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滞在の顛末

大変遅くなりましたが、更新です。次回から元通り、わりとほのぼのカントリーライフに戻る筈です。

 私が魘されて眠れなかろうと朝は来るし、朝が来れば昼と夜が来る。気付けば館に来て数日の時が過ぎていた。


 此処に来てやったこと、というのは少ない。領主様から、或いは先代様から話を聞き、私はそれに関係ありそうな元の世界の話を返す。詳しく知らない事の方が多かったけれど、それは相手も重々承知だ。解決の糸口、考えの起点、切欠、求められているのはそういうものである。

 奥様とも殆ど接点はない。到着した翌日に挨拶はしたし、マルフランドで染めた刺繍糸もお渡ししたけれど、それ以降はずっとウィリアムズと共に別邸だ。曰く、滞在中は目を離すべきではないって気付いたのよ、だそうだ。こちらにいらっしゃれば色々とお話が出来たのだが残念だ。

 あとは使用人の皆の手伝い。掃除や洗濯、皿洗いなどを手伝っていた。料理はかえって邪魔になるので手伝わなかったが、厨房の暇な時間に私の用事が重ならない時はよく入り浸っていた。

 料理人頭のエリックさんと料理の話をする為だ。味噌、醤油という独自の調味料については非常に興味深そうにしていたが、私には『両方とも大豆と呼ばれる豆を原料に発酵熟成させたもので、醤油は液体、味噌は半練り状態になってて、独特の風味がしたしょっぱいもの』という説明が限度だった。


 でも、彼ら料理人と話していてどうやら米とよく似たものがこちらにも存在すると知った。水辺に生えるので『水麦』と呼ばれているらしい。雑穀扱いらしく、飢饉の時に食べるようになったが当時を思い出すので年配者などは嫌がるそうだ。品種改良をされているわけでもないので、きっと私が当たり前に食べていたジャポニカ米のあの味とは違うだろうけれど、それでも嬉しい。

 水辺に、というならば村の近くにもあるのだろうか? 戻ったらルトロさんに聞きに行こう。

 米があるなら麦芽を使って水飴も作れる。砂糖がなくても水飴があれば大分料理に幅が出来るだろうし、お菓子も作れる。高級品の砂糖が手に入らなくても、代用品になる水飴がそれなりに安価で手に入るとなれば商品として十分通用する。村で試作して上手く出来るようになったら領主様に相談して、特産品として売り出す許可を貰おう。村が潤えば領主様も儲かるのだから文句はないだろう。

 ああ、小学生の頃の夏休みの自由研究がこんなところで役に立つだなんて、人生分からないものである。



「あらエリー、あなたまだ居たの?」


 その日も洗濯干しの手伝いをしていた。声を掛けてきたのは、リリアンヌさん。マギー姉さんの妹で、アンディ兄さんの義妹だ。アンディ兄さんがマギー姉さんとの結婚の決め手は『リリー』が義妹になるからだったんじゃないかと邪推してしまったのは余談である。

 今回の私の滞在に関して、彼女は別邸付きに一時移動となっている。だが多少距離がある程度の別邸だ、よく用事によっては使用人たちは行き来している。手には手紙、ちらと見えた蝋封には奥様の印が押してあった。

 正直、私はこの人が苦手である。


「そりゃ田舎に比べたら此処は格段に居心地良いだろうけれど、あなたが居るとウィリアムズ様が戻れないのよ。何があったのか知らないけど、ウィリアムズ様あなたの事でずっと悩んでいらしたわ」


 お労しいこと……と呟いて彼女は溜息を吐いた。

 まぁ、つまりはこういう人なのである。彼女にとってはウィリアムズが第一なのだ。


「一度お会いしてあげたらいいのに」

「……お話すことも特にありませんし、私が居る間は会わないよう別邸へ、というのを決められたのは領主様ですから。領主様の命令とお心遣いを無碍にすることは出来ません」


 けれど、リリアンヌさんには思い出してほしいものだ。貴方の主は領主様でありウィリアムズではないのだということを。

 私の返答に、彼女は気に食わなそうな顔をする。続けて何か言おうとしたが、それより先に一緒に仕事をしていた使用人が私を呼んだ。はい、と返事を返し、リリアンヌさんへ会釈をしてから小走りでそちらに向かった。


「大丈夫? あの娘、またあんたに絡んでたみたいだけど」

「えぇ、まぁ……」

「あんまり気にしちゃダメよ」

「有難うございます」


 穏やかな優しさと、些細な毒。そんな日々を過ごしながらも、私の心はあの村にあった。

 ここの暮らしが嫌なわけではない。けれど、此処は疲れる。眠れないし、領主様の客人に面通しさせられることもあるし、そういう時はその場で色々話をさせられるし。あの値踏みされる目は好きになれない、その目で見られたまま素知らぬ顔で会話を続けるというのは心底疲れる。

 またリリアンヌの他にも、私にあまり良い顔をしない人も多い。アンディ兄さんが私を猫可愛がりしているので、アンディ兄さんファンの人たちから睨まれているのである。じゃあマギー姉さんはどうなんだ、という所であるが、彼女は非常に優秀であり彼女自身もアンディ兄さんに見劣りしない美人なので、アンディ・マギー夫妻のファンという人たちも多いのだ。よって、ぽっと出かつ異世界人なんていう身元不詳の平凡娘が二人から妹のように可愛がられている現状に嫉妬を覚える、という人も居るのだ。面倒くさい。

 領主様が聞きたい事というのは、あといくつ残っているのだろうか。先代様とお話出来なくなるのは寂しいが、二三日中には馬車を手配してもらおう。保たない。

 今夜にも領主様へ話をしよう、と心に決め、私は洗濯干しの続きにかかった。



 そしてその夜に領主様へお伺いを立てれば、あっさりと許可が下り、明後日の朝に村へ出発という事になった。


「なんだ、もう帰っちまうのかい? もうちょっと居りゃぁいいのに」


 翌日、色んな人に挨拶をしつつ、荷物をまとめる。よく話をさせてもらったエリックさんへ声をかけると、彼は残念そうな顔でそう言った。まぁ彼の未練は未知なる異世界料理の話だろうけれど。


「いえ、もう十分に長く居させていただきましたよ。それに、そろそろ親友が寂しがる頃合いですし」

「へぇ、親友が?」

「……なんですかエリックさん、その顔」

「親友じゃなくて恋人じゃねぇのか?」

「いえ、一番寂しがってるのは親友でしょうね」

「ふぅん……ん? てことは恋人も居るのか、嬢ちゃん」

「友人のような恋人までいかないような……大分曖昧な感じの人なら」

「ちなみに嬢ちゃんはどうなんだい?」

「私? 好きですよ、そりゃ」

「……お前さんから惚気け聞くようになるとはなぁ。月日が経つのは早ぇもんだ」

「なんですか、それ」

「来たばっかの時は、そんな余裕もないってくらいの顔してたからなぁ。何にせよ、惚れるような相手が出来たってのはいいことさ」


 からっとした笑みを浮かべて、彼は大雑把な手つきで私の頭を撫でた。

 ごつくてデカい、それでいて器用な手先と緻密な味を計算する頭脳を持ち合わせた『見た目は脳筋、頭脳は秀才、その実態は食道楽』なエリックさん。スキンヘッドが見た目のヤバさに拍車をかけているけれど、マギー姉さんの次か並ぶくらい、この館の中で一番安心して会話が出来る相手である。

 口が裂けても言えないが、アンディ兄さんよりエリックさんの方が余程に兄貴という感じがするというか、兄になってもらいたいというか。勿論、そんな事は絶対に言えない。


「水麦の件もありがとうございました。もし見つけて、それが同じ様なものだったら『あるもの』を作ってみる予定なんです。上手く出来るか分からないけど、成功したら手紙書きますね」

「食い物関係か?」

「えぇ、勿論。でも出来ないかもしれないので、期待させたくないからまだ内緒です」

「その言い方で十分期待しちまうなぁ。健闘を祈る」

「はい」


 その場に居た他の厨房係の人たちにも一声かけてから背を向ける。口々に、気をつけて、またおいで、などの優しい言葉を投げてくれた人たちへ、扉の前で一度振り返って手を振ってからその場を後にした。

 その他、良くしてくれた使用人たちや余り良くはしてくれなかった使用人にも一応、と挨拶回りを済ませる。先代様には昨夜に領主様に話が通った時点でお伝えしてある。今夜の晩餐で改めてご挨拶と名残を惜しむ予定である。

 さて、それでは荷造りの続きでもしようか。エリックさんを筆頭とした厨房の皆様が土産と称して日持ちのする堅パンやピクルスや豆の水煮などの瓶詰め、更には村では手にするのが難しい甘いジャムまで持たせてくれたのだ。田舎の祖父母に土産を沢山持たされる感覚にとてもよく似ている。

 往路はジバシリトカゲだった為、荷物は殆ど無いような状態にしておいたのだけれど復路は二頭引きの馬車だ。荷物が増えようが大丈夫、なのだが……入れる鞄がない。

 何か、頭陀袋のような物はないだろうか。誰かに声をかけて、物置に一緒に行って貰うべきか。エリックさんたちの情が重い、物理的な意味合いで。


「エリーちゃん、居る?」


 ノックの音に返事を返す。扉の向こうには昨日の洗濯干しで一緒だった使用人のナンシーさんだった。

 何か御用ですか、と尋ねれば、彼女は渋い顔をしてこう告げた。


「……リリアンヌがさっき、奥様からの伝言を持ってきたの。ウィリアムズ様を見張るからこっちへ挨拶へは行けないけれど、土産を用意するから夕飯前くらいに時間を開けておいてって。……多分、この様子だと持ってくるのはリリアンヌだと思うんだけど……大丈夫?」


 眉間に皺が寄るのが分かる。私の表情を見て、ナンシーさんの顔が更に渋くなる。


「いえ、奥様のご好意ですから。持ってくるのが誰であれ、大丈夫です」

「……エリーちゃんがそう言うなら良いんだけど」

「それにアンディさんとマーガレットさんの二人に良くしてもらっている事、奥様もよくご存知ですから。きっと妹のリリアンヌさんともそれなりに親しいだろうと思っての事でしょうし……」

「それは……ありそうねぇ、確かに。リリアンヌがあんな風に言ってくるのはこの滞在からの事だし、奥様はこちらであの様子を御覧になってないもんねぇ」


 別邸からこちらへのお遣い役で、リリアンヌさんはよくやってきた。普段ならもっと他の人も来るのだそうだが、きっとそれも奥様の配慮だったのだろう。今回は残念ながらその配慮は間違いだったが。


「いい? あの娘が何を言ってきても上手くやり過ごすのよ? どうせ朝には出発して、顔合わせなくなるんだから」


 そう言い残すと、彼女は部屋を出て仕事に戻っていった。

 ……奥様からのお土産にあの男の手紙を紛れ込ませるとか、リリアンヌさんからの必死の説得とか、そういう感じだろうか。あるとしたら。

 憂鬱で折角の夕飯が食べられなくなったらどうしてくれようか。小さく溜息を吐いた。

 ナンシーさんに頭陀袋の件を聞けば良かったと気付いたのは、そのすぐ後のことだった。


 手隙の人に声をかけ余っている頭陀袋を貰ったり、有り難くも追加でお土産を頂いたり、それらをどうにか荷造りしたり、と作業をしていたらあっという間に夕飯まであと僅かという頃合いになっていた。

 そろそろだろうか、と作業を中断して待っていると、折良く呼び声が扉の向こうから聞こえてきた。


「はい」

「リリアンヌよ。エリー、奥様からの贈り物を持ってきたわ。両手がふさがっているから、良かったら開けてくれない?」


 ……、奥様はそんなに何を持たせたのだろうか。少し不安になりながらも扉を開ける。其処には両手で大きな箱を抱えたリリアンヌさんが立っていた。


「……どうぞ」

「ありがとう。これ、奥様がもう着ない服だそうなの。全部持って帰って構わないそうよ」

「こんなにいっぱい?」

「村なら他に着る人も居るでしょう? 若い頃の服や、貰ったけれど趣味じゃなくて義理で着た程度の服ばかりだから、バラしてもいいから好きに使って、ですって」


 いいのだろうか、こんなに。流石にこれは、と思ったが、差し出された奥様からの手紙を見たら納得した。

 お土産でもあるけれど、これらの服は息子の迷惑料だと思って受け取って欲しい。村でもきっと迷惑をかけただろうから、貴女の分を取ったら残りは欲しい人たちで分けるように。そう書いてあった。それならば、遠慮なく頂くことにしよう。


「あと、奥様からもう一つ……あら?」

「どうされました?」

「やだ、落としたのかしら? 近道するのに中庭を通った時、躓いて転びかけたのよね。上に置いてあった服一枚だけ落としてしまって……それは拾い上げたんだけど、その時に一緒に巾着を落としたみたい。ごめんなさい、エリー、探すの手伝ってもらっていい?」

「構いませんよ」


 巾着も土産の一つだったという事だろうか。念の為、同じ道を戻りがてら足元にも注意を払う。中庭まででは見つからなかった。あの辺りで躓いて、とリリアンヌさんが指さした周辺を腰を屈めて見て回る。転んだ時に放ったにしても、そう遠くにはいくまい。


「あ、あった!」


 声を上げたのはリリアンヌさんの方だった。ニコニコと笑いながら、彼女は私の傍へ近づき、その巾着を見せる。

 ちょっとした鞄代わりにもなりそうな巾着。生地はやや厚手で、くすんだ水色をしている。花のような地紋が入るその生地には、美しい尾長の鳥の刺繍が施されていた。その刺繍に、主に使われている色は。


「これ、私が染めた……」

「大層気に入っていらしたわよ、あの色。鮮やかすぎないけど可愛らしい淡紅色、これなら何歳になっても使えるって。是非これで刺繍して貴女に渡したいって、張り切っていらしたわ」


 笑って、彼女は私に差し出す。

 こんなに気に入って貰えるだなんて思ってもいなかった。どうせあの実は沢山あるし、あの場所以外にもあるか尋ねてみて、あるようならそれも収穫しよう。そしてまた染めて、糸を送ろう。


「有難うございます。奥様にもよろしくお伝え下さい」


 照れくさい気持ちになりながら、その巾着を受け取る。だが、彼女は何故か巾着を手放さなかった。

 訝しんで彼女の顔を見れば、彼女はニコニコと笑っていた。笑って、私の手をそっと取る。


「……リリアンヌさん?」


 ああ、ちがう。彼女は、彼女の顔は、


「ウィリアムズ様」


 ふりをしているだけで、ちっとも、笑ってなんかいなかったんだ。



 庭の繁みにでも隠れていたのか、段々と薄暗くなってきたから分からなかった。ウィリアムズが其処に居る。握られている手の力が強くなる。

 ……ああ、そうか、落としたのは嘘だったのか。ここまで私を連れてくる口実だったのか。


「やっと話が出来る」


 この男は一体、何を考えているんだ。


「私は話すことなど御座いません」

「私にはある」


 手を掴んでいた彼女は、するりと私の後ろへと回り込み肩を押さえる。まるで後に引くのは許さないというように。


「エリー、愛している。結婚しよう」


 背後で息を飲む音が聞こえる。私はその言葉の唐突さと薄っぺらさに驚く。


「家柄を心配するというならば問題ない、親戚の家に一旦養子になればいい。振る舞いを知らないというならばこれから覚えればいい、なに、お前は物覚えの良い方だと聞いた、それなら十分覚えられるだろう。此処での暮らしだって、先だってまでは居たのだから大丈夫だろう? 私の両親、祖父とも関係は良好。ほら、これ以上の良い結婚は無いと思わないか?」

「ご冗談を」

「いいや、本気だ。何が気に入らない?」

「私の利点は?」

「次期領主夫人だぞ? あんな田舎の村より贅沢が出来るし、お前の持つ才を役立たせる事も出来る」

「……それだけ?」

「十分だろう?」

「こんなの政略結婚にもなりません。貴方にとって都合のいい相手というだけじゃないでのすか」

「優しくされたいんだろう?」

「……はい?」

「愛してやると言っているんだ」


 愛してやるから、だから、自分の為に元の世界の知識を使って、金を稼げ。

 ……ああ、呆れ過ぎて、いっそ目眩まで感じるようだ。


「お断りします」

「……何だと」

「ですから。お断りします」


 貴方の世迷言に付き合うつもりは毛頭ない。


「愛を唱えれば何でも許されるわけではないし、そもそも貴方の愛など欲しくもない」


 そもそも『愛してやる』なんて上から目線で言ってくる奴が本当に愛しているだなんて思えない。それはただの執着心の成れの果てだ。


「リリアンヌさん、放して下さい」

「えっ……?」

「放して下さい」


 遣り取りを聞いて混乱でもしたのか、呆然とした声が聞こえた。要望を繰り返せば、彼女は躊躇いがちに肩を押さえる力を抜いた。彼女の腕をそっと振り払い、踵を返す。


「エリー。お前は、どうやっても、私のものにはならないと言うんだな」


 当たり前だ。そう思っても答えない。代わりに歩みを速める。


「そうか、それなら」

「ッウィリアムズ様!?」


 振り返って見えたのは。


「ここから消えてしまえ、エリー」


 ナイフを逆手に持って振りかぶり、私へ走り寄る男の姿だった。



 考えるより早く身体が動く。竦まずに駆け出す事で、振り下ろされたナイフを避ける事は出来た。リリアンヌさんの甲高い悲鳴が聞こえる。耳障りな声だが、聞き咎めた誰かやってくるだろう。

 勢いが良かったせいか、ウィリアムズはバランスを崩したたらを踏んだようだ。足は彼のが速いだろうし、リーチの差もある。兎に角、渡り廊下へ、そこからすぐに本館へ入れる。館内に入れば人が居る。


 怯むな、竦むな。今はただ足を動かせ。


 足音。衣擦れ。息遣い。気配。上がる息と心拍数。耳鳴り。足で踏みしめる、柔らかい土から硬い石張りに変わる感触。内開の扉。


 けれど、私の手はドアノブは掴めなかった。

 掴んだのは、私ではなく、ウィリアムズの手。掴んだものは、私の腕。

 引っ張られ、バランスを崩してウィリアムズ共々地面に倒れこむ。その際に持っていたナイフが私の腕を掠めた。痛みに顔をしかめる。

 上に乗っかった彼が態勢を整えようと動く、それに合わせて私も逃げ出そうと試みるが、残念ながら脱出は出来なかった。仰向けの私をまたぐように、彼は膝立ちになって私を見下ろす。その目にあるのはきっと優越感なのだろう、僅かばかり笑っているようにも見えるから。

 その顔を見て、頭が冷える。今ここで感情を見せてはいけない。それでは相手の優越感が増すだけだ。

 痛い程に暴れる心臓を宥めるように、上がる息を整える。静かに静かに、呼吸をコントロールする。怖気を見せてはいけない、怯むな、竦むな、悔しがるな。ただ無感情にこの男の目を、その視線で真っ直ぐに射抜け。


『ああ、エリーって、そうか狩りとかはしたこと無いんだ』

『うん。お肉とかはもう捌いた状態のがすぐに手に入るような感じで……』

『まるで貴族みたいな生活よねぇ、エリーの世界って。じゃ、鳥くらいは自分でシメれるようにならなきゃね!』

『そうだね……お手柔らかに』

『ふふ。じゃあ、このテレジアさんがとっておきの助言をあげる! まぁ、ルカ兄の受け売りだけど』


『覚えておいて、エリー』


 私の上のウィリアムズに、躊躇いが浮かぶ。ただ真っ直ぐ見つめる私を見返す事も出来ずに、視線がうろつく。

 それにしてもナイフが掠った部分がじくじくと痛んで不快だ。血も大分滲んだだろう。

 彷徨かせた視線がその部位を捉えたのか。真っ赤に染まっているだろう生地を見て、明らかな動揺が走る。


『何かを傷つける時には躊躇ってはいけない』

『でないと』


 ……ああテレジア、ルカさん。あなた達の言う通りだ。


『獲物に、逃げられてしまう』


 両手を伸ばし彼の胸ぐらを掴み、一気に引き下ろす。その勢いに合わせて、私は彼の鼻の辺りを目掛けて頭突をかました。勿論私に躊躇いはない。躊躇ってはいけない。

 うめき声が聞こえたと同時に今度は突き飛ばし、彼の下から脱出する。そのまま傍のドアノブへ手を伸ばし、転がるように本館内へと入り込んだ。


 先程からずっと、リリアンヌさんは叫び声をあげていた。私たちには近寄れないが、ただずっと誰か来てくれ、と金切り声で叫んでいた。そろそろ喉が枯れてしまうんじゃないだろうか。

 だが彼女のおかげでこちらを探していたのだろう、使用人たちが駆けてくるのが見えた。その筆頭には、アンディ兄さんが。

 倒れこんだのが私と気付いた途端、彼の顔色が変わる。蒼白になり駆け寄る速度が速くなる。

 私もまた彼らへと駆け寄ろうと立ち上がる。数歩走りだし


「エリー! 後ろ!!」


 掠れて、裏返って、もう出ない声を無理矢理絞り出すような、がなり声に。思わず振り返ってしまう。

 わりと整っていた筈の顔を歪ませて、鬼気迫る表情で、血塗れの顔で。ウィリアムズはナイフを振り上げて。

 それが振り下ろされるより前に、私の腕が引っ張られ床に放り投げられる。地面に倒れる衝撃と、揉み合う気配。


「ぅあ゛ッ!?」


 呻く声と、悲鳴と、怒声。横を通り抜ける足音と、私の上体を抱き起こす腕。それが誰かを確認するより先に、私がさっきまで立っていた場所を振り返る。


「……アンディ兄さん」


 見えたのは、取り押さえられたウィリアムズと、ナイフを生やしたアンディ兄さんだった。

 血塗れているのは脇腹だ、ナイフもそう深くは刺さっていないようでもある。


「アンディ!? アンディ、しっかりして!!」

「マギー、姉さん……」


 私を抱き起こしてくれたのはマギー姉さんだった。私を手放さず、アンディ兄さんへ声をかける。

 顔中に脂汗を浮かべながら、アンディ兄さんが振り返る。辛そうな顔で、それでも気丈に笑みを形作り、彼はとても優しい声音を震わせながら。


「ああ……君が無事で良かったよ、リリー(・・・)


 そう言った。


「アンディ、あなた……!!」


 息を飲み、非難の色を滲ませてマギー姉さんが呟く。私を抱きしめる腕に力が籠もる。

 私は自分の服の裾をそっと握りしめながら、答えた。


「無事ですよ、アンディ兄さん。兄さんのお陰で『あなたのリリー』は助かったんです」

「エリー……」

「有難うございます、アンディ兄さん、貴方はちゃんと、あなたのリリーの命を、今度こそ救いましたよ」


 淡々と告げる私に代わって、マギー姉さんの方が泣きそうだ。大丈夫なのに。アンディ兄さんにとって私はエリーという名のリリーってことくらい、理解していたのだから。例え気持ちがすぐには追いつかなくても、少し立てばちゃんと追いつくから。

 だから姉さんはどうか悔いないでくれたらいい、妹役に付き合ってくれと言ったことを。

 私の言葉に安堵したのだろう、兄さんは気絶した。担架が運ばれ、兄さんが連れだされていく。


「……疫病神」


 掠れた声で、絞りだすように。呟きが聞こえた。

 いつの間にか傍に来ていたリリアンヌさんが、私を憎々しげな目で見下ろしていた。


「ウィリアムズ様を惑わすだけじゃなくて、義兄さんまでこんな目に合わせるなんて……」

「なんてことを言うのリリアンヌ!!」

「だってそうじゃないの姉さん!! この子が居なければこんなことには……!!」

「それは呼び寄せた私や父への批判と受け取って良いのかな」


 姉妹の口論が熱を帯びる前に水が差された。領主様から冷水を浴びせられたリリアンヌは、青ざめた顔で頭を下げた。


「失言でした。申し訳ございません」

「姉として、上司として、私からも謝罪致します。大変失礼を致しました」

「場合が場合だからこの件については不問としよう。だが命令違反はいただけない。処分が決まるまでは謹慎だ、リリアンヌ」

「……畏まりました」


 俯く彼女から視線を外し、領主様は私を見遣る。抱きしめたままのマギー姉さんの腕を軽く叩いて外してもらい、立ち上がる。


「……すまない」


 苦渋に満ちた顔で、領主様は一言そう言った。私は小さく首を振って、そんな事はないのだと意思表示する。


「父上、私とそいつが結婚すれば父上だって助かるでしょう? 私はただこの家と領地の益を思って……!」

「ウィリアムズ、お前はいつからそんなに愚かになった? 誰に何を入れ知恵されたか知らないが、エリーの知識だけで儲けになるなんて、そんな馬鹿な事があると本当に思っていたのかい?」

「……え」

「彼女の知識はとても偏っているし、知っているけれど仕組みは分からない、という事ばかりだよ。確かにポラリスは彼女の知識のみだった。だが、それを向こうの世界と同じようにして売って利益になるとでも? この世界で受け入れやすいように改変したのは私たちだ。彼女の断片の知識を元に改正した仕組みはいくつもある、だがあくまでも教わったのは断片だ。そこを手掛かりに考えだしたのは私であり父であり、その他実務の担当たちだ。使いこなせもしない知識をお前が得て、どうしようというんだね?」


 馬鹿な子だ。その呟きには、たっぷりの憐憫が篭められていた。


「落人の協力者として、この娘の保護者として、お前のような不適格者に嫁がせようなんて思えない。それに、当人の希望以外で保護責任のある領主家に取り込むのは禁止されている。婚姻や養子縁組の場合は王家の承認だけでなく、二つ以上の他諸侯の承認が必要となり、縁組した家は落人の知識や技術を独占せず求められたら開示することを誓約させられる。つまり、お前が考えているような事は出来ないんだよ、最初から」

「でも今は、現に独占して儲けているではありませんか!?」

「彼女の生活を見る事を条件に、私が窓口になってその生活費を稼いでいるに過ぎない。政策に関する協力も領民の生活向上の為の試験であり、上手く行くようなら資料をまとめて王家へ提出する手筈になっている。必要以上の儲けに関しては手数料を差し引いてから、領地整備や災害対策としての積立金として領民へ還元する仕組みを整えた。王家への納税も増えた。お前が考えている程に我が家が潤ってはいないさ。小金持ちが金持ちになった程度で、大富豪になったわけじゃない」

「父上……」

「お前に話すことは今はもうない。物置にでも放り込んでおいてくれ」


 連れて行け、と手で示し、領主様はもうそちらを見なかった。呆然とした顔でウィリアムズは引きずられていく。縋るような顔で一瞬こちらを見たが、もう私は彼の目を見るつもりはなかった。引きずられる姿からすぐに顔を背け、領主様へと視線を戻す。


「エリー、荷造りはもう大丈夫かい? なら一刻も早く此処を出発してくれ。すぐに馬車の準備をさせる。街までなら今からでも遅くない。よく知った宿があるから、そこで一泊なさい。マーガレット、宿まで一緒に……いや済まない、君には彼女よりアンディについてもらうべきだったな」

「いえ、参りま」

「旦那様! 僭越ながら私が拝命してもよろしいでしょうか!?」

「ナンシー……」

「エリーちゃんの事は任せて。起きた時に愛妻と可愛い妹が二人共居なかったらアンディさんいじけるわよ」

「ならばナンシー、宿までエリーについていってくれ。一泊して見送ったら辻馬車を手配するなりして帰ってくるように」

「畏まりました」


 あれよあれよと決まっていく。命に別状はないだろうが、アンディ兄さんの容態すら聞かぬ間に此処を出るのか。今度もまた、逃げるように。


「私は二度と君を此処へは呼ばない。余程の緊急時以外では君の村へも近付かない。君は確か厨房連中と仲が良かったね? 仮に君の村へ向かう用事があっても、彼らとアンディ、マーガレット、ナンシー、それ以外の人を遣いには出さない。極力、直接君に近付く事は避ける。……手紙だけは許してくれるかい?」

「……、いいえ」

「エリー……」

「いいえ、領主様。もう手紙の返事は書きません。私の知識など微々たるもの、無くたって領主様ならそんなものがなくたって解決策は浮かびましょう。私が来る前まではそうしていたのですから、元に戻るだけです。今まで頂いた生活費も十分に足りています。今回お土産にいろんなものも貰いました。だからもう十分です」


 ですから、どうか。


「もう、私とは関わるべきではありません」


 放っておいて下さい。


 領主様はもう一度、小さく済まないと呟いた。それから軽く頭を振ってから、何かに気付いたかのように廊下の向こうを振り返った。

 待ってて欲しいとお願いしたのに、という溜息混じりの声が聞こえる。杖をついた先代様が、ゆっくりとこちらへやってくるのが見えた。思わず駆け寄る。

 先代様は何も言わなかったし、私も何も言わなかった。ただ先代様はきっと何があったのか大体の見当がついていただろう。

 ただ、じっと私を見つめた。頭の先から爪先まで、すべて覚えようとするかのように。私もまた先代様を見返す。祖父に似た、けれど別のこの人を、忘れないように。


「……どうか、元気で」

「はい。先代様も」


 そっと労るように頭を撫でられながら、交わしたのはお互いこの一言だけだった。


 それからは目まぐるしかった。急き立てられるように仕度をし、あっという間に馬車に放り込まれて出立した。


「……ね、エリーちゃん」

「どうしました?」

「ウィリアムズ様は、何がしたかったのかしらね」

「さぁ……私にはなんとも。ただ」

「ただ?」

「拒否されるって事を経験せずに生きてきたんじゃないですかね、あの人。だから、許せなかったんでしょう。自分の言うとおりにならない奴が」


 あれでも、あの男なりに譲歩したんだろう。これだけ譲歩したのにまだ自分のものになろうとしない、手に入らない存在が許せなくて、許せないなら消してしまおうとでもしたんじゃなかろうか。

 勢いで殺せる程には躊躇いを消せなくて、でも抵抗されたら逆上して簡単に刺せる程に理性をなくして。

 本当に、馬鹿なひと。


「……まぁ、どう推測したって、理解出来るとは思えないですけどね」


 街に着いたら起こして下さい、と同乗するナンシーさんに告げて、ぐったりとした気持ちを抱えたまま私はそっと瞼を閉じた。

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