宣授帝の誕生
第二章 宣授帝の誕生
なぜ喜太后が女帝を選んだのか。その理由はわからない。なぜなら彼女はこの指名後、わずか一週間でこの世を去ってしまったからだ。かなり前から体調を壊していたが、こんなにも早く逝く事になるとは、周りも本人も思っていなかった。
特に表向き幼い皇帝に変わり政治を執る摂政王の地位を得た実父・載恵は、喜太后に呼ばれて次のように言われていた。
「国政に関するすべての事はどんな些細なことも私に報告し、訓示裁断を受けるように。勝手な判断をすることは許しません」
その圧倒的な威圧感に摂政王は腰を抜かしてしまった。
透清国最後の皇帝の即位式は、喪のため、一ヶ月後れることとなった。
黄暦909年10月1日、透清国末代皇帝・宣授帝が誕生した。
即位式は午後から行なわれるが、その前に告天式という天上の帝に地上の帝が新たに就任することを報告する儀式が行なわれる。透清国では帝は 太陽の象徴であり、告天式は日の出とともに行なわれる。
「眠い……」
周りの緊張をよそに、少女は目を擦り眠気に耐えていた。3歳の子供にとって、寝るには遅すぎ、起きるには早すぎる時間だった。世話係の者達が慌てて少女の機嫌をとろうとする。その中の一人に少女は聞いた。
「お父様、お母様はどこ?」
「お父様は向こうにいらっしゃいます。お母様には今日の午後にはお会いできますよ」
「本当!?」
少女はそれを聞いて、急に元気になる。父親とはほとんど毎日あっているが、母親とはあの日、喜太后に呼ばれた日から会っていない。すでに少女は皇帝としての正統性をより強固にする為、望緒帝の養子になっていたのだ。宮廷内には、まだ治正帝の妃も望諸帝の妃も存命しており、彼女たちにとって皇帝の実の母親など要らなかったのである。彼女たちは、何かと少女に干渉してきた。実の父親である摂政王に対しても、摂政王としての役割を超えて皇帝に会うことを許さなかった。
外から鐘の音が静寂の中に広がった。
深く響く音は、人びとに新たな皇帝の誕生を告げた。東の空が徐々に白銀に輝き始める。
帳の中にいた一人の男が少女の手足を丁寧に水で洗いはじめる。少女はくすぐったくて、足をバタつかせた。その男に水をかかる。男はずっと顔に笑顔を浮かべているので、少女は面白くなって、脚の動きはどんどん早くした。あっという間に、男はびしょびしょになってしまった。それでも、男は何も言わず、丁寧に少女の足を洗い続け、服を着替えるのを手伝った。
少女の着替えが終ると、男も濡れた上の服だけを着替える。そして、少女の手を恭しくとって、帳の外に出た。
まだ、西の空は暗い。少女は手を思いっきり伸ばした。空に光るキラ星を取ろうとしたのだろうか。長い一日が始まる。
幼き皇帝にとって、この日は退屈なだけだったかもしれない。求められたことは、ただおとなしく玉座に座っていることだけだった。
午前中は良かったが、午後になると、もう我慢できなくなっていた。椅子の上に立ったり、服を脱ごうとしたり、とにかく座っているのが耐えられなくなっていた。摂政王が後ろから、皇帝の手を押さえる。
そしてついに、皇帝は一ヶ月ぶりに実母と再会した。母は、祖母を支えるように階段を上り、幼い皇帝の前にやってきた。今まで何人もの人間がそうだったように、玉座よりかなり離れた場所で止まり、膝を地につけて頭を下げる。頭を上げたとき、母の目が光っているように見えた。次の瞬間、目から涙がこぼれ落ちる。それを隠すように、また母は頭を下げた。皇帝は我慢できなくなって、母に向って走り出そうとする。
皇帝は摂政王の手を振り解こうとする。しかし、摂政王はそれを許さなかった。周りの者たちも、不自然にならないように、皇帝を止めた。母と祖母を急いで退出させる。
幼い皇帝にはなぜ皆が邪魔をするのか分からなかった。
なんで、母の元に行く事が許されないのか。何で母は泣いていたのか。
皇帝は泣いた。そして、叫んだ。
「まぁーーー!」
声は、悲痛に響いた。幾人かの心に不吉な予感を残して、声が空気に溶け込んで消えた。
皇帝になったからといって、私の生活は特に変わっていない。変わったことといえば、皆が私のことを『陛下』と呼ぶようになったこと、移動する時は後ろに10メートル先まで人がついてくること、食事にやたらと時間がかかるようになったことだろうか。
皇帝の毎回の食事には作法・順番が決まっていて、私が実際に食事をするまでに一時間はかかる。暖かい食事を食べる事はない。
「茶力士、母上にはいつ会えるの?」
茶力士は、私の世話係だった。私が皇帝であった時に一番長くときを過ごした者だろう。私にいつもメチャクチャにされていたが、宮廷内では割と高い地位になる。その茶力士に対して、私は思い出したように質問する。
「母上方にはいつもお会いになっているではないですか」
茶力士のとぼけた返事に私は怒って、茶力士の足を思いっきり蹴った。
「あんなのは、母上ではない!茶力士のバカ!」
茶力士の言った母上方とは、治正帝の妃・静太后と望諸帝の妃・安太后の事である。私が実際に口にする食事は、彼女達専用の厨房で作られたものばかりだった。私も皇帝として専用の厨房を所有していたが、食材も料理人も太后たちの方が格段に良いものが揃っていた。彼女達は食事の度に私に料理を届けた。そして、私は食事が終ると、彼女達の部屋を訪ねて、お礼を言うのである。これが毎日の日課であった。
ただ、残念なことは幼い頃の私は、食事をなかなか楽しめなった。彼女達にとって食事を届ける事が唯一私に対して母親らしいことをしているつもりだったらしいが、私は何も感じていなかったのだ。
「茶力士!私は皇帝だな」
「ハッ。そうでございます」
「お前はいつも、皇帝はなんでもできる。この世界を統一する絶対権力者だと言っているな」
「ハッ。そうでございます」
「なのに、なぜ母上に会えない。お前は、嘘つきじゃないか!」
茶力士はこう私が言うと、いつも黙り込んでしまう。
「もういい」
私は机の上に置いてあったコップを茶力士に向って思いっきり投げた。だが、そのコップは思ったより重く、茶力士まで届かずに、地上に落ちて粉々に砕けた。
私は走って部屋を出ようとした。部屋の中にいた影のような者達が、さっと扉の前に立ち、私の行方を遮った。そして、地に膝をつける。幼い私には新たに生まれたその壁を壊す事ができなかった。
私の母への思いは少しずつ薄れていったが、完全に消えることはなかった。時々思い出しては、周りの者を困らせていた。
父はいつでも会いにこられるはずであったが、週に一度か二度しか会いにこなかった。それは忙しいからか、太后達の干渉か、父自身の判断かはわからない。
「陛下、いかがお過ごしですか?」
父は、もと娘の私に丁寧に挨拶をした。
「いつもと変わらない」
私は興味なさそうに、そっけなく答える。父の口もとが少し綻んだ。
「そうですか。それは良かった。私達も陛下のおかげで、平穏が保たれています」
父との面談は毎回10分ほどだった。私は父の態度が気に入らなくて、父が来てもいつも不機嫌な態度しか取れなかった。なぜ、前みたいに膝の上に座らせてくれない。頭を撫でてくれない……
この時期、摂政王は確かに多忙だった。摂政王は、今まで政治に関わったことはない。文化面では書道・絵画・音楽、何をとっても超一流だったが、政治に関しては素人同然だった。それなのに透清国で最も複雑な時期に権力の中枢に放り込まれてしまったのだ。
摂政王の心労は溜まっていった。けれども、状況は日に日に緊迫し、周りに摂政王を気遣う余裕はなかった。
透清国は外国からの圧力だけではなく、内側にも反乱を抱えていた。
今までの内乱は、単発的なものばかりでどうにか押さえる事ができていた。ところが最近民衆の中に指導者が現れたのだ。名前を春日光という。
彼の主張はこうだ。皇帝という閉鎖的な空間で決められた者に国の運営を任せるのではなく、国民が決めた人物に国の運営を任せる、新しい国を建設することである。彼は透清国内だけでなく、外国にも渡り、自分の考え方を説き、バラバラだった不満の方向を一つにまとめていった。
当時の宮中はそんなこと知る由もなかった。いや、知ったからといって国の中心が生活を変えるわけには行かない。
私は毎日わがままし放題だった。気にいらなければ何でも壊し、すぐに大きな声をあげた。遊び相手は茶力士と孝彦だった。孝彦もまた茶力士同様私の世話係の一人である。
お気に入りの遊びは、茶力士と孝彦を四つん這いにさせ、私は茶力士の上に乗り孝彦を追いかけることだった。私はいつも茶力士の髪を思いっきり引っ張っていたから、彼の髪は薄くなったのかもしれない。私が10歳になった時、彼の髪の量は頭皮を隠す能力を失っていた。
私は物心ついたときから、怒られたことがない。私を唯一諌めることができたのは、乳母だけだった。彼女の事を皆、雪と呼んでいた。
「雪ー」
私は広く美しい中庭で雪を見つけて、走った。
「陛下、どうされたのです?」
雪に抱きつくと、雪は私の頭をそっと撫でてくれる。雪の手は真っ白くて、ちょっとカサカサしているが、私がこの世で一番大好きな手だ。
「これー」
私は雪の前に手を伸ばした。
「あっ!」
手の中で饅頭が潰れていた。私は悲しくて大きな声で泣いた。
「陛下、これを私に食べさせて下さろうとしたのですか?」
朗らかで、悲しみを包み込むような表情が雪の顔に浮かぶ。
「これ、とってもおいしかったから雪に食べてもらおうと思って」
「陛下はお優しいですね。ありがとうございます」
そう言うと、雪は私の手から潰れた饅頭を、まるで宝物でも預かるように受け取った。そして、それを口に運ぶ。
「本当、おいしいですね」
雪は華が咲くように鮮やかに笑った。私は雪の笑顔が大好きだった。雪の笑顔が見たくて、雪の笑顔の為なら何でもしてあげたいと思った。
「ごめんね。雪。でも、あっちにはまだきれいなのがいっぱいあるよ。一緒に食べない」
雪はまた私の頭を軽く撫でた。
「陛下は本当にお優しいですね。でも、私はこれで十分満足です」
雪はまた遠くを見つめる。雪はいつも遠くを見て、寂しそうな顔をしていた。
「でも、いっぱいあるんだよ。一人では食べきれないよ」
「そうですか。では、陛下が好きな人に差し上げるのはいかがですか?」
「じゃあ。雪だよ」
「私以外ですよ」
「う〜ん。雪以外?思いつかないよ」
「そうですか?陛下の周りには陛下の事を思っていらっしゃる方がたくさんいますよ」
「それは当たり前でしょ。だって、私は皇帝だもの」
雪はまた私の頭を軽く撫でた。作った笑顔の裏に、深い悲しみがにじむ。
「お父様や茶力士はどうですか?」
「摂政王は忙しくて、一緒に食べてくれないよ。茶力士かー」
私は雪の足元をみた。黒い丸い石が目に入った。
「ねえねえ。この石、饅頭の中に入っているあんこに見えない?」
「それをどうされるのですか?」
「饅頭の中に入れて、茶力士にあげるの」
「まあ、そんなことしたら、茶力士の歯が砕けてしまいますよ」
「そう!そうなんだよ!茶力士の歯が砕けるところが見られるんだよ」
「歯が砕けたら、お饅頭が食べられなくなってしまいますよ。せっかくのおいしいお饅頭なのに」
雪は私の頭を撫でながら、悲しそうな顔をした。なんで、そんな悲しそうな顔をするのだろう。雪の悲しい顔なんて見たくないのに。
「おいしいものを食べられなくなるなんで、とっても悲しいことですね」
「うん。おいしいもの食べられなくなるのは嫌だ」
「茶力士もおいしいものを食べられなくなるのは嫌だと思いますよ。私もおいしいものを、陛下から頂いたお饅頭を食べられなくなるのは、悲しいです」
「うん。饅頭の中に石を入れるのやめる」
雪の表情が少し晴れた。
「陛下はとっても良い子ですね。では、お饅頭がダメになってしまわないうちに、茶力士さんにお饅頭を差し上げてください」
雪は膝からゆっくりと優しく、私を降ろした。
「はーい」
私は大きく頷いて、雪のもとを離れる。
でもやっぱり雪の傍にもう少し居たくて、振り向いた。もう、雪は私を見ていなかった。
雪は小さな皇帝を見送った後、湖に浮かぶ小船に目を向けた。
そこでは太后達が、双眼鏡を片手に談笑している。
「あの女、いつまでここにおいておくつもりですの?」
安太后は双眼鏡を下ろして、静太后に話しかける。
「今すぐにでも追い出しても良いのじゃが、茶力士が反対しての」
「茶力士が!?男としての機能をなくしている者でも……」
静太后が目を細めるのに気づいた、安太后は思わず口を閉ざす。
「茶力士は喜太后に信任されておった。軽々しい事を言うものではないぞ」
「失礼しました」
「まあ良い。いずれはここから出て行ってもらうがの。もうしばらくは、茶力士に免じて置いといても良かろう」
「そうですね」
安太后は笑顔を扇でゆっくりと隠した。
5歳になると、本格的に帝王教育が始まった。それまでは茶力士が故事を読んでくれたり、文字を教えてくれたりしていたが、専門の教師が三人つくようになった。三人の中で一番長く私と供にいたのは、花咲陸先生だった。彼は国学を専門としており、たくさんの魅力的な話をしてくれた。私が皇帝である為、誰も私を叱ることができず、幼い時は我慢ができなかった。勉強に対しても、席にじっとしていることができず、よく教室から飛び出した。
花咲先生の授業も何度も飛び出したが、それでも他の授業に比べればましだったと思う。彼は真面目な人だったので、私を怒鳴ったことがある。
その日はなんだか授業を受ける気がしなかった。先生の話を聞くのが退屈で耐えられなくなった私は、教科書も筆も机にあるもの全部床に落として、教室を飛び出した。
庭でバッタを見つけた私は、バッタを追いかけるのに夢中になる。最初は仕方なく待っていたが、何度読んでも戻ってくる様子がないのでついに、顔を真っ赤にして怒ったのだ。
「陛下!今は授業中ですぞ!」
私はなぜ花咲先生がそう言ったかわからなかった。反対に耳まで真っ赤な先生を見て、笑ってしまう。
「陛下!」
先生が何か言おうとした時、茶力士が走ってきた。
「花咲先生。落ち着いてください」
「これが落ち着けますか!国の主がいくら幼いとはいえ、このようなことでは……」
「先生のおっしゃることは分かります。ですが、実は今陛下には悪い霊の欠片が取り付いていのです。これはけっして、陛下のせいではありません。陛下をお守りしなくてはいけませんから、今日の授業は中止させていただきます」
そういうと「失礼いたします」と言って、茶力士は私を抱えた。しばし、唖然とする花咲先生を置き去りにして、茶力士は私を今まで行ったことのない部屋に連れて行った。
「さあ、お入り下さい。陛下が陛下にお戻りになりましたら、お迎えに上がります」
そういうと、茶力士は私を部屋に残して扉を閉ざした。
扉を閉ざすと、その部屋は真っ暗になる。部屋には窓もなく、扉から光が漏れることさえなかった。私は怖くなって、大きな声で泣き喚き、扉を叩いた。しかし、扉の向こうからの反応はなかった。
芸術を教えてくれたのは王明月先生だった。王先生は高齢で一年ほどたつと体調不良を訴え、里に帰ってしまった。だから、あまり王先生のことは覚えていない。確か、とても神経質な人だったと思う。王先生が去った後は花咲先生が当分引き継ぎ、その後鄭康正先生がその任を引き継いだ。彼は芸術家と言うよりは政治家だった。
授業中も機を見ては国家体制や法制度について私に説いていた。とても精力的な人で、私のブレーンとしても活躍した。
最後に武術を教えてくれたガジャルダ先生である。ガジャルダ先生は透清国最後の英雄と言えるだろう。壮絶な戦死を遂げるまでの私に生きていく為の術を教えてくれた。ただ、ようやく馬に乗れるようになっただけで、他はほとんど身についていない。
「陛下。陛下は必ず生き抜いてください。私たちが戦う意味は、陛下にあるのですから」
日に焼けた皮膚に、生気をたっぷり含んだ強い瞳が私を見る。
「陛下はとても良い御子です。ですから、どうか人の生死を軽く思わないで下さい。私たちは死ぬことを怖いとは思いません。しかし、無意味に死を選ぶのを好とはできないのです。陛下にはまだ難しいかもしれませんが……」
私は彼の言っている意味がよく分からなかった。当時すでに私の中に、私とその他の者では、存在も意味も全く違うという考え方が生まれていた。物心ついたときから皇帝として至れり尽くせりの扱いを受けていた私の心には、ガジャルダ先生の思いは届いていなかった。