動き出した人々
第三章 動き出した人々
ここ最近雨が降らず、天気は良いが空は青というより白い。楼の最上階で貴公子全とした青年が、憔悴した表情で空を睨んでいた。
「耀華さま!旦那さまが呼んでおられます」
耀華と呼ばれた青年は、呼びに来た男の方向を向き、小さく、力強く頷くと階段を下りていった。
耀華の歩む道を阻むものは誰もいなかった。軽く会釈をして、皆が道をあける。耀華はただ前を見つめて足早に父親のいる一室を目指した。部屋の前についた時、扉は自然と開いた。
奥にある寝台に向う。
寝台には痩せ細った父がいた。以前は自信と威厳に溢れていたのに……。目の奥が熱くなるのを感じる。
息子がやって来たことを悟った父は、重く閉ざされた瞳を開けた。すると、驚くほど生気に満ち溢れていた瞳が耀華を見つめる。
「耀華か……。お前と話せるのもこれが最後だな……」
ずっと変わらない、重くずしりと響く声が耀華の耳に届いた。
「私はお前に透清国にこだわって欲しくはない。私は透清国に世話になった。透清国の臣下として生を終えられることを、誇りに思っている。しかし、お前は違う……。これから、時代が動く。お前は、お前の信じる道を進めば良い」
耀華は父の手を強く握った。
「しかし、私は……」
「父親として、お前の気持ちは分かっているつもりだ。私が、お前の呪縛を持っていこう。私の自慢の息子よ。良い子に育った……」
急に声が小さくなった。まぶたが眼球を隠す。もう一度瞳が開かれた時、その目には、さっきまでの力強い光はなかった。うつろに宙を見つめている。耀華の握っていない手を、小さく伸ばした。
「茜。やっと、会えるな……」
それは、耀華が父親の声を聞いた最期となった。一週間後、父は再び目を開くことなく息をひきとる。
「耀華さまが若旦那さまになられるのですね」
葬儀が終わり人段落つくと、瀬木が耀華に向っていった。瀬木は高齢ではあるが、足取りもしっかりしていて、頭の切れもまだまだ若い者には負けない。5歳の時から奉公でこの家に入っているという。
「すまない。瀬木。私はここを出ようと思っている。身一つになって、やりたいことがあるのだ。家の事はちゃんと整理してから出るつもりだ」
耀華は一言ひとこと、言葉を選び、搾り出すような声で言った。瀬木は驚きを隠さない。落胆のこもった声で答える。
「耀華さま、それは……」
「瀬木の思うことは分かっている。しかし、父上も私がここに残ることを望んではいないと思うのだ。透清国は残念だが長くない」
「本来なら耀華さまこそ、皇帝になるべき方でしたのに……」
瀬木の言葉に耀華は首を左右に振る。
「いや。私が皇帝の位につこうがつくまいが、結果は変わらない。私は皇帝にならなかったことで、未来を手に入れた。皇帝になることは過去を手に入れるに過ぎない。私は思うのだ。瀬木。新しい時代は、透清国を必要としていない……」
「私は古い人間ですから、そのようなことは分かりません。透清国こそが、私の国ですから。ただ、耀華さまがそのようにお考えとは……私にはお引止めすることはできないのですね」
目を伏せた瀬木の姿が急に老けたように思えた。耀華は瀬木の手をそっととった。そして、小さく呟く。
「すまない……」
翌日、耀華は後のことは全て瀬木に任せて、家を出た。この二人が再会することは二度とない。
耀華が家を出た同じ日、透清国南部最大の港・南海に春日光が降り立った。隣国の大和国から帰ってきたのだ。大和国は、新しい軍事技術を開発した西の国々の干渉から、東の国で最初に独自の方向性を導き出した国である。現在、東の国々の志士たちが大和国に集まっていた。そこで春日は、大和国に情報を集めに行ったのだ。そして、大和国を新たな国の建設にあたり見本にしようと決めた。
春日を港まで迎えに来た者は百人を超えた。その中で春日に一番先に声をかけたのが宗純真である。
彼は南洋省・南海の商人の家に生まれた。一族の多くは西の国々へ渡り、透清国の品々を売ることで財を成していた。二人は、イングルの教会で出会った。宗が新しい思想によって透清国救済の道を探っている時のことであった。それが春日に出会い、一歩進んだ革命による人々の救済に変わった。
「春日殿、大和国はどうでしたか?」
「思った以上に進んでいた。短期間ですごい変化だ」
「具体的には?」
「街へ出れば、みなが西側の服装を着、西側の乗り物に乗っている。国全体が西側を追いかけていた」
春日はいったん宗との会話を切った。
春日を待っていた者全てが、彼の声を聞きたがっていた。その熱に押されて、春日は壇上に登る。
「私はイングルを中心に西側諸国を回り、大和国にも行った。そして、私は自分が何をなすべきか分かった。その第一歩は、透清国の打倒である」
大地を揺るがすような拍手と歓声が生まれた。
「世襲的な君主制を打倒し、私たち一人一人が選んだ代表者が私達の国を統治すべきである。そして、国の富はその国に生きる全ての人々と分かち合うべきである。富の独占は許されない」
春日光が帰って来たことによって、今まで透清国内で起こってきた単発的な反乱は、一気に加速度を上げて統一されていく。
「摂政王どうされます!」
各地の情報を一通り報告した後、宰相のチェルリンは皇帝の父である摂政王に意見を求めた。誰を反乱軍鎮圧に行かせるか。
「ガジャルダが良いのではないか?」
チェルリンは首を左右に振った。摂政王はガジャルダに強い信頼を寄せている。だからこそ帝師に選んだのだ。
「ガジャルダは武の人です。武の面では透清国内で右に出る人はいません。しかし、智の面では不安があります。軍全体を統治するのは難しいでしょう」
摂政王は考え込んだ。
「では誰がいるだろうか。適任と思われる者には皆要所を任せている。外国との事がある為、兼任はできないだろう?」
「そうでございます。摂政王。兼任などさせては、外国に我国の人材の乏しさを公表するようなもの。危険でございます」
「では、他に誰が……」
摂政王は頭を抱え込む。チェルリンも厳しい顔をした。
そして、思い出したように顔を上げた。
その動きはゆっくりで、微量ながらに毒素を含んでいた。
「炎世包でございます」
摂政王は、ハッと思い出すような顔をした。
炎世包は最年少で透清国の元帥になった逸材である。彼は戦場で負けたことがない。透清国最期の勝利は炎が指揮を取った、隣国・高国との戦いである。
なぜそのような人物が国政の中心から外されたのか。それは、炎が望諸帝の反乱に関わっていたとされるからである。喜太后はその後すぐに炎を解任した。炎が首謀者だったと言う噂もある。摂政王は迷った。
「しかし、炎世包は……」
「摂政王のおっしゃりたい事は分かります。しかしこの緊急事態、人材を惜しんでいる場合ではないのではありませんか」
摂政王といわれても、国政には素人同然である。摂政王はそれをよくわきまえていた。また、摂政王は自分自身が優柔不断であることを認識しており、決断するのが苦手であったのだ。チェルリンの方が国政には何倍も詳しい。結果、摂政王はチェルリンの案を受け入れたのである。
こうして反乱軍鎮圧の軍権を炎世包が握ることになった。炎世包は、最初は拒み。三回目でやっと、この任を受けると連絡が摂政王の元に届いた。稀代の英雄が登場することにより、鎮圧軍はもとより、透清国全体が活気を取り戻すように思われた。
黄暦911年初夏。透清国・炎世包、反乱軍・春日光の構造は誰の目にも明らかな図式となっていた。
部屋に西日が差し込んでいる。初老の男は額の汗を拭った。両眼には恐ろしいほど鋭い光が浮かんでいる。
ノック音が二度響き、ドアが開けられた。
「葵か」
「炎閣下。レイ長官がお見えになりました」
「レイ長官?あいつが長官か?あんな貧しい身なりをして」
「お忍びと言うことですが……」
「ピエロに相応しい姿だ」
炎は薄笑いを浮かべる。その顔を見た葵は体中から汗が噴出した。
「葵。丁重にレイ殿をお連れしなさい」
葵は一礼して部屋を出た。
五分ほどして、ドアはがノックされる。
「久しぶりですな。炎将軍」
恰幅の良い、小太りの男が入ってきた。
この男はレイ・ユエンハンという。数ヶ月前までは、南洋省の行政長官をしていた。透清国には16の省がある。省は、最上級の行政区画である。南洋省は透清国の南に位置し、貿易の拠点に当たる。その彼が、現在は反乱軍の重要幹部になっていた。春日光が帰ってくるまでは、名ばかりではあるが、最高司令官にまでなっていた。
反乱は911年6月末、南洋省の武中で起こった。炎の調べによるとこれを指導したのは、宗純真である。宗は反乱を南洋省全域に広げると、レイを捕らえた。
レイは高いところが好きだった。自分の執務室はいつも一番高い所に置いた。もちろん脱出経路はもちろん用意していた。けれども、肝心な時に機能しなかった。それどころか反対に警備の薄いそこが進入経路として狙われたのだ。
レイは一人執務室で頭を抱えていた。窓の外など見たくなかった。逃げ道がすでにないことを他の誰より分かっていた。最後のプライドが、取り乱した姿を見られない為に、部屋に一人でいるという選択をさせていた。
ドンドン。
ついに、ドアが荒々しく叩かれる。
レイは観念してソファーに腰を下ろした。
派手な音がしてドアが破られる。
銃を持った屈強な完全武装の兵士が二人入ってきた。その後に軽装の男が一人涼しげな表情で入ってくる。
「さすがレイ先生。覚悟を決めていらっしゃるようで……」
年はレイより年下で、40歳前後と思われる。長身はあるが、痩せていて、一対一の勝負ならレイが圧勝で勝つだろう。
「お前は誰だ」
精一杯の虚勢だった。
「宗純真と申します。以後お見知りおきを」
レイと対照的に、宗は落ちついている。
「私をどうするつもりだ?」
「どうすると思います?」
宗はレイを試しているようだった。
「殺すつもりか?」
レイはうめくように言った。部屋には更に二人の兵士がやってきた。四つの銃口がレイに向けられる。
「死にたいですか?」
「死にたくない。私が何をしたと言うのだ」
「貴方は自分が潔白だとお思いですか?」
「そりゃ、この地位につくまでには色々やったさ。しかしそれは皆やっていることだ」
賄賂・買収・密売・暗殺……権力を得るためにレイは何でもやってきた。それを悪だとは思わない。特に賄賂などは自分が関わっていなくても至る処で行なわれている。
「誰もが?」
宗は氷を吐き出すように冷たく言った。その姿に感情の起伏は全く感じられない。
レイは圧倒されてもう我慢できなかった。
「殺さないでくれ。何でもするから、殺さないでくれ」
レイはソファーから降り、宗に向って拝みはじめた。
宗はそれを表情も変えず公然と受け止めた。左胸から黒い物体を取り出し、レイに向ける。
ドン。
銃を撃った。レイの足元に穴が開く。
「ヒィー」
奇声が部屋中に響き、壁がそれを吸収する。
「殺さないでくれ、殺さないでくれ」
レイの姿をみて兵士達に軽い動揺が起こった。宗は前に進み、座り込んでいるレイの肩に手を置いた。レイはゆっくりと顔をあげ、宗を見る。宗の顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。
「透清国の貴方は死にました。これからは、私たちと一緒に働いてくれますか?」
宗の顔が、まるで仏のように慈悲に溢れた表情だとレイは思った。
レイはただ頷いた。いや、頷くしかなかった。
「レイ先生を殺す気など毛頭ございませんでした。あまりレイ先生が気にされたので、ついつい調子に乗ってしまい、このような愚行に走ったことお許し下さい」
宗は片膝をついて、礼に則り頭を下げた。
「レイ先生をお連れしてください」
兵士二人でレイを抱える。レイはすっかり腰を抜かしていた。それでも、身の安全が確保されたとみて、顔には余裕が表れていた。
宗は、春日の帰国を待たずして反乱を起こす決定をした。それは6月15日、外国人により透清国人が殺されたことに始まる。透清国は自国民が殺されたにも関わらず、何の抗議も対策もしようとしなかった。外国への不満は透清国への不満にすり替わり、爆発寸前まで人びとの感情が高まっていた。これに宗は便乗したのだ。
反乱は日に日に大きくなった。しかし、春日はまだ帰ってこない。反乱には指導者が必要だった。宗は表向きただの商人であり、財界で名を馳せているとはいえ、このような場では不十分だった。また、宗自信表舞台に立つ気はない。そこで宗は目につけたのがレイである。
レイは権力の妄信者であるが、無能ではない。また面倒見がよく、レイを慕うものは透清国にかなり存在していた。彼を味方につければ、革命を越して、建国が達成される中で大きな力になるだろう。宗は主導権を握ったまま、レイを見方につけることを決断した。
春日が帰国してからも、レイは冷遇されることはなかった。
「長く中央から離れていたが、最近戻る事ができた」
「えーえー、噂は聞いておりますぞ。再び透清国の兵権を掌握なさったと」
「もともと兵権は皇帝のものであられる。皇帝が幼い故、私が代行しているに過ぎない」
「はぁ〜」
炎とレイは10年以上会っていない。久しぶりの再会ではあるが、両者に感慨はなかった。
レイの興味のなさそうな返事に、炎は豪快な笑顔を浮かべた。
「下らない話をする為にここに来たわけではなかったかな。失礼。具体的な話をしよう。
私は陛下から、貴方たち反乱軍を討伐するように命令を受けた」
レイの目が鋭く光る。炎は一気に核心まで話を持ってきたのだ。
「私が指揮を執れば、君たちを破滅に導くなど容易い事だ」
レイは顔をしかめ、口を開けようとした。炎はそれを圧し、言葉を続けた。
「しかし、軍事的に制圧したところで透清国延命はできまい。聡い君なら分かっているだろう」
レイは作ったような深刻な顔で頷いた。
「春日光に会わせてもらおう。話し合おうじゃないか。春日も国を思って反乱を起こしたのだろう。分裂状態が長く続けば、諸外国の餌食になってしまうのは明白だ」
「武力による衝突を避けられる可能性があるなら、それを模索すべきだな。春日殿に私から話してみよう。互いに国を思っている。目的は同じだ。今は手段が違うだけでな」
レイはそう言うと立ち上がった。
「炎将軍の意、十分に承知した。後は私に任せてもらおう」
「恩にきるぞ」
炎とレイは硬い握手をした。レイはコートを着直し、部屋を出ようとする。扉は自然煮に開いた。すぐ外に葵がいる。
葵が深く一礼すると、レイはその後についていった。扉が閉まる。
扉が完全に閉まるのを確認すると、炎は自分の椅子に座りなおした。顔には満足の表情が浮かぶ。
「どこまでも登っていこう。上へ、上へと……。一番上まで辿りついたら、いったい何が見えるかな?」
炎はつぶやく様に言った。その声は壁に吸収され、誰の耳にも届かなかった。
7月19日、春日らは南洋省を拠点に太平民主国を立てた。透清国の絶対君主制に対し、太平民主国は共和制を執った。
臨時大統領には春日が選出される。
就任式は簡単ではあるが、活気に満ち溢れたものだった。壇上には太平民主国新内閣のメンバーが立っている。その半数以上が透清国から官職を与えられていた者たちである。その様子を、宗は会場の後方からオペラグラス片手に見ていた。宗の隣には娘・宗柚靭がいる。一週間前に留学先のマイリカから帰ってきたばかりだ。
美しく洗練された姿は、会場の最後尾にいても、人の目を惹いた。
会場は熱気に溢れ、拍手喝采は鳴り止む事がなかった。
「お父様。これでやっと外国諸国と対等でいられますわね」
娘の言葉に宗は顔を横に振る。
「まだまだこれからだ。お前にも太平民主国の為に働いてもらうぞ」
「もちろんですわ。私はこの国を助けたい。その為なら私にできること、最大限させていただきます」
柚靭の目に熱い灯がともる。
宗は自分の娘の聡明さに深い信頼を置いていた。娘の発言に満足して頷く。
「お父様はどうして、あそこに立たないの」
柚靭は美しい手を壇上に向けた。
「柚靭。人には一人一人に異なる役割が与えられているのだよ。私の役割は壇上に立つことではない。壇上に居る者も、居ない者も、この会場に居る者全員が、私の存在を知り、立場を十分理解している。それで、十分なのだよ」
宗はオペラグラスを再度除いた。春日に標準が合ったところで手を止める。春日は満面の笑みで、会場の声援に応えていた。
「私達の戦いはこれからなのです」
宗は小さく呟いた。微かに父の声を聞き取った柚靭は父の方を向く。宗の顔には不安が広がっていた。
「つまらないな」
私はベッドから身体を起こした。
午前中の授業が終わり、今は昼寝の時間だ。今日は全然眠くならない。なんだか外が騒がしいのだ。いや、皇帝の睡眠中に騒ぐような野暮なことが起こっているのではない。それどころか、いつも外にいるはずの人の気配すらしなかった。
朝から皆の様子が違う。空気が緊張していた。
私は部屋から抜け出すことにした。なんとなく教室の方が騒がしい気がして、教室に行ってみる。
珍しいことに誰ともすれ違わない。いつもはこんな自由に動くことはできないのに。部屋を出ようとしただけで理由を問われるのだ。
後ろに誰もいないなんて、初めてかもしれない。一人で歩くのは変な気分だ。
「陛下!」
押し殺した声が背後から聞こえた。
小さな冒険は終った。振り返ると、茶力士が小走りに寄って来る。
「陛下。どうされたのです」
「外の様子が気になって、眠れなかったのだ」
「うるさかったですか?」
「いや。いつもより静かだ。何かあったのか」
「いえ、それが……」
茶力士が声をつまらせる。
「また、私には言えないことなのか」
私は声を荒立てる。茶力士がやっと何か言おうとした時、摂政王がやってきた。
「摂政王様」
「陛下。いらっしゃったのですか」
摂政王は、すぐに私の方を向いた。
「居てはいけないのか」
すっかり不機嫌になっていた私は、摂政王を睨みつける。摂政王は少し怯んだように首を横に振った。
「いえ。そうではありません。ちょうど良かった。いや、これは失言ですね。炎元帥が静太后に面会されます。陛下もご一緒されると良いでしょう」
私は炎の存在について知ってはいたが、実際に彼がどのような権限を与えられていたか、当時はまだ理解できていなかった。ただ、なぜ炎が父の摂政王にではなく、静太后に面会に来るのか不満だった。私は顔をしかめる。
「お嫌ですか?」
父のこの態度が私をイライラさせる。
「嫌だとは言っていない。まだ炎に会ったことはなかったな。会ってみよう」
「ハッ」
茶力士は急いで私の服を調え、教室の南の部屋に案内した。
部屋の奥にオンドルがあり、少し高くなっている。そこにはすでに静太后が座っていた。静太后は私が部屋に入ると、オンドルから降り、挨拶をした。私は静太后の右側に座った。
しばらくすると小太りの男が入ってきて、赤い絨毯の上で跪いた。
「陛下お初にお目にかかります。炎世包でございます」
「噂は聞いている」
炎はなぜか私と目を合わそうとしなかった。
「静太后様。お久しゅうございます」
「堅苦しい挨拶など良い。先に書簡を読んだ。どういうことだ。納得のいく説明を聞かせてもらえるのだろうな」
静太后はすでに興奮していた。
部屋には三人しかおらず、私は二人の会話の意味が全く分からなかった。静太后が執拗に炎を攻め立てていて、口を挟む隙はなかった。
「どうにもならないのか」
「申し訳ございません。私の力不足です」
静太后は目いっぱいに涙を浮かべ、ぼろぼろとこぼれだすと声を出して号泣した。つられて、炎も号泣し始める。炎はポケットから透清国風でない柄の入ったハンカチを取り出して、目を押さえた。
二人の大人がなぜ泣いているのか、不思議でならない。炎は特に鼻をすすりながらしゃべるので何を言っているか分からなかった。
「陛下の退位。どうか、どうか、ご了承いただけますよう。切に、切にお願い申し上げます」
炎は帰る時、一人では起き上がれず、両脇を支えられるようにして退出した。
炎はこの後、宮中を退出する時襲われ、それを口実に二度と宮中にやってくることはなかった。
私が炎と対面した最初で最後であった。
私は炎との対談が終るとすぐに摂政王を探した。
「摂政王!」
「陛下」
私が声を掛けると、摂政王は私に駆け寄り臣下の礼をとった。摂政王と一緒に居た茶力士が続く。
「なぜ今の席、同席しなかったのか」
「ハッ。申し訳ありません。私は陛下に先んじて炎と話をしておりました」
摂政王の顔に私の嫌いな卑屈な表情が浮かぶ。
「そうか。ならば良い」
摂政王の顔が緩む。右手が伸び私の頭を撫でようとした。その手が私の頭に触れそうになった瞬間、摂政王は我に返ったように手を引っ込める。
「申し訳ありません」
摂政王は頭を下げると踵を帰して、行ってしまった。茶力士が心配そうに私を見る。
「陛下……」
摂政王に対して別に何か感じたわけではなかった。しかし、茶力士の声を聞いた途端、何ともいえない感情が体を覆った。
ドカッ。
茶力士のすねを衝動的に蹴った。
「陛下……?」
さっきと同じ言葉だが茶力士の表情は全く違う。
「ふん」
私は逃げた。雪の元へ走る。そこが、唯一私が何も考えず安心できる場所だった……。
炎は不機嫌だった。摂政王らの面談は上手くいったと思う。
炎は宮中を訪れた後も色々と予定を立てていた。ころが、退出時に賊に襲われ負傷者が出てしまい、それどころではなくなってしまったのだ。
炎は苦虫を噛み潰したような顔で書斎に居た。扉がノックされると、思わず扉を睨みつけてしまう。控えめに葵が部屋に入り、用件を伝ええる。
「湾生さまがいらっしゃいました」
「湾生が……分かった。通せ」
葵は恭しく頭を下げて、扉を閉めた。
「やっぱり、不機嫌そうだな」
「当たり前だ」
陽気そうに湾が言うと、炎は机を軽く叩いて応えた。湾は炎より10歳以上年下だが気が合う。出会ってまだ2カ月だがすでに旧知の仲のようだ。
「まずは謝らないといけない。今日炎将軍一行を襲撃したのは我党員に名を連ねるものだ」
炎の目が鈍く光る。
「そうか。革命党の仕業だったのか。おかげで、イングルの総領事でジェンキンス氏と会う約束をすっぽかしてしまった。弁明の電報を送ったが返事はない」
「あぁ。今日はそのことで来たんだ。大和国の川田さんを知っているか」
「知らない」
炎はそっけなく応える。
「そうか、なら今度時間が合えば紹介するよ。川田さん今日の事を知って、炎さんとジェンキンスさんが会えるよう仲介しようって言ってるんだけど」
「大和国が……」
炎の考えこむ様子を見て思わず、湾は顔に笑みが浮かぶ。
「炎さんが考えてること分かるよ。でもまあ、そんな考え込みなさんなって。炎さんが一方的に損する話じゃないだろ」
大和国が何を狙っているか想像はつく。それも、イングルが仲介役をかってくれるなら、悪い話ではない。
「その通りだな。……では大和国の好意に甘えさせてもらおうか」
「了解。で、いつが良い?」
「明日だ」
さすがに炎の要求に湾は驚いた。
「また、わがままだね。まあ大丈夫でしょう。時間はこちらで決めさせてもらっても良いかな」
「かまわない」
「よし。じゃあ今日の用件は以上だから、お暇させてもらおうかな」
炎が親指と人差し指を口元に近づけ2回傾けた。
「本当はそうするつもりだったけどね。誰かがわがまま言うから、ゆっくりしてられないよ」
炎は、今度は膝を叩いて笑った。
「そうだったな。すまんな。今度ゆっくり飲もう」
湾は立ち上がり、葵が淹れていた茶を一気に飲み干した。
「上手いな。この茶」
「そうだろ。葵は頭の回転が速いのと、茶を入れるのが上手いので雇っているんだ」
「では今日はこの茶に満足しておこうかな」
そう言って、頭を下げると湾は足早に部屋を出て行った。
湾が表舞台で名を知られるようになったのは、摂政王暗殺未遂で逮捕されてからである。その後、透清国で最も大和国と深い繋がりを持っている親善王家により丁重に保護された。湾は親善王家での生活の中で皇族とも友好関係を持った。透清国打倒の立場が同じ事から太平民主国にも知り合いがいた。湾生は、透清国内で独立して存在していた勢力を影でつなげて行ったのである。
春日と炎が会ったという突然の報を受け、宗は苛立ちを隠しきれなかった。春日の元へと急ぐ。
太平民主国の政府は、武中の行政府に置かれていた。厳重に警備されているが、宗は顔パスである。いつも物腰が柔らかく、警備員に対しても配慮を欠かさない宗であったが、今日は全身からピリピリしたオーラを出している。警備の者達は、心配そうに宗の背中を追った。
すでに、柚靭は春日の秘書となっていた為、まず柚靭が宗の前に現れる。
「お父様。どうされたのです」
柚靭は宗の表情がいつもと違うのに、戸惑いを感じた。
「春日殿は居るか」
「はい。事前に連絡頂いていましたので、大統領は待っております」
「そうか。では即面会を願う」
「はい」
柚靭は宗の2,3歩前を歩く。一際堅牢な扉の前で足を止めると、扉をノックした。
中から春日の声がして、柚靭が扉を開く。
春日は立って、宗を迎えた。顔には宗とは対照的に晴れやかな表情を称えている。
「どうしたんだ。そんな怖い顔して」
「炎世包と会ったのですか」
「ああ、協力することで、話は決まった」
宗の顔が厳しさを増す。
「協力?炎世包と私たちでは目的が異なるではありませんか。なぜ、炎世包と会う前にご相談頂けなかったのでしょうか」
「いや、相談しようと思ったさ。時間がなかったのだ。しかし、全て君に相談しなくても良いだろう」
「そうではありますが……」
「炎氏は外国勢力が日に日に干渉を強めている現状況で、国内で争っている場合ではないとおっしゃる。太平民主国も今が大切な時だ。無闇に争いを行なうべきではない。我々は私利私欲で動いているのではなく、国の為、民衆の為に動いている。そうではなのいか?」
「それは正論ではありますが、それが炎氏の本心ではないでしょう」
「純真の言いたいことは分かる。透清国と太平民主国は、いわば水と油。交わることはない。だがやはり、最も重要なことは、この土地に外国から独立を守った民主的な国を造る事なのだ」
「炎氏と手を結ぶ事が、それに繋がるとお考えですか?」
「無論だ。透清国と争わずに打倒するには最善の道だろう」
「炎氏は確かに尊敬に値すべき人物です。しかし、彼は私たちで支配できる人物ではないですよ」
春日の顔は赤みを帯び、声を荒げた。
「私は炎を支配しようなどと考えていない。協力しようと言っているのだ。私では炎と対等でいられないというのか」
「そうです」
宗は迷わず言い切った。春日の目に強烈な怒りの火が灯った。他の者なら何もいえなくなるだろう。だが、宗は違う。目をそらさず、口調も荒げることはなかった。
「内閣の半数が元透清国の人間です。透清国に戻ることはなくとも、炎氏側につくことはあるでしょう。後の憂いとなることは明白です」
「お前の言いたいことは分かった。だが、もう決めたことだ。仲介はイングルがするそうだ。炎はすでに外国からも認められているのだ。純真、私は私には目指すものがある。炎には負けないさ」
春日は宗に背中を向けた。
「すまないが、今日はもう帰ってもらえないか。また、ゆっくり話そう」
宗は春日の気持ちを知り、一礼して部屋を出た。部屋の前では柚靭が心配そうに立っている。
「お父様……」
宗の顔から入るときの厳しい表情が消えていて、柚靭はホッとした。しかし、それと同時に不安がよぎる。
父の落ち着きが、一瞬みえた春日の姿と対照的に思われたのだ。二人の間に決定的な決裂ができてしまったのではないか。
それを見透かすように宗は顔を横に振り、笑顔を作った。
「心配することはない。お前はお前の判断で動けばよいのだ。私が春日殿の違う道を歩くことはない」
そう言うと、宗は振り向くことなく、屋敷を後にした。この後、宗と春日は一年余り会うことはなかった。
イングルの総領事を通して調停案がだされたのは一週間後のことである。太平国側と透清国側で協議が行われる。そして、即時停戦、透清帝退位にともなう炎世包の臨時大総統就任が同意されたのであった。