾分けしたら、感激して抱きついてきた程だ。あの子は本当に可愛い。
(ああ、でも。彼女は酸っぱいもの苦手だったから、みじん切りは少なめにして塩で味調節したほうが好みかもしれないな)
何気なしに元クラスメイトを、私と最後に会った、私が最後に別れた友人を思い出――
「……え」
思い、出せなかった。
絵里、と私を呼ぶ声を覚えている。からりと笑う、清々しい子だったことを覚えている。わりとミーハーで、校内の誰それが格好良いとかアイドルが俳優がイケメンだとか、そんな事をよく話してきては私がいまいち分からない顔をするのを呆れたり拗ねたりする子だったことを覚えている。
なのに、それなのに。
覚えているのは印象だけで、顔も、名前も、思い出せなかった。
持っていた木製ボウルは気付けば私の手元から離れていた。机の上で持っていてよかった、どうやら落としたけれど中身を零すことはなかったようだ。
動揺で手が震えている。落ち着け、落ち着けなくても兎に角落ち着け。
震える息を必死になだめ、ゆっくりと深呼吸をする。力が入らなくなりそうな脚に鞭打って、なんとか椅子に腰掛ける。
他のクラスメイト。思い出せない。担任の先生。思い出せない。学校名。思い出せない。部活。思い出せない、そもそも入っていたか否かも分からない。通学路。朧げだけど覚えてる。駅名。思い出せない。でも秋になると駐輪場のフェンスに絡まった蔦に、鮮やかな色の烏瓜が生っていたのは思い出せる。
住んでいたアパート。覚えている、コーポ高嶺。管理人さん。覚えてる、高嶺のおじさんおばさん。たまに親戚の畑を借りてやってる家庭菜園の野菜をおすそ分けしてくれていた。
お母さん。覚えている。優しくて少し過保護で、でも時々とんでもなく放任主義な一面も見せる、料理の上手なお母さん。
妹。覚えてる。彩夏、かわいい彩。明るくて活発で、表情がコロコロ変わって、同級生には姉御肌っぽく振る舞ってる癖に私と母には途端に甘えたになる可愛い妹。
お父さん。……お父さん。
「……、ごめんね、お父さん」
ずっと忘れないようにって思ってたのに。何度も忘れないように思い出していたのに。
今はもう、幼い頃に見たあの大きな背中しか、もう思い出せない。顔も声も、なんにも。
このまま過ごせば、やがて私は全て忘れてしまうんだろうか。元居た世界の何もかも。そしてやがて馴染むのだろうか、まるでさも最初からこの世界で生まれたのだという顔をして。そういえば私って余所の世界から来たの、もうすっかり忘れてしまったけれど、そんな事を言うようになるのだろうか。
馴染むのは良いことだ。でも。
「やだ……そんなの、いやだ……!!」
怖い、そんなのは嫌。私の今までを形作ったものを消さないで。
自分の身体を抱き、ひとり震えながら啜り泣いた。
どうにか震えが収まり泣き止んだ頃にはサラダはすっかり萎びていて、思わず私は小さく笑う。サラダの前で啜り泣く女、なんだか妙な絵面だ。
顔を拭ってサラダを食べる。味見の時よりは劣るが、それでも結構美味しいのが悔しい。
完食はしたが何だか虚しい。当分サラダは作らないことにしようと心に決めた。
「……記憶が消えてる?」
翌日、川魚の香草焼きで作ったサンドイッチを手土産にルカさんを尋ねた。流石に相談して解決する事だとは思ってはいないが、それでもこの怯えた気持ちを一人で抱え込んで飲み込める程に私は強くない。
「消えているのか、思い出せないだけなのか、までは私も分からないんだけど……」
今日はまだ動揺は抑えられているようで、昨日思い至った流れを言葉を選びながら、取り乱すことなく説明できた。それでも落ち着いて説明しているのは表面だけだったようで、両手で握りしめていたカップの水面は小刻みに波打っている。
ルカさんはそれに気付いたらしい、震える私の手を取り、そっとカップを机の上に置かせた。
「……光画師の所に行ってみるか?」
唐突に出てきた聴き覚えの無い言葉に目を瞬かせる。光画師? 首を傾げる私へ、ルカさんはひとつうなずいた。
「光画師っていうのは、記憶を石英に焼き付けて保存するのを生業とした奴らなんだ。記憶の場面を切り取って焼き付け、その石英を光を通して壁に映せば、精巧な絵が浮かび上がるようになる。どちらかと言えば故人を偲ぶ場合や犯罪の証拠の為っていうのが多いんだが……本人が曖昧にしか思い出せない物でも、記憶がちゃんと残っていれば精巧な絵として焼き付けられる」
つまり、記憶を写真に出来るようなものだろうか。すごいな、流石ファンタジー世界。
「記憶の扱いに関しては一番長けている連中だから、相談すれば何か分かる事もあるかもしれない。少々値段は張るが、エリーが一番忘れたくない絵を焼き付けて貰えば少しは安心するだろう?」
「……ルカさん、あのね」
「ああ、どうした?」
「思い出せないのが怖いから、せめて誰かに、ルカさんに話して、あわよくば慰めて甘やかして貰えれば気分もマシになるかなって、思ってて」
「……、あれ、俺、対応間違えたか?」
「ううん、違うの。まさかこんなあっさり解決の糸口になりそうなこと教えてもらえると思ってなくて、今すごく驚いているというか惚れなおしているというか」
「惚っ……!?」
「ルカさんに話して良かったぁ……ルトロさんに聞くのが一番かと思ってたけど、やっぱりルカさんも物知りだねぇ」
「待ったエリー、そこで何であいつの名前を出すんだ」
「ルトロさんは私の先生だから。あとはルトロさん人じゃないし、不可思議な現象には不可思議な者のほうが知っている気がするから」
私の答えは納得出来るものだったのだろう。それでもどこか釈然としないというか、どこか拗ねたような顔つきをしている。恐らく『ルトロさんが一番』というところに引っかかっているんだろう。
私より結構年上だと思うけど、こういう所は可愛いと思うのは惚れた欲目なんだろうか。
「それでルカさん、その光画師さんっていうのはどちらに行けば会えるんですか?」
「ん、ああ……この近辺だったら隣村へ行く途中の森の中に一人居る。手土産片手に行ってみるか」
「手土産、ですか。手土産になるもの、何かあったかな……」
「いや、それは大丈夫だ。取りあえずエリーの美味い飯を食べてからだな」
そう行ってルカさんはいそいそと籠に入ったサンドイッチに手を伸ばす。首を傾げながらも、私はお茶を入れ直す為に席を立った。
「出掛けてなければ良いんだけどねー」
「そうだねぇ、テレジア」
かぽかぽと足音を立てながら、馬上でのんびりと会話を交わす。ちなみに私は一人で乗れないので、ルカさんと二人乗りである。
ルカさんの言う手土産とはテレジアの事だった。事情を話し、光画師の元へこれから向かうと伝えればテレジアは『私も行く!!』と急いで身支度して家を出てきた。
こっそり教えてくれたルカさん曰く、その光画師さんはテレジアに惚れているらしい。だが根っからの遊び人らしく、しょっちゅう他の女性も口説いているそうだ。テレジアが居る時には他の女性には目もくれないそうだが、テレジア本人は気付いていない……というより彼が口説きまくっている姿を何度も目撃している為、甘い言葉を信用していない。
『あの人、私がガンガン言い返すから苦手みたいなの。その割に私にも口説き文句言おうとするのよ、女の人は口説くのが礼儀って思ってるのかしら。あの人がもし変なこと言ってきても私が守ってあげるからね、エリー!』
『ありがとう、でもルカさんも居るから流石にそこまで変なことは……』
『アレは旦那の前でも甘い言葉を吐く部類よ、油断しちゃ駄目』
村の祭りや葬儀、その他買い物など。こちらの村や隣村に光画師さんが来る事もあるらしいが、余程でないとテレジア本人が光画師さんの元へやってくる事はない。たまに村に来た時に会話する程度の付き合いでの片思いをかれこれ五年以上続けているそうだ。すごいな、その人。でもそれはそれで寂しいから可愛い女性を見かけてはナンパしたり、向こうからのアピールをあっさり受けて遊んだりしている、と。
……純情なのか軽薄なのか分からない御仁である。
そんな光画師さんとルカさんはルトロさんを通じて知り合った友人らしい。釣り仲間だそうだ。
「……ああ、見えてきたぞ。あの家だ」
やがて木立の向こうに、こじんまりとした家が見えてきた。在宅しているだろうか。
ルカさんに馬から降ろしてもらう。二頭を繋いでもらっている間に、テレジアが戸を大きく叩いた。
「すいませーん」
声を掛けるが反応はない。その割に、なんとなくだが、家の中に誰かが居るような気配はするのだけれど……居留守? 顔を見合わせてから、もう一度声を掛けた。
「すみませーん!」
「クーティー先生! 居ないんですかぁ!?」
「……先生?」
「師がつく人は大体先生って呼ばれるわ、私この人を敬うつもりないけど」
「テレジアらしいね」
がたん!と大きな物音と、きゃ、という女性の小さい声が聞こえ、次いで勢い良く扉が開く。
開いた扉の向こうには、芦毛の色男が目をひん剥いて立っていた。乱れた、というかほぼ上半身裸の男はテレジアを認めた瞬間、開けた勢いと同じくして閉める。
「ちょっと!?」
「てててててテレジアちゃん!? なんで何でどうして此処に!?」
「どうしてって、仕事お願いしに来たに決まってるでしょ!」
「……え。仕事?」
「おい、クゥ、取り込み中なら出直すか?」
「は? あれ、えっと、その声……ルカ?」
「遊びに来たわけじゃない、真面目な相談に来たんだ。俺とテレジアはその付き添いだ」
「……ちょっとだけ待ってて」
中から女の人の甘えたような声がする。だがそれもすぐに言い争い、というか彼女が一方的に怒るような声に変わる。しばらくすると、やや派手な美人さんが不機嫌そうに家を出てきた。彼女は私たちを憎々しげに睨みつけ、
「……間の悪い人たちねっ!」
と悪態を吐いた。確かにね、と思う私は肩を竦め、ルカさんは苦笑する。そしてテレジアはと言えば。
「うわぁ、遊び相手とはいえ趣味わるぅい……」
テレジアさん、ああいうお姉さん相手に煽る言葉はやめたほうがいいとエリーさんは思いますよ。
案の定それを聞き咎めた彼女は目を三角にしてテレジアへ詰め寄った。けれど一歩も引かずにテレジアは言い返す。
「光画師の仕事、理解してるの? どれだけ特殊で、他人の目を入れられない仕事だと思ってるの? 仕事の客が来たらベッドの中に居たってさっさと離れる位の気概持って遊びなさいよ。その方が気に入って貰えるわよ」
お姉さんが振り上げた手は、慌てて出てきた光画師さんが止めた。但しその目はテレジアに釘付けだ。もうでれっでれである。
「テレジアちゃん格好良い……っ!! そんなに俺の仕事のこと理解してくれてるなんて……!」
「ちょっとクーティー様!?」
「あーうん、そういうわけで仕事の邪魔になる娘は悪いけど遊び相手としても御免だわ。間が悪いのは、仕事が入った時に居た君の方だよ。それじゃ気をつけて帰ってね」
振り上げた手を強引に降ろさせ、彼女の両肩を掴むとくるりと方向転換させる。そのまま背中を押してテレジアから距離を取らせた。
「三人は家の中に入っててー」
「勝手にお茶貰うぞ」
「俺の分もよろしくー」
なるほど、あれが遊び人という奴か。思った以上に軽薄だし、思った以上にテレジアに惚れていた。なんであれで他の娘に手を出せるんだろう、不思議。
「ルカさん」
「どうした?」
「あんなのに私のテレジアはあげられませんよ」
「待ってエリー、貰われるつもりもないわよ!?」
「一番の難関ができちまったなぁ……」
どうやって言いくるめてきたのか知らないが、ややあって家主である光画師さんが戻ってきた。若干片頬が赤い気がする。叩かれたのだろうか。
だが当の本人は『家の中にテレジアちゃんが居る……』と脂下がった顔をしているのだから呆れたものである。
「……テレジア、すごく不安なんだけど」
「奇遇ね、エリー。私もだわ」
「いや、この若さで一本立ちした『両腕』だ。実力はある……んだが、エリーに触らせたくねぇなぁ……」
「分かるわー、それ」
「さっきから三人して酷すぎじゃない? 泣いちゃうよ? 俺」
「ルカさん、『両腕』って何?」
「うん、無視しないで可愛いお嬢さん。君見た目のわりに結構イイ性格してるね」
がっくりと肩を落としながらも、とりあえず座って、と光画師さんは席を勧めた。私とテレジアが隣り合い、その向かいに光画師さんが座る。ポットとカップをお盆に載せたルカさんが戻ってきて、その隣に腰掛けた。
「まずは自己紹介させてね。俺はクーティー、両腕の光画師です」
「エリーです。この一年くらい前から、二人の居る村でお世話になってます」
「ああ、道理で見たことのないお嬢さんなわけだ」
「先程の両腕、というのは?」
「うーん……詳しい説明は女の子には耳に痛い話になるから、光画師には片腕と両腕と呼ばれる二種類が居て、両腕の方が上って思っておいて」
「……、ルカさん、詳しく聞かない方がいい?」
「クゥ、多分この二人ならそこまで嫌がらないから話して平気だ」
「私も知りたい。片腕両腕って言い方も初めて聞いたし」
僅かに身を乗り出すテレジアを困った顔で見、それから少しばかりルカさんを恨めしそうに見た後、溜息と共に光画師さんが語った。
「他人の頭を覗くのに手を媒介にするんだけどね、これ普通の手じゃないの。実際には無い手でね、それを普通の手みたいに作ってるの」
「義手のようなもの、ですか?」
「うーん、似てるけど違うかなぁ。義手って物でしょ? でもこの腕は存在してないの、触れるけど本来そこには何もないの」
「……ということは、片腕両腕というのはその媒介に出来る腕が片腕だけか両腕ともか、という事ですか? 両腕とも媒介とする腕に出来るだけの能力がある人、という」
「うん。あれ、俺が説明するより分かりやすい気がする……? エリーちゃん凄い」
「世辞は置いといて、どうしてその話が耳に痛いこと、に……」
「……気付いたの? やっぱりエリーちゃん凄いね」
にこりと笑う光画師さんに、私は少しだけ眉を寄せる。そんな私を見て、テレジアは私の服をくいくいと引っ張った。
「え、分かんないんだけど。ね、エリー?」
「テレジア、あのね? 実際には腕が無いんだって」
「うん」
「ところでテレジア、光画師さんってどれくらい居るもの?」
「へ? いや分かんないよ」
「それじゃもう一つ質問。……腕がない状態で産まれてくる子って、そんなに多いものだと思う?」
「……え?」
「その腕がない状態で産まれた子で光画師さんになれるだけの才能を持った子って、どれだけ居ると思う?」
「…………つまり」
「腕のない子供がいずれ光画師になるのではないなら。光画師になるためには、腕を切り落とさないといけない。片腕か、或いは両腕とも」
正解、と笑いながら、彼は本当は無い両手で拍手した。
「勿論ちゃんと実力をつけてからだけどね? 無いものを作り出す術を覚えてから切り落とす。……本当は切り落とさなくたって作ろうと思えば作れるんだよ、腕に代わる物なんか。でもね、法で決まってるの。他人の記憶を覗く代償に自分で自分の腕を切り落とせ、って。その覚悟もないのに他人の全てを覗く仕事は任せられないということなんだ」
「あぁ、それは……確かに痛い話だわ」
「……え? それだけ?」
「自分で切り落とすというのはどうやって? 鉈とか、利き手と反対で扱うのって上手く出来無さそうですけど……切り口とか大丈夫でしたか?」
「こっちは逆に突っ込んできたよ、ちょっとルカ、何なのこの子たち」
「良い子らだろう?」
「最高だわ。エリーちゃんの質問にお答え、肘から下を切り落とすんだけどね、まっすぐ真下に切れ味の良い刃物が落ちるように出来る道具があるわけよ。それを使うの」
「ああ、ギロチン」
「……なにそれ?」
「ずっと昔に使われていた、そういう処刑用の道具です。切り落とすのは腕じゃなくて首ですけど」
「なにそれ怖い!」
「本当は痛みなく処刑出来るように発明されたようですが、見せしめ的な意味合いが強くなったとか何とか……」
「俺の話よりよっぽど痛くて怖い話飛び出してきちゃったよ!? 怖いからもう止めて!?」
鳥肌もんだよ、もう……とブツブツ呟き、今の話題を忘れようとするように頭を数回振った。
しかしまぁ、随分と軽薄そうな人ではあるが、仕事に関しては信用出来そうだ。自分で自分の腕を切り落とすなんて、正気の沙汰ではない。その覚悟を持って生業としたならば、彼は、彼らは誇りを持って仕事をしているのだろう。先程のテレジアの啖呵にでれっでれになっていたのは、彼女がその仕事を認めてくれたからだったのかもしれない。
「クーティー先生、手貸して?」
「テレジアちゃん?」
「手。貸してください」
「……はい、どうぞ?」
テレジアのお願いに、不思議そうに首を傾げつつ、彼は両手を差し出した。差し出された手を、彼女は大事な物を受け取るように握りしめた。ビクッ! と光画師さんの肩が跳ねる。
その様子に頓着せず、テレジアは矯めつ眇めつその手を弄ぶ。光画師さんはと言えば、顔を真っ赤にして硬直している。……あんなお姉さんを引っ掛けるような人なのに、テレジア相手だとこんな純情少年みたいな反応するのが不思議である。本当、なんで他の子に手出ししてんだろう、この人。
「……駄目だ、分かんない。どう見たって私と同じようにしか見えない」
「ああ、それを調べたかったのね、テレジア。いきなり手を握りしめるから何かと思った」
「うん。御免なさい、クーティー先生。私誤解してた、本当に凄い人だったのね、普段の素行は別として」
「いいいいやいや、えぇぇとあの、うん、そのお褒めに預かり光栄ですあの、ハイ!」
「落ち着けクゥ、動揺しすぎだ。というか、いい加減に本題に入ろうエリー」
ぽんぽんと光画師さんの背中を叩いて宥めながら、ルカさんが私を促す。
確かに。なんかグダグダになってきたし。頷いて、私はお茶を一口飲んでから事情を語りだした。
「少し前の事ですら、色んな事が思い出せなくなっているんです。断片は分かるんです、でも思い出せない事も多いんです」
「……具体的には?」
「例えば、三年前まで居た地元の友人の顔と名前が思い出せません。彼女の印象は覚えているのに。とても仲が良かったのに。その周辺の他の友人知人、その頃にあった出来事、すべての記憶が曖昧です。遡ろうとすればする程、思い出せない。はっきり語れるのは、祖父母の思い出と母と妹。けれどそのはっきりとした思い出すら、些細な物はこぼれ落ちているんです。妹がサラダを好きだった事は思い出せても、サラダを好きになった切欠のドレッシングを思い出せなかったり」
その地元がこの世界ではないという事のみを伏せて語れば、光画師さんは真剣な顔つきで私の目を見つめた。
「……それは、少しおかしいね。たまに記憶を落とす人はいるけれど、それとは何となく違う気がする。……覗いても、良いかな」
「はい」
「それなら、悪いけれどルカとテレジアちゃんは席を……」
「いえ。いいえ、出来れば二人には同席を。この二人にだけは、隠すべき事は何もありませんから」
「……見えた事柄に対して質問とかするけど、全部聞かれても大丈夫ってこと、かな?」
「はい」
「……、わかった。一対一以外でやるのは初めてだよ」
つい、と片手が伸びてくる。伸ばされた指先が額に触れたと思ったら、そのままずるりと頭の中へ指先が入り込んだ。何だか妙な感覚だ、背筋が少しもぞもぞとする。
視線だけ動かせば、光画師さんは顔を顰めていた。
「妬けるくらい君の中、ルカとテレジアちゃんしか居ないね」
「えぇ、でしょうね」
「……あれ? ルーさんとも知り合いなの?」
「どちら様ですって?」
「ルーさん、ルトロさん。あ、じゃあ君なのか、この前話に聞いた秘蔵っ子は」
「はぁ」
「……、ねぇ、君さ、どういう生活してきたの? 君の年齢ならもっと記憶がごちゃごちゃに多い筈なのに、まるで小さな子みたいに最近の記憶しかないんだけど。それもびっくりするくらい鮮明で強烈」
「ああ、それは」
「待った。……なんだこれ」
それっきり黙って動きを止めてしまった彼は、ややあってもう一方の手もこめかみ辺りから突き入れた。
「あの……」
「壁がある。塞き止めてるんだ。綻びがある、そこから幾つかは出てくるから思い出せる事と思い出せない事があるんだろう。……これを少し広げれば」
呟いて何やら指先を動かして、弾かれたように彼はその両手を引いた。蒼白な顔面で、怯えた目で私を見遣る。何事かを言おうとして吐き気が来たのか、両手で口元を覆って台所へと駆けだした。
「おい!? 大丈夫か!?」
慌ててルカさんが駆け寄り、その背中を擦る。口を濯いだ後、光画師さんは私を振り返り、震えた声で叫びを上げた。
「君は! 君は一体何なんだ!?」
「私は、つい三年ほど前にここへやってきた、落人です」
「……落、人……?」
「はい。だから最近の記憶は鮮明なのだと思います。子供と同じく。何を見ても新鮮なので」
「落人……あぁ、もしかして、それで……」
脂汗を浮かべていた彼は、気が抜けたように床へと座り込んでしまった。
「クゥ、お前本当に大丈夫か?」
「大丈夫だったらこんな風になってねぇって。ルカ、腰抜けた。椅子まで運んでくれ」
「何なんだよ一体……」
ルカさんの手を借りて席へと戻った彼は、冷め切ったお茶を一気に飲み干してから、私の頭の中で見たものを説明した。
「壁があったんだよ。古い記憶を塞き止めるように。でも綻びはいくつもあったんだ。その綻びを少し広げようとして指を突っ込んだら、向こう側の記憶に触れてしまって……」
「何を見たんですか?」
「分からん」
「は?」
「音の暴力というか極彩色の悪夢というか、得体の知れない何かでいっぱいだった。今まで何度も精神異常の犯罪者の頭の中だって見てきたけど、あれほど酷いものは無かった。正直、君が化物に思えたよ。どう見ても普通の娘なのに内側に何を飼っているんだろうって。でも落人というので少し納得した。もしかしたら、こちらに来る際に、君の頭の中の何かが変質したのかもしれない。それで無意識に自分を守る為、壁を作ったのかも」
肝が冷えたし死ぬかと思った、と憔悴した様子で呟く。
「悪いけど、俺にその記憶は触れない。壁を取り壊すのも出来そうにない。君の頭の中を弄って正常にする前に多分俺の気が狂う。綻びはあるから、もしかしたら今思い出せない事も転がり出てくるかもしれない。でもそれがいつになるかは分からない。逆に今ある記憶が思い出せなくなる事もあるかもしれない、そうならないかもしれない」
「……要するに」
「ごめん。解決は出来ない。君の中身は僕らにとって異端過ぎる」
面目ない、と誇り高き光画師はあっさりとその頭を垂れた。潔さに好感が持てる。
昔のデータが文字化けして変換ソフトを通しても復元出来ないものがある、とでも思えば良いのだろうか。
「……ひとつ、教えて頂きたいのですが」
「何かな?」
「この、私の向こうの記憶……変質したままでも残っていると思いますか? いずれ壊れて消えてしまうと思いますか?」
「形が変わってしまっただけだというのなら、思い出せない事はあっても、決して消える事はないと思う。時折上書きされてしまう事もあるけれど、それは古い記憶に限らないし」
「……残るのですね?」
「残る」
ああ、それなら。
「それなら……構いません」
消えてしまわないのなら、耐えられる。思い出せなくても確かに残っているのだ、そう自分に言い聞かせる事が出来るなら、怯える気持ちも抑えられる。抑えてみせる。大丈夫、飲み込むのは慣れているもの。
「何も出来なかったお詫びに、何か絵を持って帰るかい?」
「絵?」
「君の中の絵」
「……いえ、昔の記憶の縁なら欲しかったけど」
「そう?」
「あのー、それなら代わりに私から抜き出して貰えます? 我ながら図々しいけれど」
どこか控えめにテレジアが挙手をする。僅かに目を丸くする光画師さんへ、テレジアは慌てて、ちゃんとお支払いはしますから、と付け加えた。その様子に彼は小さく笑う。
「いや、構わないよ。ルカから分捕るから」
「おい」
「冗談だよ。……うわぁ、テレジアちゃんの覗くの、ちょっとドキドキす……あの、エリーちゃん目が怖いんだけど」
「気の所為です。よもや誇り高き両腕の光画師さんが公私混同のような真似するだなんてこれっぽっちも思っていませんから」
「それだけは無いよ、絶対に。……さてテレジアちゃん、抜き出すから望む絵を思い出して。どういう形でも良いし、例え曖昧でも探し出すから」
左手を頬に添え、右手をゆっくりと眉間の辺りから差し入れる。やはり違和感があるのだろう、鼻に抜けるような小さな吐息が漏れた。
「……これ?」
僅かに目を瞠り、数度瞬きをし、それからどこか切ないような悔しいような、それでいて妙に甘ったるいような、なんとも形容しがたい表情で彼は溜息を吐いた。
差し入れた時と同じように、ゆっくりと彼は手を抜き出す。その指先は小さな結晶を抓んでいた。
「……っン」
「痛かった? 大丈夫?」
「いえ、大丈夫です……」
眉間に皺を寄せるテレジアを案じながら、彼は抓んでいた欠片を彼女に手渡した。ありがとうございます、と笑顔で礼を伝える彼女へ、光画師さんはぎこちない笑顔を返した。
「ルカ」
「何だよ」
「やっぱりお前から割増料金を分捕りたい……!!」
「おい!」
「あぁ、もう! お茶! おかわり用意してくる!!」
「何なんだよ、一体……」
まったく同感です、ルカさん。私の視線に気付いたのか、彼は非常に苦々しい顔を私に向けると、見れば分かるんじゃないの、と伝えて台所へと去ってしまった。
見れば、というのは今の欠片のことか。どう見たらいいのか分からないけれど。
「窓からの光で十分見れるだろう。壁にでも映せばいい」
「エリー! ほら、こっちに来て!!」
差し込む陽光の小さな結晶を翳す。石を通して映しだされた絵は。
「……、テレジアってば」
いつあったのかも思い出せないような些細な日常の一風景。私とテレジア、それからルカさん、三人が写り込んだ水面だった。水の中には魚影が見える。きっと魚を探すのに覗き込んだのだろう。
「これさえあれば、どんなことがあっても思い出せるでしょう?」
「……無くたって、きっと忘れないわ。何があっても、二人ことだけは」
「それでも。……エリー、例えこの石の存在すら思い出せなくなったとしても、この石が存在する限り、貴方に確かな昔があったことを証明してくれるわ。貴方が忘れてしまっても、この石を見つけた誰かが、貴方の記憶が確かにあったことを裏付けてくれるから」
記憶の欠片を私に握らせて、彼女はとびきり優しい笑顔を見せた。
「これで少しは安心出来る?」
「~~っテレジア大好きっ!!」
「私も大好きよ、エリー」
泣きそうになるのを誤魔化して抱きつけば、彼女はしっかりと抱き返してくれた。なんでこんなに彼女は優しいんだろう。
「……可愛い女の子たちの麗しい友愛だって分かってるんだけど、これ程までに嫉妬したのは初めてだ」
「今テレジアが一番好きな相手は間違いなくエリーだからな」
「ルカぁ、もっとしっかりがっちりエリーちゃん捕まえとけよ、俺の付け入る隙これっぽっちも無いじゃんか」
「いや、正直俺も入る隙がない」
「お前ですら無理って勝ち目ないだろ、それぇ……」
「エリー、テレジア、お茶のおかわり冷めるぞ」
「はぁい、ルカ兄」
「ありがとうございます」
くすくすと笑い合いながら、私たちは席へと戻った。
しばらく雑談に花を咲かせた後、光画師さんの家を後にする。思い出せなくなっている、という問題は解決はしていないが、気分が前向きになっただけで十分だ。
「今日は本当にお世話になりました」
「……あの、やっぱり申し訳ないからお金払います。仕事なんだから」
「あらテレジアちゃん真面目だねぇ。根本的な解決は出来てないし、あれはどちらかというと手に負えない仕事のお詫びみたいなもんと思ってよ」
「いいのかなぁ……」
「ならテレジア、代わりに今度差し入れ持ってきたら? 御礼じゃなくて、ルカさんの友人へのお裾分け。それなら貰っていただけますよね?」
「えっ!?」
「テレジアの親父さんが作る兎肉の燻製、美味いんだよな」
「そうねぇ、それじゃ今度持ってきますね。クゥ先生」
「クゥ先生!? お、俺のこと!?」
「ルカ兄にそう呼ばれてたし……駄目でしたか?」
「駄目じゃないですむしろ是非そう呼んで頂きたいです!!」
これで私の方は御礼になっただろうか。ちらりと見遣り、テレジアにばれないようにサムズアップをすれば、私の意図を読み取ったのか、しっかりと大きく頷いていた。
帰宅の後、私はマルフランドの実で染めた刺繍糸で丁寧に小さな巾着を編んだ。その中にあの結晶を入れて首から下げる。
私が過ごした小さな記憶。これから先は肌身離さず持ち歩こうと思う。




